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説教日:2020年1月26日 |
このことと関連して、一つのことをお話ししたいと思います。 先ほど、この世の人々が希望的観測をもって死後の救いを語っているということに触れました。それは、ほかならぬ、私たち自身が、かつては、そのような者であったということでもあります。 そのことを踏まえた上でお話しするのですが、一般に、人はよほどの極悪人でない限りは、死んだら天国に行くものだと思っていますし、そのように、言います。けれども、日常の生活の中で、思い掛けない不幸に見舞われると、何かさばきを受けているのではないかと感じて不安になったりします。 それは、おそらく、自分がやがて死ぬということはどこか遠い話で、現実感がなく、日常的な、病気や事故のほうが現実感があることによっているのではないかと思われます。そのようなことが根底に潜んでいるので、何かの節目には、自分に合った宗教施設にお参りに行きます。その場合、死んだら天国に行けますようにと願うためであることはほとんどなく、日常の生活を、無病息災に過ごせますようにと願ってのことです。 おそらく、私たち「主」の民もこのような文化の発想に染まって生きてきたために、終わりの日に再臨される栄光のキリストが執行される最終的なさばきにおいて、罪の刑罰を受けることはないということは、疑うことなく信じることができるのに、思い掛けない不幸に見舞われると、何かさばきを受けているのではないかと感じて不安になったりすることがあるのではないかと思います。 このようなことを考える度に思い起こすことがあります。 もう半世紀以上前のことですが、神学校(JCC)の授業の合間に「チャペル」の時間があり、全学年の生徒と教師、職員が出席して、礼拝の時をもっていました。ある日の礼拝において、説教者の先生が「つまずく」ということについてお話をされました。信仰の上での「つまずき」は比喩的な意味で用いられています。 お話ししようとしていることから、少し話がそれてしまいますが、「つまずき」について、聖書がどのように教えているかをお話ししておきます。 新約聖書のギリシア語では、「つまずき」はスカンダロン(動詞はスカンダリゾー)とプロスコムマ(動詞はプロスコプトー)で表されています。どちらにおいても、基本的な意味は同じで、誤った教えや行い、他の人を顧みない教えや行いによって、人が「主」を信じることを妨げたり、罪を犯させたり、信じている人を惑わして、「主」への信仰を捨てさせたりするもの(あるいは、すること)を表しています。 誤った教えでつまずかせる例としては、黙示録2章14節に、 バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずき(スカンダロン)を置かせた。 と記されています。バラムは民数記22章ー24章に出てくる、メソポタミア北部の町ペトル出身の占い師で、エジプトを出てきたイスラエルの民を惑わして、偶像礼拝へと誘った人物です。黙示録では、栄光のキリストがペルガモンにある教会に、その「バラムの教え」と本質的に同じ教えを「頑なに守る者たち」がいるということを指摘しておられます。 他の人を顧みない教えや行いによってつまずかせることの事例としては、「偶像に献げられた肉」を食べることに関してパウロが記しているコリント人への手紙第一・8章9節に記されている、 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずき(プロスコムマ)とならないように気をつけなさい。 という教えに見られます。 これは、その当時、「偶像に献げられた肉」が市場で流通していることを受けて、そのような肉を食べてはいけないと考えている人々がいることを踏まえています。そのようなことを踏まえて、10章25節には、 市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。 と教えられています。 このように教える前に、パウロは、これにかかわる大切な問題を取り上げています。それが、先ほど引用した8章9節に、 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。 と記されていることです。ここで、このように戒められている人々は、4節に、 さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。 と記されている知識をもっている人々です。この人々は、「偶像に献げられた肉」は、言わば、材木や石の前に置かれた肉と同じで、それによって、その肉が汚れるわけではないことも、その肉を食べることによって自分たちが汚されるわけではないことを知っています。しかし、実際には、9節で「弱い人たち」と言われている、そのような知識をもっていない兄弟姉妹がいます。それで、8章10節ー12節には、 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。 と記されています。そして、このように教えたパウロは、続く13節において、 ですから、食物が私の兄弟をつまずかせる(スカンダリゾー)のなら、兄弟をつまずかせない(メー・スカンダリゾー)ために、私は今後、決して肉を食べません。 と記しています。 新約聖書には、「つまずき」のもう一つの意味が出てきます。その事例は、ローマ人への手紙9章31節ー33節に、 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。 と記されています。