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説教日:2020年3月8日 |
これは、その前の22節ー24節に記されているように、「会堂司の一人でヤイロという人」が死にかけている娘を助けるために来てくださいと願ったことに答えて、イエス・キリストが彼の家に行く途中でのことで、「大勢の群衆」がイエス・キリストに押し迫るようにしてついて来ていました。 25節には、 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。 と記されています。 「長血をわずらっている」ということは、何らかの理由によって身体からの出血があったということです。一般には、子宮の何らかの病気による出血であろうと考えられています。 この女性は、長い間の出血によって身体が弱っていたと考えられます。また、その当時の女性にとっては、深刻な問題と感じられていた、子どもができないという問題を抱えていたでしょう。 さらに、レビ記15章25節ー27節に記されている規定では、女性は、「血の漏出」のある間、汚れているだけでなく、彼女に触れる者も汚れるとされていました。さらに、彼女の寝床や、彼女の座るものすべてが汚れたものとなり、それらの汚れたものに触る者は、誰でも汚れるとされていました。 ですから、この女性は、「汚れた者」として、礼拝における神である「主」との交わりから遠ざけられていましたし、人との交わりにも不自由を感じていました。彼女にとっては、自分が「汚れた者」であるということがいちばん深刻な問題であったと考えられます。 それで、この女性は、26節に、 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。 と記されているように、何とかしようとして、必死の治療を試みたようです。多くの医者にかかりましたが、病気は悪化するだけでした。おまけに、財産を使い果たしてしまいました。 このように、この女性は、「血の漏出」からくる身体的な衰弱、財産を使い果たしてしまったという経済的な行き詰まり、そして、「汚れた者」とされたための神である「主」と人との交わりの喪失というように、人生のあらゆる面において、とても苦しい状態にありましたが、もう、彼女にできることは何もないというような状態でした。 そのような状態にあったこの女性に、一筋の光が射してきました。27節ー28節には、 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。 と記されています。 彼女は、イエス・キリストのことを耳にしました。そして、聞いたことをもとにして、 あの方の衣にでも触れれば、私は救われる と考えていました。それは、彼女が、3章10節に、 イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。 と記されていることを聞いたからだと考えられます。同じことを記している、ルカの福音書6章19節に、 群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。 と記されてい このことは、もはや何もできない状態にあったこの女性にとっては、最後の望みとなり、真剣に人々の話を聞いたはずです。そして、そのように多くの人々がイエス・キリストにさわっただけでいやされているのであれば、 あの方の衣にでも触れれば、私は救われる と信じるようになったと考えられます。 しばしば、このことがこの女性の信仰のすばらしいところであると考えられています。他の人々はイエス・キリストにさわればいやされると考えてイエス・キリストにさわったのに、彼女はイエス・キリストの「衣」にさわるだけでよいと考えていたのだから、もっとよくイエス・キリストを信じていたということです。しかし、これは一種の信仰ですが、イエス・キリストを信じる信仰ではありません。すでに用いたことばを用いますと、この段階での彼女の信仰は「奇跡信仰」であって、「救いに至る信仰」ではありません。これから、このことについて、お話ししていきたいと思います。 27節には、 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。 と記されています。 この女性は、群衆の中に紛れ込み、後ろから、イエス・キリストの「衣に触れ」ました。この場合の「衣」(ヒマティオン)は単数形で「上着」を意味しています。彼女はすべてのことを、こっそりと、人にもイエス・キリストにも知られないようにしたのです。 彼女がこのようなことをしたのは、彼女がレビ記に記されている律法の規定によって「汚れた者」とされていたからであると考えられます。 彼女が、イエス・キリストにも知られないように、イエス・キリストの上着だけにさわったということは、30節に、 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」 と記されていることにも表われています。 