黙示録講解

(第410回)


説教日:2020年1月19日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(163)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 ヨハネの福音書5章19節ー29節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 これまで24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがない

という教えについてお話ししてきました。
 今日も、この教えで、

 さばきにあうことがない

と記されていることに関連することをお話しします。
 24節において、

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがない

と記されていることは、「わたしを遣わされた方」の「遣わされた」が不定過去時制である以外は、現在時制で表されていて、現在の事実を示しています。御子イエス・キリストのみことばを聞いて、御子イエス・キリストを遣わされた父なる神さまを信じている者は、今すでに、永遠のいのちを持っているし、もはやいかなる意味においても、さばきにあうことはないということです。
 もちろん、このように言っても、これは単なる事実を述べているのではなく、御子イエス・キリストのみことばを聞いて、御子イエス・キリストを遣わされた父なる神さまを信じるようにという招きのことばであり、それによって、

 永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがない

状態に入るようにという招きのことばでもあります。
 ここで現在時制で表されている、

 さばきにあうことがない

ということは、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって執行される最終的なさばきを含めて、いかなる意味においても、さばきにあうことはないということを示しています。
 このことは、すでに取り上げましたが、同じヨハネの福音書では、3章16節ー18節前半において、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。

と記されていることとつながっています。
 それとともに、5章24節で、現在時制で表されている、

 さばきにあうことがない

ということは、3章では、16節ー18節前半に続く18節後半において、

 信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

と言われていることと対比されます。
 ここ18節後半では、父なる神さまがその愛によってお遣わしになった「ひとり子」を「信じない者」は「すでに」(エーデー)「さばかれている」(完了時制)と言われています。そして、その理由が、これに続いて、その人が、

 神のひとり子の名を信じなかった(完了時制)からである。

と記されています。
 ここでは、その人が「神のひとり子の名」を信じなかったと言われています。聖書においては、「」はその「」のついているもの本質的な特質を表すものです。それで、この「神のひとり子の名」は、「神のひとり子」がどのような方であるかを私たちに示しています。ここに記されていることの文脈においては、この方は父なる神さまの「ひとり子」であられ、父なる神さまが、この方を信じる者たちを滅びから救い出し、永遠のいのちをもつようにしてくださるために、その一方的な愛によって、お遣わしになった方である、ということを私たちに示しています。
 ここでは、

 神のひとり子の名を信じなかった

と言われていますが、本来のあり方である、「神のひとり子の名」の「名を(エイス・トン・オノマ)」信じるという言い方[注] は、ただ、「神のひとり子」であられる方がどのような方であるかを知的に知って、認めるということで終ることではありません。さらに、この「神のひとり子」であられる方を信頼して、この方に、自分のすべてを委ねることを意味しています。「神のひとり子の名を信じなかった」人は、この方がどのような方であるかを悟ることもなかったし、この方を信頼して、自分のすべてをお委ねすることもなかったのです。この点は、16節に、

 それは御子を(エイス・アウトン「彼を」)信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と記されており、18節に、

 御子を(エイス・アウトン「彼を」)信じる者はさばかれない。

と記されているときの「御子を信じる者」にも、そのまま当てはまります。

[注]この場合は、「信じる」の後に前置詞「エイス」が続いている形ですが、「信じる」の後に前置詞「エン」が続く場合も同じです。また、「信じる」の後に「信じる」対象となる方を表す名詞の与格が続いている場合も同じです。

 18節後半においては、

 信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

と記されていますが、この「信じない者」は、前半で、

 御子を(エイス・アウトン)信じる者はさばかれない。

と言われているときの「御子を信じる者」と対比されているので、「御子を信じない者」のことです。ここで言われているさばきは、

 すでにさばかれている

と言われているように、現在すでに現実となっているさばきです。それは、その人が「神のひとり子」がどのような方であるかを信じることもなく、信頼することもなかったこと、そして、今も、その方を信じることも、信頼して自分をお委ねすることもない状態にあること、それ自体が、さばきであることを意味しています。


