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説教日:2020年2月23日 |
このことは、出エジプトの時代に、神である「主」の一方的な愛と恵みによって、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民が、神である「主」がご臨在されるシナイ山の麓で、金の子牛を造って、これを自分たちをエジプトから導き出してくれた神、「主」であるとして礼拝した時のことを思い起こさせます。 この出来事は、この時に先立って、シナイ山にご臨在された「主」が、直接、イスラエルの民に語られた十戒の第二戒に背くことでした。十戒の第二戒は、出エジプト記20章4節ー6節に、 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、3代、4代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 と記されています。 その時、「主」は、金の子牛を造って、これを自分たちをエジプトから導き出してくれた神、「主」であるとして礼拝したイスラエルの民を滅ぼし、モーセから新しい民を起こそうと言われました。しかし、モーセの二度にわたるとりなしを受け入れてくださり、滅ぼされるべき罪を犯したイスラエルの民を赦してくださっただけでなく、彼らとともにあって、彼らを約束の地にまで導き入れてくださるということを約束してくださいました。 その折に、「主」はモーセの願いにお答えになって、そのようにしてくださるご自身がどのような方であられるかをお示しになりました。そのことが、出エジプト記34章5節ー7節に、 主は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、3代、4代に報いる者である。」 と記されています。これは、「主」のみことばに従って、モーセがシナイ山に登った時のことです。この時、「主」がご自身の御名を宣言されたと言われていますが、「主」の御名は、「主」がどのような方であるかを啓示するものです。ここで「主」が宣言された、 主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、3代、4代に報いる者である。 というみことばは、十戒の第二戒を守るべき理由を示している、 あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、3代、4代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 というみことばを踏まえつつ、それを越えた恵みを示しています。十戒の第二戒では、まず、 あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、3代、4代にまで及ぼす ということが示されています。そして、その後に、 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す ということが示されています。確かに、ここには、「3代、4代」に及ぶ「咎」に対する報いと、「千代」にまで及ぶ恵みの対比があります。しかし、この恵みも、「主」を愛し、その命令に従う者に対して施される恵みです。 これに対して、34章5節ー7節に記されている「主」の御名の宣言においては、まず、「主」が「あわれみ深く、情け深い神」であられ、「怒るのに遅く、恵みとまことに富む」方であられることが示されています。さらに、そのような方であられるので、その「恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す」方であることが示されています。 ここでは、「主」が「恵みとまことに富む」方であられ。「恵みを千代まで保」ってくださる方であられるというように、「恵み」(ヘセド)が繰り返されて強調されています。十戒の第二戒では、「主」を愛し、その命令に従う者に対して「恵み」が「千代」にまで施されるとされていますが、ここでは、そのような条件が付けられていないばかりか、「主」がその恵みによって「咎と背きと罪を」赦してくださることが示されています。 エペソ人への手紙2章4節ー5節に、 あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 と記されていることは、「主」がこのような方であられることを、より鮮明に映し出しています。 とはいえ、出エジプト記34章5節ー7節では、「主」がこのような方であられることが示された後に、「それでもなお」という形で、 罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、3代、4代に報いる ことがある、ということが示されています。 これは、この前の部分で、「主」が、 あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す 方であると言われていることと合わないのではないかと思われるかもしれません。 しかし、これは荒野のイスラエルの第一世代の者たちに起こったことに典型的に見られることですので、そのことを見ると分かりやすいかと思います。 彼らは、「主」の一方的な愛と恵みによって、エジプトの奴隷の状態から解放していただき、「主」が強大な帝国であるエジプトをおさばきになり、紅海の水を分けてイスラエルの民を通らせてくださる御業を、自分たちのこととして、目の当たりにしていました。そればかりか、「主」の不思議な備えによって守られ、支えられてきました。たとえば、渇いた時には岩から出た水によって、飢えた時には、それ以後、毎日与えられた、天からのマナによって養われていました。さらに、繰り返しのことでしたが、「主」に背いた時にも、たとえば、モーセが「青銅の蛇」を上げた時(民数記21章4節ー9節)のように、恵みによる赦しにあずかってきました。 それなのに、最後まで、すなわち、「主」がいよいよ約束の地に導き入れてくださろうとした時まで、「主」を信じ、信頼することがなく、試練の度に、「主」が悪意をもって、自分たちを荒野で死なせるために、エジプトから連れ出したと言い続けました。それで、「主」は彼らが40年の間、荒野をさまようようにされて、約束の地には導き入れてくださいませんでした。 このことは、旧約聖書だけに示されていることではありません。これは、ローマ人への手紙11章20節ー23節に記されている、 そのとおりです。彼ら[パウロの同胞であるユダヤ人]は不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。・・・(21節省略)・・・ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。 というみことばを思い起こさせます。 23節では、不信仰の状態にあるユダヤ人について、 あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。 と言われています。このことは、「神のいつくしみ」にとどまることは、信仰によっていることを示しています。そして、その信仰については、10章9節ー10節に、 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 と記されていますし、17節には、 信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。 と記されています。 11章22節では、 見なさい、神のいつくしみと厳しさを。 と言われています。ここでは「神のいつくしみ」と「神の厳しさ」が同じように取り上げられているように見えます。しかし、今お話ししたように、続く23節では、不信仰の状態にあるユダヤ人について、 あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。 と言われていました。「神の厳しさ」は、父なる神さまが私たちを愛して遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じることによって取り除かれます。