黙示録講解

(第423回)


説教日:2020年4月26日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(176)


 本主日も、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、28節ー29節に記されている、

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

という教えについてです。
 これまで、このイエス・キリストの教えで問題となることとしてお話ししたのは、ここで、

 善を行った者はよみがえっていのちを受ける

と言われているときの、「」とは何か、また、

 悪を行った者はよみがえってさばきを受ける

と言われているときの「」とは何かということです。
 まず、これまでお話ししたことの結論的なことをまとめてから、お話を続けます。
 ここで「善を行った」と言われているときの「」は、「善いこと」(複数)を意味しており、「悪を行った」と言われているときの「」は、「悪いこと」(複数)を意味しています。そして、この「善いこと」や「悪いこと」は、聖なる神である「」が、世の終わりに再臨される栄光のキリストによって執行される最終的なさばきにおいて、ご自身の義の尺度に照らして判断される「善いこと」あるいは「悪いこと」です。
 このような意味での、「善いこと」とは、マタイの福音書22章35節ー40節に記されている、イエス・キリストの教えに示されている、

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という「重要な第一の戒め」と、

 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい

という「第二の戒め」に示されている、私たちの「神、主」への愛と、「隣人」への愛を動機とし、目的としているものです。
 また、この、

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という戒めは申命記6章5節からの引用ですが、そこでの「」は契約の神である「」ヤハウェのことです。また、その戒めは、すでに「」が私たちの神となってくださっており、私たちが「」の民としていただいていることを踏まえています。そして、

 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい

という戒めはレビ記19章18節からの引用ですが、文脈から、「隣人」は基本的に、「」を神とする契約共同体の「隣人」のことです。「基本的に」というのは、その愛は契約共同体の「隣人」をも越えて、広がっていくからです。
 それで、私たちがこの二つの戒めが示している、契約の神である「」を愛することと隣人を愛することができるようになるためには、また、契約の神である「」を愛することと隣人を愛することを動機として、ほかのすべての戒めを守ることができるようになるためには、それより前に、私たち自身が神である「」の契約の民といていただいて、「」と「隣人」との愛の交わりに生きていなければなりません。神である「」の契約の民ではない人は、「」を神として愛することはありませんし、「」を神とする契約共同体の「隣人」を愛することもありません。それで、神である「」の御前に「善いこと」を行うことはできません。


 ここで、神さまと人との契約関係について、改めて、まとめておきます。そして、それを踏まえて、さらに一つのことをお話しします。
 神のかたちとして造られているすべての人は、最初の人アダムをかしらとして神である「」との契約関係にあるものとして造られています。その契約は神である「」が創造者としての主権によって、アダムをかしらとするすべての人と結ばれた契約で、「創造の契約」と呼ばれます。[注 創造の契約は神さまがお造りになったすべてのものと結ばれていますが、今日のお話では、そのうちの神のかたちとして造られている人に与えてくださった契約に焦点を合わせています。]その創造の契約の祝福は、基本的に、二つあって、創造の御業とともに現実のものとして与えられている祝福と、将来、実現される(と約束されている)祝福に区別されます。
 創造の契約の祝福の一つは、神さまが創造の御業において人に与えてくださったもの、人にとっては、すでに与えられているものです。
 これには、三つほどの面があります。
 その一つは、人の存在そのものにかかわることです。それは、神である「」が創造の御業において、最初の人アダムをかしらとするすべての人を、愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになったことです。
 もう一つは、「」との関係のあり方にかかわることの法的な面です。具体的には、「」が人を、アダムをかしらとして、ご自身との契約関係にあるものとしてお造りになったことです。これは、いったん、人をお造りになってから、その後に、人をご自身との契約関係に入れてくださったということではなく、初めから、ご自身との契約関係にあるものとしてお造りになったということです。
 このこととの関連で注意したいことは、神のかたちとして造られている人の心には、初めから、「」との関係のあり方を示す愛の律法が記されているということです。[注 この神のかたちとして造られている人の心に記されている律法は、契約論的には、創造の契約の枠の中に位置づけられ、古代オリエントの条約の構成要素の「条項」に当たります。]
 さらにもう一つの面は、「」との関係のあり方にかかわることの実質的な面です。人間になぞらえた言い方をしますが、「」が、その無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、神のかたちとして造られている人の間にご臨在してくださって、人が「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛にある交わりに、そして、お互いの間の愛の交わりに生きるようにしてくださったことです。このようにして、「」とお互いとの愛の交わりに生きることが、神のかたちとしての人のいのちの本質です。
 創造の契約のもう一つの祝福は、人にとっては、将来において実現されるものです。
 具体的には、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、「」を神として礼拝することを中心として、ご自身の栄光を現す歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、完全に、みこころに従いとおしたときに、そのことへの報いとして、神のかたちとして造られたときの栄光よりさらに豊かな栄光の状態に入れてくださることです。そして、その栄光の状態において、「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛にある交わりに、そして、お互いの間の愛の交わりに生きるようにしてくださることです。このより豊かな栄光の状態にあって、「」とお互いとの愛の交わりに生きることが、永遠のいのちの本質です。
 けれども、創造の契約のかしらであるアダムが神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後は、すべての人が、創造の契約の違反者として、そのゆえに、アダムの罪の罪責を負っている者[神さまの刑罰を受けるべき者]として、また、生まれながらに罪の性質をもっていて、罪を犯さざるをえない者として生まれてきます。言い換えると、人はすべて、創造の契約の違反者として、創造の契約ののろいの下にある者として生まれてくるということです。
 これは法的な面ですが、実質的にも、詩篇14篇1節ー3節に、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。
 彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。
 善を行う者はいない。
 は天から人の子らを見下ろされた。
 悟る者神を求める者がいるかどうかと。
 すべての者が離れて行き
 だれもかれも無用の者となった。
 善を行う者はいない。
 だれ一人いない。

