黙示録講解

(第422回)


説教日:2020年4月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(175)


 本主日は2020年の復活節です。復活節の礼拝においては、2009年の復活節から、コリント人への手紙第一・15章に記されている、復活についてのパウロの教えを取り上げてお話ししています。今年は、通常の礼拝においてお話ししていることが、死者のよみがえりにかかわることなので、コリント人への手紙第一・15章からのお話は中断して、そのお話を続けたいと思います。
 今は、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてお話ししています。
 今取り上げているのは、28節ー29節に記されている、

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

という教えです。
 この教えは、終わりの日に、栄光のキリストが再臨されて、最終的なさばきを執行される時のことを記しています。
 その時、栄光のキリストは、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちご自身の民の救いを完全に実現してくださいます。私たちの罪に対するさばき執行されないままになっているのではありません。そのさばきは、神の御子であられるイエス・キリストが私たちの罪の咎を負って十字架におかかりになり、父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださったことによって、すでに執行されて終っているのです。しかし、栄光のキリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっていない人々は、それぞれの罪に対するさばきを、自分自身で受けることになります。
 このイエス・キリストの教えで問題となることとしてお話ししているのは、ここで、

 善を行った者はよみがえっていのちを受ける

と言われているときの、「」とは何か、また、

 悪を行った者はよみがえってさばきを受ける

と言われているときの「」とは何かということです。
 その結論的なことをまとめておきましょう。
 ここで「善を行った」と言われているときの「」と訳されていることば(タ・アガサ)は中性の複数形で、「善いこと」を意味しています。また、「悪を行った」と言われているときの「」と訳されていることば(タ・ファウラ)も同じように、中性の複数形で、「悪いこと」を意味しています。
 そして、「善を行った」と言われているときの「」(「善いこと」)や「」(「悪いこと」)は、この世において一般的に考えられている「善いこと」や「悪いこと」ではありません。ここで言われている「善いこと」や「悪いこと」は、聖なる「」が、世の終わりに再臨される栄光のキリストによって執行される最終的なさばきにおいて、ご自身の義の尺度に照らして判断され、おさばきになる「善いこと」あるいは「悪いこと」です。


 このことを理解するために必要なことがあります。それは、繰り返しお話ししているように、人はすべて、最初の人アダムの罪の罪責を負った者として生まれてきます。また、すべての人が自らのうちに罪を宿している者として生まれてきて、実際に、神さまに対して罪を犯してしまいす。その意味で、すべての人が生まれながらに、罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けなければならない状態にあるということです。これは、生まれながらの状態にある人は、すべて、「」(「善いこと」)を行うことはないし、できないということを意味しています。ローマ人への手紙3章9節ー18節に、

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。
 「義人はいない。一人もいない。
 悟る者はいない。
 神を求める者はいない。
 すべての者が離れて行き、
 だれもかれも無用の者となった。
 善を行う者はいない。
 だれ一人いない。」
 「彼らの喉は開いた墓。
 彼らはその舌で欺く。」
 「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」
 「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」
 「彼らの足は血を流すのに速く、
 彼らの道には破壊と悲惨がある。
 彼らは平和の道を知らない。」
 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

と記されているとおりです。
 同じことは、イザヤ書64章6節に、

 私たちはみな、汚れた者のようになり、
 その義はみな、不潔な衣のようです。

と記されています。
 ここで、

 私たちはみな、汚れた者のようになり、

と言われていることを聞くと、「汚れた者のよう」であって「汚れた者」というわけではないのではないかと思われるかもしれません。しかし、ここに記されていることは、レビ記に記されている、古い契約の下にあったイスラエルの民に与えられた儀式律法の汚れにかかわる規定を反映しています。
 そのことが分かりやすいのは後の方の、

 その義はみな、不潔な衣のようです。

というみことばです。ここで、「不潔な衣のようです」と言われているときの「不潔な」ということばは、新改訳2017年版欄外に「直訳『月の物で汚れた』」と記されているように、レビ記15章19節ー20節に記されている「月のさわりの状態」にある女性が触れた物が汚れるという規定を反映しています。
 このことを踏まえると、前の方で、

 私たちはみな、汚れた者のようになり、

と言われているときの「汚れた」ということば(形容詞ターメー[ここでは冠詞がついていて「汚れた者」となっています])は、レビ記13章45節に、

患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。

と記されているときの「汚れている、汚れている」(ターメー、ターメー)を踏まえていると考えられます。私たちすべては、「汚れている、汚れている」と叫ばなければならないような者であり、このままで聖なる「」の御臨在の御前に近づくことはできない者であるということです。
 ここで、イザヤが、

