黙示録講解

(第420回)


説教日:2020年3月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(173)


 本主日も、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 これまで、28節ー29節に記されている、

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

という教えについて理解するためのお話をしてきました。
 今日も、これまでお話ししたことを踏まえて、さらにお話を続けます。
 まず、これまでお話ししたことで、今日お話することとかかわっていることを、ほぼ繰り返す形になりますが、振り返っておきます。
 28節に記されている、

 墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。

という教えは25節に記されている、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

という教えと深くかかわっています。ここに出てくる「今がその時です。」ということばがなければ、この二つの教えは実質的に同じことを示しています。
 25節に記されている、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

という教えでは「今がその時です」と言われていることによって、「死人が神の子の声を聞く時」が、すでに、現実になっていることを示しています。
 それで、ここで、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

と言われているときの「死人」は、肉体的に死んだ人々のことではなく、霊的に死んでいる人々、すなわち、造り主である神さまとの関係において死んでいる人々のことです。
 これに対して、28節において、

 墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。

と言われているときの「墓の中にいる者」は、肉体的に死んでしまっている人々のことで、25節の「死人」と対比するために、わざわざ「墓の中にいる者」と言われています。
 また、それぞれの教えに続いて記されていることにも違いがあります。
 25節に記されている、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

という教えでは、それに続いて、

 それを聞く者は生きます。

と言われています。
 先主日にお話ししたように、この場合の「神の子の声」は、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださり、私たちを復活のいのち、永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった御子イエス・キリストの御声です。それは、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださった方、贖い主としての権威ある御声です。
 その意味で、これは、21節に記されている、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

というイエス・キリストの教えとつながっていますし、24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えとつながっています。
 これに対して、28節に記されている、

 墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。

という教えでは、それに続いて29節で、

そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

と言われています。
 25節に記されている教えでは、「神の子の声」を「聞く者は生きます」と言われているだけです。そこには、さばき(この場合は、罪に定めるさばき)が入る余地はありません。
 しかし、28節ー29節に記されている教えでは、「墓の中にいる者がみな」と言われているように、肉体的に死んだ人々のすべてが「子の声聞く」ようになり、その「子の声聞く」すべての人々がよみがえるのですが、その中に、「いのちを受ける」人々と、「さばきを受ける」人々がいます。
 その2種類の人々の区別は、25節に、

死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

と記されている教えの中で「今がその時です」と言われている「」、先主日にお話しした、コリント人への手紙第二・6章2節に、

 見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。

と記されている「恵みの時」、「救いの日」において、福音のみことばをとおして語りかけてくださる御子イエス・キリストの御声を聞く人々が、「よみがえっていのちを受ける」ようになるということです。
 この意味で、この29節に記されている、

 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受ける

というイエス・キリストの教えも、先ほど引用した、21節に記されている、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

というイエス・キリストの教えとつながっていますし、24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えとつながっています。
 しかし、「恵みの時」、「救いの日」に、福音のみことばをとおして語りかけてくださる御子イエス・キリストの御声を聞くことがない人々は、「よみがえってさばきを受ける」ようになります。
 それで、28節ー29節に、

墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

と記されているイエス・キリストの教えは、終わりの日に、イエス・キリストが栄光のうちに再臨されて、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づく救いを完全に実現してくださるとともに、最終的なさばきを執行される時のことを記しています。


