黙示録講解

(第421回)


説教日:2020年4月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(174)


 本主日も、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、28節ー29節に記されている、

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

という教えについてです。
 このイエス・キリストの教えは、終わりの日に、栄光のキリストが再臨されて、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちご自身の民の救いを完全に実現してくださるとともに、最終的なさばきを執行される時のことを記しています。
 先主日は、このイエス・キリストの教えで問題となることについてお話ししました。
 まず取り上げたのは、ここで、

 善を行った者はよみがえっていのちを受ける

と言われているときの、「」とは何か、また、

 悪を行った者はよみがえってさばきを受ける

と言われているときの「」とは何かということです。
 その結論的なことをまとめておきましょう。
 このことを理解するための鍵となるみことばの一つは、ヨハネの福音書3章16節ー21節に記されているみことばです。
 16節ー17節には、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

と記されています。
 そして、このことを受けて、18節には、

御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

と記されています。ここでは、人が救われるか、さばかれて滅びるかを決定するのは、父なる神さまがお与えくださった「ひとり子」を信じるか、信じないかということにあることが示されています。
 ここで、

 御子を信じる者はさばかれない。

と言われているときの「信じる」ということばは、現在分詞で表されていて、ずっと信じている状態にあることを表しています。そして、「さばかれない」ということばも現在時制で表されていて、ずっとさばかれることがない状態にあることを示しています。
 これに対して、

 信じない者はすでにさばかれている。

と言われているときの、「信じない」ということばは、現在分詞で表されていて、ずっと信じない状態にあることを示しています。そして、「さばかれている」ということばは、過去になされたこと、あるいは過去になされたことの結果がずっと続いていることを示す完了時制で表されていて、「すでに」ということば(エーデー)と相まって、すでにさばかれていて、ずっとさばかれている状態にあるということを示しています。また、その理由を示している、

 神のひとり子の名を信じなかったからである。

と言われているときの、「信じなかった」も完了時制で表されていて、かつて、「神のひとり子の名を信じなかった」状態がずっと続いていることを示しています。
 みことばは、すべての人が最初の人アダムの罪の罪責を負った者として、また、自らのうちに罪を宿している者として生まれてきて、実際に、罪を犯してしまうことを示しています。そして、その罪には、いろいろな種類と形がありますが、突き詰めて行くと、すべてが、人を神のかたちとしてお造りになった神さまに対する罪です。その意味で、人は生まれながらに、自らの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けなければならないものです。
 これに対して、神さまはご自身の「ひとり子」を、贖い主としてお遣わしになり、この方によって、罪を贖ってくださいました。「神のひとり子」が私たち主の民の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださって、私たちの罪を完全に清算してくださったのです。
 それで、この神さまがお遣わしになった「神のひとり子」を信じる者は、神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けることはありません。しかし、この「神のひとり子」を信じない者は、もともとさばかれるべきものであった自らの罪に対するさばきを受けることになります。


 けれども、この説明では、5章29節記されている、

そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

という教えの説明にはなっていないと思われるかもしれません。
 確かに、この説明だけでは「善を行った」ということがどのようなことかはっきりしません。というのは、ここで「善を行った」と言われているときの「」と訳されていることば(タ・アガサ)は中性の複数形で、「善いこと」を意味しているからです[ここでは、「善い」(複数形の形容詞アガサ)に冠詞(タ)がついて実体化されているので、「善いこと」になります]。
 それで、先主日は、さらに、ヨハネの福音書3章18節に続いて、19節ー21節に記されている教えを取り上げてお話ししました。
 その結論として、「善を行った」と言われているときの「」(「善いこと」)は、この世において一般的に考えられている「善いこと」ではなく、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストとの関係において考えられる「善いこと」であるということをお話ししました。具体的には、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを愛することを動機とし、御子イエス・キリストを信じ、信頼してなされたことが、「善を行った」と言われているときの「」(「善いこと」)であるということです。
 先主日は、さらに、その「善いこと」(タ・アガサ)について考えるために、エペソ人への手紙2章4節ー10節に記されているみことばに基づいてお話ししました。
 これもまとめておきますと、父なる神さまは一方的なあわれみと愛によって、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださり、「キリスト・イエスにあって・・・ともによみがえらせ」てくださいました。それで、私たちが「救われたのは」神さまの一方的な愛から出た「恵みによる」のであり、私たちの「行いによるのではありません」。
 そのようにして、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれて、イエス・キリストとともによみがえらせていただき、イエス・キリストとともに生きる者としていただいている私たちは、すでに、神さまに対する「背き」の罪を赦していただいており、さばきにあうことはありません。
 その私たちについて、10節では、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われています。
 神さまの「大きな愛のゆえ」に、恵みにより、信仰によって救われた私たちは、「なんと、神の作品である」というのです。その私たちは「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」と言われています。この「良い行い」(エルガ・アガサ)の「良い」ということば(複数形の形容詞アガサ)は、ヨハネの福音書5章29節で、

