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説教日:2020年5月10日 |
そのイエス・キリストは、 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。 と言われました。 イエス・キリストが十字架につけられるようになることには、ユダヤ人の指導者たちの思惑やピラトの思惑、さらには、民衆の思いなどが複雑に入り交じってかかわっていました。それらはすべて、その人々自身の自由な意思に基づくものです。契約の神である「主」ヤハウェとしての権威を委ねられて遣わされた御子イエス・キリストは、これらすべての人々の思惑や思いをいわば「お用いになって」、十字架におかかりになり、ご自身のいのちをお捨てになったのです。 御子イエス・キリストは、同じ、ヨハネの福音書1章1節で、 ことばは神であった。 と証しされており、3節で、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 と証しされている方です。また、ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節では、 神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 と証しされています。 御子イエス・キリストはこのような方として、契約の神である「主」ヤハウェであられるのです。 まことの神であり、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストは、すべてのものを、父なる神さまのみこころにしたがって、みことばによって造り出し、お造りになったすべてのものを、やはり、父なる神さまのみこころにしたがって、みことばによって真実に保っておられます。 その中には、神のかたちとしての自由をもつ人格的な存在である人も含まれています。人がその人格的な特質に従って、自分で考え、感じ、行動することができるのは、御子イエス・キリストがそのみことばによって、すべての人を神のかたちとしてお造りになり、すべての人の人格的な特質を真実に支えてくださっているからです。 ただ、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまってからは、人の人格的な本性が罪によって腐敗してしまっており、人が自らの意思によって考えること、感じること、行うことのすべてが罪によって縛られてしまっています。そのために、詩篇14篇1節に、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 と記されていることが人の現実になってしまっています。その考え方と生き方の根本前提が、「神はいない」ということ、造り主である神さまを神としないということになってしまっています。 それが、ローマ人への手紙1章21節ー23節に、 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。 と記されている、堕落後の人の状態です。 造り主である神さまを神としないところでは、いわゆる「被造物の神格化」が起こります。そこでは、神さまによって造られたものが神とされていますが、そのようにしているのは、やはり人です。人が、神はどのようなものかを決めており、人の間尺に合うものを神としています。それを突き詰めていきますと、人を神の位置に据えることに至ります。それが、罪の自己中心性の現れであり、自分がこの世界の中心にあるという思いです。 実際には、この世には、そのような罪の自己中心性に基づく「争い」、「競争」があるために、その思いを実現できる人は限られています。そのことの実現を端的に現すのは、この世の国々の王たちです。 人が自らをこの世界の中心であるとすることは、一見すると、人を自由にするように思われます。実際に、この世においては、しばしば、人は神の束縛から解放されて自由になるべきであると言われています。しかし、実際には、25節に、 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。 と記されているように、自らが神としたもの、その根底には自らの罪の自己中心性がありますが、それに縛られていくことになります。それが、自らの罪がもたらした霊的な闇によって「神の真理を偽りと取り替え」てしまっている人の現実です。 そして、それが、かつての私たちの現実でした。 このような状態にある人が真に自由になるためには、罪の力から解放されるほかはありません。しかし、ヨハネの福音書8章34節には、 まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 というイエス・キリストの教えが記されています。造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人はすべて「罪の奴隷」であって、自分の力でその状態から自由になることはできません。 そのような状態にあった私たちのために、イエス・キリストは父なる神さまのみこころにしたがって、まことの人としての性質をお取りになって来てくださり、十字架におかかりになって、ご自身の民の罪のための贖いの代価としていのちをお捨てになりました。 先ほどお話ししたように、その際に、イエス・キリストは、罪の力に縛られてしまっている人のさまざまな思惑や思いをも、いわば「お用いになって」十字架におかかりになりました。今から2千年前の、その時の、罪の力に縛られてしまっている人のさまざまな思惑や思いは、もし私たちがそこにいたとしたら、私たち自身がもっていたはずのものです。それで、もし私たちがそこにいたとしたら、私たちはイエス・キリストを退け、十字架につけるようにと叫んでいたはずです。そのことに例外はありません。 イザヤ書53章3節には、メシアとして来られる方について、 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で、病を知っていた。 人が顔を背けるほど蔑まれ、 私たちも彼を尊ばなかった。 