黙示録講解

(第418回)


説教日:2020年3月15日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(171)


 黙示録2章27節前半に記されている、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 これまで3回にわたって、28節ー29節に記されている、

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

という教えについて理解するための序論的なことをお話ししてきました。
 今日も、もう少し、関連するお話を続けます。
 28節には、

 墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 すでにお話ししたことの復習になりますが、この教えは25節に記されている、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

という教えに出てくる、

 今がその時です。

ということばがなければ、実質的に同じことを示しています。しかし、25節では、

 今がその時です。

と言われていることによって、「死人が神の子の声を聞く時」が、すでに、現実になっていることを示しています。
 それで、ここで、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

と言われているときの「死人」(複数)は肉体的に死んだ人々のことではなく、霊的に、すなわち、造り主である神さまとの関係において死んでいる人々のことであると考えられます。
 これに対して、28節において、

 墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。

と言われているときの「墓の中にいる者」(複数)は、言うまでもなく、肉体的に死んでしまっている人々のことです。そして、この、

 墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。

と言われている教えには、25節に記されている教えとは違って、

 今がその時です。

ということばがありません。それで、この28節に記されている教えは、世の終わりに、栄光のキリストが再臨される時のことを示しています。そして、「墓の中にいる者」とは、天地創造の御業以来のすべての時代に生まれて、肉体的に死んで世を去った人々を指しています。もちろん、栄光のキリストが再臨される時に生きている人々も、ここで言われている「子の声を聞く時」を迎えることになります。ただ、ここでは、25節の「死人」と対比するために「墓の中にいる者」のことが取り上げられているのです。
 25節においては、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

と言われた後に、

 それを聞く者は生きます。

と言われています。
 これは、この場合の「死人」が肉体的に死んだ人々ではなく、霊的に、すなわち、造り主である神さまとの関係において死んでいる人々のことですので、霊的に、すなわち、造り主である神さまとの関係において生きるようになることを意味しています。
 このことは、

 今がその時です。

と言われている時、すなわち、肉体的には生きているが、霊的に死んだ状態にある時に、「神の子の声を聞く」人々は、霊的にすなわち、造り主である神さまとの関係において生きるようになるということを意味しています。
 これは、

 今がその時です。

と言われている時においては、24節に、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

と記されているように、父なる神さまがお遣わしになった御子イエス・キリストが贖いの御業をなさっておられるからです。
 もちろん、御子イエス・キリストは今から2千年前に、父なる神さまのみこころに従って、まことの人としての性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださって、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださいました。そして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。この意味での、罪の贖いの御業はすでに2千年前に終っています。
 しかし、2千年前になされた御業はこれで終っているわけではありません。栄光を受けて死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストは、天に上り、父なる神さまの右の座に着座され、そこから、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊をお遣わしになりました。聖霊降臨節の出来事を記している使徒の働き2章の33節には、

ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。

という使徒ペテロの教えが記されています。
 この日以来、栄光のキリストはご自身がお遣わしになった御霊によって、ご自身の民を、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずからせてくださっています。
 具体的には、御霊は私たちご自身の民一人一人を、栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、新しく生まれさせてくださり、福音のみことばを理解し悟らせてくださり、福音のみことばに証しされている、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストこそが、父なる神さまが遣わしてくださったメシアであると信じるようにしてくださいます。
 そのことは、同時に、自分の罪の深刻さを悟ることを伴います。というのは、この自分の罪が父なる神さまの御前に贖われるためには、まことの神にして無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが十字架におかかりになって、父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、この自分に代わって受けてくださらなければならなかったということを悟るようになるからです。私たちは御霊によって導かれて、そのことを悟る時、真実に自分の罪を悔い改めるようになります。このことは、先主日にお話しした、マルコの福音書5章25節ー34節に記されている「十二年の間、長血をわずらっている女の人」が、イエス・キリストの恵みによって導いていただいて、イエス・キリストが栄光の「」であられることを悟り、

 恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。

と記されていることに相当することです。
 父なる神さまは、このようにして、ご自身がお遣わしになった御子イエス・キリストを信じ、真実に罪を悔い改める人々を、御子イエス・キリストの十字架の死に基づいて、その罪を赦してくださるだけでなく、御子イエス・キリストが十字架の死に至るまでみこころに従いとおされたことによって立ててくださった義にもあずからせてくださって、私たちを義と認めてくださいます。これが、「信仰義認」と呼ばれていること、すなわち、私たちは信仰によって神さまの御前に義と認めていただいているということです。
 しかし、それですべてなのではありません。父なる神さまは、さらに、義と認めてくださった人々を、御子イエス・キリストを長子としていただく神の家族、信仰の家族に養子として迎え入れてくださいます。これが、先主日にお話しした、「十二年の間、長血をわずらっている女の人」に向かって、イエス・キリストが、

 娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。

と言われて、この女性のことを「娘よ」と呼んでくださったことに当たります。すべては、永遠からの父なる神さまの愛に基づくみこころによっています。ローマ人への手紙8章29節に、

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と記されており、エペソ人への手紙1章3節ー5節に、

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されているとおりです。
 このことによって、私たちご自身の民は、御霊に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きることができるようになったのです。ローマ人への手紙8章14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と記されており、ガラテヤ人への手紙4章4節ー6節に、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されているとおりです。
 このようにして、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった「神の御霊」、その意味での「御子の御霊」に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きることが、永遠のいのちの本質です。
 これがヨハネの福音書5章24節ー25節に、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

と記されていることとして、今すでに、私たちご自身の民に起こっていることです。


 かつて私たちが肉体的に生きていながらも、霊的に、すなわち、神さまとの関係においては死んでいたことも含めて、これらすべてのことが、今日の説教のためのみことばで朗読しましたが、エペソ人への手紙2章1節ー10節に、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されています。
 ここに記されていることについて、改めて、注目したいことが二つあります。
 一つは、1節ー3節に記されているように、私たちはかつて、「自分の背きと罪の中に死んでいた者」であったということです。この「死んでいた者」ということば(ネクロイ、ネクロスの複数形)がヨハネの福音書5章25節に、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

と記されているときの「死人」と同じことばで、肉体的には生きていますが、霊的に、すなわち、神さまとの関係において死んでいる人々を指しています。
 かつての私たちは霊的に死んでいる状態にありました。その時の私たちは、造り主である神さまを神とすることがないばかりか、神さまに対して絶えず逆らって、罪を犯している「不従順の子らの中に今も働いている霊」(単数形)すなわちサタンに従い、サタンが生み出す「この世の流れ」に従って生きていました。そのために、私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」でした。
 ですから、かつての私たちは、神さまの聖なる「御怒りを受けるべき」者であって、とても、神さまの御前に、善しとして、受け入れていただける者ではありませんでした。
 それどころか、先ほどお話ししたように、その私たちの罪が父なる神さまの御前に贖われるためには、まことの神にして無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、十字架におかかりになって、父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださらなければならなかったのです。
 詩篇49篇7節ー8節には、

 兄弟さえも人は贖い出すことができない。
 自分の身代金を神に払うことはできない。
 たましいの贖いの代価は高く
 永久にあきらめなくてはならない。

と記されています[この「兄弟さえも」をどのように理解するかについては、見方が別れていますが、基本的な意味が変わることはありません]。どのような人も、

 自分の身代金を神に払うことはできない。

のです。
 このことを踏まえて、改めて注目したいもう一つのことは、このように霊的に死んでいた私たちに対する父なる神さまの一方的な愛とあわれみに基づく恵みです。エペソ人への手紙2章4節ー5節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記されています。
 先ほど引用した、詩篇49篇7節ー8節には、どのような人も、

 自分の身代金を神に払うことはできない。

と記されていました。けれども、15節には、

 しかし神は私のたましいを贖い出し
 よみの手から私を奪い返してくださる。

と記されています。
 神さまはこのことを、人の思いばかりでなく御使いの思いをもはるかに越えた、御子イエス・キリストによる贖いの御業によって実現してくださいました。ペテロの手紙第一・1章10節ー12節に、

