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説教日:2020年3月22日 |
コリント人への手紙第二・5章17節には、 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と記されています。ここで、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。 と言われているときの、 その人は新しく造られた者です。 と訳されている部分には、基本的に「新しい創造」を表し、「新しく造られたもの」も表すことば(カイネー・クティスィス)しかありません。それで、新改訳(第3版、2017年版)欄外別訳、新改定標準訳(NRSV)の、 そこには新しい創造があります。(Thre is a new creation.) や、新国際訳(NIV)本文の、 新しい創造が到来しています。(The new creation has come.) という訳も可能です。 ここで、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。 と言われているとすると、「だれでもキリストのうちにあるなら」ということも、「その人は新しく造られた者です」ということも個人的なことを示していることになります。これに対して、前半の訳を少し変えますが、 だれかがキリストのうちにあるなら、そこには新しい創造があります。 と言われているとすると、「だれかがキリストのうちにあるなら」ということでは、個人的なことが示されているのですが、「そこには新しい創造があります」ということでは、その人個人を越えたこと、すなわち「新しい創造」という被造物全体にかかわること、その意味で、宇宙論的な意味をもっていることが示されているということになります。 どういうことかと言いますと、その人が「キリストのうちにある」(エン・クリストー)という個人的なことが、「新しい創造」という、宇宙論的な意味をもっていること(被造物全体にかかわること)のうちで起こっているということを示している、あるいは、その人が「キリストのうちにある」という個人的なことが、「新しい創造」という、宇宙論的な意味をもっていること(被造物全体にかかわること)が現実になっていることの現れであるということを示している、ということになります。 「その人は新しく造られた者です」というように、個人的なことを表すという理解か、「そこには新しい創造があります」という宇宙論的な意味を表しているという理解のどちらを取るかということは、とても難しいことで、学者たちやみことばの翻訳者の間でも見方が別れています。 私の理解では、おそらく、これに続いて、 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と言われていることから、ここでは、「新しい創造」が始まっているということが示されていると考えられます。というのは、ここで、 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と言われているときの「古いもの」[タ・アルカイア(形容詞アルカイアに冠詞タをつけて実体化しています)]は中性形の複数ですが、通常、中性形は非人格的なものを表すからです[ここでは、これを受けている動詞は単数形ですので、集合体(この場合は、非人格的なものの総体)として理解されます]。また、 見よ、すべてが新しくなりました。 と言われているときの、「新しい」ということば(形容詞・カイナ)も中性形複数で、通常、非人格的なものを修飾します。ただ、 見よ、すべてが新しくなりました。 と言われているときの「すべてが」[タ・パンタ(中性形の複数)]は、多くの写本に見られるものですが、もともとはなかった可能性が高いと考えられています。とはいえ、訳すことになると、冒頭に「見よ、」があるので、主語を補って、新改訳のように訳すことになるでしょうか。 これらのことから、17節前半では、 だれかがキリストのうちにあるなら、そこには新しい創造があります。 と言われていていて、「キリストにあって」(エン・クリストー)「新しい創造」が現実となっているということが示されていると考えられます。もちろん、その「キリストにあって」現実となっている「新しい創造」の中で、「キリストのうちにある」(エン・クリストー)人は、例外なく、新しく造られているということになります。このことの背景には、旧約聖書のイザヤ書65章17節に、 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。 先のことは思い出されず、心に上ることもない。 と記されている預言的なみことば(それに続く18節ー25節に記されているみことばも見てください)があり、それが、「キリストにあって」成就していることが示されていると考えられます。 このようにして、ここコリント人への手紙第二・5章17節前半では、私たちご自身の民の罪を贖うために十字架につけられて死んでくださり、私たちご自身の民を永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストにあっては「新しい創造」が始まっており、私たちご自身の民の現実になっているということが示されていると考えられます。 この場合、「キリストのうちにある」ということは、先主日にお話ししたように、栄光を受けて死者の中からよみがえって、天に上り父なる神さまの右の座に着座された御子イエス・キリストが、最初の聖霊降臨節の日に遣わしてくださった御霊のお働きによることです。その御霊は御子イエス・キリストが私たちご自身の民のために成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになり、その贖いの御業を私たちに適用してくださり、私たちをその贖いの御業がもたらす祝福にあずからせてくださいます。その第一歩が、私たちご自身の民を栄光のキリストと一つに結び合わせてくださること、栄光のキリストとの「神秘的結合」と呼ばれることです。 先ほど引用したように、17節後半では、 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と言われています。これも、「キリストにあって」(エン・クリストー)現実となっていることです。 この場合の、「古いもの」(中性の複数形で、通常、非人格的なものを表します)は、全被造物が「虚無に服し」てしまっている状態にあるという意味での「古い秩序」に属するものの総体(集合体)を表していると考えられます。 全被造物が虚無に服してしまっている状態にあることは、ローマ人への手紙8章19節ー23節に、 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。 と記されているいます。 「被造物のすべて」が「虚無に服し」ている状態にあるのは、詩篇8篇5節ー6節に、 あなたは人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。 あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されているように、「万物」すなわち「被造物のすべて」が「神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人との一体にあるものとされているとともに、その、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによっています。そうであれば、人が神である「主」との本来の関係に回復され、栄光化されるなら、「被造物のすべて」も、回復された人との一体にあって、回復と栄光化にあずかって「虚無」から解放されるはずです。それが、ローマ人への手紙8章21節に、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。 と記されていることの意味です。 コリント人への手紙第二・5章17節に戻りますが、私たち「主」の民が十字架におかかりになって死なれ、栄光を受けて死者の中からよみがえられた「キリストのうちにある」(エン・クリストー)ということは、「キリストにあって」(エン・クリストー)「新しい創造」が始まっており、現実となっているということを意味しています。その「キリストにあって」(エン・クリストー)は、「古いものは過ぎ去って」います。 そればかりではありません。ここでは、続いて、 すべてが新しくなりました。 と言われています。このことは、過去に起こったことが今も続いているという意味合いを伝える完了時制で表されています。「キリストにあって」(エン・クリストー)、「すべてが新しく」なっている状態が今も続いており、それは終わりの日の完成の時まで、途絶えることなく続いていくということです。 そのことの中で、ローマ人への手紙8章19節ー23節に記されているように、「被造物のすべて」も「御霊の初穂をいただいている私たち自身も」終わりの日の完成の時を待ち望みながらうめいています。それも、20節ー21節で、 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。 と言われているように、みことばの確かな保証を土台とした望みのうちにあってのことです。それで、24節では、 私たちは、この望みとともに救われたのです。 と言われています。 コリント人への手紙第二・5章でも17節に続いて18節に、 これらのことはすべて、神から出ています。 と記されていて、「キリストにあって」「新しい創造」が実現しているということの確かさが示されています。 それとともに、コリント人への手紙第二・5章では、私たちは終わりの日の完成を待ち望みつつうめいているだけでなく、同時に、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださったことの証しをするように召されていることが示されています。 改めて引用しますと、18節ー6章2節には、 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、 救いの日に、あなたを助ける。」 見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。 と記されています。 18節ー19節では、神さまが「キリストによって私たちをご自分と和解させ」てくださったばかりでなく、「和解の務めを私たちに与えて」くださっていること、また、「キリストにあって、この世をご自分と和解させ」てくださったばかりでなく、「和解のことばを私たちに委ねられました」と言われています。 この場合の「私たち」は、ほかならぬ、この手紙を記しているパウロであり、パウロとともにみことばに仕えている人々、パウロの同労者のことです。しかし、それはパウロとその同労者で尽きるものではありません。この「和解の務め」と「和解のことば」はキリストのからだである教会の歴史をとおして、神さまが召してくださったすべての人に受け継がれています。それは、より広い意味では、神さまが「キリストによって」「自分と和解させ」てくださった私たちご自身の民すべてに当てはまることです。それで、私たちは神さまから委ねられた「和解のことば」をさまざまな形で証ししています。 そのことの中心には、神である「主」の御前において、「主」を神として礼拝することの中でみことばが語られることがあります。 20節には、 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。 と記されています。 ここで、 神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。 と言われていることを、ヨハネの福音書5章25節に、 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 と記されている、イエス・キリストの教えに当てはめることができます。先ほどお話ししたように、 今がその時です。 と言われている「時」は、「御子によって世が救われるため」に父なる神さまが備えてくださっている時です。それは、今日に至るまで続いています。今日においては、ここで「死人」と言われている人々、肉体的に死んだ人々ではなく、霊的に、すなわち、造り主である神さまとの関係において死んでいる人々が「神の子の声を聞く」ということは、神さまから「和解の務め」と「和解のことば」を委ねられている私たち、「キリストに代わる使節」と言われている私たちをとおしてのことです。 私たちが神さまから「和解の務め」と「和解のことば」を委ねられている「キリストに代わる使節」であるためには、何よりも、私たち自身が、神さまが「キリストによって私たちをご自分と和解させ」てくださったという現実の中に生きていなければなりません。そして、その第一歩は、私たちが、御子イエス・キリストにあって、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に、 神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。 それによって 神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 と記されている神さまの愛、「私たちの罪のために」ご自身の「ひとり子」を遣わしてくださって、「宥めのささげ物」とまでされた父なる神さまの愛を受け止めて、神さまを愛して礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きることです。そして、続く、11節に、 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 と記されているように、私たちが、御子イエス・キリストにあって、ともに神さまの愛を受け止め、心を合わせて神さまを礼拝する者として、「互いに愛し合う」ことです。 このことを、私たちの現実としてくださる方は、私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださっている御霊です。ローマ人への手紙8章14節ー15節に、 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 と記されているとおり、私たちは御霊に導いていただいて、父なる神さまとお互いとの愛の交わりに生きることができます。 また、この「キリストに代わる使節」に委ねられていることには、ヨハネの福音書5章25節に、 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 と記されているイエス・キリストの教えにおいて、 それを聞く者は生きます。 と言われている、重大なことがかかわっています。それで、コリント人への手紙第二・2章15節ー17節に、 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。 と記されているとおり、私たちはみことばに「混ぜ物を」することなく、純粋なみことばに基づいて、神さまの愛と恵みを証しする必要があります。 |
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