 善を行った者はよみがえっていのちを受ける

と言われているときの「善い」と同じことばです。
 ここエペソ人への手紙2章10節では、その「良い行い」も神さまが「あらかじめ備えてくださった」と言われています。これによって、「私たちが良い行いに歩むように」なることも、神さまがまったくの恵みによって実現してくださることであるということが示されてています。実際には、神さまが御霊によって、私たちに力を与えてくださり、導いてくださって、「私たちが良い行いに歩むように」してくださるということです。
 ですから、ヨハネの福音書5章29節記されているイエス・キリストの教えにおいて、

 善を行った者はよみがえっていのちを受ける

と言われているときの「善を行った者」は、「」すなわち「善いこと」を行うようになる前に、神さまの「大きな愛のゆえ」に、恵みにより、信仰によって救われています。その人々は、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれており、イエス・キリストとともによみがえっていて、「神の作品」として「キリスト・イエスにあって造られ」ています。

 これらのことは、ヨハネの福音書5章29節記されているイエス・キリストの教えにおいて、

 善を行った者はよみがえっていのちを受ける

と言われているときの「」と訳されていることば(タ・アガサ)が中性の複数形で、文字通りには、具体的な「善いこと」を意味していることから考えられることです。
 今日は、これとは別の観点からお話ししたいと思います。もちろん、これまでお話ししたことを踏まえてのことですが、これからお話しすることは、このイエス・キリストの教えで「善(善いこと)を行った」と言われていることの「根底にあること」についてです。この「根底にあること」が欠けていると、神さまの御前で「善(善いこと)を行った」と認められることはありません。
 このイエス・キリストの教えにおいて、

 善を行った者はよみがえっていのちを受ける

と言われているときの「」と訳されていることば(タ・アガサ)は、複数形で具体的な「善いこと」を意味しています。そして、ここで「善(善いこと)を行った者」と言われている人々は、その「善いこと」を行うようになる前に、神さまの「大きな愛のゆえ」に、恵みにより、信仰によって救われており、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれて、イエス・キリストとともによみがえっていて、「神の作品」として「キリスト・イエスにあって造られ」ています。それで、ここで「善(善いこと)を行った者」と言われている人々は、神さまの愛と恵みにより、信仰によって救われ者として歩んでいる人々のことです。
 このことを踏まえて、改めて、ヨハネの福音書3章16節ー17節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

と記されています。
 18節では、

 御子を信じる者はさばかれない。

と言われています。この場合、「御子を信じる」ということは、16節に、

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。

と記されていることとのかかわりで理解する必要があります。そうすると、「御子を信じる」ということは、その「御子」を与えてくださった父なる神さまの愛を信じ、受け止めるということを意味しています。そして、先ほどお話ししたように、その「御子を信じる」ということは、現在時制で表されていて、一時的なことではなく、ずっと続く状態です。このことは、「御子を信じる」人は「御子」を与えてくださった父なる神さまの愛を信じ、その愛のうちに留まり続けるということを意味しています。
 このことは、また、

 信じない者はすでにさばかれている。

と言われているときの、御子を「信じない」(現在時制)ということは、「御子」を与えてくださった父なる神さまの愛を信じていないし、受け止めることもないということを意味しています。
 私たちは最初の人アダムの罪の罪責を負った者として、また、自らのうちに罪を宿している者として生まれてきて、実際に、神さまに対して罪を犯していた者です。その意味で、私たちは生まれながらに、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けなければならない者でした。しかし、エペソ人への手紙2章4節ー5節には、

あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記されています。
 神さまは「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」ご自身の「ひとり子」を、贖い主としてお遣わしになり、この方によって、私たち主の民の罪を贖ってくださいました。「神のひとり子」が、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださって、私たちの罪を完全に清算してくださったのです。
 私たちは父なる神さまが私たちを愛してくださって、私たちのための贖い主として遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じています。御子イエス・キリストを信じることは、父なる神さまの私たちに対する愛を信じて、受け止めることなくして、真の意味で私たちの現実となることはありません。
 ローマ人への手紙5章8節には、

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と記されています。ここで、

 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた

と言われていることは、すでに起こったことです。今から2千年前に、御子イエス・キリストが「私たちのために」、私たちの罪を贖ってくださるために、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださったのです。
 そのことは、「私たちがまだ罪人であったとき」のことです。10節では、その私たちのことが「敵であった私たち」と言われています。私たちが神さまに対して罪を犯していた時、私たちが神さまに背を向け、神さまに敵対して歩んでいた時に、「キリストが私たちのために死なれた」のです。
 そうであれば、ここで、このことによって、私たちに対する「キリスト」の愛が明らかにされていると言われてもおかしくはありません。実際、ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

