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説教日:2020年3月15日 |
かつて私たちが肉体的に生きていながらも、霊的に、すなわち、神さまとの関係においては死んでいたことも含めて、これらすべてのことが、今日の説教のためのみことばで朗読しましたが、エペソ人への手紙2章1節ー10節に、 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。 と記されています。 ここに記されていることについて、改めて、注目したいことが二つあります。 一つは、1節ー3節に記されているように、私たちはかつて、「自分の背きと罪の中に死んでいた者」であったということです。この「死んでいた者」ということば(ネクロイ、ネクロスの複数形)がヨハネの福音書5章25節に、 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 と記されているときの「死人」と同じことばで、肉体的には生きていますが、霊的に、すなわち、神さまとの関係において死んでいる人々を指しています。 かつての私たちは霊的に死んでいる状態にありました。その時の私たちは、造り主である神さまを神とすることがないばかりか、神さまに対して絶えず逆らって、罪を犯している「不従順の子らの中に今も働いている霊」(単数形)すなわちサタンに従い、サタンが生み出す「この世の流れ」に従って生きていました。そのために、私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」でした。 ですから、かつての私たちは、神さまの聖なる「御怒りを受けるべき」者であって、とても、神さまの御前に、善しとして、受け入れていただける者ではありませんでした。 それどころか、先ほどお話ししたように、その私たちの罪が父なる神さまの御前に贖われるためには、まことの神にして無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、十字架におかかりになって、父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださらなければならなかったのです。 詩篇49篇7節ー8節には、 兄弟さえも人は贖い出すことができない。 自分の身代金を神に払うことはできない。 たましいの贖いの代価は高く 永久にあきらめなくてはならない。 と記されています[この「兄弟さえも」をどのように理解するかについては、見方が別れていますが、基本的な意味が変わることはありません]。どのような人も、 自分の身代金を神に払うことはできない。 のです。 このことを踏まえて、改めて注目したいもう一つのことは、このように霊的に死んでいた私たちに対する父なる神さまの一方的な愛とあわれみに基づく恵みです。エペソ人への手紙2章4節ー5節には、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 と記されています。 先ほど引用した、詩篇49篇7節ー8節には、どのような人も、 自分の身代金を神に払うことはできない。 と記されていました。けれども、15節には、 しかし神は私のたましいを贖い出し よみの手から私を奪い返してくださる。 と記されています。 神さまはこのことを、人の思いばかりでなく御使いの思いをもはるかに越えた、御子イエス・キリストによる贖いの御業によって実現してくださいました。ペテロの手紙第一・1章10節ー12節に、 この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。 と記されているとおりです。 エペソ人への手紙2章5節では、神さまは、 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。 と言われています。この「背きの中に死んでいた私たち」とは、肉体的には生きているけれども、霊的に、すなわち、神さまとの関係において死んでいた時の私たちのことです。それで、その私たちを「キリストとともに生かしてくださいました」ということは、霊的に、すなわち、神さまとの関係において生きる者としてくださったということです。それは、「キリストとともに生かしてくださいました」と言われているように、イエス・キリストと一つに結ばれてのことです。このように、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださるのは、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが遣わしてくださった御霊によることです。 ここで、 キリストとともに生かしてくださいました と言われていることばは、「ともに生かす」という一つのことば(シュゾーオポイエオー)[「ともに」を表すシュンと「生かす」を表すゾーオポイエオーの合成語]で表されています。これは5節に出てきますが、これと同じ(合成語の)形のことばが6節にも二つ出てきて、私たちが「キリストとともに生かして」いただいていることを、さらに説明しています。その6節には、 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と記されています。ここに出てくる「ともによみがえらせる」(シュネゲイロー)と「ともに座らせる」(シュグカシゾー)がそのことばです。ここでは、「キリスト・イエスにあって」という、イエス・キリストとの一体にあることを表すことばによって、説明されているように、私たちは御霊によって、イエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストとともによみがえらせていただき、イエス・キリストとともに「天上に座らせて」いただいています。 5節で、神さまが、 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 と言われていることは、それとして、完結しているように思われます。それがさらに、6節で、 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と言われていることには意味があると考えられます。 それは、これによって、私たちが、1章20節ー21節に、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 と記されているイエス・キリストに起こったことにあずかっているということを示しているからです。 1章20節ー21節に記されているイエス・キリストに起こったことに私たちがあずかっているということは、二つのことから分かります。一つは、20節で、神さまがイエス・キリストを、 天上でご自分の右の座に着かせて と言われているときの「天上で」ということば(エプーラニオイス)は、2章6節で、 ともに天上に座らせてくださいました。 と言われているときの「天上に」と同じことばです。 さらに、1章20節で、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて と言われているときの「この大能の力」は、ギリシア語では関係代名詞で表されていて、19節で、 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。 と言われているときの「神の大能の力の働き」、厳密には、「働き」(エネルゲイア)を指しています。19節ではこの「神の大能の力の働き」は「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(直訳「私たち信じる者への神のすぐれた力」を説明しています。それで、この「神の大能の力の働き」は「私たち信じる者に対する力」なのです。 ですから、20節で、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて と言われていることは、神さまが「大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」を、 キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた のですよ、ということなのです。 それで、2章6節で、 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と言われていることは、1章20節に、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた と記されていることに、私たちがあずかっているということを示していると考えられるのです。 このことには、大切な意味があります。それは、1章20節で、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせた と言われていることはこれで終らないで、21節において、 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 と言われています。この20節ー21節において、神さまがイエス・キリストを、 天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました と言われていることは、詩篇110篇1節に、 主は私の主に言われた。 「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されていることの成就を示しています。ですから、エペソ人への手紙1章21節に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、メシアの「敵」である悪霊たちのことです。 エペソ人への手紙2章6節で、 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と言われていることは、私たちは御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされて、神さまが、 キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました と言われている、イエス・キリストに起こったことにあずかっているということを示しています。 このことは、2章2節において、私たちが、 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 と言われていることに対して、大きな意味をもっています。私たちは今や、「空中の権威を持つ支配者」を「足台と」しておられる栄光のキリストと一つに結ばれて、「空中の権威を持つ支配者」の主権の下から解放されて、栄光のキリストを主として愛し、そのみこころに従って歩む者としていただいているのです。コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 と記されているとおりです。 このエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることについては、ヨハネの福音書5章28節ー29節に記されていることとの関連で、もう少しお話しします。 |
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