黙示録講解

(第413回)


説教日:2020年2月9日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(166)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られたみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 ヨハネの福音書5章19節ー29節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 先主日は、25節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

という教えについてお話ししました。
 今日はそれに続いて26節に記されている、

それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

という教えについてお話しします。
 この教えは、「それは」という理由を表す接続詞(ガル)によって、前の25節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

という教えを説明しています。具体的には、どうして「神の子の声を聞く」「死人が」生きるようになるのかということを説明しているのです。
 そして、どうして「神の子の声を聞く」「死人が」生きるようになるのかというと、

それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

と言われています。なんとなく、分かりにくいような気がしないでしょうか。
 この教えを理解するためには、二つのことを理解する必要があります。
 一つは、

 父がご自分のうちにいのちを持っておられる

と言われていることがどのようなことを意味しているのかということです。
 もう一つは、「」すなわち父なる神さまが「ご自分のうちにいのちを持っておられる」のと同じように、「」すなわち御子が「ご自分のうちにいのちを持つようにしてくださった」ということがどのようなことを意味しているのかということです。
 まず、「」すなわち父なる神さまが「ご自分のうちにいのちを持っておられる」ということがどのようなことを意味しているかということについてお話しします。
 ここで、

 父がご自分のうちにいのちを持っておられる

と言われていることは、24節で、人に当てはまることとして、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち

と言われていることとは少し意味合いが違っています。
 人はいのちをもっていますが、自分で自分のいのちを支えているのではありません。それ以前に、私たちが存在するようになったのも、私たち自身の力によってはいません。また、私たちは自分の力で自分の存在を支えているのでもありません。私たちはこの世界とその中のすべてのものをお造りになって、お造りになったすべてのものを、一つ一つ真実に支えてくださっている神さまによって造られたものであり、神さまによって支えられて存在しており、神さまによって支えられて生きています。
 しかし、

 ご自分のうちにいのちを持っておられる

と言われている神さまは、ご自身で存在しておられ、他の何ものかによって支えられて存在しておられるのではありません。しかも、神さまは、その存在においても、(ウェストミンスター小教理問答の問4に挙げられている神さまの属性である)知恵においても、力においても、聖さにおいても、義においても、善(あるいは、いつくしみ)においても、真実さにおいても、また、そのほかのすべての点において、無限、永遠、不変の方であられ、その存在と一つ一つの属性の栄光も無限です。このように、神さまは永遠に、無限の栄光に満ちておられる方として、また、あらゆる点において無限の豊かさに満ちた方として存在しておられます。このことを神学的には、神さまは独立自存であられ、自己充足であられると言います。それで、神さまこそが真の意味で、

 ご自分のうちにいのちを持っておられる

と言われるのです。
 これに対して、私たち人間も、御使いたちも、神である「」に対して罪を犯して堕落した御使いであるサタンと悪霊たちも、また、生き物たちも、植物も、その他の無機質のものも、存在していますが、自分の力で存在するようになったのではありません。この世界の中にあるいのちあるものたちは生きて働いていますが、自分の力でいのちを支えているのではありません。この世界とその中のすべてのものは、それらをお造りになった神さまによって存在するようになり、一つ一つを真実に支えてくださっている神さまに支えられて初めて、存在し、生きることができています。このような意味で、この世界の中にあって生きているものたちにはいのちがありますが、そのいのちは、与えられたいのちであり、支えられているいのちです。
 父なる神さまが「ご自分のうちにいのちを持っておられる」と言われることには、このような意味があります。
 ただし、今お話ししたこれらのことが、父なる神さまが「ご自分のうちにいのちを持っておられる」と言われることのすべてなのではありません。このことについては、後ほど、同じヨハネの福音書の1章1節ー4節に記されていることとのかかわりで、さらなる意味があるということを、お話しすることにします。
 今は、これらのことを踏まえて、黙示録4章に記されているみことばを見てみましょう。そこには、天にある御座に着いておられる方、すなわち、父なる神さまの御前で仕えている「二十四人の長老たち」と「四つの生き物」の礼拝が記されています。8節ー11節には、

 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、
 主なる神、全能者。
 昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」
また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。
 「主よ、私たちの神よ。
 あなたこそ
 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。
 あなたが万物を創造されました。
 みこころのゆえに、それらは存在し、
 また創造されたのです。」

