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説教日:2020年2月2日 |
この28節ー29節に記されていることについては、改めて、この個所を取り上げる時に、お話ししたいと思います。差し当たっては、今お話ししていることとかかわることをお話しします。 話がややこしくなりましたので、改めて確認しておきますと、今お話ししていることは、24節に記されている、 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。 という教えと、続く25節に記されている、 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 という教えは、内容の上で、深くかかわっていながら、25節の冒頭にある、 まことに、まことに、あなたがたに言います。 ということばによって区切られているということについてです。そして、25節に記されていることは、その前の24節に記されていることの新しい面を説明しているということと、24節に記されていることと同じように大切なことであるということをお話ししました。その上で、25節に記されている、 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 という教えが説明している新しい面とはどのようなことかということをお話ししています。 これまでお話ししてきたことから分かりますが、25節に記されている、 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 という教えは、 今がその時です。 ということばに示されているように、今すでに私たち「主」の契約の民の間の現実になっていることを示しているけれども、その完全な実現は栄光のキリストが再臨される終わりの日にあるという意味合いを伝えています。そして、その完全な実現は栄光のキリストが再臨される終わりの日にあるということを受けて、この25節に続く26節ー29節に、 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。 という教えが示されているのです。 それで、25節冒頭に記されている、 まことに、まことに、あなたがたに言います。 ということばは、25節に記されている教えだけでなく、25節ー29節に記されている教え全体を導入することばであると考えられます。 これらのことを踏まえると、24節に記されている、 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。 という教えと、25節に記されている、 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 という教えは、お互いに補い合って、私たち「主」の契約の民にとって大切なことを教えていることが分かります。 まず、24節に記されている、 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。 という教えにおいて、 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがない と言われていることは、現在時制で表されていて、いつの時代のどの国、どの文化の中に生きている人にも、例外なく当てはまる確かなことを示しています。また、これに続いて、 死からいのちに移っています。 と言われていることは、完了時制で表されていて、すでに「死からいのちに移って」いて、その状態が今も続いているということを示しています。そして、これが、その前の、現在時制で表されている、 永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがない ということとつながっていることをから、ここでは、その状態が今も続いているということの方に強調点があると考えられます。 それで、24節では、 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。 と言われていることの全体が、いつの時代のどの国、どの文化の中に生きている人にも、例外なく当てはまる確かなことを示していると考えることができます。 このことを踏まえた上で、この24節に記されている教えは、いくつかの適用ができます。 まだイエス・キリストのみことばを聞いて、イエス・キリストを遣わされた父なる神さまを信じていない人には、イエス・キリストのみことばを聞いて、イエス・キリストを遣わされた父なる神さまを信じるように、そして、イエス・キリストにある父なる神さまの愛と恵みによって、「永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っている」状態にしていただくようにという勧めのことばとなります。 また、すでに、イエス・キリストのみことばを聞いて、イエス・キリストを遣わされた父なる神さまを信じている人には、ここに記されていることが、すでに現実になっていることを確信するとともに、さばきへの恐れからまったく解放されている神の子どもとしての自由にあって、常に、父なる神さまが遣わしてくださった、御子イエス・キリストのみことばに聞き従って、愛のうちを歩むようにという勧めのことばとなります。 次に、これに対して、これに続く25節に記されている、 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 という教えでは、先ほどお話ししたように、26節ー29節に記されている教えとつながって、今すでに私たち「主」の契約の民の間の現実になっていることを示しているけれども、その完全な実現は栄光のキリストが再臨される終わりの日にあるという意味合いを伝えています。 それで、この教えは、今すでに、イエス・キリストのみことばを聞いて、イエス・キリストを遣わされた父なる神さまを信じて、さばきへの恐れからまったく解放された神の子どもとしての自由にあって、愛のうちを歩んでいる私たち「主」の契約の民の目を、将来における救いの完成に向けさせてくれます。終わりの日に再臨される栄光のキリストが、私たち「主」の契約の民の救いを完全に実現してくださることを、父なる神さまのみことばの保証に基づいて信じて、そのことへの望みのうちを歩むように招いてくれるとともに、実際に、歩ませてくれるのです。 このようなことを踏まえて、さらに、 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 という教えを見てみましょう。 繰り返しになりますが、ここでは、 今がその時です。 と言われていることによって、今すでに、歴史の現実になっていることを示しています。それで、 死人が神の子の声を聞く時が来ます。 と言われているときの「死人」[複数形のホイ・ネクロイ。形容詞ネクロイ(死んでいる)が冠詞ホイによって実体化されて「死人」を表しています]は、肉体的に死んでいる人のことではなく、造り主である神さまとの関係において考えられる「死人」のことです。 このこととの関連でエペソ人への手紙2章1節ー3節に記されていることを見てみましょう。そこには、 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と記されています。 1節ー2節では、「あなたがたは」と言われているように異邦人クリスチャンのことが取り上げられています。