黙示録講解

(第427回)


説教日:2020年5月31日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(180)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、約束のみことばについてのお話を続けます。
 これまで3回にわたって、この約束を理解するうえで大切なことをお話ししました。まず、最も基本的なことを振り返ってから、お話を進めていきます。
 ここで、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と言われているときの「権威」は、イエス・キリストが、

 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

と述べておられるように、イエス・キリストが父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威です。
 そのイエス・キリストの権威と栄光はメシアの国の王としての権威です。それは、王であり、主であるイエス・キリストがご自身のしもべである私たちを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、いのちをお捨てになったことに現されている権威であり栄光です。
 そして、ヨハネの福音書10章18節に、

だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

と記されているとおり、メシアの国の王であるイエス・キリストは、ご自身の権威により、また、ご自身の意志によって、父なる神さまのみこころに従って、十字架におかかりになって、いのちをお捨てになりました。
 このことは、ヨハネの福音書10章では、これに先立って11節に記されている、

 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

というイエス・キリストの教えを受けています。
 この強調形の「エゴー・エイミ・・・」という言い方で表されている教えは、イエス・キリストが契約の神である「」ヤハウェであられることを示しています。そして、神である「」であられるイエス・キリストが私たちご自身の民にとって、「良い牧者」であられ、私たちご自身の「羊たちのためにいのちを」お捨てになる方であることを示しています。そして、実際に、イエス・キリストは、神である「」として、すべてのことを導いて、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の贖いの代価として、いのちを捨ててくださいました。
 ですから、イエス・キリストが父なる神さまから委ねられた権威は、契約の神である「」ヤハウェとしての権威であり、「良い牧者」として、私たちご自身の民を愛して、私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださったことに現されている権威です。
 また、前回は、「勝利を得る者」に、

諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。

と約束されているみことばが詩篇2篇8節ー9節に、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。
 あなたは 鉄の杖で彼らを牧し
 陶器師が器を砕くように粉々にする。

と記されているみことばを引用したものであるということから、一つのことをお話ししました。
 それは、ここで栄光のキリストが、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と約束してくださっていることは、詩篇2篇8節の、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。

というみことばの中心にある、

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。

というみことばを引用することによっているということです。
 この場合、栄光のキリストは、詩篇2篇8節の、

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。

というみことばの「ゆずり」を「権威」に変えて、

 [わたしは]諸国の民を支配する権威を与える。

と約束してくださっています。
 詩篇2篇に記されていることは、神である「」が遣わしてくださるメシアに関わることです。ですから、8節の、

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。

というみことばは、もともと、神である「」がメシアに語っておられることです。そして、ここ黙示録2章26節では、父なる神さまからメシアとして遣わされて、十字架において私たちご自身の民のためにいのちを捨ててくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、この

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。

という、もともとご自身に与えられていた約束のみことばを引用する形で、私たちご自身の民に、

 [わたしは]諸国の民を支配する権威を与える。

と約束してくださっているのです。それで、栄光のキリストは、この約束のみことばの結びにおいて、

 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

直訳調には、「支配する権威を」がないので、

 わたしも父から受けているのと同じように

と言っておられます。
 ここで、

 わたしも父から受けているのと同じように

と言われているときの「受けている」(ランバノー)は、過去において起こったこと、あるいは、過去において起こったことの結果が現在にまで続いているという意味合いを示す、完了時制(エイレーファ)で表されています。これによって、詩篇2篇で神である「」が、ご自身がお立てになったメシアに、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。

と約束しておられることがすでに、原理的、実質的に[完全に実現しているのではないけれど、確かに]実現していて、メシアであられるイエス・キリストが、すでに、その「権威」をもって「ゆずりとして与え」られた「国々」を支配しておられることが示されています。
 それで、イエス・キリストが、

 諸国の民を支配する権威を与える。
  彼は鉄の杖で彼らを牧する。
  土の器を砕くように。

と約束しておられるときの「諸国の民を支配する権威」は、メシアの国の王であるイエス・キリストが、すでに「ゆずりとして与え」られた「諸国の民」を支配しておられることに基づいて与えられる「権威」であり、そのことに関連する「権威」です。


 このことは、やはり、私たちご自身の民の間で成就していて、私たちの間の現実になっています。
 そのことは、いくつかの個所に記されていますが、エペソ人への手紙2章1節ー10節を見てみましょう。そこには、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されています。
 ここに記されていることについては、数カ月前に、ヨハネの福音書5章25節に記されている、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

というイエス・キリストの教えとの関わりでお話ししていますが、今お話ししていることと関わることを中心として、また、補足を加えながら、改めてお話しします。ただし、今日は、そのいくつかのことしかお話しできません。
 ここに記されていることを理解するためには、三つのことを踏まえておかなくてはなりません。
 一つは、創世記1章26節ー28節に、