と記されています。
 9節と10節では、父なる神さまのことが「御座に着いて世々限りなく生きておられる方」と言われています。また、11節には、「御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した」「二十四人の長老たち」が、

 あなたが万物を創造されました。
 みこころのゆえに、それらは存在し、
 また創造されたのです。

と告白して、神さまを讃えていることが記されています。


 次に、父なる神さまが「ご自分のうちにいのちを持っておられる」のと同じように、御子が「ご自分のうちにいのちを持つようにしてくださった」ということが、どのようなことを意味しているのかということお話しします。
 このことを理解する鍵は、御子は父なる神さまからお生まれになっているということにあります。
 私たちは、「御子は父なる神さまからお生まれに『なった』」というように、過去のことを表すことば遣いで表します。けれども、これは、私たち人間が神さまによって造られたもの、被造物であり、造られたもの(被造物)としての限界にあることによっています。私たちが見ているいのちあるものは、人にしても、生き物たちにしても、生まれた時があり、それ以前には存在していません。
 しかし、御子は、まことの神であられ、存在においても、その属性の一つ一つにおいても、無限であり、永遠であり、不変である方です。それで、御子は、過去のある時に、父なる神さまからお生まれに「なった」のではありません。
 このことを理解するために、「時間」がどのようなものであるかについてお話しします。
 創世記1章1節には、

 はじめに神が天と地を創造された。

と記されています。
 これは1章1節ー2章3節に記されている、天地創造の御業の記事全体の見出しに当たります。
 ここに出てくる「天と地」ということばは、対照的な二つのことばを連ねて「すべての・・・」を表す表現の仕方(メリスムス)です。この場合は、「」と「」という対照的な二つのことばを連ねて、存在する「すべてのもの」を表しています。しかも、これは秩序立てられている「すべてのもの」を表しています。「宇宙」を表わすことばとしては、ギリシア語には「コスモス」ということばがありますが、ヘブル語にはそのようなことばがありません。それで、ヘブル語では「天と地」という言い方をするわけです。ここでは、まったき調和と秩序のうちに存在しているこの世界のすべてのものは、神さまがお造りになったということを示しています。
 また、

 はじめに神が天と地を創造された。

ということばでは、日本語訳だけでなく、ヘブル語でも「はじめに」ということば(ベレーシート)が最初に出てきて強調されています。
 もともとヘブル語聖書は子音字だけで記されていましたが、読み方が分からなくなってしまうのを防ぐために、母音記号が作られて、それによって読み方が保存されるようになりました。その子音字だけに注目すると、この「はじめに」ということば(ベレーシート)の最初の三つの子音字(ベート、レーシュ、アーレフ)と、その次にくる「創造された」ということば(バーラー)の子音字(三つ)が同じです。このようにして、この「はじめに」ということばと「創造された」ということばがつなげられています。このようなつなぎ方は「頭韻法」と呼ばれます。これによって、この世界には「はじめ」があり、その「はじめ」は神さまの創造の御業によっているということを示しています。
 この「はじめ」は、神さまがお造りになったこの世界の「はじめ」であり、この世界が時間的、歴史的な世界として造られていることを示しています。
 また、この、

 はじめに神が天と地を創造された。

ということばの「天と地」は「すべてのもの」を表していました。ここでは、「天と地」ということばによって表わされているこの世界のすべてが、神さまの創造の御業によって始まっているということを示しています。その意味で、この「はじめに」の「はじめ」は、「絶対創造のはじめ」を指しており、この創造の御業が、いわゆる「無からの創造」であることを示しています。
 この世界は、時間的な流れをもって変化している世界です。時間はこの移り変わる世界の時間であり、この世界が造られなかったとしたら時間もありませんでした。
 私たちの感覚では、時間は永遠の前からあり、永遠に流れていくというように感じます。しかし、時間は、

