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説教日:2020年3月1日 |
もとより、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、神さまの律法を行うことはできません。というのは、神さまの律法の最も大切な戒めは、マタイの福音書22章37節に記されている、 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という戒めであるからです。 この戒めは、その他のすべての戒めを守る時の「根本的な動機」を示しています。神である「主」の戒めは、それがどのような戒めであっても、神である「主」ご自身を愛するということを「根本的な動機」として守るべきものです。神である「主」ご自身を愛していないのに、神さまの戒めを守っているということはありえません。 もちろん、これには、私たちが神である「主」を愛するのに先立って、神である「主」がその限りない愛をもって私たちを愛してくださっているという事実があります。ですから、私たちが神である「主」を愛することの第一歩は、その神である「主」の愛を受け止めることにあります。このように、神である「主」を愛することは、神である「主」との愛の交わりの中で現実となります。 神である「主」の戒めで、これと同じように大切な第二の戒めは、 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。 という戒めです。これは、「隣人」を自分自身のように愛しなさいという戒めですが、その根底には、神である「主」を愛するという「根本的な動機」があります。私たちが神である「主」との愛の交わりのうちにあって、神である「主」を愛しているということは、神である「主」は私たちの「隣人」をも愛しておられるということであり、私たちの「隣人」も神である「主」を愛しているということです。当然、私たちは神である「主」が愛しておられる「隣人」を愛しますし、神である「主」を愛している「隣人」を愛します。すべての「愛は神から出ているのです」(ヨハネの手紙第一・4章7節)。もちろん、私たちが「隣人」を愛するというときには、「隣人」自身を愛するということです。 より広い意味では、父なる神さまは、ご自身がお造りになったすべての人にいつくしみを注いでおられます。ですから、私たち「主」の民も、すべての人を愛するように求められています(マタイの福音書5章44節ー45節)。このことも、その根底には、神である「主」を愛するという「根本的な動機」があります。 このことを踏まえた上で、 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という戒めを見てみましょう。この戒めは、旧約聖書の申命記6章5節に記されている、 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という戒めの引用です。ここで、 あなたの神、主を愛しなさい。 というときの「主」は新改訳で太字で表記されています。この太字の「主」は、契約の神である「主」、すなわち、ヤハウェを表しています。 だれかが、「私はお父さんを愛しています。」と言ったとします。その人は「そのお父さん」の子どもです。その子どもだけが、そのお父さんを父として愛することができます。そこには、父と子の関係があって、その父と子の関係にある人たちだけが、父として子を愛することができますし、子として父を愛することができます。それと同じように、契約の神である「主」を神として愛することができるのは、「主」と契約関係にある人、すなわち、「主」のしもべだけです。 人はすべて、この契約の神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっています。それで、人は「主」を神とすることはありません。まして、「主」を神として愛することはありません。ですから、人は神さまの律法を守ることはできませんし、神さまの律法を守ることがありません。 ですから、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、自分の行いによって、たとえその行いが、人の目に神さまの律法の条文に従っているように見えたとしても、その人の「根本的な動機」まで完全に知っておられる神さまの御前に義と認められることはできないのです。そして、神さまの御前に義と認められていない人が契約の神である「主」の民、「主」のしもべとなることはできません。 神のみことばである聖書は、人が契約の神である「主」の民、「主」のしもべとなることは、「主」の一方的な愛に基づく、恵みによっていると教えています。それで、契約の神である「主」の民、「主」のしもべとしていただいている人は、その「主」の一方的な愛を受け止め、その恵みに信頼するようになります。 人が契約の神である「主」の民、「主」のしもべとなることは、「主」の一方的な愛に基づく、恵みによっているということは、すでに、旧約聖書に明確に示されています。申命記7章6節ー8節には、 あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。 と記されています。 「主」はイスラエルの民を「選んで、ご自分の宝の民とされ」ました。それはイスラエルの民に価値があったからではありません。イスラエルの民は「あらゆる民のうちで最も数が少なかった」し、強大な帝国であるエジプトの奴隷となっていました。イスラエルの民が「主」ために何かを成し遂げるとか、「主」の御前に業績を積み上げるということはできませんでした。「主」がそのようなイスラエルの民を「選んで、ご自分の宝の民とされ」たのは、「主」がイスラエルの民を「愛されたから」ですし、イスラエルの民がまだ民として存在していなかった時に、イスラエルの民の「父祖たちに誓った誓いを守られたから」です。 この「父祖たちに誓った誓い」とは、「主」がイスラエルの父祖であるアブラハムに与え、イサク、ヤコブに受け継がせてくださった契約のことです。