と記されています。また、黙示録1章5節ー6節では、イエス・キリストのことが、「私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方」と言われています。
 しかし、ローマ人への手紙5章8節では、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と言われています。
 ここでは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったことに現れているイエス・キリストの愛は、当然のこととして踏まえられています。そして、そのイエス・キリストの愛は、何よりも、父なる神さまの私たちへの愛を指し示しているのです。私たちに対するイエス・キリストの愛は、父なる神さまの私たちに対する愛の現れです。
 さらに、ここで、

 神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と言われているときの、「明らかにしておられます」と言われていることは現在時制で表されています。御子イエス・キリストの十字架の死は、今から2千年前に起こったことですが、それによって明らかにされている父なる神さまの愛は、今も、私たちに対して明らかにされているというのです。また、ここでは、この「明らかにしておられます」ということばが冒頭に出てきて強調されています。さらに、この「明らかにしておられます」ということば(シュニステーミ)は、基本的には、「推薦する」こと、「推奨する」ことを表しますが、ここでは、「明らかにする」こと、「実証する」ことを意味しています。ただことばによって説明しているというのではなく、

 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって

と言われているように、歴史の中で実際になされた、人や御使いたちの思いをはるかに越えた御業によって、父なる神さまの愛の現実性が実証されているのです。
 そうであれば、私たちは、この父なる神さまの愛を受け止めることなしに、真の意味で、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じることはできません。
 ローマ人への手紙5章では、8節に続いて9節ー11節に、

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

と記されています。ここに記されていることの全体を貫いているのは、御子イエス・キリストの十字架の死によって明らかにされている父なる神さまの私たちに対する愛です。それで、最終的には、

 それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。

と言われているとおり、私たちも「私たちの主イエス・キリストによって」父なる神さまご自身を喜ぶようになるのです。
 ここで、

 私たちは神を喜んでいます。

と言われているときの「喜んでいます」と訳されたことば(カウカオマイ)の意味については見方が別れています。というのは、このことばの基本的な意味は「誇る」であるからです。ここでは、これまでお話ししてきたような流れから、「喜んでいます」がよいと考えられます。ここで、このようなことばが用いられていることには意味があると考えられます。この場合には、新改訳第3版の「大いに喜んでいる」のように大きな喜び、あるいは、「誇らしく喜ぶ」、すなわち、神ご自身を誇りとして喜ぶことを表すことになります。
 このように、私たちはご自分の御子を私たちのために遣わしてくださった父なる神さまの愛を信じて、その愛に包まれていて、初めて、自分は御子イエス・キリストを信じていると言うことができます。このように、父なる神さまの愛のうちにとどまって、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じること、あるいは、同じことの裏表ですが、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じて、父なる神さまの愛のうちにとどまることは、父なる神さまのみこころの中心にあります。
 神さまのみこころは神さまの律法に示されています。その神さまの律法は、ばらばらの戒めの寄せ集めではなく、その核心にある戒めに集約するというまとまりをもっています。その核心にある戒めのことは、マタイの福音書22章35節ー40節に記されています。そこには、イエス・キリストがパリサイ人の「律法の専門家」の問いかけに対してお答えになった、

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という「重要な第一の戒め」と、

 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい

という「第二の戒め」が示されています。
 神さまの律法の戒めのすべては、この二つの重要な戒めに集約されます。また、この二つの重要な戒めは、ほかのすべての戒めを守ることの根本的な動機と目的を示しています。
 そのうちの、

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という「重要な第一の戒め」においては、神さまのことが「あなたの神、主」と呼ばれています。この場合の「」は、この戒めが申命記6章5節からの引用ですので、契約の神である「」ヤハウェのことです。これは、すでに「」が私たちの神となってくださっており、私たちが「」の民としていただいていることを踏まえています。「」が私たちの神となってくださっており、私たちが「」の民としていただいていることは、私たちが、ローマ人への手紙5章8節で、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と言われている、私たちのために御子をも遣わしてくださった神さまの一方的な愛を受け止めて、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかることによって、私たちの現実になっています。
 ヨハネの福音書5章29節記されている、

 善を行った者はよみがえっていのちを受ける

というイエス・キリストの教えにおいて、「善を行った者」と言われているときの「」すなわち「善いこと」とは、

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という「重要な第一の戒め」が示している神さまへの愛と、

 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい

という「第二の戒め」が示している隣人への愛を動機とし、目的としているものです。
 この、神さまへの愛と隣人への愛は、まず、私たち自身が、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と言われている神さまの一方的な愛を現実のこととして受け止め、その神さまの愛に包んでいただいて生きることの中で、神さまの愛に応える形で生まれてきます。このことがなければ、神さまの御前で「善(善いこと)を行った」と認められることはありません。ヨハネの手紙第一・4章11節には、神さまの愛に応える私たちのあり方が、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

と記されています。


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