黙示録講解

(第415回)


説教日:2020年2月23日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(168)


 本主日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という、約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 ヨハネの福音書5章19節ー29節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 先主日は、28節ー29節に記されている、

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

という教えについて理解するための序論的なことをお話ししました。
 これまでお話ししたことで、今日お話することとかかわっていることを振り返っておきますと、28節に記されている、

 墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。

という教えは、25節に記されている、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

という教えと深くかかわっています。この二つの教えにおいては、「時が来る」ということと「声を聞く」ということが、同じことばの同じ時制で表されていますし、その「」は同じ方の声です。
 けれども、そこには違いもあります。その違いの核心にあることは、25節に記されている、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

という教えには、

 今がその時です。

ということばがあるということです。これによって、ここで、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。

と言われているときの「時が来る」ことが現在時制で表されているのは、「死人が神の子の声を聞く」ようになることが、すでに始まっていることと、その完全な実現が将来のことであることが示されていると考えられます。
 これに対して、28節に記されている、

 墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。

という教えには、

 今がその時です。

ということばがありません。それで、この(28節に記されている)教えは、終わりの日に、栄光のキリストが再臨される時のことを示しています。そして、ここで、その「時が来る」ことが現在時制で表されているのは、その「時が来る」ことが確かなことであることを示していると考えられます。
 このことから分かりますが、25節の、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

という教えに出てくる「死人」[複数形(ホイ・ネクロイ)]は、肉体的には生きているけれども、霊的に、すなわち、造り主である神さまとの関係において死んでいる人々のことです。
 この、霊的に死んでいる状態、すなわち、神さまとの関係において死んでいる状態については、25節の、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

という教えについてお話ししたときにお話ししました。それはかつての私たちの状態で、具体的には、エペソ人への手紙2章1節ー3節に、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。1節では、

 あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり

と言われていますが、この「自分の背きと罪の中に死んでいた者」の「死んでいた者」(ネクロスの複数形)は、ヨハネの福音書5章25節の「死人」と同じことばです。私たちはかつて、肉体的には生きているけれども、神さまとの関係においては「自分の背きと罪の中に死んでいた者」でした。その意味で「死人」であった私たちが、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

と言われているとおり、御子イエス・キリストの御声を聞くようになり、神さまとの関係において生きるようになりました。そのことが、エペソ人への手紙2章では、先ほど引用した1節ー3節に続く4節ー9節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

と記されています。
 4節ー5節では、

あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と言われています。
 ここでは、まず、(独立文ではありませんが)神さまのことが「あわれみ(エレオス)において豊かであられる」(直訳)ことが示されています。そして、その、「あわれみ豊かな」神さまが「私たちを愛してくださった(アガパオーの不定過去時制)その大きな愛(アガペー)のゆえに」「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かして」くださったと言われています。それで、ここでは、

 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と言われています。私たちが救われたのは、この神さまの「大きな愛」に基づく「恵み」によっています。8節ー9節でも、

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

と言われています。
 すべては、「あわれみ豊かな」神さまの「大きな愛」から出ています。しかも、その神さまの愛は、「背きの中に死んでいた私たち」、すなわち、神さまに対して罪を犯して、神さまに背いて生きていた「私たちを愛してくださった」愛なのです。


 このことは、出エジプトの時代に、神である「」の一方的な愛と恵みによって、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民が、神である「」がご臨在されるシナイ山の麓で、金の子牛を造って、これを自分たちをエジプトから導き出してくれた神、「」であるとして礼拝した時のことを思い起こさせます。
 この出来事は、この時に先立って、シナイ山にご臨在された「」が、直接、イスラエルの民に語られた十戒の第二戒に背くことでした。十戒の第二戒は、出エジプト記20章4節ー6節に、

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、3代、4代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

と記されています。
 その時、「」は、金の子牛を造って、これを自分たちをエジプトから導き出してくれた神、「」であるとして礼拝したイスラエルの民を滅ぼし、モーセから新しい民を起こそうと言われました。しかし、モーセの二度にわたるとりなしを受け入れてくださり、滅ぼされるべき罪を犯したイスラエルの民を赦してくださっただけでなく、彼らとともにあって、彼らを約束の地にまで導き入れてくださるということを約束してくださいました。
 その折に、「」はモーセの願いにお答えになって、そのようにしてくださるご自身がどのような方であられるかをお示しになりました。そのことが、出エジプト記34章5節ー7節に、

は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、の名を宣言された。は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、3代、4代に報いる者である。」

と記されています。これは、「」のみことばに従って、モーセがシナイ山に登った時のことです。この時、「」がご自身の御名を宣言されたと言われていますが、「」の御名は、「」がどのような方であるかを啓示するものです。ここで「」が宣言された、