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることです。ここには、神さまは創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになって、人にご自身が歴史的な世界としてお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったということが記されています。
 神さまの本質的な特質は愛です。それで、神のかたちの本質的な特質も愛です。また、それで、神のかたちとして造られている人のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛の交わりに生きることにあります。実際には、ご自身がお造りになったこの世界、特に、神のかたちとしてお造りになった人の間にご臨在される契約の神である「」との愛の交わりに生きることにあります。そして、その神である「」との愛の交わりの中心には、「」を神として礼拝することがあります。
 それで、「」を神として礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きる人が造る文化は、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた栄光を現す文化となり、その文化が継承されて造られていく歴史は、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた栄光を、時代の流れとともに、より広く、また、より豊かに現す歴史となります。
 これが、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことの核心にあることです。また、これが神のかたちとして造られている人の本来のあり方を示すものです。
 ここに記されていることを理解するために踏まえておかなくてはならない第二のことは、暗闇の主権者であるサタンの働きです。聖書のみことばから汲み取ることができるのは、サタンはもともとは優れた御使いとして造られたのに、自らが神のようになろうとして、サタンに従った御使い(悪霊)たちとともに神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったということです。サタンの堕落は、神学的には「絶対的堕落」と呼ばれるように徹底した堕落で、サタンの目的も動機も神さまに逆らうこと、具体的には、神さまのみこころの実現を阻止しようとすることにあります。
 それでサタンは、創造の御業において、人をご自身との愛の交わりに生きる神のかたちとしてお造りになって、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに現されている神さまのみこころの実現を阻止しようとしました。言わば、サタンが神である「」に対して霊的な戦いを仕掛けたのです。
 そのために、サタンは、最初の女性であるエバを誘惑して、神である「」に背かせて成功しました。そして、エバをとおして最初の人にして、人類の契約の「かしら」として造られているアダムを誘惑して、神である「」に背かせました。もちろん、アダムもエバも自由な意志をもった人格的な存在として造られており、自らの意志によって神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落したのです。
 このようにして、どう見ても、サタンの働きによって、創造の御業において現されている神さまのみこころの実現が阻止されてしまった状態になってしまいました。霊的な戦いにおいて、サタンが勝利したと思われる状態になったのです。
 ここに記されていることを理解するために踏まえておかなくてはならない第三のことは、サタンの働きによって神さまのみこころの実現が阻止されてしまった状況にあって、なお、神である「」は、人はもとより、サタンにも、御使いたちにも、思いもよらない方法によって、創造の御業において現されたご自身のみこころを実現されることをお示しになりました。それが、創世記3章15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されている、サタンに対するさばきの宣告の形で示された「最初の福音」です。
 ここでは、神である「」が「おまえ」と呼ばれている「」の背後で働いていたサタンと、罪によってサタンと一つになって最初の人アダムを誘惑した「」との間に「敵意」[このことば(エーバー)が最初に出てきて強調されています]を置いてくださって、両者の関係を引き裂かれることが示されています。そして、その「敵意」はサタンと「」の間だけでなく、「女の子孫」と「おまえの子孫」すなわちサタンの霊的な子孫の間にまで及ぶことが示されています[ここで、「サタンの霊的な子孫」と言っているのは、サタンには物質的な面がないので、その子孫が肉体的に誕生することがないからです]。この「女の子孫」も「おまえの子孫」も単数形ですが、集合名詞で、歴史をとおして存在する共同体を指しています。
 このようにして、ここでは、歴史をとおして「」と「女の子孫」の共同体と、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体の間に霊的な戦いが継続していくことが示されています。そして、最後には、「女の子孫」のかしらとして来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきが執行されるようになることが示されています。
 そして、この霊的な戦いにおいては、「」と「女の子孫」の共同体が、神である「」に敵対しているサタンとサタンの霊的な子孫の共同体と戦うことになります。その意味において、「」と「女の子孫」の共同体は、霊的な戦いにおいて、神である「」の側に立つもの、その意味で、神である「」の民となっています。このことに、「」と「女の子孫」の共同体の救いが示されています。
 この「女の子孫」のかしらとして来られる方こそが、約束のメシア(キリスト)です。この方は「」と「女の子孫」の共同体のかしらであり、「」と「女の子孫」の共同体はこの方との一体にあって救われ、神である「」の民とされます。
 先ほど引用した、詩篇2篇8節ー9節に記されている、メシアに関わる約束のみことばも、また、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、「勝利を得る者」に与えられている約束のみことばも、このような、霊的な戦いの状況の中で与えられたものです。
 そして、この霊的な戦いは、最終的には、創造の御業において現されている神さまのみこころが実現するかどうかをめぐる戦いです。それで、私たちが「主の祈り」で、