 この、

墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

という教えではいくつかのことが問題となります。
 一つの問題は、ここで「善を行った者」と言われているときの「」とは何か、また、「悪を行った者」と言われているときの「」とは何かということです。
 まず、ことばのことに触れておきましょう。
 ここに出てくる「」(タ・アガサ)と「」(タ・ファウラ)はどちらも中性形の形容詞の複数形で、冠詞(タ)によって実体化されています。それで、文字通りには、「善いこと」と「悪いこと」を表しています。
 この場合の「善い」という形容詞(アガソス)は、基本的に、質的によい状態を表します。それで、日本語では「」という漢字を用いて「善い」と表記します。また、「悪い」という形容詞(ファウロス)は、道徳的に悪い状態を表すときに用いられています(EDNT,vol.3, pp.417-418)。
 また、ここで「善を行った者」と言われているときの「行う」ということば(ポイエオー)は「行う」ことを表す一般的なことばです。このことばの主語は、人である場合と神さまである場合があります。これに対して、「悪を行った者」と言われているときの「行う」ということば(プラッソー)の主語は、人だけで、神さまが主語であることがありません。このことばは、このヨハネの福音書5章29節がそうであるように、しばしば、その行いが悪いとされる場合に用いられています(EDNT, vol.3, pp.143-144)。
 以上は、ことばのことですが、これだけではこの問題を解くことはできません。それを解く鍵となるみことばはいくつかありますが、同じヨハネの福音書に出てくるみことばを見てみましょう。
 3章16節ー21節には、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

と記されています。
 18節では、

御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

と言われていて、人がさばかれるかさばかれないかを決定するのは、「御子」すなわち「神のひとり子」を信じるか、信じないかということにあることが示されています。
 ここで「御子を信じる者」と言われているときの「信じる」ということばと、御子を・・・信じない者」と言われているときの「信じない」(「信じる」を否定詞で否定している)ということばは、どちらも現在分詞で表されていて、ずっとその状態にあることを示しています。また、

 神のひとり子の名を信じなかったからである。

と言われているときの、「信じなかった」は完了時制で表されていて、過去になされたこと、あるいは過去になされたことの結果がずっと続いていることを示しています。この場合は、かつて、「神のひとり子の名を信じなかった」のですが、その信じない状態がずって続いていることを示しています。そして、このことがさばきを招いています。
 人はすべて、生まれながらに自らのうちに罪を宿しており、神である「」に対して罪を犯します。契約論的には、すべての人が最初の人アダムの罪の罪責を負った者として、また、自らのうちに罪を宿している者として生まれてきます(参照・ローマ人への手紙5章12節ー21節)。その意味で、人は生まれながらにさばかれるべきものです。これに対して、神さまはご自身の「ひとり子」を、贖い主としてお遣わしになり、この方によって、罪を贖ってくださいました。それで、この「神のひとり子」を信じる者はさばきを受けることはありません。しかし、この「神のひとり子」を信じない者は、自らの罪に対するさばきを受けることになります。
 19節では、

そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

と言われています。
 言うまでもなく、

 光が世に来ている

と言われているときの「」は、1章9節で、

 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

と証しされている「すべての人を照らすそのまことの光」である方、人としての性質を取って来てくださった永遠の「ことば」、「神のひとり子」のことです。しかし、人々は、その「光よりも闇を愛した」と言われています。そして、その根底には、「自分の行いが悪い」という根本原因があると言われています。ここでは、そのために、人々が「光よりも闇を愛した」こと自体がさばきであることが示されています。
 20節では、

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。

と言われています。ここで「悪を行う者」と言われているときの「」ということば(ファウラ)と「行う」ということば(プラッソー)は、5章29節で「悪を行った者」と言われているときの「」ということばと「行う」ということばと同じことばです。
 ここでは、その、

 悪を行う者はみな、光を憎み

と言われています。この場合の「憎む」は現在時制で表されていて、ずっと憎み続けていることを表しています。
 ここでは、「悪を行う者はみな」、「すべての人を照らすそのまことの光」として来てくださった「神のひとり子」を憎んでいるということが示されています。
 このことに照らして、5章29節で「悪を行った者」と言われているときの「」とは何かということを理解することができます。その「」は父なる神さまが遣わしてくださった「まことの光」を憎んでいることの現れです。この「まことの光」を憎むことは、3章19節に記されている「光よりも闇を愛したこと」の現れですし、18節に記されている「御子を信じる」ことと対比されることです。
 このように、5章29節で「悪を行った者」と言われているときの「」は、この世において一般的に考えられている悪ではなく、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストとの関係において考えられる「」です。
 このことは、5章29節で「善を行った者」と言われているときの「」についても当てはまります。それは、この世において一般的に考えられている善ではなく、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストとの関係において考えられる「」です。父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを愛することを動機とし、御子イエス・キリストを信じ、信頼してなされたことが、「善を行った者」と言われているときの「」です。
 ですから、5章29節で、

そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

と言われているときの「善を行った者」の歩みを根本的に支えているのは、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを愛する愛であり、御子イエス・キリストに対する信仰と信頼です。

 5章29節記されている、

そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

という教えにかかわるもう一つの問題は、ここで、

 善を行った者はよみがえっていのちを受ける

と言われていることは、人は善い行いによって救われるということを意味しているのではないかということです。
 このことを考えるために、すでにお話ししたことがある、エペソ人への手紙2章4節ー10節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されています。
 4節ー5節前半では、神さまが「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったのは、神さまの「大きな愛のゆえ」であったことが示されています。そして、5節後半で、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と言われており、8節ー9節では、

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

と言われています。
 このように、ここでは、私たちが救われたのは、神さまの「大きな愛のゆえ」であり、神さまの恵みのゆえに、信仰によっているということが強調されています。そして、そのことをさらに補強するように、9節では、

 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

とも言われています。
 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、これに続く10節において、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われていることです。
 まず、

 実に、私たちは神の作品であって

と言われています。ここでは、「神の」(直訳「彼の」)が最初に出てきて強調されています。それで、新改訳2017年版は「実に」を補って訳しています。
 神さまの「大きな愛のゆえ」に、恵みにより、信仰によって救われた私たちは、「なんと、神の作品である」というのです。ですから、私たちが「神の作品」であるということは、私たちが神さまの「大きな愛のゆえ」に、恵みにより、信仰によって救われたことの結果としてもたらされた祝福です。
 そして、その私たちは、

 良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

と言われています。この「良い行い」(複数形エルガ・アガサ)の「良い」ということば(アガサ)は、ヨハネの福音書5章29節で、

 善を行った者はよみがえっていのちを受ける

と言われているときの「」(アガサ)と同じことばです。この「良い行い」は、恵みにより、信仰によって救われた私たちが「神の作品」として造られたことの目的であって、私たちが救われるための根拠ではありません。
 ここでは、私たちが「神の作品」として造られたのは「キリスト・イエスにあって」のこと、御霊によって「キリスト・イエス」と一つに結ばれてのことであると言われています。 これは、先主日にお話しした、コリント人への手紙第二・5章17節に、

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です[あるいは、「新しい創造の秩序の中にあります」]。

と記されていることに相当することです。
 ここでは、さらに、

 神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました

と言われています。
 ギリシア語の原文では、

 神は・・・その良い行いをあらかじめ備えてくださいました

が先に出てきます。これに先立って、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

と言われているのですが、私たちは「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」「神の作品」なのだから、自分の力で「良い行い」を生み出しなさいというのではありません。そうではなく、神さまが「その良い行いをあらかじめ備えてくださった」というのです。ここに出てくる「あらかじめ備える」ということば(プロエトイマゾー)は、新約聖書では、こことローマ人への手紙9章23節に出てくるだけです。これは、エペソ人への手紙1章3節ー5節に記されている、神さまがその永遠からのみこころにおいて、備えてくださっているということを表していると考えられます。このことは、「私たちが良い行いに歩むように」なることも、神さまがまったくの恵みによって実現してくださることであるということを意味しています。神さまが御霊によって、私たちに力を与えてくださり、導いてくださって、「私たちが良い行いに歩むように」してくださるということです。それで、私たちはこの「良い行い」を誇ることはできません。
 ですから、ヨハネの福音書5章29節で、

 善を行った者はよみがえっていのちを受ける

と言われているときの「」を行うことも、神さまのまったくの恵みによることであって、私たちが神さまの御前で、すべてを備えてくださっている神さまの恵みを感謝し、讃えるためのものであって、それが自分の功績であるかのように指し出すことのできるものではありません。


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