「主」がアブラハムに契約を与えてくださったのも、アブラハムの業績に対する報いなのではなく、「主」の一方的な愛に基づく恵みによっています。 このようにして、「主」の契約の民を指し示す、古い契約の「ひな型」であったイスラエルの民は、「主」の一方的な愛によって選んでいただき、父祖たちへの契約に基づいて、エジプトの奴隷の状態から贖い出されて、「主」の契約の民としていただいています。 このことを踏まえて、出エジプトの贖いの御業がなされた時の時間的な順序を見てみましょう。 出エジプト記2章23節後半ー25節には、 イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。 と記されています。 ここでは、エジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの民が「重い労働にうめき、泣き叫んだ」ことと、そのうめきと嘆きを神さまがお聞きになって、 アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 ということが記されています。 このことは、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を忘れておられたけれども、イスラエルの民のうめきと嘆きを聞いて思い起こされたということではありません。ここで、神さまが、 アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 と言われているときの「思い起こす」(ザーカル)ということばは、基本的に三つの意味がありますが、この場合は、ただ知的に思い出すということに留まらないで、そのことに伴って何かをなすことが含まれています。神さまは何かを忘れることはありませんので、忘れていることを思い出すということではなく、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約に約束してくださっていたことを実行に移されるということを意味しています このことが、先ほど引用した申命記7章8節に、 あなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。 と記されていることの出発点です。。 それで、出エジプト記2章は先ほど引用した23節後半ー25節で終りますが、続く3章1節ー10節には、 モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」 と記されています。 ここには、契約の神である「主」、ヤハウェがモーセにご自身を現してくださり、モーセをエジプトの王、ファラオのもとにお遣わしになって、イスラエルの民をその奴隷の状態から解放して、エジプトの地から導き出すという使命を与えられたことが記されています。その際に、「主」は、 わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。 と言って、ご自身のことを示しておられます。このことは、これから「主」がモーセをとおしてなされる出エジプトの贖いの御業が、「主」がイスラエルの民の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった契約に基づいて遂行される御業であることを示しています。 このことは、さらに、13節ー15節に、 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。」 と記されていることにも表されています。 13節ー14節で、神さまはエジプトにいるイスラエルの民を奴隷の状態から解放してくださるためにモーセをイスラエルの民のところに遣わしてくださるに当たって、モーセの求めに応じて、ご自身の御名が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名であるということを示してくださいました。そして、ここでは、この わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名が、 わたしはある。 に短縮されています。 さらに、このことを受けて、14節には、 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。」 と記されています。 ここでは、イスラエルの民の「父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の御名が「ヤハウェ」(新改訳「主」)として示されています。ヘブル語の順序としては、「ヤハウェ」(新改訳「主」)が先にあり、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 が同格(前の「ヤハウェ」を説明するもの)として続いています。 この「ヤハウェ」(新改訳「主」)という御名は、 わたしはある。 という御名を3人称化したものであると考えられます。 わたしはある。 という御名は、もともと、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という1人称の御名で、神さまがご自身を示してくださる時にお使いになる御名です。それで、ここでは、私たちにとっては、私でもあなたでもない、第三者である神さまの御名ということで、「ヤハウェ」というように、3人称化されていると考えられます。 この御名は、神さまの存在を強調するもので、神さまが何ものにも依存することなくご自身で存在しておられ、ご自身がお造りになったすべてのものを存在させ、その存在を支えておられる方であられることを表していると考えられます。 そして、これが、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 という御名と結びつけられて、説明されていることによって、「ヤハウェ」(「主」)が、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に対して真実であられ、その契約にあずかっているイスラエルの民とともにいてくださり、彼らのために出エジプトの贖いの御業を遂行してくださることによって、その契約の祝福を実現してくださる方であることを示しています。 