 私たちはみな、汚れた者のようになり、
 その義はみな、不潔な衣のようです。

と述べていることは、人の目にどんなに立派で、称賛されている人であっても、神である「」の聖なる御臨在の御前では「汚れた者のよう」であり、その「」は「不潔な衣のよう」であるということです。
 イザヤはこのことを、「」を知らない異邦人、律法ももっていない異邦人のこと、あるいは、人類一般のこととして述べているのではなく、「」の契約の民として選ばれ、自分たちの間に「」の聖所があり、そこに「」がご臨在してくださっているということを誇り、頼みとしていたユダとイスラエルの民のこととして述べています。
 このようなイザヤの鋭い洞察の背後には、6章1節ー5節に、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満ちる。」
その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。私は言った。
 「ああ、私は滅んでしまう。
 この私は唇の汚れた者で、
 唇の汚れた民の間に住んでいる。
 しかも、万軍のである王を
 この目で見たのだから。」

と記されている、イザヤが「」からの召命を受けた時の経験があると考えられます。イザヤは「」の預言者として召された人物で、人としても優れた資質をもっていたと考えられます。そのイザヤは幻の中で、「」の栄光の御臨在の御前に立たせられた時、直ちに、「」の聖さと自分の汚れを悟るとともに、自分が滅ぼされるべき者であるという恐ろしい現実を直感しました。まさに、自分は「」の御臨在の御前では「汚れた者」でしかなく、自分の義は「不潔な衣」出しかないという現実を思い知らされたのです。
 しかし、続く、6節ー7節に、

すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。
 見よ。これがあなたの唇に触れたので、
 あなたの咎は取り除かれ、
 あなたの罪も赦された。」

と記されているように、恐れおののくイザヤに、「」の御臨在の御許の祭壇には罪の贖いが備えられているという驚くべきことが示されました。この福音こそが、イザヤの預言の根底にあります。
 このイザヤが幻のうちに示された、「」の御臨在の御許の祭壇には罪の贖いが備えられているということは、神の御子イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いによって成就しており、私たちの間で実現しています。
 いずれにしても、すべての人は生まれながらに自らのうちに罪の性質を宿しており、そのままでは、聖なる神である「」の御臨在の御前に受け入れられる「善いこと」を行うことはできません。

 ヨハネの福音書5章28節ー29節に戻りますが、そこには、

墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

と記されています。
 その「善いこと」とは、同じ5章の24節において、イエス・キリストが、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

と教えておられるように、御子イエス・キリストのみことばを聞いて、御子イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神さまを信じることによって、「永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移って」いる状態にある人によってなされることです。具体的には、父なる神さまがその一方的な愛と恵みによって、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずからせてくださって、罪を赦してくださり、「永遠のいのち」をもつようにしてくださった人によってなされることです。
 私たちは、先ほどの、イザヤが幻のうちに示された。「」の御臨在の御許の祭壇に備えられている罪の贖いの「本体」にあずかっています。大預言者イザヤにとってさえ、それは、預言の形で示された約束でした。しかし、私たちはその「成就」であり、「実体」である、神の御子イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いにあずかって、「永遠のいのち」をもつ者としていただいています。
 そして、その「永遠のいのち」の本質は、父なる神さまと父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストとの愛の交わりにあります。それで、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストと、御子イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神さまを愛することを動機とし、目的としてなされることが、「善を行った」と言われているときの「」(「善いこと」)です。また、それで、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストと、御子イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神さまとの愛の交わりに生きていない人がなすことは、愛することを動機とし、目的としてなされていないことであり、人の目にどんなにすばらしいことと見えても、神である「」の御前では「善いこと」として認められることはありません。
 このことは、イエス・キリストの教えで「善(善いこと)を行った」と言われていることと「悪(悪いこと)を行った」と言われていることの「根底にあること」です。
 私たち「」の民が、父なる神さまと御子イエス・キリストを愛することを動機とし、目的として歩むようになるためには、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして現してくださっている私たちへの愛を、信仰によって、受け止める必要があります。私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストを愛することを動機とし、目的として歩むことは、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして現してくださっている愛に応答する歩みとなります。
 それで、先主日には、ローマ人への手紙5章8節に記されている、

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

という教えを取り上げました。
 詳しい説明は省いて要点だけをお話ししますと、ここで、

 神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と言われているときの、「明らかにしておられます」と言われていることは現在時制で表されています。御子イエス・キリストの十字架の死は、今から2千年前のことですが、それによって明らかにされている父なる神さまの愛は、今も、私たちに対して明らかにされているというのです。また、ここでは、この「明らかにしておられます」ということばが冒頭に出てきて強調されています。ここでは、その父なる神さまの愛が、