は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、3代、4代に報いる者である。

というみことばは、十戒の第二戒を守るべき理由を示している、

あなたの神、であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、3代、4代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

というみことばを踏まえつつ、それを越えた恵みを示しています。十戒の第二戒では、まず、

あなたの神、であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、3代、4代にまで及ぼす

ということが示されています。そして、その後に、

 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す

ということが示されています。確かに、ここには、「3代、4代」に及ぶ「」に対する報いと、「千代」にまで及ぶ恵みの対比があります。しかし、この恵みも、「」を愛し、その命令に従う者に対して施される恵みです。
 これに対して、34章5節ー7節に記されている「」の御名の宣言においては、まず、「」が「あわれみ深く、情け深い神」であられ、「怒るのに遅く、恵みとまことに富む」方であられることが示されています。さらに、そのような方であられるので、その「恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す」方であることが示されています。
 ここでは、「」が「恵みとまことに富む」方であられ。「恵みを千代まで保」ってくださる方であられるというように、「恵み」(ヘセド)が繰り返されて強調されています。十戒の第二戒では、「」を愛し、その命令に従う者に対して「恵み」が「千代」にまで施されるとされていますが、ここでは、そのような条件が付けられていないばかりか、「」がその恵みによって「咎と背きと罪を」赦してくださることが示されています。
 エペソ人への手紙2章4節ー5節に、

あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記されていることは、「」がこのような方であられることを、より鮮明に映し出しています。
 とはいえ、出エジプト記34章5節ー7節では、「」がこのような方であられることが示された後に、「それでもなお」という形で、

罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、3代、4代に報いる

ことがある、ということが示されています。
 これは、この前の部分で、「」が、

あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す

方であると言われていることと合わないのではないかと思われるかもしれません。
 しかし、これは荒野のイスラエルの第一世代の者たちに起こったことに典型的に見られることですので、そのことを見ると分かりやすいかと思います。
 彼らは、「」の一方的な愛と恵みによって、エジプトの奴隷の状態から解放していただき、「」が強大な帝国であるエジプトをおさばきになり、紅海の水を分けてイスラエルの民を通らせてくださる御業を、自分たちのこととして、目の当たりにしていました。そればかりか、「」の不思議な備えによって守られ、支えられてきました。たとえば、渇いた時には岩から出た水によって、飢えた時には、それ以後、毎日与えられた、天からのマナによって養われていました。さらに、繰り返しのことでしたが、「」に背いた時にも、たとえば、モーセが「青銅の蛇」を上げた時(民数記21章4節ー9節)のように、恵みによる赦しにあずかってきました。
 それなのに、最後まで、すなわち、「」がいよいよ約束の地に導き入れてくださろうとした時まで、「」を信じ、信頼することがなく、試練の度に、「」が悪意をもって、自分たちを荒野で死なせるために、エジプトから連れ出したと言い続けました。それで、「」は彼らが40年の間、荒野をさまようようにされて、約束の地には導き入れてくださいませんでした。
 このことは、旧約聖書だけに示されていることではありません。これは、ローマ人への手紙11章20節ー23節に記されている、

そのとおりです。彼ら[パウロの同胞であるユダヤ人]は不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。・・・(21節省略)・・・ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。

というみことばを思い起こさせます。
 23節では、不信仰の状態にあるユダヤ人について、

 あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。

と言われています。このことは、「神のいつくしみ」にとどまることは、信仰によっていることを示しています。そして、その信仰については、10章9節ー10節に、

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

と記されていますし、17節には、

 信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

と記されています。
 11章22節では、

 見なさい、神のいつくしみと厳しさを。

と言われています。ここでは「神のいつくしみ」と「神の厳しさ」が同じように取り上げられているように見えます。しかし、今お話ししたように、続く23節では、不信仰の状態にあるユダヤ人について、

 あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。

と言われていました。「神の厳しさ」は、父なる神さまが私たちを愛して遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じることによって取り除かれます。なぜなら、御子イエス・キリストが私たちを愛してくださって、十字架において、「神の厳しさ」、すなわち、私たちの背きの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださったからです。その場合には、ただ「神の厳しさ」が取り除かれるだけではありません。それによって、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に基づく、「神のいつくしみ」がその人を包んでくださいます。そして、この「神のいつくしみ」にあずかるようになることこそが、神さまのみこころなのです。

