黙示録講解

(第424回)


説教日:2020年5月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(177)


 黙示録2章26節ー28節前半には、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、約束のみことばが記されています。
 これまで、この約束のみことばにおいて、主が「勝利を得る者」に、「諸国の民を支配する権威」をお与えになり、「勝利を得る者」が「鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように」してくださるということについてお話ししてきました。
 このことを理解するためにいろいろなことをお話しし、さらにそれに関連することをお話ししたため、とても長いことになってしまいました。この約束のみことばについて、これまで、お話ししてきたことをまとめながら整理しておきたいと思います。
 この約束を理解するために大切なことがいくつかありますが、今日は、今から2年半ほど前にお話しした、最も基本的なことを、補足を加えつつ、振り返っておきます。
 ここで、「勝利を得る者」に、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と言われているときの「権威」は、イエス・キリストが、

 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

と述べておられるように、イエス・キリストが父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威です。
 それとともに、ここで、

 諸国の民を支配する権威を与える。

と言われているときの「権威」には冠詞[ヘブル語やギリシア語の冠詞は定冠詞です]がついていません。このような場合の「権威」は限定的な権威であって、この「権威」を与えてくださるイエス・キリストの権威の下にある者としての「権威」であることを示しています。その意味で、この「権威」はイエス・キリストが父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威です。
 いろいろな機会に繰り返しお話ししてきましたが、父なる神さまがお遣わしになった御子イエス・キリストにお委ねになった権威は、この世の支配者たちの権威と本質的に異なっています。
 マルコの福音書10章45節には、

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 これは、35節ー41節に記されていますが、ヤコブとヨハネがイエス・キリストに、

あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。

と願ったことと、それを聞いた弟子たちがヤコブとヨハネに腹を立てたことを受けて、イエス・キリストが語られた教えの結論です。
 この時、ヤコブとヨハネだけでなく、弟子たちはその当時のユダヤ社会に一般的であったメシアについての理解に従ってメシアの栄光と権威を考えていました。それは、メシアがその権威を発揮して諸国を制圧し、モーセ律法に従って支配するというもので、そのような意味で、メシアがこの世の権力機構の頂点に立って治めるというものです。
 このことを受けて、42節には、イエス・キリストが、弟子たちに、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

と言われたことが記されています。これによって、イエス・キリストは、弟子たちが求めているものが、メシアの国の権威と栄光ではなく、この世の支配者たちの権威と栄光であるということを悟るように導いておられます。
 その上でイエス・キリストは、43節ー44節で、

しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

と教えておられます。これは、メシアの国の権威と栄光が、この世の支配者たちの権威と栄光とは、本質的に異なっていることを示すものです。メシアの国の権威と栄光は、地上にあっても天にあっても、皆のしもべとなって、皆に仕えることにあるというのです。ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節には、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されています。イエス・キリストにある自由人として、イエス・キリストの十字架の死によって罪と死の力から解放されただけでなく、さばきへの恐れから解放された自由人として「愛をもって互いに仕え合」うことにおいて、メシアの国の権威と栄光は現されます。その権威と栄光を最も豊かに顕さしておられるのが、メシアの国の王であられるイエス・キリストです。イエス・キリストご自身が、

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

と証ししておられるとおりです。
 父なる神さまがお遣わしになったメシアの権威と栄光は、メシアの国の王であるイエス・キリストがご自身の民、ご自身のしもべのために十字架におかかりになって、「贖いの代価として」ご自身のいのちをお捨てになったことに現されている権威であり栄光です。ヨハネの福音書10章18節には、

だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。メシアの国の王であられるイエス・キリストはしもべである私たちを愛して、いのちをお捨てになりました。メシアの権威はこの愛において発揮される権威であり、その栄光は愛に満ちた栄光です。


 先ほどお話ししたように、この時、弟子たちはその当時のユダヤ社会に一般的であったメシアについての理解に従ってメシアの権威と栄光を考えていました。それは、メシアがこの世の権力機構の頂点に立って治めるというものです。しかし、みことばは旧約聖書も新約聖書も一貫して、この世の権力機構の頂点に立っているのは暗闇の主権者、サタンであることを示しています。ヨハネの手紙第一・5章19節には、

 私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。

と記されています。
 一見して、そのように思えないのは、「悪い者」すなわちサタンの巧妙な働きが目に見えないことと、この世が腐敗し切らないように、神さまの一般恩恵に基づく御霊のお働きによって支えられているからです。
 黙示録では、12章1節に、

また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。

と記されています。この「一人の女」[「」の単数形]は、古い契約と新しい契約の時代をとおして存在する、まことのイスラエルとしての教会を黙示文学的な表象によって表しています。
 2節には、

 女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。

と記されています。これは、この「」が、創世記3章15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されている「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対する神である「」のさばきの宣告として語られた「最初の福音」に示されている、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方、メシアを産むための、産みの苦しみをしていることを示しています。
 これに対して、3節ー4節には、