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき ということは、イエス・キリストの力が、イエス・キリストのご意志とは関係なく、勝手に出ていってしまったというようなことです。このことは、先ほどの、ルカの福音書6章19節で、 群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。 と言われていることにも当てはまります。 もちろん、イエス・キリストの力がイエス・キリストのご意志と関係なく働くというようなことはありえません。それで、この女性がいやされたのは、イエス・キリストのみこころによることでした。しかし、マルコは、ちょうど、電源にプラグを差し込めば自動的に電気が流れるのと同じように、彼女がイエス・キリストにさわった時、イエス・キリストは、ご自分の力が出ていったようにお感じになったと記しています。 このことは、この時の、この女性とイエス・キリストの関係のあり方を表わしています。群衆の中に紛れ込み、後ろから、イエス・キリストの「衣」にさわった時の彼女にとって大切なのは、自分の病気を治してくれるであろうイエス・キリストの力でした。彼女には、イエス・キリストご自身と、イエス・キリストのみこころに対する関心はありませんでした。 この点で、先ほど言ったように、この段階でのこの女性の信仰は一種の信仰(奇跡信仰)ではあるけれども、真にイエス・キリストを信じる信仰(救いに至る信仰)ではないと言わなければなりません。 30節後半には、イエス・キリストは、 群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」 と記されています。これを受けて、続く31節には、 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」 と記されています。 これは、いわば、満員電車の中で、「誰かが自分にさわった」と言うようなものです。弟子たちとしては、イエス・キリストがいったい何を言いだすのかと、非難したくなるほどのことでした。 しかし、この女性にとってはそうではありませんでした。彼女は、群衆の中に紛れ込み、後ろからそっと手を伸ばして、意図的に、イエス・キリストの上着だけにさわりました。彼女にしてみれば、自分のしたことは誰にも分るはずのないことでした。けれども、イエス・キリストは、その自分のしたことを知っておられたのです。 ここには、注目すべきことがあります。この、 だれがわたしの衣にさわったのですか。 と言うときの「衣」(ヒマティア)は複数形で、上着とその下に着るチュニックを指すことばです。先ほどお話ししたように、27節で、実際に彼女がさわったと言われているのは「衣」の単数形(ヒマティオン)で表わされている「上着」です。 これに対して、イエス・キリストが言われた、複数形の「衣」(ヒマティア)は、28節で、この女性が、 あの方の衣にでも触れれば、私は救われる と考えていたと言われているときの「衣」と同じことば(ヒマティア)です。 28節には、この女性のことが、 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていた と記されています。 いくつかのことに注目したいと思います。 まず、ここでこの女性が、 私は救われる と思っていた、と言われているのは、すでにお話しした彼女の苦しみの複雑さと深刻さを映し出しています。彼女は、単なる病気のいやし以上のことを考えていたと考えられます。 また、この女性が、 あの方の衣にでも触れれば、 と思っていた、ということでは「衣」が強調されています。この女性の思いはイエス・キリストの「衣」に向けられていたのです。 さらに、「思っていた」と訳されていることば(エレゲン)は、基本的には、「言う」を表すことば(レゴー)の未完了時制で、過去の継続を表わしています。それで、一般的には「思っていた」17年版)あるいは「考えていた」(第3版)と理解されています。しかし、ここでは、彼女のうちで起こっていたことではあるのですが、もう少し文字通りに近く理解したほうがよいと思います。この女性は、群衆の中に紛れ込んでイエス・キリストの方に進んで行く間ずっと、切羽詰まった思いをもって、心の中で、 あの方の衣にでも触れれば、私は救われる と言い続けていたということです。その時、この女性が強く意識していたのは、ここで強調されている、複数形の「衣」(ヒマティア)です。そして、イエス・キリストは、それとまったく同じことば、複数形の「衣」(ヒマティア)を用いて、 だれがわたしの衣にさわったのですか。 と言われたのです。 これは、この女性が群衆の中に紛れ込んで、後ろからイエス・キリストに近づいて行く間に、「あの方の衣にでも触れれば」と心の中で言い続けていたことを、イエス・キリストはご存知であられたということを意味しています。 この時、イエス・キリストが、 だれがわたしの衣にさわったのですか。 というように、問いかけられたのは、彼女の方からの告白を促すためです。 イエス・キリストが、この女性の心の中のことをも含めて、すべてをご存知であったことは、この女性だけに分かったことです。