と預言的に述べています。 ここでは、すべての人が、この方を蔑み、のけ者とすることが示されています。その上で、 私たちも彼を尊ばなかった。 と言われています。神さまがお遣わしになったこの方を「のけ者」にし「顔を背けるほど蔑」んだのは、ほかならぬ私たち自身でもあるということを示しています。 もちろん、この「私たち」は第一義的には、このことを記しているイザヤを含むイスラエルの民であり、「主」の契約の民として、約束されているメシアを待ち望んでいる人々です。ここでは、その、イスラエルの民であっても、この方をメシアとして認め、受け入れることができないということを示しています。そのことには例外がないのです。当然、これには私たち自身も含まれます。 それでも、この方を父なる神さまから遣わされたメシアであると信じるるようになった人々が起こされました。それは、その人たち自身の力によったのではなく、「主」の一方的な愛と恵みによっています。その人々は、「主」の一方的な愛と恵みによって、この方がどなたであるかを知ることができるようになり、この方を贖い主として信じて、「主」の契約の民としていただいています。 これは、イザヤ書53章に記されていることばで言うと、先ほど引用した3節に続く、4節ー5節に、 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みを担った。 それなのに、私たちは思った。 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 それぞれ自分勝手な道に向かって行った。 しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。 と記されていることを悟るようにしていただいたということです。 イエス・キリストは、私たちをも含めた、すべての人の思惑や思いをご存知であられるばかりか、それらをも「お用いになって」ご自身のみこころを実現される権威をもっておられます。実際、私たちは、自分がかつて父なる神さまが遣わしてくださった贖い主を、その十字架の死のゆえに、蔑んでいた者でしかなかったことを認めます。そうであるからこそ、私たちがこの方の十字架の死にあずかって、罪を贖われて、「主」の契約の民としていただいていることが、父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的な愛に基づく恵みによっていることを認めるのです。 繰り返しになりますが、ヨハネの福音書10章11節に記されているように、イエス・キリストは、 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。 と言われて、ご自身が契約の神である「主」ヤハウェであられることを示しつつ、「羊たち」にたとえられている私たちご自身の民のためにいのちをお捨てになることをお示しになりました。そして、18節に記されているように、イエス・キリストは、 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。 と言われて、その契約の神である「主」ヤハウェとしての権威が、ご自身から十字架におかかりになっていのちをお捨てになり、私たちご自身の民の罪を贖ってくださる権威であり、私たちご自身の民を永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださる権威であることをお示しになりました。 これは、この世の国々の王たちの権威と本質的に異なっています。 ヨハネの福音書18章36節には、イエス・キリストがその当時、最強のローマ帝国の総督ピラトに対して、 わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。 とあかしされたことが記されています。 ここに記されている、イエス・キリストの国が、 もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。 というみことばは、この世の国では、しもべたちが主権者である王のために、戦うことが踏まえられています。しかも、その戦いは、剣や槍などの血肉の武器をもって戦うものです。その戦いにおいて、いのちを捨てる人がいるなら、それはしもべたちです。 しかし、イエス・キリストは、ご自身の国がこの世のものではないことを証ししておられます。メシアの国は、血肉の武器をもって戦いをするものではなく、霊的な戦いを戦います。そして、王であり主権者であられるメシアが、ご自身のしもべたちを愛して、しもべたちのために、ご自身のいのちをお捨てになりました。それによって、霊的な戦いに勝利しておられるのです。 イエス・キリストは、ご自身が契約の神である「主」ヤハウェであられることを示しつつ、 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。 と言われました。 このことは、黙示録2章26節ー28節前半において、栄光のキリストが約束してくださっている、 勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。 ということを理解する上での鍵です。 ここで、 彼は鉄の杖で彼らを牧する。 と言われているときの「牧する」ということば(ポイマイノー)は、牧者(ポイメーン)が羊を「牧する」こと、羊を養うこと、羊の世話をすることなどを意味しています。 そして、 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。 と言われているように、 彼は鉄の杖で彼らを牧する。 と言われていることは、「良い牧者」であられるイエス・キリストが、契約の神である「主」ヤハウェとしての権威によって、私たちご自身の民を愛して、ご自分からいのちをお捨てになったこととつながっています。 ここにはいくつかの難しい問題がありますが、それについては改めてお話しします。 |
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