これは、3節で「私たち」と言われているユダヤ人クリスチャンのあり方と区別されているように見えますが、3節では、ユダヤ人クリスチャンのことが「私たちも(カイ)みな」と言われており、「不従順の子らの中にあって」[(エン・ホイス)「不従順の子ら」は、関係代名詞で表されています]のことであることが示されていますし、「ほかの人たちと同じように」とも言われています。また、これに続く4節以下においては、この区別を越えて、両者を指して「私たち」と言われています。特に、5節では「背きの中に死んでいた私たち」と、まとめています。それで、かつてのあり方の上で、異邦人クリスチャンのあり方とユダヤ人クリスチャンのあり方が区別されてはいないと考えられます。 1節では、 あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者である と言われています。ここで「死んでいた者」と訳されていることば[複数形のネクロイ(ここでは対格ネクルース)。冠詞がないので、死んでいる状態を表しています]は、ヨハネの福音書5章25節で、 死人が神の子の声を聞く時が来ます。 と言われているときの「死人」に相当することばです。ここでは、かつての私たちのことが「自分の背きと罪の中に死んでいた」と言われています。これは、神のかたちとして造られている人の本来のいのちが、造り主である神さまとの愛の交わりのうちにあるという、神さまのみことばの教えを踏まえて初めて理解できることです。かつての私たちは「自分の背きと罪の中に」あって、あるいは、また、(もう一つの可能性ですが)「自分の背きと罪」によって、「死んでいた」と言われています。この「自分の背きと罪」はどちらも複数形で、「繰り返しの背き」、「あらゆる種類の罪」を表していると考えられます。かつての私たちは造り主である神さまに、常に、背を向け、さまざまな罪を犯して歩む状態にありました。ここでは、そのような状態にあることを、死んでいると言っています。 2節では、そのような状態にあった私たちが、 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 と言われています。 ここでは、かつての私たちは二つのものに従って歩んでいたと言われています。 一つは、最初に出てくる「この世の流れ」です。「この世の流れ」と訳されていることば(ホ・アイオーン・トゥー・コスムー・トゥートゥー)は、文字通りには「この世の時代」です。この「時代」(新改訳では「流れ」)と訳されることば「アイオーン」は、基本的には時間的に「時代」を表しますが、空間的に「世」をも表します。ここでは「この世」(ホ・コスモス・フートス)が続いて出てくるので、時間的に「時代」を表していると考えられます。 このアイオーンは、1章21節で「今の世だけでなく、次に来る世においても」と言われているときの「世」と訳されていることばです。「今の世」(ホ・アイオーン・フートス)は、文字通りには「この時代」で、続く「次に来る世」、文字通りには「来ようとしている時代」[「時代」は省略されています]と対比されています。また、このアイオーンは、2章7節で「あとに来る世々において」、文字通りには「来たるべき諸時代において」として出てきます。このようなことから、このアイオーンは、新約聖書の終末論、この場合は、パウロの終末論に見られる、「この世」、「この時代」と、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の対比というヘブル的な発想を反映していると考えられます。 新約聖書においては、「この世」、「この時代」を動かし、特徴づけているのは「肉」であり、「来たるべき世」、「来たるべき時代」を動かし、特徴づけているのは、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)に遣わしてくださった「御霊」であると言われています。この「肉」と「御霊」について、ローマ人への手紙8章5節ー7節前半には、 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。 と記されています。神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、「肉」に縛られており、「肉」に従って歩みます。この「御霊」と対立する「肉」は「肉体」のことではなく、先ほどお話ししたように、「この世」、「この時代」を動かし、特徴づけているものです。そして、「肉」に縛られて、「肉」に従って歩む状態にある人が造り出す歴史と文化が「この世」、「この時代」を形造っているのです。 それが、かつての私たちの状態でした。エペソ人への手紙2章では、この状態にあることが3節で、 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と言われています。 もう一つ、かつての私たちを動かしていたのは、2節で、 空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊 と言われています。これは単数形で表されていて、サタンを指しています。 コロサイ人への手紙1章13節に、 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 と記されているように、父なる神さまは、私たち「主」の契約の民をサタンの力から解放して、「愛する御子のご支配の中に移してくださいました」。御子イエス・キリストは、私たちご自身の民を「御霊」によって導いてくださっています。そして、「御霊」によって歩んでいる人々が造り出す歴史と文化が「来たるべき世」、「来たるべき時代」を形造っています。 ヨハネの福音書5章25節で、 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 と言われているときの「死人」は、エペソ人への手紙2章1節ー3節に、 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と記されている、かつての私たちと同じ状態にある人々です。しかし、ヨハネの福音書5章25節に記されている、 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 という教えでは、その「死人」も、父なる神さまが遣わしてくださった「神の子の声を聞く」ことによって「生きます」と言われています。 これは、「神の子の声」が、「御霊」によって、その「死人」を生かす力があることを意味しています。 そして、 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 という教えは、ここに示されていることが、私たち「「主」の契約の民の現実となっていることを示しつつ、私たちの思いを将来の救いの完成へと向けるものでした。 それは、私たち「主」の契約の民が、「来たるべき世」、「来たるべき時代」を動かし、特徴づけている御霊に導かれて、神である「主」を礼拝することを中心として、「主」とお互いとの愛の交わりに生きることによって、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造ることにおいて、私たちの間の現実となっています。 |
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