また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。

と記されています。
 この「炎のように赤い大きな竜」も、創世記3章15節に記されている「最初の福音」において「おまえ」と呼ばれている「」の背後にあって働いていたサタンを表象的に表しています。そのことは、後ほど取り上げる9節に示されています。この「」が「」が産む「子を食べてしまおうとしていた」のは、やはり、「最初の福音」に示されている霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方を亡き者にしてしまおうとしてのことです。
 しかし、5節には、

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。

と記されています。

 この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。

ということは、詩篇2篇9節に、

 あなたは 鉄の杖で彼らを牧し
 陶器師が器を砕くように粉々にする。

と記されているみことばを背景としていて、この「男の子」が約束のメシアとしてお生まれになったことを示しています。そして、

 その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。

と記されていることは、この「男の子」が、ダビデ契約に約束されていた永遠の王座である、父なる神さまの右の座に着座されたこと、その意味で、メシアとしての主権の座に着き、聖霊降臨節の日に注がれた御霊によって、支配されるようになったことを指しています。
 このことを受けて、天において霊的な戦いが起こり、「竜とその使いたち」は「ミカエルとその御使いたち」と戦いますが、勝つことができず、天から投げ落とされてしまいました。
 9節には、

こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

と記されていて、この「」が、創世記3章において、最初の「」エバを惑わして罪を犯させた「古い蛇」であることを示しています。それで、ここに記されていることは、創世記3章15節に記されている「」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきの宣告としての「最初の福音」を背景としていることが分かります。また、それで、この古い契約と新しい契約の時代をとおして存在するまことのイスラエルとしての教会を表す「」は「最初の福音」に示されている「」と「女の子孫」の共同体に当たります。
 この「」が天から投げ落とされたということは、「」が霊的な戦いの行方を決定づける戦い、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線におけるノーマンディー上陸作戦開始の日である「Dデイ」における戦い、日本で言えば「天下分け目」の戦いである関ヶ原の合戦に当たる戦いに敗れたということを意味しています。
 「」が天から投げ落とされたことについて記している黙示録12章10節に記されている天における「大きな声」が、

 今や、私たちの神の救いと力と王国と、
 神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、
 投げ落とされたからである。

と述べているとおりです。また、12節には、

 それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。
 しかし、地と海はわざわいだ。
 悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、
 おまえたちのところへ下ったからだ。

と記されています。「悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り」ということは、「」がその「Dデイ」における戦いに当たる戦いに敗れたことを悟ったことを意味しています。
 地に投げ落とされた「」は「男の子」を産んだ「」、この場合は「男の子」がすでに天に上げられていますから、新しい契約下にある教会を迫害しようとしますが、「」は主の備えによって守られます。
 12章の最後の17節ー18節には、

すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った。

と記されています。
 この「女の子孫の残りの者」は新しい契約の下にある教会としての「」と同じですが、ここでは、その新しい契約の下にある教会が「神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たち」によって構成されていることと、「「」が産んだ「男の子」をかしらとして、霊的な戦いの「Dデイ」における戦いの後の最終局面に向かう戦いにおいて、サタンとその霊的な子孫の共同体と、終わりの日に至るまで戦うことが示されています。
 そして、13章には、「」の働きによって2頭の獣が出現したことが記されています。
 1頭は、1節ー2節に、

また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒 する様々な名があった。私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。

と記されている、海から上って来た獣です。
 1節では、この獣には「十本の角」があったと言われています。そして、2節には、

 私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。

と記されていて、「」、「」、「獅子」という3頭の獣が出てきます。これらはダニエル書7章に記されている、次々と、海から上って来た4頭の獣のうちの最初の3頭の獣です。そして、1節に出てくる「十本の角」はダニエル書7章に記されている4頭の獣のうちの最後に出てくる獣がもっていたものです。
 ダニエル書7章に出てくるこれら4頭の獣は、歴史を通して存在しているこの世の国々を黙示文学的な表象によって表しています。黙示録13章に記されている海から上って来た獣は、ダニエル書7章に出てくるこれら4頭の獣のすべてを合わせもつようなこの世の国で、天から投げ落とされて、「自分の時が短いことを知って激しく憤り」地に下ったサタンの働きによって出現したものです。黙示録の中では、その当時、最強の帝国であったローマ帝国の表象によって表されているこの世の国です。これは、先ほど引用した12章17節ー18節に、

すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った。

と記されているように、サタンが「最初の福音」に示されている「女」と「女の子孫」の共同体との霊的な戦いの「Dデイ」における戦いに破れた後の最終局面に向かう戦いに備えて出現させたものです。
 黙示録13章では、人々は「」と「」が権威を与えた獣を拝むようになります。
 5節ー8節には、

この獣には、大言壮語して冒 のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。獣は神を冒 するために口を開いて、神の御名と神の幕屋、また天に住む者たちを冒 した。獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。

と記されています。
 5節には、

この獣には、大言壮語して冒 のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。

と記されており、7節には、

獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。

と記されています。7節前半で「許された」と訳されていることばは、5節で2回用いられており、7節後半でも用いられている「与えられた」と訳されていることば(エドセー[「与える」、「許可する」を意味するディドーミの受動態・不定過去時制)と同じことばです。この獣にこれらのことを与えたのは、2節に、

 竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。

と記されているので、「」のように思われますが、それは派生的なことです。ここで、獣の活動が「四十二か月の間」に限定されていることから分かるように、最終的には、すべてのことを治めておられる歴史の「」である神さまが、それらをお与えになり、許容しておられるのです。
 この「四十二か月」は12で割ると3年半になります。これは12章6節に、

女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。

と記されているときの「千二百六十日」、1(ひと)月を30日として、その42倍が「千二百六十日」に当たります。また、これは14節に、

しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。

と記されているときの「一時と二時と半時」に当たります。「一時と二時と半時」を合わせると3時半になり、それが3年半、「四十二か月」に当たることになります。これらは、終わりの日に至るまで新しい契約下にある教会がこの世の国から迫害を受ける期間を表象的に表すものです。また、派生的に、それは、歴史の「」である神さまが新しい契約下にある教会をさまざまな備えをもって守ってくださっている期間を表すものです。
 これらの「与えられた」ということばによって、その「四十二か月」において、起こるすべてのこと。特に、迫害も含めて、霊的な戦いを戦う「女の子孫の残りの者」、8節のことばで言うと「世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されて」いる者に起こるすべてのことを、最終的に支配しておられるのは歴史の「」である神さまであることが示されています。
 「」が出現させた、もう1頭の獣は、11節ー15節に、

また私は、別の獣が地から上って来るのを見た。それは、子羊の角に似た二本の角を持ち、竜が語るように語っていた。この獣は、最初の獣が持っていたすべての権威を、その獣の前で働かせた。また、地と地に住む者たちに、致命的な傷が治った最初の獣を拝ませた。また、大きなしるしを行い、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。また、この獣は、あの獣の前で行うことが許されたしるしによって、地に住む者たちを惑わし、剣の傷を受けながらも生き返ったあの獣の像を造るように、地に住む者たちに命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がものを言うことさえできるようにし、また、その像を拝まない者たちをみな殺すようにした。

と記されている、地から上って来た獣です。
 黙示録では、この後、この地から上って来た獣のことは「偽預言者」と呼ばれています。そして、海から上って来た獣のことが「獣」と呼ばれています。
 8節には、

地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。

と記されていました。この「屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者」たちを、さまざまなしるしをもって惑わして、海から上って来た獣を拝むように導くとともに、「その像を拝まない者たちをみな殺すようにし」て、「女の子孫の残りの者」を迫害することによって、海から上って来た獣を拝むように誘惑するのが、地から上って来た獣、すなわち、偽預言者です。

 これが、「」の救済の御業の歴史において、霊的な戦いの「Dデイ」における戦いの後の最終局面に向かう戦いにおいて、サタンとその霊的な子孫の共同体と戦う、「女」と「女の子孫」の共同体としての「女の子孫の残りの者」が置かれている歴史的な状況です。
 私たちは霊的な戦いにおけるこのような状況にあります。
 先ほどは、「」が霊的な戦いの「Dデイ」における戦いに当たる戦いに敗れたことを示す12章10節と12節に記されている、天における「大きな声」を引用しましたが、それに挟まれている11節には、その「大きな声」が、

 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。
 彼らは死に至るまでも
 自分のいのちを惜しまなかった。

と言ったことが記されています。
 霊的な戦いにおいて、この世の国は血肉の力をもって戦います。それがさまざまな形における誘惑や迫害となって現れてきます。これに対して、「女の子孫の残りの者」は、「子羊の血」と「自分たちの証しのことば」によって戦います。このことの根底には、イエス・キリストの十字架の死こそが、私たち「主」の契約の民が、霊的な戦いにおいて、サタンとその霊的な子孫に打ち勝つことの土台であるということがあります。
 「子羊の血」は、メシアの国の王であられる方が私たちご自身の民のために「贖いの代価として」与えてくださったいのちの血です。エペソ人への手紙1章7節には、

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

と記されています。また、天上の礼拝のことを記している黙示録5章9節後半ー10節には、「子羊」への讃美が、

 あなたは屠られて、
 すべての部族、言語、民族、国民の中から、
 あなたの血によって人々を神のために贖い、
 私たちの神のために、彼らを王国とし、
 祭司とされました。
 彼らは地を治めるのです。

と記されています。
 そして「自分たちの証しのことば」は、「その血による贖い」にあずかってメシアの国の民としていただいている者として、メシアの国の王であられ、主であられる方が私たちご自身の民を愛してくださり、十字架におかかりになって、「贖いの代価として」ご自身のいのちを与えてくださったことを証しすることばです。それは、コリント人への手紙第一・1章18節で、

 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。

と言われているときの、福音として宣べ伝えられる「十字架のことば」です。それは、また、イエス・キリストの十字架において最も明確に現されている、神さまの豊かな愛と恵みに満ちた権威と栄光を証しすることばです。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第423回)へ戻る

「黙示録講解」
(第425回)へ進む
-->

(c) Tamagawa Josui Christ Church