 はじめに神が天と地を創造された。

ということばに示されているように、神さまの創造の御業とともに始まっています。そして、神さまはこの世界とその中のすべてのものを真実に保ち続けてくださることを、みことばにおいて示してくださっています。その意味で、約束してくださっています。それで、そのかぎりにおいて、この造られた世界は存続しますし、その時間も続きます。
 私たちはこの世界に属しているので、時間の流れの中にあって変化しています。また、私たちの回りにあって、私たちが見ているすべてのものが、時間の流れの中にあって経過していきますし、多くのものが変化しています。そして、その中にあって、私たち人間を初めとして、私たちが見ている、いのちあるものは、過去のある時に生まれたもので、生まれる前にはありませんでした。
 ちなみに、ここで、「私たちが見ている、いのちあるもの」と言うことには意味があります。というのは、私たちは御使いたちや、神である「」に罪を犯して堕落している御使いであるサタンと悪霊たちを見ることができないからです。また、彼らも、それとしてのいのちがあり、生きていますが、彼らは神さまの創造の御業によって造られた時から存在していて、生まれるということがないからです。
 このように、私たちが見ている、いのちあるものは、すべて、過去のある時に生まれたものです。それで、私たちは、「御子が父なる神さまからお生まれになった」と言うと、それは過去のことではないかと感じてしまいます。けれども、そのように、過去のある時に生まれたとか、先ほどの「絶対創造のはじめ」を含めて、過去のある時から存在するようになったと言うことができるのは、神さまがお造りになったこの世界と、御使いも含めて、その中にあるすべてのものについてだけです。
 先ほどお話ししたように、御子は、まことの神であられ、存在においても、その属性の一つ一つにおいても、無限であり、永遠であり、不変である方です。それで、御子は、過去のある時に、父なる神さまからお生まれに「なった」のではありません。御子は「永遠に」父なる神さまからお生まれになっている方として存在しておられます。
 このように言うときの「永遠」すなわち神さまに当てはまる「永遠」は、私たちが考えている永遠とは質的に違います。私たちが考えている永遠は、時間的に、ずっとさかのぼることができる過去から現在を経て未来へといつまでも続いている、いわば、量的な永遠です。しかし、それはあくまでも、神さまがお造りになったこの時間的な世界とその中にあるすべてのものについて言われることです。そして、私たちがそれを時間として受け止めることができるのは、神さまが私たち人を神のかたちとしてお造りになり、時間の観念を与えてくださったことによっています。ただし、「ずっとさかのぼることができる過去」というのは、私たちがそう感じるだけのことで、実際には、過去をずっと(量的な意味での永遠に)さかのぼることはできません。というのは、時間は神さまの創造の御業とともに始まっているからです。
 このように、私たちが考えることができる永遠は、いわば、「いつまでも続く」という意味の量的な永遠です。しかし、造り主である神さまに当てはまる「永遠」は、それとは質的に違った、いわば時間を超えた「永遠」です。私たちは神さまのような存在ではないので、その時間を超えた「永遠」がどのようなものかを知ることができませんし、想像することもできません。
 そのようなわけで、私たちはまことの神であられる御子は「永遠から」父なる神さまからお生まれになっている方であると言っていますが、この時間的に経過し、移り変わる世界において、過去のある時に生まれたものになぞらえて理解することしかできませんし、そのようにしか言い表すことができません。
 私たちをお造りになった神さまは、私たちがそのような限界の中にあることをご存知です。それで、私たちがご自身のことをこのような限界の中で理解することをご存知であられるだけでなく、そのように限界のある私たちに分かるように、ご自身を啓示してくださっています。そればかりでなく、私たちが、私たちなりにですが、ご自身を親しく知って、ご自身との愛の交わりに生きることを望んでおられますし、お喜びくださいます。ホセア書6章6節には、

 わたしが喜びとするのは真実の愛。
 いけにえではない。
 全焼のささげ物よりむしろ、
 神を知ることである。

と記されています。また、同じ章の3節には、

 私たちは知ろう。
 主を知ることを切に追い求めよう。
 主は暁のように確かに現れ、
 大雨のように私たちのところに来られる。
 地を潤す、後の雨のように。

とも記されています。

 このように、御子は永遠において父なる神さまからお生まれになっておられる方です。これと同じように、ヨハネの福音書5章26節で、

父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださった

と言われていることは、永遠においてのことであって、時間の流れの中の過去のことではありません。このことは、父なる神さまは永遠において、御子が「自分のうちにいのちを持つようにして」くださっているということを意味しています。その意味で、御子は父なる神さまと同じように、「ご自分のうちにいのちを持っておられ」ます。
 ここで、御子が「ご自分のうちにいのちを持っておられ」ると言われていることと深くかかわっているみことばがあります。それはヨハネの福音書1章4節に記されている、