なぜなら、御子イエス・キリストが私たちを愛してくださって、十字架において、「神の厳しさ」、すなわち、私たちの背きの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださったからです。その場合には、ただ「神の厳しさ」が取り除かれるだけではありません。それによって、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に基づく、「神のいつくしみ」がその人を包んでくださいます。そして、この「神のいつくしみ」にあずかるようになることこそが、神さまのみこころなのです。 繰り返しになりますが、エペソ人への手紙2章4節ー5節では、 あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 と言われています。 私たちの救いは、「あわれみ豊かな」神さまの「大きな愛」から出ています。そして、その神さまの愛は、「背きの中に死んでいた私たち」、すなわち、神さまに対して罪を犯して、神さまに背いて生きていた「私たちを愛してくださった」愛です。私たちはその神さまの「大きな愛」に基づく恵みによって「キリストとともに生かして」いただくことによって救われました。 そうであれば、神さまの「大きな愛」に基づく恵みによって「キリストとともに生かして」いただくことによって救われた私たちは、当然、父なる神さまに対して罪を犯して、神さまに背いて生きていた「私たちを愛してくださった」「大きな愛」を汲み取るはずです。ローマ人への手紙5章8節には、 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。 と記されています。その愛は、また、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に、 神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。 それによって 神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 と記されている愛です。 これは、神さまが私たちそのものを、しかも、ご自身に背を向けていた私たち自身を愛してくださった愛です。真にこの愛を受け止めた者は、神さまがくださるものではなく、神さまご自身を愛するようになり、神さまとの愛の交わりを喜びとするようになります。 このことを踏まえて、先主日にお話しした、マタイの福音書7章21節ー23節に記されている、 わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」 という、イエス・キリストの教えについて一つの補足をしておきたいと思います。 すでにお話ししたことをまとめておきますと、ここに出てくる人々は、 私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。 と言っています。 ここでは、「あなたの名によって」ということばが繰り返されていて、強調されています。この人々は、これらすべてのことをイエス・キリストの御名によってなしました。そして、すべてのことが実現しました。 当然、それらのことを見聞きした周りの人々は、この人々こそ、「主」のしもべであり、この人々を通して神さまの栄光が現されたと言っていたことでしょう。また、この人々自身も、そう思っていたからこそ、イエス・キリストに向かって、このように訴えているのです。 しかし、イエス・キリストは、この人々について、 わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」 と言っておられます。ここでイエス・キリストはこの人々のことをまったく知らないと言っておられるのではありません。この人々をご自身の「しもべ」として知ってはいないと言われるのです。 ここで、2017年版が、 わたしはおまえたちを全く知らない。 と訳していることばは、直訳調に訳すと、 わたしはおまえたちを知ったことがない。 となります。これは、その人々がイエス・キリストと「主」と「しもべ」の関係になったことはなかったということを示しています。 ここで、イエス・キリストは、この人々のことを、 不法を行う者たち と呼んでおられます。この「行う者たち」は現在分詞(現在分詞に冠詞をつけて実体化する形)で表されています。それで、これは、かつて「不法を」行ったということだけでなく、今も、「不法を」行っているという意味合いを伝えています。 この「不法」(アノミア)は、神さまの法(ノモス)に背くこと、神さまの法を拒絶することを意味しています。 福音のみことばは、私たちが自分たちの力で神さまの律法を行って神である「主」の民となることはできないことを示しています。ローマ人への手紙3章23節節ー24節には、 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる と記されています。 福音のみことばは、人は「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」と証ししています。そして、ここで「価なしに義と認められる」と言われているときの「義」は、22節で「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義」と言われています。 人は行いによってではなく、 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる ことによってだけ、「主」のしもべとなることができます。しかし、 私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。 とイエス・キリストに訴えている人々は、自分たちの行ったことを根拠、拠り所にして、自分たちがイエス・キリストの民であると思ってきたし、この時も、そう思っています。しかし、それは、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリスト信じ、イエス・キリストをが成し遂げてくださった贖いの御業を根拠として、「主」のしもべとなるようにという神さまのみこころに従わないことです。その意味で、広い意味での神の法(ノモス)に背いていること、すなわち、「不法」(アノミア)を行うことです。 これがイエス・キリストが言われる「不法」を行うことの根本にあることですが、もともと「主」のしもべになっていない者が、イエス・キリストのことを、「主」と呼ぶことは「不法」を行うことですし、イエス・キリストの御名によって、何ごとかをなすことも「不法」を行うことです。 ここに出てくる人々も、自分たちはイエス・キリストを信じていると思っています。けれども、突き詰めていくと、この人々が信じて、当てにしているのは、イエス・キリストの「力」です。神学的に、「奇跡信仰(奇跡を信じる信仰)」を「救いに至る信仰」と区別するのはこのことによっています。 しかし、これまでお話ししてきたように、神のみことばが示している真の信仰は、御霊によって新しく生まれて、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に触れた者の信仰です。神さまに対して罪を犯していた私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださった御子イエス・キリストにおいて現された愛に触れて、自らの罪を悔い改めた者の信仰です。それで、それは、イエス・キリストご自身を「主」として愛して、信頼する信仰です。それはまた、父なる神さまとイエス・キリストご自身を知ることを喜びとし、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きることに現れてくる信仰です。そして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きている神の子どもたちとして、お互いの愛の交わりに生きることに現れてくる信仰です。 |
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