 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって

と言われているように、歴史の中で実際に、神の御子なるお方が十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださったことによって、父なる神さまの愛の現実性が明らかにされています。
 ここで、大切なことは、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と言われていることは、父なる神さまがこのように証しされている「私たちに対するご自分の愛を」、今も、私たちに注いでくださっていることを意味しているということです。この父なる神さまの愛は、今ここにいる私たちと、私たち一人一人の現実ですし、永遠に変わることがない私たちの現実なのです。
 私たちは、この御子イエス・キリストの十字架の死をとおして現されている神さまの愛を、信仰によって、しっかりと受け止めて、その愛のうちにとどまることによって初めて、神さまの愛に応答することができます。先主日の最後にお話ししたことを補足することになりますが、ここで、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と言われていることと同じことが記されている、ヨハネの手紙第一・4章10節には、

 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されています。そして、これを受けて、11節には、

 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

と記されています。
 このように、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に応答して歩む歩みは、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊に導いていただいて私たちの間の現実となります。ガラテヤ人への手紙5章12節ー13節には、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されており、16節には、

 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

と記されています。
 このように、私たちは信仰によって、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を受け止め、その愛にとどまりつつ、その愛に応答するために、御霊に導かれて「愛をもって互いに仕え合」うことによって、聖なる「」の御臨在の御前に「善(善いこと)」を行うようになります。

 これには、わきまえておかなければならないことがあります。
 私たちは父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストの十字架の死によって、罪をすべて完全に贖っていただいています。それで、私たちはもはや私たちの罪に対する神さまの刑罰としてのさばきを受けることはありません。
 しかし、私たちには、ヨハネの手紙第一・1章8節に、

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。

と記されており、10節に、

もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

と記されている現実があります。
 私たちの内には、なおも罪の性質が宿っており、実際に、私たちは罪を犯してしまいます。
 使徒であるパウロも、ローマ人への手紙7章15節において、

私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

と述べており、19節ー20節では、

私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。

と述べています。
 そうであれば、私たちが信仰によって、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を受け止め、御霊に導いていただいて、その愛に応答する形で、お互いに愛をもって仕え合う歩みをしても、私たちの行うことには、私たちの罪の汚れがつきまとっています。それで、私たちが行っていることは、そのまま「善(善いこと)」として聖なる「」の御臨在の御前に差し出すことはできません。
 それは、私たちが行うことだけのことではありません。私たちは礼拝において、献身・献金の時をもっています。献げ物を代表として私たち自身の心とからだ、私たちのすべてを「」に献げます。しかし、自らのうちに罪の性質を宿している私たちは、このままで、自分を「」に献げることはできません。
 そうではあっても、私たちは、なおも、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いが完全なものであることを信じることができます。御子イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の完全な贖いは、信仰によってそれにあずかっている私たちの罪を永遠に贖ってくださっています。それで、私たちはまったくの恵みによって、すでに、「」の契約の民として、聖別していただいていますし、父なる神さまに向かって「アバ、父」と叫ぶ特権と祝福にあずかっている神の子どもです。
 そればかりでなく、ヨハネの手紙第一・1章9節に、

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

と記されているとおり、父なる神さまは、自らのうちに罪を宿している私たち自身と、私たちが御霊に導かれて歩む中でなおも犯してしまう罪を、私たちが認めて告白するなら、御子イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いに基づいて赦してくださるばかりでなく、「私たちをすべての不義からきよめてくださいます」。
 さらに、2章1節には、

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方[パラクレートス(あるいは「弁護してくださる方」)]、義なるイエス・キリストがおられます。

と記されています。また、ローマ人への手紙8章34節には、

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださる(エンテュンカノー)のです。

と記されています。
 たとえ、私たちが罪に気づくことができなかった場合でも、また、私たちの罪の自覚には常に欠けがあるのですが、そうであったとしても、私たちのことを完全に知ってくださっている御子イエス・キリストが、私たちのあわれみ深い大祭司(ヘブル人への手紙2章17節ー18節、4章14節ー16節参照)として、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちのためにとりなしていてくださっています。もちろん、もちろん、このことは、父なる神さまがこの御子イエス・キリストのとりなしを受け入れてくださることを当然のこととして踏まえています。確かに、父なる神さまは御子イエス・キリストのとりなしをお聞きくださり、受け入れてくださいます。


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