黙示録講解

(第426回)


説教日:2020年5月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(179)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、約束のみことばについてのお話を続けます。
 これまで、この約束のみことばにおいて、主が「勝利を得る者」に、「諸国の民を支配する権威」をお与えになり、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。

してくださるということについてお話ししてきました。
 前回と前々回は、この約束を理解するうえで大切なことのうち、最も基本的なことをお話ししました。今日も、まず、簡単に、その要点を振り返ってから、さらにお話を進めます。
 ここで、「勝利を得る者」に、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と言われているときの「権威」は、イエス・キリストが、

 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

と述べておられるように、イエス・キリストが父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威です。
 そのイエス・キリストの権威と栄光は、メシアの国の王であり、主であるイエス・キリストが私たちご自身のしもべを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、いのちをお捨てになったことに現されている権威であり栄光です。
 そして、ヨハネの福音書10章18節に、

だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

と記されているとおり、メシアの国の王であるイエス・キリストは、ご自身の権威により、父なる神さまのみこころに従って、すべてのことを導いて、十字架におかかりになって、いのちを捨ててくださいました。
 このことは、ヨハネの福音書10章では、これに先立って11節に記されている、

 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

というイエス・キリストの教えを受けています。
 すでにお話ししていますので、詳しい説明は省きますが、この教えは、イエス・キリストが契約の神である「」ヤハウェであられることを示しつつ、そのイエス・キリストが私たちご自身の民にとって、「良い牧者」であられ、ご自身の「羊たちのためにいのちを」お捨てになる方であることを示しています。
 ですから、イエス・キリストが、

だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

と言われるときの、イエス・キリストが父なる神さまから委ねられた権威は、この契約の神である「」ヤハウェとしての権威であり、「良い牧者」として、私たちご自身の民を愛して、私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださったことに現されている権威です。
 このことは、黙示録2章26節ー28節前半において、栄光のキリストが約束してくださっている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

ということを理解する上での鍵です。
 というのは、ここで、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。

と言われているときの「牧する」ということば(ポイマイノー)は、は、基本的に、牧者(ポイメーン)が「(群れの)世話をする」こと、「牧する」ことを表しているからです。
 このことばは、また、そこから比喩的に、守ったり、治めたり、導いたり、養ったり、世話をしたりすることを表すことがあります。さらに、敵から守るために敵を撃退したり退治したりすることを表すこともあります。その例は、ミカ書5章6節の七十人訳(七十人訳では5節)に見られます。
 古代オリエントの文化の中では、王は「牧者」にたとえられて表されています。そのことは聖書にも反映しています。エレミヤ書2章8節、3章15節、10章21節、12章10節、23章1節ー4節、50章6節、エゼキエル書34章2節ー10節などを見てください。これらのほとんどは、「」によって糾弾されている王たちです。さらに、聖書では神さまや「」ご自身(創世記48章15節、詩篇23篇1節、80篇1節)やメシア(エレミヤ書31章10節、エゼキエル書34章23節ー24節、ゼカリヤ書13章7節[参照・マタイの福音書26章31節])が「牧者」にたとえられています。
 また、牧者としての王の働きは「牧する」ことにたとえられるので、この「牧する」ことを表すことば(ポイマイノー)は「治める」、「支配する」ということをも表します。このことは、王として「治める」、「支配する」ことがこのことば(ポイマイノー)によって表されているときには、そこに牧者としての表象があるということを意味しています。
 そして、黙示録2章26節ー28節前半では、28節前半に、

 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

と記されているように、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。

と言われていることは、「良い牧者」であられるイエス・キリストが、契約の神である「」ヤハウェとしての権威によって、私たちご自身の民を愛して、ご自分からいのちをお捨てになったことと切り離しがたくつながっています。


 ここにはいくつか難しい問題がありますが、今日は、一つのことを取り上げます。
 これは、すでに、2年数ヶ月ほど前にお話ししたことを、改めて、いくつかのことで補足を加えながら、振り返るものです。
 ここに記されている「勝利を得る者」に、

諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。

と約束されているみことばは、詩篇2篇8節ー9節に、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。
 あなたは 鉄の杖で彼らを牧し
 陶器師が器を砕くように粉々にする。

と記されているみことばを、いくつかことばを変えて引用したものです。その当時の引用は、必ずしも、今日の私たちの間で考えられている、一字一句たがわず引用するというわけではありません。そのような引用もありますが、そうでないものもあります。
 今日、取り上げるのは、ここで栄光のキリストが、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と約束してくださっていることについてです。
 ここで栄光のキリストは、詩篇2篇8節の、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。

というみことばの中心にある、

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。

というみことばを引用しておられますが、この「ゆずり」を「権威」に変えて、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と約束してくださっています。
 そして、これに続いて、

 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

直訳調には(「支配する権威を」が原文にないので)、

 わたしも父から受けているのと同じように

と言っておられます。
 この場合の「受けている」(ランバノー)は、過去において起こったこと、あるいは、過去において起こったことの結果が現在にまで続いているという意味合いを示す、完了時制で表されています。これによって、詩篇2篇で「」が、ご自身がお立てになったメシアに、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。

と約束しておられることがすでに、原理的、実質的に実現していて、メシアであられるイエス・キリストが、すでに、その「権威」をもって「ゆずりとして与え」られた「国々」を支配しておられることが示されています。原理的、実質的に実現しているというのは、完全に実現しているのではないけれど、確かに、実現しているという意味です。
 それで、イエス・キリストが、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と約束しておられるときの「諸国の民を支配する権威」は、メシアの国の王であるイエス・キリストが、すでに「ゆずりとして与え」られた「諸国の民」を支配しておられることに基づいて与えられる「権威」であり、そのことに関連する「権威」です。

 詩篇2篇8節で、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。

という、メシアへの約束のみことばは、「」がダビデに与えてくださった契約、すなわち、ダビデ契約の約束に基づいています。ダビデ契約は、「」がダビデの王座を永遠に堅く立ててくださり、そこに、まことのダビデの子を着座させてくださることを約束しています。王座に着座するということは、王として支配するようになることを意味しています。
 このダビデ契約は、「」がアブラハムに与えてくださった契約、すなわち、アブラハム契約に基づいて与えられています。そして、アブラハム契約の根本には、創世記12章3節に記されている、「」がアブラハムに与えてくださった、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

という祝福の約束があります。この祝福の約束は、さらに、アブラハムがその子イサクを「」に献げたことを記している創世記22章18節に記されている、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という祝福となっていきます。
 このことと関連させると、

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。

というメシアへの約束は、メシアが「地のすべての国々」(創世記22章18節)を「ゆずりとして」与えられるようになるということを意味しています。
 このことが、イエス・キリストにおいて、原理的、実質的に成就しています。それでイエス・キリストは、すでに、「国々を・・・ゆずりとして」受け取られ、「地の果ての果てまで・・・所有として」受け取って、その上に権威を揮って、すべてを支配しておられます。それは、イエス・キリストが詩篇2篇の根底にあるダビデ契約において約束されているまことのダビデの子として、「」がとこしえに堅く立てておられる王座に着座されて、メシアとしての権威をもって支配しておられるということを意味しています。
 そして、そのメシアとしての権威は、ご自身の民を愛して、ご自身の民のために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったことにおいて、この上なく鮮明に現されている権威であり、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて発揮される権威です。また、それで、それは、「諸国の民」の中から召されたご自身の民の罪を贖い、ご自身の民を罪がもたらす死と滅びの中から贖い出し、神である「」との本来の関係に回復してくださることがおできになる権威です。
 それで、イエス・キリストがこのような権威をもって支配しておられることによって、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

という、「」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束、さらには、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という祝福の約束が「諸国の民」の間に実現しており、私たち異邦人もこの祝福にあずかっています。ガラテヤ人への手紙3章13節ー14節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されているとおりです。

 これには大切なことが関わっています。
 黙示録2章26節後半で、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と約束しておられるイエス・キリストは、詩篇2篇8節に記されている、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。