その意味で、イエス・キリストの、 だれがわたしの衣にさわったのですか。 ということばは、単なる問いかけではなく、イエス・キリストが彼女のの心の中にあることもすべてご存知の方であるということを、彼女に啓示してくださったものです。それで、この女性は、この時に、まことの神の御子としてのイエス・キリストの現実(リアリティ)に触れたのです。 33節には、 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。 と記されています。彼女は、天地の造り主である唯一の神さまのみを礼拝するユダヤ人です。その彼女が、恐れおののいて、イエス・キリストの御前に進み出て、ひれ伏しました。言うまでもなく、これは、人が栄光の神である「主」の御前にあることを自覚したときの姿です。罪ある者が聖なる「主」の栄光を見たときの恐れとおののきです。彼女は、イエス・キリストの見える姿の奥に隠されている栄光の「主」の御姿に触れたために、恐れおののいて、その御前にひれ伏したのです。 ここで一つのことに触れておきましょう。33節で、 彼女は自分の身に起こったことを知り、 と言われていることは、病気が治ったことのように思われますが、病気が治ったことは、すでに、29節に、 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。 と記されている時に分かっていました。 この「自分の身に起こった事を知り」は、文字通りには、「自分に起こった事を知り」で、「自分の身に」の「身に」は原文にありません。彼女に起こったこととは、彼女が群衆に紛れ込んで、後ろからイエス・キリストに近づいて行ってその上着にさわったときに、自分の病気がいやされたということだけではありません。イエス・キリストが、 だれがわたしの衣にさわったのですか。 という問いかけをとおして、ご自身が栄光の「主」であられることを啓示してくださったことと、その結果、彼女もイエス・キリストが栄光の「主」であられることを知るようになったことも、彼女に起こったことです。そして、この時は、自分の病気が治ったことは、自分が栄光の「主」の御前に立たせられているという事実の前にかすんでしまっています。 ですから、彼女は自分の病気が治ったことを知って恐れおののいたのではなく、イエス・キリストがご自身を示してくださったので、イエス・キリストが栄光の「主」であられることを知って、恐れおののいていたのです。それは、自分の罪の深さ、自分の罪深さの現実(リアリティ)を自覚してのことで、あったと考えられます。 この女性は、それまで、イエス・キリストがどのような方であるかということには関心がありませんでした。自分の病がいやされ、汚れが聖められさえすればよかったのです。それで、自分をいやしてくれるであろうイエス・キリストの力に関心を寄せていました。 彼女は、それまでの12年間に、いろいろな医者にかかってきました。もし、そこによい医者かよい薬があって病気が治っていたとしたら、イエス・キリストに人一倍の関心をもつこともなかったことでしょう。それまでの彼女にとっては、病気が治ればよかったのであり、その手段は、イエス・キリストでなくてもよかったのです。その意味で、彼女はイエス・キリストの力に関心があっただけです。 それで、彼女は、群衆の中に紛れ込んで、後ろからそっとイエス・キリストに近づいていって、その上着に触れました。そして、病気が治ったときも、そのままそっと帰っていこうとしました。同じことを記しているルカの福音書8章47節では、 彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、 と言われています。「隠しきれないと知って」ということは、彼女がそっと立ち去ろうとしたことを暗示しています。 とはいえ、それはこの女性だけのことではありません。先に引用した、ルカの福音書6章19節に、 群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。 と記されていることから、イエス・キリストにさわっていやされた多くの人々は、大喜びしたでしょうが、そのまま帰って行ったと思われます。 しかし、この時、秘かにイエス・キリストの上着に触れたこの女性は、ほかの人々のように、そのまま立ち去ることができませんでした。イエス・キリストから、 だれがわたしの衣にさわったのですか。 と問いかけられました。いわば、イエス・キリストが彼女がそのまま帰ることをお許しにならなかったのです。その結果、彼女は、ほかの誰もが経験しない、非常な恐れとおののきに撃たれてしまいました。それで、恐れおののきつつ、イエス・キリストの御前に進み出て、ひれ伏すほかはありませんでした。 この記事を読む私たちは、多くの人々がイエス・キリストに触って癒された後、そのまま帰って行ったのに、どうしてイエス・キリストはこの女性を、そのまま帰らせなかったのだろうと思ってしまいます。 もちろん、これは、イエス・キリストの彼女への愛と恵みによることでした。