と記されているように、すべての人は、契約の神である「」を神として愛することも、礼拝することもありません。そればかりが、すべての人が「神はいない」ということ、造り主である神さまを否定することを考え方と生き方の根本的な原理として歩んでいます。神さまのみことばは、すべての人がこのように歩んでいること自体が、創造の契約ののろいの下にあることの現れであり、「歴史の歯車」が回っていくことをとおして執行される神さまのさばきの現れであると教えています。
 このように、人類の堕落後の歴史にあっては、すべての人が罪の力に捕らえられて、神である「」に罪を犯し続けて歩んでいますが、罪の暗闇のうちにあるために、そのことに気づくことはありませんし、できません。そのために、「悪いことをしてしまった」と考えることはありますし、生涯、悔いることさえありますが、造り主である神さまに対して罪を犯したことを認めて、神さまに対して罪を悔い改めることはできません。このように、ローマ人への手紙2章5節に、

あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。

と記されていることは、すべての人に当てはまります。すべての人が、すでに、神さまの聖なる御怒りの下にあり、日々に、「神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えて」いるのです。
 そして、これはそのまま、かつての私たちの状態でした。

 しかし、契約の神である「」は、すべての人が最初の人アダムにあって罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、贖い主を約束してくださいました。そのことが、創世記3章15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されている「最初の福音」に示されています。
 これは「最初の福音」ですが、「蛇」を用いて「」を誘惑して成功したサタンに対して神である「」が語られたさばきの宣告のことばです。ここには、サタンが用いた「蛇」は、神である「」がサタンに対してさばきを宣告するために「うってつけ」のものであったという皮肉があります。
 ここでは、神である「」が「おまえ」と呼ばれているサタンと、罪によってサタンと一つになって最初の人アダムを誘惑した「」との間に「敵意」を置いてくださって、両者の関係を引き裂かれることが示されています。そして、その「敵意」はサタンと「」の間だけでなく、「女の子孫」とサタンの霊的な子孫の間にまで及ぶことが示されています。
 このようにして、ここでは、歴史をとおして「」と「女の子孫」の共同体と、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体の間に霊的な戦いが継続していくことが示されています。ここで、「サタンの霊的な子孫」と言っているのは、サタンには物質的な面がないからです。そして、最後には、「女の子孫」のかしらとして来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきが執行されるようになることが示されています。
 そして、この霊的な戦いにおいては、「」と「女の子孫」の共同体が、神である「」に敵対しているサタンとサタンの霊的な子孫の共同体と戦うことになります。その意味において、「」と「女の子孫」の共同体は、霊的な戦いにおいて、神である「」の側に立つもの、神である「」の民となっています。このことに、「」と「女の子孫」の共同体の救いが示されています。
 この「女の子孫」のかしらとして来られる方こそが、約束のメシアです。この方は「」と「女の子孫」の共同体のかしらであり、「」と「女の子孫」の共同体はこの方との一体にあって救われ、神である「」の民とされます。その意味で、この方、約束のメシアは、ご自身の民の契約のかしらでもあります。その契約が「救済の契約」(あるいはロバートソン先生の言う「贖いの契約」)です。この救済の契約(贖いの契約)は創造の契約に取って代わるものではなく、創造の契約を前提として踏まえています。この点は、後ほどごく簡単に触れます。
 神さまは、ご自身がお定めになった時が満ちた時に、ご自身の御子を贖い主としてお遣わしになりました。ガラテヤ人への手紙4章4節ー6節に、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されているとおりです。
 こに記されていることは、ガラテヤ人への手紙では、3章13節ー14節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されていることを受けています。
 13節で、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