というみことばの中心にある、

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。

というみことばを引用しておられますが、これは、イエス・キリストにおいて、すでに、原理的、実質的に成就していることです。
 しかし、イエス・キリストに与えられているのは「国々」だけではありません。イエス・キリストは、それに続いて記されている、

 地の果ての果てまで あなたの所有として。

という約束のみことばに示されている「地の果ての果てまで・・・所有として」与えられています。
 ここに記されている、

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。

という二つの約束は別々のものではなく、一つのことを別の面から述べているものです。それで、メシアが「国々を・・・ゆずりとして」与えられるということは、「地の果ての果てまで・・・所有として」与えられるということでもあります。メシアが「ゆずりとして」与えられる「国々」はどこかの地域に限られた「国々」ではなく、「果ての果てまで」存在するすべての「国々」です。
 ここで、

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。

と言われているときの「ゆずり」ということば(ナハラー)は、基本的に、譲り渡すことができない相続財産を表します。また、その意味で永遠の財産を表します。
 さらに、特殊な用例としては、二つのことを表します。
 一つは、「」ご自身がアロンやレビ人の「ゆずり」(ナハラー)であることを表すことがあります。アロンの場合は民数記18章20節に記されていて「相続地」や「割り当て」を表すことば(ヘーレク)とともに用いられています。レビ人の場合は申命記10章9節、18章2節、ヨシュア記13章33節などに記されています。
 このことは、そのまま、新しい契約の下での御国の祭司である私たちに当てはまるとても大切なことですが、ここで取り上げるのはこのことではなく、もう一つのことです。
 そのもう一つのことは、「」の契約の民であるイスラエルが「」の「相続財産」(ナハラー)であることを表すこともあるということです。
 このことはいくつかのみことばに示されていますが、今日は、イザヤ書19章25節に記されているみことばを取り上げます。そこには、

万軍のは祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手で造ったアッシリア、わたしのゆずりの民イスラエルに祝福があるように。」

と記されています。
 ここでは、「万軍の」が「祝福して言われる」と言われているとともに、「祝福があるように」とも言われていて、「」が祝福してくださることが強調されています。
 ここで「わたしのゆずりの民イスラエル」と訳されていることばは、直訳調には「わたしのゆずり、イスラエル」で、イスラエルの民が「」の「ゆずり」(ナハラー「相続財産」)であると言われています。
 注目したいのは、その前では、エジプトとアッシリアのことが、

 わたしの民エジプト、わたしの手で造ったアッシリア

と言われていて、「」の民、「」のものとされているということです。そして、全体としては、「」の民、「」のものとしていただいているエジプトとアッシリアが、「」の「ゆずり」(ナハラー)である「イスラエル」と並べられて、同じように祝福を受けています。しかも、その順序としては、エジプトとアッシリアがイスラエルの前におかれています。また、24節では、

 その日、イスラエルはエジプトとアッシリアと並ぶ第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。

とも言われています。
 この25節は19章の最後の節ですが、19章は大きく二つに分けられます。前半の1節ー15節には、エジプトに対するさばきが預言的に記されています。そして、後半の16節ー25節には、「」のさばきを受けるエジプトに「」への恐れの心が与えられ(16節ー17節)、エジプトが救われることが預言的に記されています。
 19節ー25節を見てみましょう。そこには、

その日、エジプトの地の真ん中にはのために一つの祭壇が建てられ、その国境のそばにはのために一つの石の柱が立てられる。それはエジプトの地で、万軍ののしるしとなり、証しとなる。彼らが虐げられてに叫ぶと、主は彼らのために戦い、彼らを救い出す救い主を送られる。そのようにしてはエジプト人にご自分を示し、その日、エジプト人はを知る。そしていけにえとささげ物をもって仕え、に誓願を立ててこれを果たす。はエジプト人を打ち、打って彼らを癒やされる。彼らがに立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らを癒やされる。その日、エジプトからアッシリアへの大路ができ、アッシリア人はエジプトに、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリアと並ぶ第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍のは祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手で造ったアッシリア、わたしのゆずりの民イスラエルに祝福があるように。」