ごく簡略に言いますと、イスラエルの民は信仰による義を追い求めたのではなく、律法の行いによって義に至るかのように義を追い求めたために、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じることができなかったということです。父なる神さまから遣わされた御子は、まことの人としての性質を取って来てくださり、十字架につけられて、神さまにのろわれたものとなられました。それは、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるためのことでしたが、自分たちの律法の行いによって神さまの御前に義と認められると考え、義と認められようとしていたイスラエルの民には、そのこと(十字架につけられて、神さまにのろわれたものとなられた方は、神さまがお遣わしになった贖い主であるということ)は、彼らの思いをはるかに超えたことで、理解しがたいことでした。そのために、十字架につけられた御子イエス・キリストは、彼らにとって「つまずきの石」となったのです。しかし、それは、まさに、「主」が預言者イザヤによって預言しておられたことでした。33節に、 見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない と記されているのは、基本的に、イザヤ書28章16節に、 見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。 と記されているみことばの引用で、これに8章14節に出てくる「妨げの石、つまずきの岩」が結び合わされています。 このように、聖書に出てくる「つまずき」は、極めて深刻な問題を表しています。 そのことを確認した上で、お話しするのですが、半世紀以上前に、神学校の「チャペル」の時間で取り上げられた「つまずき」は、少し意味合いが違っていました。たとえば、ある先輩の方が、ご自身のかつての姿として語ってくださったことですが、その方は、かつて、クリスチャンは讃美歌しか歌ってはいけないと思っていたために、他の学生が掃除をしながらその当時、流行っていた歌を口ずさんでいるのを見て「つまずいた」と感じたというのです。この場合には、先輩の方がその流行っていた歌を口ずさんでいた人に惑わされたというのではなく、その人をとんでもないことをしている人として、心の中で非難していた(さばいていた)わけです。その先輩は、後に、そのことに気がついておられたので、それをご自身の問題として、後輩の私にお話ししてくださったのです。 事柄は違っても、そのように他の人が、自分が思っているクリスチャンとしてのあり方(スタイル)から外れていると、「つまずいた」と言って、それとなく非難することがありました。それは、今日でも、見られることかもしれません。 その時の「チャペル」の説教者の先生は、そのようなことを憂いておられたのでしょう。私たちがつまずくのは小さな石ころであって、山につまずくということはないと仰いました。 私はその時は「なるほど」と思って感心したのですが、その先生の意図しておられることをちゃんと汲み取っていたのか自信がありません。その先生は、信仰の本質ではない、いわば目先のことに捕らわれて、それが重大問題であるかのように思って、お互いにさばきあう現実があるけれども、もっと本質的で重大な、山のような問題に気がつかないままに、平然とその山道を歩いていくという現実があることを指摘しておられたのではないかと思います。 目前の危険や困難に巻き込まれたことは、罰が当たったのかもしれないというように、深刻なことに感じられるのに、はるかに深刻な永遠の死と滅びをもたらす罪のことはまったく視野に入ってこなくて、死んだら天国に行くことになると楽観的に感じて、生きているということは、かつての私たちの姿でしたし、この世の現実です。 しかし、私たちは、神さまの一方的な愛と恵みによって、聖書に記されている福音のみことばに証しされている、十字架につけられて、神さまにのろわれた者として死なれたイエス・キリストは、無限、永遠、不変の栄光の主であられるということを信じる者としていただきました。それによって、私の罪の一つが贖われるためにでも、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストの死の苦しみが必要であったという、衝撃的なことを悟らせていただきました。また、それによって、私たちは、自分の罪の底知れない深さと計り知れない重さを理解できるようになりました。 とはいえ、私たち自身のうちになおも罪による本性の腐敗が巣くっており、私たちの心にはなおも罪の暗闇があって、私たちの信仰の眼を曇らせています。そのために、私たちは、父なる神さまが私たちの罪を完全に贖ってくださるためにご自身の御子を遣わしてくださるほどに私たちを愛してくださったということを信じていても、その愛を受け止めきれてはいないという悲しい現実があります。そして、そのために、自分の罪の底知れない深さと計り知れない重さをも、受け止めきれてはいません。 私たちは、これが自分の現実であることを痛感せざるをえない状態にあります。それで、私たちはうめかざるを得ません。それは、やがて来たるべき終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づく救いを完全に私たちの間で実現してくださる時には、ヨハネの手紙第一・3章2節に、 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。 と記されていること、また、コリント人への手紙第一・13章12節に 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 と記されていることが私たちの現実になることを、主のみことばの約束として信じて、待ち望んでいます。