この「ヤハウェ」(「主」)という御名は、さらに広く、「ヤハウェ」(「主」)が、ご自身のすべての契約に対して真実であられ、その契約の民とともにおられて、契約の祝福を実現してくださる方であられることを表しています。 いずれにしても、この時に、このようにして、神さまの御名が啓示されたことは、出エジプトの贖いの御業が、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づいていることを示しています。 「主」ヤハウェはモーセをエジプトの王ファラオのところにお遣わしになって、モーセをとおして遂行された十のさばきをもって、イスラエルの民を奴隷として重い労働を課していたエジプトをおさばきになりました。 その最後の十番目のさばきは、引用はしませんが、出エジプト記12章に記されています。それは、エジプトの地にある人や家畜などの「長子」を撃つというものでした。しかし、イスラエルの民は、「主」の戒めに従って、その最初の月の10日に家ごとに子羊を取り、14日の夕暮れに屠り、その血をそれぞれの家の「二本の門柱と鴨居」に塗りました。そして、その家でその肉を「火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて」食しました。その夜、「主」はエジプトの地を行き巡り、すべての「長子」を撃たれましたが、入口に子羊の血が塗られていた家をそのまま過ぎ越されました。その家においては、すでに、さばきが執行されていたと見なされたのです。いわば、過越の子羊がその家の「長子」の身代わりとなって、いのちの血を流したのです。 この過越の子羊は、十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださって、私たちを罪の結果である死と滅びの中から贖い出してくださった御子イエス・キリストを指し示している古い契約の下での「ひな型」でした。コリント人への手紙第一・5章7節に、 私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。 と記されているとおりです。 このようにして、エジプトの地に十番目のさばきが下されたことを受けて、ファラオは、ようやく、イスラエルの民をエジプトの地から去らせました。 これらのことから分かりますが、イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から贖い出されたのは、イスラエルの民が「主」ヤハウェにとって役に立つ何かをもっていたからではありませんし、「主」ヤハウェの御前に何らかの功績を積み上げることができたからではありません。ただ、「主」ヤハウェがイスラエルの民を一方的な愛によって愛してくださり、父祖たちに与えてくださった契約を守られたからです。 このようにして、「主」ヤハウェは、その一方的な愛と恵みによって、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民と、契約を結んでくださいました。そのことが出エジプト記24章1節ー8節に、 主はモーセに言われた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て、遠く離れて伏し拝め。モーセだけが主のもとに近づけ。ほかの者は近づいてはならない。民はモーセと一緒に上って来てはならない。」モーセは来て、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「主の言われたことはすべて行います。」モーセは主のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」 と記されています。 これは、一般に「シナイ契約」と呼ばれる契約で、「主」がイスラエルの民に与えてくださった律法にかかわる契約です。 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、イスラエルの民は契約の神である「主」の一方的な愛と恵みによって、また、「主」が父祖たちへの契約を守ってくださって、エジプトの奴隷の状態から贖い出されて「主」の契約の民としていただきました。このことが先にあります。そして、その神である「主」の一方的な愛と恵みによって「主」の契約の民としていただいているイスラエルの民に、「主」の律法が与えられているのです。ですから、律法はそれを守って「主」の契約の民としていただくためのものではありません。律法は、すでに「主」の契約の民としていただいている者の「主」との契約関係のあり方を示すものです。「主」の契約の民としていただいている者がどのように「主」を愛したらいいのかを示しています。 それで、その律法は、 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という大切な第一の戒めと、 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。 という、同じように大切な第二の戒めに集約されます。 すでにお話ししたように、これは神である「主」が、ご自身に対して罪を犯して罪の力に縛られ、罪の結果である死と滅びに捕らえられてしまっていた私たちを愛してくださって、御子イエス・キリストによって私たちの罪を贖ってくださって、ご自身の民、ご自身のしもべとしてくださったその愛を受け止めることから始まっています。ですから、「主」の民、「主」のしもべとは、「主」の愛に包まれて、「主」との愛の交わりに生きる者ですし、「主」の愛に包まれている者として、お互いを愛する者です。 コリント人への手紙第一・13章2節に記されているように、この愛がなければ、「預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても・・・無に等しいのです。」 |
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