 繰り返しになりますが、エペソ人への手紙2章4節ー5節では、

あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と言われています。
 私たちの救いは、「あわれみ豊かな」神さまの「大きな愛」から出ています。そして、その神さまの愛は、「背きの中に死んでいた私たち」、すなわち、神さまに対して罪を犯して、神さまに背いて生きていた「私たちを愛してくださった」愛です。私たちはその神さまの「大きな愛」に基づく恵みによって「キリストとともに生かして」いただくことによって救われました。
 そうであれば、神さまの「大きな愛」に基づく恵みによって「キリストとともに生かして」いただくことによって救われた私たちは、当然、父なる神さまに対して罪を犯して、神さまに背いて生きていた「私たちを愛してくださった」「大きな愛」を汲み取るはずです。ローマ人への手紙5章8節には、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と記されています。その愛は、また、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されている愛です。
 これは、神さまが私たちそのものを、しかも、ご自身に背を向けていた私たち自身を愛してくださった愛です。真にこの愛を受け止めた者は、神さまがくださるものではなく、神さまご自身を愛するようになり、神さまとの愛の交わりを喜びとするようになります。
 このことを踏まえて、先主日にお話しした、マタイの福音書7章21節ー23節に記されている、

わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」

という、イエス・キリストの教えについて一つの補足をしておきたいと思います。
 すでにお話ししたことをまとめておきますと、ここに出てくる人々は、

私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。

と言っています。
 ここでは、「あなたの名によって」ということばが繰り返されていて、強調されています。この人々は、これらすべてのことをイエス・キリストの御名によってなしました。そして、すべてのことが実現しました。
 当然、それらのことを見聞きした周りの人々は、この人々こそ、「」のしもべであり、この人々を通して神さまの栄光が現されたと言っていたことでしょう。また、この人々自身も、そう思っていたからこそ、イエス・キリストに向かって、このように訴えているのです。
 しかし、イエス・キリストは、この人々について、

 わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」

と言っておられます。ここでイエス・キリストはこの人々のことをまったく知らないと言っておられるのではありません。この人々をご自身の「しもべ」として知ってはいないと言われるのです。
 ここで、2017年版が、

 わたしはおまえたちを全く知らない。

と訳していることばは、直訳調に訳すと、

 わたしはおまえたちを知ったことがない。

となります。これは、その人々がイエス・キリストと「」と「しもべ」の関係になったことはなかったということを示しています。
 ここで、イエス・キリストは、この人々のことを、

 不法を行う者たち

と呼んでおられます。この「行う者たち」は現在分詞(現在分詞に冠詞をつけて実体化する形)で表されています。それで、これは、かつて「不法を」行ったということだけでなく、今も、「不法を」行っているという意味合いを伝えています。
 この「不法」(アノミア)は、神さまの法(ノモス)に背くこと、神さまの法を拒絶することを意味しています。
 福音のみことばは、私たちが自分たちの力で神さまの律法を行って神である「」の民となることはできないことを示しています。ローマ人への手紙3章23節節ー24節には、

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる

と記されています。
 福音のみことばは、人は「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」と証ししています。そして、ここで「価なしに義と認められる」と言われているときの「」は、22節で「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義」と言われています。

 人は行いによってではなく、

 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる

ことによってだけ、「」のしもべとなることができます。しかし、

私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。

とイエス・キリストに訴えている人々は、自分たちの行ったことを根拠、拠り所にして、自分たちがイエス・キリストの民であると思ってきたし、この時も、そう思っています。しかし、それは、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリスト信じ、イエス・キリストをが成し遂げてくださった贖いの御業を根拠として、「」のしもべとなるようにという神さまのみこころに従わないことです。その意味で、広い意味での神の法(ノモス)に背いていること、すなわち、「不法」(アノミア)を行うことです。
 これがイエス・キリストが言われる「不法」を行うことの根本にあることですが、もともと「」のしもべになっていない者が、イエス・キリストのことを、「」と呼ぶことは「不法」を行うことですし、イエス・キリストの御名によって、何ごとかをなすことも「不法」を行うことです。
 ここに出てくる人々も、自分たちはイエス・キリストを信じていると思っています。けれども、突き詰めていくと、この人々が信じて、当てにしているのは、イエス・キリストの「力」です。神学的に、「奇跡信仰(奇跡を信じる信仰)」を「救いに至る信仰」と区別するのはこのことによっています。
 しかし、これまでお話ししてきたように、神のみことばが示している真の信仰は、御霊によって新しく生まれて、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に触れた者の信仰です。神さまに対して罪を犯していた私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださった御子イエス・キリストにおいて現された愛に触れて、自らの罪を悔い改めた者の信仰です。それで、それは、イエス・キリストご自身を「」として愛して、信頼する信仰です。それはまた、父なる神さまとイエス・キリストご自身を知ることを喜びとし、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きることに現れてくる信仰です。そして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きている神の子どもたちとして、お互いの愛の交わりに生きることに現れてくる信仰です。


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