その時には、私たちは、父なる神さまが私たちの罪を完全に贖ってくださるためにご自身の御子を遣わしてくださるほどに私たちを愛してくださったという愛を何の曇りに妨げられることなく受け止めることができるようになります。 私たちは、今、終わりの日を見据えて、このような望みに生きています。それで、私たちは私たちの罪を贖ってくださるためにご自身の御子をも遣わしてくださった父なる神さまの愛を信じることにおいて、また、十字架におかかりになって私たちの罪を贖ってくださった御子イエス・キリストの贖いの確かさを信じることにおいて、大胆でなければなりません。 私たちは、私たちの罪が贖われるためには、無限、永遠、不変の栄光の主であられる方の死の苦しみが必要であったことを悟らせていただいています。それで、私たちは自分の罪が、今は十分には受け止めきれていないほど深刻なものであることを悟らせていただいています。それとともに、というか、それ以上に、無限、永遠、不変の栄光の主であられる方が十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて受けてくださったことによる罪の贖いは、完全なものであることを信じる者としていただいています。そればかりではありません。しばしば引用しているローマ人への手紙5章8節に、 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます(現在時制)。 と記されているように、父なる神さまが私たちの罪を贖ってくださるためにご自身の御子を遣わしてくださったことは、ひとえに、父なる神さまの私たちへの愛から出ているということを、大胆にも、信じる者としていただいているのです。 それで、私たちは、はるかに望み見ている終わりの日に栄光のキリストが再臨されるとき、私たちはそのお方、栄光のキリストによって罪を完全に贖っていただいている者として、決して、罪に対する刑罰としてのさばきを受けることはないと確信することができるのです。その、私たちの永遠のあり方にかかわることについて、確かな望みをもっているのであれば、今、私たちが地上の歩みにおいて経験していることにおいても、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いが私たちのすべてを覆っていてくださり、ご自身の御子をも与えてくださった父なる神さまの、私たちの思いをはるかに超えた愛が私たちのすべてを包んでいてくださることを信じることができます。 このことを逆の方向から見ると、私たちが地上の歩みにおいて経験しているさまざまな苦しみや困難を、神さまのさばきであると感じるとしたら、それは、御子イエス・キリストが十字架におかかりになって成し遂げてくださった罪の贖いは不完全なものであったとすることになってしまいます。ご自身の御子をも与えてくださるほどに私たちを愛してくださったという父なる神さまの愛も、完全な贖いをもたらすほどのものではなかったということにしてしまうことになります。 このことは、私たちが陥りがちな、自分の罪があまりにも深いので、神さまの御怒りが自分に向けられていると感じてしまうことにも当てはまります。 確かに、私たちは罪を犯してしまった時には、自らを省みて、その深刻さをしっかりと受け止め、その罪を悔い改めて、主に告白するように招かれています。それは、さばきを恐れることとは、まったく違います。それと同時に、信仰の大胆さをもって、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いは、この深刻な罪をも完全に贖ってあまりあるということを信じるように招かれています。それによって、私たちは、そのためにご自身の御子をも与えてくださった父なる神さまの愛は瞬時も揺らぐことがないことを信じて、その愛を受け止めるようになります。私たちはその愛に導かれて、自らの罪を悔い改めるように導かれ、御子イエス・キリストを信頼するように導かれるのです。 それが、先ほど引用したローマ人への手紙5章8節に記されている、 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。 ということが、私たちの現実であることを証しすることの出発点にあります。そして、その父なる神さまの愛に包まれていて初めて、これに続いて、9節ー11節に、 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。 と記されていることが私たちの現実になります。それで、今。私たちは、 私たちの主イエス・キリストによって・・・神を喜んでいます。 父なる神さまが私たちの罪のために御子イエス・キリストを遣わしてくださったことが、父なる神さまの一方的な愛から出ていることを心から信じているなら、その父なる神さまの愛には何の損得勘定はなく、ただ私たちそれぞれを愛してくださっていること、それゆえに、父なる神さまは私たち自身を喜び迎えてくださっていることを信じるようになります。そして、そのように父なる神さまの愛を信じている私たちも、父なる神さまご自身を喜びとするようになります。 それで、私たちは何らかのさばきに対する恐れに脅迫されることなく、すべてのことをイエス・キリストにある、父なる神さまの一方的な愛に包まれ、励まされ、その恵みに力づけられてなしていきます。 これは、ヨハネの福音書5章24節において、現在時制で、 さばきにあうことがない と言われていることを越えて、続いて(すでに起こったことの結果が今も続いていることを表す完了時制で)、 死からいのちに移っています。 と言われていることの実質が私たちの現実になっていること意味しています。 |
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