 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

というみことばです。

 この方にはいのちがあった。

ということは、1節ー3節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されていることを受けています。
 ここに記されていることについては、いろいろな機会にお話ししていますので、今お話ししていることとかかわることの要点をまとめます。
 1節で、

 初めにことばがあった。

と言われているときの「初めに」は、先ほどお話しした、創世記1章1節に記されている、

 はじめに神が天と地を創造された。

というみことばに示されている「はじめに」に当たり、「絶対創造のはじめ」です。
 また、ヨハネの福音書1章1節で、

 初めにことばがあった。

と言われているときの「あった」ということば(エーン)は未完了時制で表されていて、過去のある時[この場合は、「絶対創造のはじめ」]に継続して「あった」という意味合いを伝えています。それで、ここでは、「ことば」すなわち御子は、神さまが天地創造の御業を遂行された時には、すでに、ずっと(継続して)存在しておられたということが示されています。つまり、御子はこの時間的な世界を超えた永遠の存在であられるということです。それで、1節の最後には、

 ことばは神であった。

と言われています。
 さらに、3節には、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されています。「この方」すなわち御子は、この世界とその中に存在する「すべてのもの」をお造りになりました。御子は創造の御業を遂行された方なのです。それで、御子は、ほかの何ものにも依存しないで、永遠にご自身で存在しておられます。その意味で、

 この方にはいのちがあった。

と言うことができます。5章26節のことばで言うと、御子は「ご自分のうちにいのちを持っておられる」ということです。
 そればかりではありません。お話の初めの方で、父なる神さまが「ご自分のうちにいのちを持っておられる」と言われること、そのことは御子にもそのまま当てはまりますが、そのことには、より深い意味があると考えられると言ったことに当たりますが、1節では、

 初めにことばがあった。

と言われていることと、

 ことばは神であった。

と言われていることに挟まれて、

 ことばは神とともにあった。

と言われています。ここで「神とともにあった」(エーン・プロス・トン・セオン)と言われていることは、「ことば」すなわち御子が父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることを伝えています。そして、2節に、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていることは、「この方」が永遠に父なる神さまとの無限の愛による交わりのうちにおられるということを伝えています。このことが、

 この方にはいのちがあった。

と言われていることに、さらに深い意味があることを示しています。「この方」すなわち御子が永遠に父なる神さまとの無限の愛による交わりのうちにおられるということこそが、

 この方にいのちがあった。

ということ(「ご自分のうちにいのちを持っておられる」ということ)の核心なのです。
 そして、「この方」が永遠に父なる神さまとの無限の愛による交わりのうちにおられるということが根底にあって、3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と言われています。
 「この方」すなわち御子が父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにある方として、創造の御業を遂行され、父なる神さまとご自身の愛を「この方によって造られた」「すべてのもの」に注がれました。それで、愛を本質的な特質とする神のかたちに造られている人は、「この方」にあって、神さまの愛に触れ、神さまとの愛の交わりに生きることができるようになりました。これによって、神のかたちとして造られている人にとって、

 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

と言われていることが現実となっているのです。
 この場合の「人の光」とは人のいのちの本質を明らかにし、悟らせてくださる「」です。また、それによって、人がそのいのちに歩むようにしてくださる「」です。愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人のいのちの本質が、御子イエス・キリストにある神さまとの愛の交わりに生きることにあるということを明らかにし、悟らせてくださるとともに、実際に、人がその愛の交わりのうちに生きるようにしてくださるのは「この方」です。それで、「この方」の教えを記している8章12節には、

 わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

と記されています。
 これらのことを背景として、5章26節に記されている、

それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

という御子イエス・キリストの教えを理解することができます。
 御子が語られる御声を聞く者が生きるようになるのは、「この方」が永遠にご自身で存在される方であり、すべてのものをお造りになった方であるからです。そればかりでなく、「この方」が父なる神さまとご自身の愛を「この方によって造られた」「すべてのもの」、特に、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人に注がれる方であり、実際に、私たちご自身の民を、その愛の交わりのうちに生きるようにしてくださる方であるからです。


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