と言われているときの「律法ののろい」は、先ほどお話ししました、創造の契約への違反によってもたらされたのろいで、すべての人に及んでいます。

[注]「律法ののろい」と言われているときの「律法」はモーセ律法のことのように思われます。実際、ここでは
  木にかけられた者はみな、のろわれている
という申命記21章23節に記されている規定が引用されています。しかし、神さまの律法は、もともと、神のかたちとして造られている人の心に記されているもので、人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落しなかったら、モーセ律法は必要ありませんでした。モーセ律法は、神のかたちとして造られている人の心に記されている律法を、堕落後の人に適用して与えられているものです。その意味で、モーセ律法は神のかたちとして造られている人の心に記されている律法を基盤としており、踏まえています。堕落後の人類のすべては律法ののろいの下にありますが、その律法ののろいは、創造の契約の「条項」としての意味をもっている人の心に記されている律法ののろいです。その意味で、それは創造の契約に対する違反がもたらしたのろいです。

 ここでは、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストが、「私たちのためにのろわれた者」となってくださって、「私たちを律法ののろいから贖い出して」くださったと言われています。
 御子イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、まことの人としての性質を取って来てくださいました。それが、4章4節で、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

と言われていることです。
 これによって、御子イエス・キリストは私たちご自身の民と一つになられ、私たちの契約のかしらとなられました。そして、十字架につけられて、

 木にかけられた者はみな、のろわれている

という、律法の規定が示す、のろわれた者となられました。それは、この方が「律法ののろい」、すなわち、私たちの創造の契約への違反がもたらしたのろいを、すべて、私たちに代わって受けてくださったということです。それによって、私たちは私たちの創造の契約への違反がもたらしたのろいの下から贖い出されました。
 さらに、これを受けて(ガラテヤ人への手紙3章)14節では、

それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と言われています。ここで「アブラハムへの祝福」と言われているのは、アブラハム契約の祝福のことです。アブラハム契約は先ほどの神である「」の「救済の契約」(「贖いの契約」)の枠の中にある契約の一つです。創世記12章3節に、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

と記されている、「」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束に示されているように、その祝福は「地のすべての部族」に及ぶものです。
 さらに、創世記22章1節ー18節に記されていますが、このアブラハムへの祝福の約束は、アブラハムが神さまの命令に従ってその子イサクを神さまに献げた時に、神さまが、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と約束してくださったように、アブラハムの子孫によって「地のすべての国々」が祝福を受けるようになるという約束となっています。
 このことを背景として、ガラテヤ人への手紙3章14節では、アブラハムの子孫として来てくださった御子イエス・キリストによってアブラハムへの祝福が、ユダヤ人だけでなく、「異邦人に及び」、異邦人である「私たちが信仰によって約束の御霊を受けるように」なったことが示されています。
 ガラテヤ人への手紙3章では、さらに、26節で、

 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

と言われており、29節では、

 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と言われています。
 そして、先ほど引用した4章4節ー6節では、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と言われているのです。
 ですから、3章13節ー14節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されているときの、私たちがイエス・キリストによって「アブラハムへの祝福」にあずかるようになって受けた「約束の御霊」は、4章6節に、