 みこころが天で行われるように、
 地でも行われますように。

と祈るときの「みこころ」も、突き詰めていくと、最終的には、創造の御業において現されている神さまのみこころのことです。

 これら三つのことを踏まえて、まず、1節ー3節に記されていること見てみましょう。そこには、かつての私たちのあり方のことが、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 ここでは、かつての私たちが、霊的な戦いにおいて、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体に属していて、神である「」に敵対して歩んでいたことが示されています。
 1節では、

 あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり

と言われています。ここでは、かつての私たちのことが「自分の背きと罪の中に死んでいた」と言われています。これは、先ほど触れた、神のかたちとして造られている人の本来のいのちが、造り主である神さまとの愛の交わりのうちにあるということを踏まえて初めて理解できることです。かつての私たちは「自分の背きと罪の中に」あって、あるいは、また、(もう一つの可能性ですが)「自分の背きと罪」によって、「死んでいた」と言われています。この「自分の背きと罪」はどちらも複数形で、「繰り返しの背き」、「あらゆる種類の罪」を表していると考えられます。かつての私たちは造り主である神さまに、常に、背を向け、さまざまな罪を犯して歩む状態にありました。ここでは、私たちがそのような状態にあったことを、神のかたちとして造られている人の本来のいのちを失っているという意味で「死んでいた」と言っています。それは、神さまとの関係が損なわれているという意味で、霊的に死んでいる状態です。
 2節では、そのような状態にあった私たちが、

かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

と言われています。
 ここでは、かつての私たちが二つのものに従って歩んでいたと言われています。
 一つは、最初に出てくる「この世の流れ」です。「この世の流れ」と訳されていることばは、文字通りには「この世の時代」です。この「時代」(新改訳では「流れ」)と訳されていることば「アイオーン」は、基本的には時間的に「時代」を表しますが、空間的に「世」をも表します。ここでは、(ギリシア語では)これに続いて「この世の」ということばが出てくるので、時間的に「時代」を表していると考えられます。
 このアイオーンは、1章21節で「今の世だけでなく、次に来る世においても」と言われているときの「」と訳されていることばです。「今の世」(ホ・アイオーン・フートス)は、文字通りには「この時代」で、続く「次に来る世」、文字通りには「来ようとしている時代」と対比されています。また、このアイオーンは、2章7節で「あとに来る世々において」、文字通りには「来たるべき諸時代において」として出てきます。このようなことから、このアイオーンは、新約聖書の終末論、この場合は、パウロの終末論に見られる、「この世」あるいは「この時代」と、「来たるべき世」あるいは「来たるべき時代」の対比というヘブル的な発想を反映していると考えられます。
 新約聖書においては、「この世」、「この時代」を動かし、特徴づけているのは「」であり、「来たるべき世」、「来たるべき時代」を動かし、特徴づけているのは、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に遣わしてくださった「御霊」であると言われています。
 このことは、父なる神さまが、「」と「女の子孫」の共同体のかしら、約束のメシア(キリスト)として遣わしてくださった御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、天に上って父なる神さまの右の座に着座されて、そこから約束の聖霊を遣わしてくださったことによって、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化が造られるようになったということを意味しています。この御霊は、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてはたらかれる御霊です。
 その意味で、新約聖書、特に、パウロの終末論の「合いことば」は「すでに、そして、いまだ」です。すでに、「来たるべき世」、「来たるべき時代」は現実になっているけれども、その完全な実現は終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされるということです。
 このように対比されているときの「」と「御霊」についてローマ人への手紙8章5節ー7節前半には、

肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。

と記されています。神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、「」に縛られており、「」に従って歩みます。
 この「御霊」と対立する「」は「肉体」のことではなく、先ほどお話ししたように、「この世」、「この時代」を動かし、特徴づけているものです。そして、「」に縛られて、「」に従って歩む状態にある人が造り出す歴史と文化が「この世」、「この時代」を形造っているのです。
 それが、かつての私たちの状態でした。エペソ人への手紙2章では、この状態にあることが3節で、

私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と言われています。
 もう一つ、かつての私たちを動かしていたのは、2節で、

 空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊

と言われています。これは単数形で表されていて、サタンを指しています。
 コロサイ人への手紙1章13節に、

 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と記されているように、父なる神さまは、私たち「」の契約の民をサタンの力から解放して、「愛する御子のご支配の中に移してくださいました」。御子イエス・キリストは、私たちご自身の民を「御霊」によって導いてくださっています。そして、「御霊」によって歩んでいる人々が造り出す歴史と文化が、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化となっています。
 かつて、「肉」によって、「この世の流れ」、「この世」、「この時代」のあり方に従い、サタンの力に縛られて歩んでいた私たちが、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった「御霊」に導かれて、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る歩みをしているということが、霊的な戦いにおける勝利を意味しています。また、それは、私たちが栄光のキリストから約束された「権威」を行使していることをも意味しています。このような私たちの歩みについては、1節ー3節に続く、4節ー10節に記されているので、改めてお話しします。


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