イエス・キリストが彼女に、ご自身が栄光の「主」であられることを啓示してくださったのです。彼女は、そのイエス・キリストの現実(リアリティ)に撃たれて圧倒され、恐れおののいて、その御前にひれ伏しました。 その彼女のうちにあったのは、自分は、汚れた者でありながら、病気が治りたいという一心で、栄光の「主」であられる方に触れて、「主」の聖さを冒してしまったばかりではなく、こっそりとその御力を盗んでしまった。自分は直ちに滅ぼされて当然であるという、直感的な思いでしょう。それは、イザヤ書6章に記されている預言者イザヤが「主」の栄光に触れた時に、5節に記されているように、 ああ、私は滅んでしまう。 この私は唇の汚れた者で、 唇の汚れた民の間に住んでいる。 しかも、万軍の主である王を この目で見たのだから。 と叫んだことを思い起こさせます。 そのような思いで恐れおののきつつ、震えながら、御前にひれ伏している女性に、イエス・キリストは、34節に記されているように、 娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。 と言ってくださいました。この女性にとって、これ以上に思いがけないことばがあったでしょうか。 この時、イエス・キリストはおよそ30歳でした。12年もの間長血を患ってきた、この女性は、少なくとも、イエス・キリストと同年代、おそらく、イエス・キリストより年を取っていたと思われます。その女性に、イエス・キリストは「娘よ」と呼びかけておられます。これは、イエス・キリストが彼女をご自身の家族、信仰の家族に迎え入れてくださっていることを宣言してくださったものです。そして、イエス・キリストが、 あなたの信仰があなたを救ったのです。 と言ってくださったのは、そのことに伴う祝福です。それは、ただ恵みによって与えられた祝福です。 この女性は、人の目には隠されている、イエス・キリストは栄光の「主」であるという現実(リアリティ)に触れたときに、その御前で恐れおののきひれ伏して、自分のしたことを告白しました。これは、彼女が、本当に、イエス・キリストが栄光の「主」であられることを知るようになったことの現れです。 イエス・キリストが、 娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。 と言われるときの彼女の「信仰」は、そのような、イエス・キリストを栄光の「主」として知り、自分は罪に汚れた者で、ただ、その御前に恐れおののきつつ、ひれ伏すほかはないことを自覚する信仰です。それは、イエス・キリストが彼女にご自身を示してくださったことによって、彼女の中に生み出してくださった、イエス・キリストを栄光の「主」として恐れつつあがめる信仰です。その信仰が彼女を救ったのです。なぜなら、彼女が栄光の「主」であられると信じたイエス・キリストは、ご自身が十字架にかかって、ご自身の民の罪を贖ってくださる、恵みとまことに満ちた栄光の「主」(参照・ヨハネの福音書1章14節)であられるからです。 イエス・キリストは、さらに、 安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。 と言われました。 この女性が、こっそりとイエス・キリストに触れて、病気が治ったからということで、こっそりと帰っていたとしたら、イエス・キリストの力を利用して終わっただけです。それでは、イエス・キリストとの愛にある親しい交わりは始まりませんでした。しかし、今や、イエス・キリストがその栄光の「主」として、恵みのみことばをもって、「娘よ」と呼んでくださいました。そして、 安心して行きなさい。 といって送り出してくださいましたし、 苦しむことなく、健やかでいなさい。 という、栄光の「主」の確かなみことばの保証を与えてくださいました。すべては、イエス・キリストが「娘よ。」と呼んでくださったことにともなう祝福です。すべては、彼女にご自身がどなたであられるかを啓示してくださった、栄光の「主」の一方的な愛と恵みによって与えられたものです。 イエス・キリストが、 娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。 と言ってくださっている、この女性は「信仰」によって栄光の「主」であられるイエス・キリストに結びつき、イエス・キリストの恵みによって、イエス・キリストとの愛の交わりにおいて、イエス・キリストご自身を「主」として、しかし、親しく知るようになったはずです。 この、イエス・キリストが、その一方的な愛と恵みによって、この女性のうちに生み出してくださった信仰こそが、神のみことばである聖書に示されている「救いに至る信仰」です。これは、同じく、イエス・キリストの力にはあずかっているのですが、マタイの福音書7章21節ー23節に記されている、イエス・キリストの力を信じて行った、自らの業績を誇りとし、頼みとしている人々の信仰である、「奇跡信仰」とはまったく異質のものです。 |
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