黙示録講解

(第414回)


説教日:2020年2月16日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(167)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という、約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 そのヨハネの福音書5章19節ー29節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 先主日は、25節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

という教えに続いて26節に記されている、

それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

という、25節に記されていることを説明する教えについてお話ししました。
 これに続いて、27節に記されている、

 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。

という教えについては、22節に記されている、

 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。

という教えとのかかわりで、すでにお話ししています。
 後ほど、日を改めてのことですが、この教えがここで繰り返されていることの意味についてに触れることにはなりますが、今日は、28節ー29節に記されている、

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

という教えについてお話ししたいと思います。
 ただ、今日は、これまでお話ししてきたことの流れの中で、ごく序論的なことをお話しすることしかできません。
 この教えは、

 このことに驚いてはなりません。

ということばから始まっています。これは、これより前に語られたことを受けています。25節に記されている、

 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

という教えが、

 まことに、まことに、あなたがたに言います。

という、イエス・キリストが大切なことを語られる時に用いられることばから始まっていて、25節ー29節に記されている教えを導入しているので、この28節冒頭の、

 このことに驚いてはなりません。

ということばは、直前の27節だけでなく、25節ー27節に記されている教えを受けていると考えられます。
 25節には、この、

 まことに、まことに、あなたがたに言います。

ということばに続いて、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

と言われていていました。
 この教えを取り上げた時にお話ししましたが、これは、「今がその時です。」ということばがなければ、これから取り上げようとしている28節で、

 墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。

と言われていることと、実質的に同じことを言っていることになります。というのは、この二つの教えにおいては、「時が来る」(現在時制)ということと「声を聞く」(未来時制)ということが、同じことばの同じ時制で表されていますし、その「」は同じ方の声であるからです。
 しかし、25節の「今がその時です」という教えによって、この二つの教えに微妙な違いがあることが示されています。
 先主日にお話しした文法的なことを再確認しておきますと、文法の上では、25節と28節の「時が来る」(現在時制)は、どちらも、未来にかかわる現在時制です。そして、25節で「今がその時です」と言われていることにより、25節の「時が来る」は、すでにそのことが始まっていることと、その完成が将来のことであることを表す現在時制であり、「今がその時です」と言われていていない28節の「時が来る」は、そのことがすぐにでも起こるとか、そのことが確かに起こるという意味合いを伝える現在時制であると考えられます。
 それで、25節に記されている、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

という教えに出てくる「死人」(ネクロスの複数形)は、この世で一般的に考えられている「死人」、すなわち、肉体的に死んでしまった人のことではありません。これは、造り主である神さまに対する罪によって、神さまとの関係を断ち切られてしまっている状態にある人のことです。その状態を「霊的に死んでいる状態」と言います。
 この「霊的」ということは、ただ単に、霊魂にかかわることではありません。「肉体と霊魂から成り立っている人」の造り主である神さまとの関係のあり方を意味しています。その、造り主である神さまとの関係のあり方をを「霊的」と言うのは、造り主である神さまと、人を含めて、神さまによって造られたものとの関係を支えてくださっている方が御霊であるからです。
 このことを理解することは25節で、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

と言われていることを理解することばかりでなく、、28節で、

 墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。

と言われていることを理解することにもかかわっているので、もう少し、このことについてお話しします。


 ヨハネの福音書15章1節ー8節に記されているイエス・キリストの教えは「ぶどうの木」と「」のたとえを用いています。
 5節ー6節には、

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

と記されています。この教えでは「ぶどうの木」はイエス・キリストを表しており、「」(複数)は弟子たちを表しています。これには旧約聖書の背景があります。旧約聖書においては、しばしば、「」の契約の民であるイスラエルの民が「ぶどうの木」にたとえられています[詩篇80篇8節ー16節、イザヤ書5章1節ー7節、27章2節ー6節、エレミヤ書2章21節、5章10節ー11節、12章7節ー13節(特に10節)、エゼキエル書15章2節ー8節、17章2節ー10節、19章10節ー14節、ホセア書9章10節、10章1節]。
 このイエス・キリストの教えについて、すべてのことお話しする余裕はありませんが、二つのことに触れておきます。
 第一に、ここでイエス・キリストが、

 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。

と言われるときの、

 わたしはぶどうの木です。

ということば(エゴー・エイミ・ヘー・アムペロス)は、強調形の「エゴー・エイミ・・・」という言い方で、イエス・キリストが契約の神である「」、ヤハウェであられることを意味しています。そして、ここでは、契約の神である「」、ヤハウェであられるイエス・キリストと私たち「」の契約の民との関係がどのようなものであるかが、「ぶどうの木」と「」のたとえをによって示されています。
 ここで、イエス・キリストが、