この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。

と記されているとおりです。
 エペソ人への手紙2章5節では、神さまは、

 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。

と言われています。この「背きの中に死んでいた私たち」とは、肉体的には生きているけれども、霊的に、すなわち、神さまとの関係において死んでいた時の私たちのことです。それで、その私たちを「キリストとともに生かしてくださいました」ということは、霊的に、すなわち、神さまとの関係において生きる者としてくださったということです。それは、「キリストとともに生かしてくださいました」と言われているように、イエス・キリストと一つに結ばれてのことです。このように、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださるのは、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが遣わしてくださった御霊によることです。
 ここで、

 キリストとともに生かしてくださいました

と言われていることばは、「ともに生かす」という一つのことば(シュゾーオポイエオー)[「ともに」を表すシュンと「生かす」を表すゾーオポイエオーの合成語]で表されています。これは5節に出てきますが、これと同じ(合成語の)形のことばが6節にも二つ出てきて、私たちが「キリストとともに生かして」いただいていることを、さらに説明しています。その6節には、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されています。ここに出てくる「ともによみがえらせる」(シュネゲイロー)と「ともに座らせる」(シュグカシゾー)がそのことばです。ここでは、「キリスト・イエスにあって」という、イエス・キリストとの一体にあることを表すことばによって、説明されているように、私たちは御霊によって、イエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストとともによみがえらせていただき、イエス・キリストとともに「天上に座らせて」いただいています。
 5節で、神さまが、

背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と言われていることは、それとして、完結しているように思われます。それがさらに、6節で、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と言われていることには意味があると考えられます。
 それは、これによって、私たちが、1章20節ー21節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と記されているイエス・キリストに起こったことにあずかっているということを示しているからです。
 1章20節ー21節に記されているイエス・キリストに起こったことに私たちがあずかっているということは、二つのことから分かります。一つは、20節で、神さまがイエス・キリストを、

 天上でご自分の右の座に着かせて

と言われているときの「天上で」ということば(エプーラニオイス)は、2章6節で、

 ともに天上に座らせてくださいました。

と言われているときの「天上に」と同じことばです。
 さらに、1章20節で、

 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて

と言われているときの「この大能の力」は、ギリシア語では関係代名詞で表されていて、19節で、

また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

と言われているときの「神の大能の力の働き」、厳密には、「働き」(エルゲイア)を指しています。19節ではこの「神の大能の力の働き」は「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(直訳「私たち信じる者への神のすぐれた力」を説明しています。それで、この「神の大能の力の働き」は「私たち信じる者に対する力」なのです。
 ですから、20節で、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて

と言われていることは、神さまが「大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」を、

キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた

のですよ、ということなのです。
 それで、2章6節で、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と言われていることは、1章20節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた

と記されていることに、私たちがあずかっているということを示していると考えられるのです。
 このことには、大切な意味があります。それは、1章20節で、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた

と言われていることはこれで終らないで、21節において、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と言われています。この20節ー21節において、神さまがイエス・キリストを、

 天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました

と言われていることは、詩篇110篇1節に、

 は私の主に言われた。
 「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

と記されていることの成就を示しています。ですから、エペソ人への手紙1章21節に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、メシアの「」である悪霊たちのことです。
 エペソ人への手紙2章6節で、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と言われていることは、私たちは御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされて、神さまが、

キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました

と言われている、イエス・キリストに起こったことにあずかっているということを示しています。
 このことは、2章2節において、私たちが、

かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

と言われていることに対して、大きな意味をもっています。私たちは今や、「空中の権威を持つ支配者」を「足台と」しておられる栄光のキリストと一つに結ばれて、「空中の権威を持つ支配者」の主権の下から解放されて、栄光のキリストを主として愛し、そのみこころに従って歩む者としていただいているのです。コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

と記されているとおりです。
 このエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることについては、ヨハネの福音書5章28節ー29節に記されていることとの関連で、もう少しお話しします。


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