と記されています。
 エジプトはかつてイスラエルの民を奴隷として苦しめ、「」のさばきを受けた国です。「」がエジプトをおさばきになって、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったことは、古い契約の下で遂行された贖いの御業の典型です。また、モーセ律法では、王がイスラエルの民を「エジプトに戻らせてはならない」と戒められていますし、「二度とこの道を戻ってはならない」と戒められています(申命記17章16節)。
 しかし、ここイザヤ書19章では、「」のさばきを受けて「」への恐れを抱くようになるエジプト人が、「」に立ち返って癒されるようになることが記されています。
 その際に、この19章のこれまでの記述からすると、何か突然のように、アッシリア人のことが記されています。それは、イザヤが預言していた当時、エジプトとアッシリアが覇権を争って、国々を征服していたからです。列王記第二・17章6節に、

ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせた。

と記されているように、北王国イスラエルはそのアッシリアに滅ぼされてしまいました。
 また、列王記第二・18章13節ー19章37節に記されていますが、南王国ユダの首都エルサレムもアッシリア軍に包囲されてしまいました。もちろん、その前に、すでに周辺の町々が征服されてしまっています。
 ただ、この時は、「」がユダの王ヒゼキアの祈りにお応えになって、預言者イザヤをとおして、「」を侮り、あざけったアッシリア軍へのさばきを告げられ、そのとおりに、一夜にして、「十八万五千人」のアッシリア軍が「」によって滅ぼされました(19章35節)。このことは、出エジプトの時代に、過越の夜(一夜)にエジプトの地にいるすべての長子、初子が、「」によって滅ぼされたこと(出エジプト記12章29節)を思い起こさせます。
 ここでは、このような、イザヤの時代の歴史的な状況を背景として、エジプトとアッシリアが、「」のさばきに服すべきこの世の国々の代表として取り上げられています。その意味で、エジプトとアッシリアに起こることは、この世のすべての国々にもかかわっていることです。そして、「その日、エジプトからアッシリアへの大路ができ」ると言われています。これは、エジプトとアッシリアの間に和解が生まれ、二つの国が交わりをもつことを示しています。そして、それが「」にあってのことであることが、

 エジプト人はアッシリア人とともに主に仕える。

と言われています。「エジプトからアッシリアへの大路」は、その間にある、「」が「わたしのゆずりの民」と呼ばれるイスラエルの民の住んでいるカナンを通る「大路」です。
 ここでは、エジプトは「わたしの民エジプト」と呼ばれ、アッシリアは「わたしの手で造った(直訳「わたしの手の作品」)アッシリア」と呼ばれています。「」はイスラエルを繰り返し「わたしの民」と呼ばれましたし、「わたしの手の作品」(直訳)と呼ばれました(イザヤ書29節23節、45章11節、60章21節、参照・イザヤ書64章8節、エレミヤ書18章6節)。ここでは、その「わたしの民」と「わたしの手の作品」(直訳)という呼び方が、この世の国々を代表的に表わすエジプトとアッシリアに当てはめられています。
 これは、「」がアブラハムに与えられた、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

という祝福の約束、さらには、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という祝福の約束が実現することを示していますし、詩篇2篇8節に記されている、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。

というメシアへの約束が実現して、地上のすべての「国々」がメシアの「ゆずり」(ナハラー「相続財産」)となるということを指し示しています。
 黙示録2章26節後半に記されている、

 諸国の民を支配する権威を与える。

という、「勝利を得る者」に与えられている約束は、このような、この世の国々に関わる祝福の約束がアブラハムのまことの子孫、ダビデのまことの子として来られたイエス・キリストにおいて、原理的、実質的に、成就していることに基づいて与えられています。それで、「勝利を得る者」に「諸国の民を支配する権威」が与えられることも、「勝利を得る者」がこの世の国々に関わる祝福の約束の実現に関わっていくようになることを意味しています。


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