 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されている「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」のことです。
 すでにいろいろな機会にお話ししているように、無限、永遠、不変の神さまに向かって個人的に「アバ、父よ」と呼びかけることができるのは、本来、御子であられるイエス・キリストの特権です。その特権が、御霊によって御子イエス・キリストと一つに結ばれて、父なる神さまの養子として迎え入れていただいている私たちにも与えられているのです。
 その私たちはイエス・キリストの十字架の死によって、創造の契約への違反に対するのろいの下から贖い出されているばかりか、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとしてお受けになった、創造の契約の祝福としての、より豊かな栄光の状態へのよみがえりにもあずかっています。
 このことから、先ほど触れた、救済の契約(贖いの契約)は創造の契約の枠の中に位置づけられるということが分かります。
 この祝福にあずかっていることを、パウロはガラテヤ人への手紙2章19節後半ー20節において、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と述べています。

 これらのことを踏まえて、改めて、今お話ししているヨハネの福音書5章に記されていることを見てみましょう。
 今取り上げている19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えは、その前の1節ー18節に記されていることを受けています。
 その1節ー18節には、イエス・キリストが安息日に「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことが記されています。このことに対して、ユダヤ人の指導者たちは、イエス・キリストが安息日に緊急ではない医療行為をして、安息日を破っていると糾弾しました。安息日に緊急ではない医療行為をしてならいないというのは、安息日に関する「」の戒め(モーセ律法)にそのように具体的に規定されているのではなく、安息日に関する「」の戒めにかかわるラビたちの教えです。
 これに対して、イエス・キリストは、17節に記されているように、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

とお答えになりました。ここでイエス・キリストが、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。

と言われたことは、創世記2章1節ー3節に記されているように、神さまが創造の御業において、創造の御業の第7日目をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださっていることを踏まえています。
 この、神さまがご自身の安息の日として祝福して聖別された創造の御業の第7日はいまだ閉じていなくて、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、「」を神として礼拝することを中心として、ご自身の栄光を現す歴史と文化を造る使命を果たす時、いわば、時間的な舞台となっています。
 そして、この創造の御業の第7日に、神である「」は、ご自身の契約に基づいて、神のかたちとして造られている人の間にご臨在してくださって、人がご自身との愛にあるいのちの交わりに生きることができるようにしてくださっていました。
 私たちの思いをはるかに越えたことですが、無限、永遠、不変の栄光の神である「」は、ご自身が人にご自身の愛を豊かに注いでくださることにおいて安息されるというのです。ですから、人が病を癒され、本来のあり方に回復されることは、安息日にふさわしいことであったのです。
 そればかりではありません。神さまが創造の御業の第7日を祝福して、聖別されたときのみこころは、私たちご自身の民が、創造の契約の祝福にあずかって、最初に神のかたちとして造られた時の栄光よりさらに豊かな栄光の状態において、ご自身との愛の交わりに生きるようになる時に、ご自身の安息がまったきものとして実現するということにあります。
 このような豊かな意味をもっている、創造の御業の第7日において、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そして創造の契約ののろいの下にある者となってしまい、神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて、滅びるべきものとなってしまいました。このことによって、創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別された神さまの愛のみこころは踏みにじられてしまいました。
 しかし、これまでお話ししてきたように、神さまはご自身のひとり子を私たちご自身の民の贖い主として遣わしてくださり、私たちをその十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にあずかる者としてくださいました。そして、私たちをご自身の子としてくださり、御子の御霊によって、ご自身に向かって「アバ、父よ」と呼びかけることができる特権と祝福を与えてくださっています。
 これは、御子イエス・キリストによって、創造の契約の祝福が私たちに及んでいるということを意味しています。そして、これによって、神さまが創造の御業において、その第7日をご自身の安息の日として祝福して聖別されたみこころが、すでに、原理的、実質的に実現しています。
 今、私たちは、御子の御霊に導いていただいて、神さまの御臨在の御許に近づき、神さまの愛に包まれている神の子どもとして、神さまを礼拝しています。このことにおいて、創造の御業の第7日を祝福して聖別された神さまの安息が私たちの間での現実になっていることが証しされています。
 もちろん、その完全な実現は、栄光のキリストが再臨されて、私たちご自身の民をより豊かな栄光によみがえらせてくださり、被造物の全体を神の子どもたちの栄光の自由にあずらせてくださって、栄光あるものとして再創造してくださる終わりの日にもたらされます。


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