 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。

と言われたことによって、契約の神である「」、ヤハウェであられるイエス・キリストが、その主権的で一方的な愛と恵みによって、私たちご自身の民を、「」が「ぶどうの木」につながっているように、ご自身と一つに結び合わせてくださっていることが示されています。これは、後の啓示の光に照らして言うと、イエス・キリストが、御霊によって、私たちをご自身と一つに結び合わせてくださっているということを意味しています。
 この場合の御霊は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。また、これは、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、最初の聖霊降臨節(ペンテコステの日)に遣わしてくださった御霊のことです。

 第二のことですが、イエス・キリストが、

 人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら

と言われるときの、

 人がわたしにとどまり、

ということは、弟子たちに、「イエス・キリストにつながりなさい」と教えているのではありません。このことは、この前の4節で、イエス・キリストが、

 わたしにとどまりなさい。

と言われたことにも当てはまります。
 神である「」に対して罪を犯して堕落してしまっている人が、自分の力で、十字架にかかって死なれたイエス・キリストを信じることはできません。コリント人への手紙第一・1章18節ー21節に、

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。

と記されているとおりです。それで、人は自分の力でイエス・キリストとつながることも、イエス・キリストにとどまることもできません。
 ヨハネの福音書15章5節で、イエス・キリストが、

 人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら

と言われることは、その前で、

 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。

と言われたことを前提としています。
 繰り返しになりますが、これは、契約の神である「」、ヤハウェであられるイエス・キリストが、その主権的で一方的な愛と恵みによって、私たちご自身の民を、御霊によって、ご自身と一つに結び合わせてくださっているということを示しています。そのように、イエス・キリストが、御霊によって、私たちをご自身と一つに結び合わせてくださっているので、私たちは、やはり、御霊によって導かれ、支えられて、イエス・キリストにとどまることができるのです。
 それでは、イエス・キリストの弟子たちでイエス・キリストにとどまらない人々がいるかというと、真に、イエス・キリストの弟子となっている人は、イエス・キリストにとどまり続けます。というより、イエス・キリストがその人を、御霊によって、ご自身にとどまり続けるようにしてくださるのです。そのことは、6章44節に、

わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。

と記されており、37節ーに、

父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。

と記されているとおり、父なる神さまに引き寄せていただいて、イエス・キリストのもとに来た人を、イエス・キリストはご自身の民として保ち続けてくださいます。そして、必ず、終わりの日に、永遠のいのちに生きるものとしてよみがえらせてくださいます。
 この場合、一時的に、イエス・キリストの御許から離れてさまよう人々がいますが、それでも、最後には、イエス・キリストがその人をご自身の御許に立ち返らせてくださいます。そうすると、その人は、その罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じ、信頼して歩むようになります。ここで、「一時的に」と言いましたが、まれに、それが、何十年である場合もあります。私は主イエス・キリストの御許を離れてしまってから数十年後に、再び、主の御許に立ち返られて、その後、ずっと主とともに歩んでおられる方々を知っています。
 しかし、実際には、このような人々とは違って、形としてイエス・キリストの弟子になったつもりだけの人々もいます。
 教会に通っており、熱心に奉仕したりすることもあり、自分では、イエス・キリストを信じていると思っているのですが、初めから、イエス・キリストが、

 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。

と言われる人々ではなく、御霊によって、イエス・キリストと一つに結び合わせていただいていないので、イエス・キリストにとどまることはありません。
 それで、15章では、続く6節で、そのような人々のことが、

わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

と記されています。
 ここで、「火に投げ込む」と言われていることは、さばきを受けることを意味しています。それは、5章29節で、

 そのとき、・・・悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

と言われていることに相当します。

 そのような人々のことを示しているみことばを二つ見ておきましょう。
 一つは、ヨハネの手紙第一・2章18節ー19節で、そこには、

幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。

と記されています。
 この人々は、地上の生涯の歩みの中で、イエス・キリストの民ではなかったことが明らかになった人々です。
 しかし、主のみことばは、終わりの日になるまで、そのことが分からないでいる人々がいることを示しています。
 そのような人々のことが、マタイの福音書7章21節ー23節に、

わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」

と記されています。
 このイエス・キリストの教えについては、いろいろな機会にお話ししましたが、改めて、いくつかのことをお話しします。
 ここに出てくる人々は、例外的な人々であるというのではなく、イエス・キリストは、

 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。

と言われます。
 この人々は、イエス・キリストに向かって、

 主よ、主よ。

と呼びかけているけれども、口先だけの人で、行いが伴っていないという人ではありません。この人々自身が、

私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。

と言っています。
 これは終わりの日に再臨される栄光のキリスト、すなわち、すべての人のことを完全に知っておられる神である「」の御前におけることですので、偽りを言っているのではありません。
 また、その意味では、この人々が偽善者であるわけではありません。
 それに、この人々は、預言をしようとしたり、悪霊を負い出そうとしたり、奇跡を行おうとしたけれども、それが実現しなかったというのでもありません。それらはすべて、実現したのです。
 さらに、ここでは、

あなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行った

というように、いちいち「あなたの名によって」ということばが繰り返されていて、強調されています。この人々はこれらすべてのことをイエス・キリストの御名によってなしました。そして、すべてのことが「うまく」いきました。
 当然、それらのことを見聞きした周りの人々は、この人々こそ、「」のしもべであり、この人々を通して神さまの栄光が現されたと言っていたことでしょう。また、この人々自身も、そう思っていたからこそ、イエス・キリストに向かって、このように訴えているわけです。
 しかし、イエス・キリストは、この人々について、

 わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」

と言っておられます。
 ここで、イエス・キリストが、

 わたしはおまえたちを全く知らない。

と言われるのは、その人々のことを知らないという意味ではありません。まことの神であられる御子イエス・キリストは、その人々のことをすべて完全に知っておられます。
 その人々は、イエス・キリストのことを「」と呼んでいます。そうであれば、その人々はイエス・キリストの「しもべ」であるはずです。しかし、ここで、イエス・キリストはその人々をご自身の「しもべ」として知ってはいない、ご自身の民として知ってはいないと言われるのです。
 ここで、2017年版が、

 わたしはおまえたちを全く知らない。

と訳していることばは、直訳調に訳すと、

 わたしはおまえたちを知ったことがない(ウーデポテ・エグノーン・フマース)。

となります[ギリシア語本文の冒頭に出てくるウーデポテは、基本的には、時間的な意味合いをもっています]。これは、その人々がイエス・キリストと「」と「しもべ」の関係になったことはなかったということを示しています。
 ここで、イエス・キリストが、この人々に、

 わたしから離れて行け。

と言われたことは、詩篇6篇8節に記されている、

 不法を行う者たち みな私から離れて行け。
 主が私の泣く声を聞かれたからだ。

ということばを背景としていて、全面的な拒絶を表していると考えられています。その場合には、イエス・キリストは、この詩人が、

 主が私の泣く声を聞かれたからだ。

と述べている「」として、ご自身が最終的に、また、決定的に、

 わたしから離れて行け。

と言っておられることになります。
 いずれにしても、このことも、その人々がイエス・キリストと「」と「しもべ」の関係になったことは、一度もなかったということを示しています。
 そして、このイエス・キリストの教えは、イエス・キリストの御名によって預言をしたり、イエス・キリストの御名によって悪霊たちを追い出したり、イエス・キリストの御名によって多くの奇跡を行ったとしても、これらのことを行った人々が、必ずしも、イエス・キリストの民であるわけではないということを示しています。その人々はイエス・キリストを信じていたのですが、その信仰は、その人々を「救う信仰」、神学的に言うと、「救いに至る信仰」ではなかったのです。

 これらのことを確認した上でのことですが、この人々の問題を理解する鍵は、イエス・キリストが、この人々のことを、

 不法を行う者たち

と呼んでおられることにあります。この「行う者たち」(ホイ・エルガメノイ)は現在分詞[エルガメノイに冠詞ホイをつけて実体化しています]で表されています。それで、これは、かつて「不法を」行ったということだけでなく、今も、「不法を」行っているという意味合いを伝えています。
 この「不法」(アノア)は、神さまの法(モス)に背くこと、法を拒絶することを意味しています。ここでは、法的なことを強調し過ぎない方がよいという見方もありますが、法的なことが言われていると考えられます。
 福音のみことばは、私たちが自分たちの力で神さまの律法を行って神である「」の民となることはできないことを示しています。ローマ人への手紙3章20節に、

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

と記されているとおりです。
 ローマ人への手紙3章では、これに続く、21節ー24節に、

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

と記されています。
 神さまに対して罪を犯して堕落してしまっている「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない」のです。しかし、福音のみことばは、人は「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」と証ししています。そして、ここで「価なしに義と認められる」と言われているときの「」は「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義」であると証ししています。
 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、27節ー28節に、

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。

と記されていることです。ここには、「行いの律法」と対比される「信仰の律法」(モス・ステオース)が出てきます。人は行いによってではなく、「信仰によって義と認められる」ということが「信仰の律法」です。新改訳第3版までは、この「律法」と訳されたことば(ノモス)は広い意味での「原理」と訳されています。ここでは、この広い意味で用いられていると考えられます。
 これをどちらに訳すとしても、マタイの福音書7章22節に出てくる、

私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。

とイエス・キリストに訴えている人々は、自分たちの行ったことを根拠にして、自分たちがイエス・キリストの民であると思ってきたし、この時も、そう思っているので、このように訴えています。しかし、それは、「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」という、福音のみことばが証ししている「信仰の原理」(モス)に背いていること、すなわち、「不法」(アノア)を行ってきたことであり、この時も、行っていることです。


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