 そのことは、これに続く19節ー21節に、

そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

と記されていることからも分かります。
 ここでは、まず、

そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

と言われていていて、

 光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したこと

そのこと自体が、さばきであるということが示されています。
 ここで、

 光が世に来ている

と言われていることは、1章1節で、

 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と言われている永遠の「ことば」のことが、4節で、

 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

と言われており、9節で、

 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

と言われていることを受けています。そして、「すべての人を照らすそのまことの光」が世に来られたことが、14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。まことの人としての性質を取って来てくださった永遠の「ことば」、すなわち、父なる神さまがその一方的な愛によって遣わしてくださった御子イエス・キリストこそが「すべての人を照らすそのまことの光」です。
 3章19節では、「すべての人を照らすそのまことの

 光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したこと

それ自体が、さばきであるということが示されています。
 3章19節ー21節では、この19節に記されていることと対比されることが21節に、

 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

と記されています。ここで「真理を行う者」と言われているときの「真理」は、19節で、

 光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛した

と言われていることとの対比で考えられます。それで、この「真理」は、世に来ようとしていた「すべての人を照らすそのまことの光」とかかわっています。実際、聖書では、「」と「真理」は密接につながっています。その「すべての人を照らすそのまことの光」が来られたことを記している14節には、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。ここで、「すべての人を照らすそのまことの光」である永遠の「ことば」(の栄光)は「恵みとまことに満ちて」いたと言われています。この「恵みとまこと」の「まこと」(アレーセイア)は「真理」です。「真理」は御子イエス・キリストのうちに満ちています。また、14章6節には、

 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

というイエス・キリストの教えが記されています。イエス・キリストご自身が「真理」そのものであられ、父なる神さまをこの上なく豊かに表しておられます。同じ章の9節で、イエス・キリストは、

 わたしを見た人は、父を見たのです。

と述べておられます。その意味で、「真理」は父なる神さまがどのような方であるかを表すこととかかわっています。
 さらに、少し違った面からは、8章31節ー32節に、

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

というイエス・キリストの教えが記されています。また、「わたしのことばにとどまるなら」と言われていることとのかかわりでは、15章9節ー10節には、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。

と記されています。そして、16章13節には、

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 これらのことから「真理を行う者」とは「真理」そのものであられるイエス・キリストとの一体にあって、御霊に導かれてイエス・キリストの「ことば」に従って、父なる神さまとの愛の交わりのうちを歩む人のことです。そのように、「真理を行う者」について、3章21節には、

 その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

と記されています。その人が「光の方に来る」のは、

 その行いが神にあってなされたことが明らかになる

ためだというのです。14章6節のことばで言うと、「その行い(複数形)が「真理」そのものであられる御子イエス・キリストを通して、父なる神さまにあってなされたことが明らかになるためです。これは、「その行い」がその人自身の力によってなされたのではなく、御子イエス・キリストを通して与えられる神さまの御力によって、言い換えると、御霊によってなされたことが明らかになるということです。「真理を行う者」は最後には、すべての栄誉、栄光を神さまに帰するようになります。

 5章24節において、現在時制で、

 さばきにあうことがない

と言われていることとのかかわりで、もう一つのことを見てみましょう。3章の最後である36節には、

御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

と記されています。
 ここで、

 御子を信じる者は永遠のいのちを持っている

と言われているときの「御子を(エイス・トン・ヒュイオン)信じる者」は、先ほどお話ししたように、「御子」がどのような方であるかを知っているばかりでなく、その「御子」を信頼して、自分をお委ねしている人のことです。この場合は、「信じる者」も「(永遠のいのちを)持っている」も現在時制で表されていて、現在の事実を示しています。
 これに対して、

 御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

と言われているときの、「(御子に)聞き従わない者」は現在時制で表されていて、今、「(御子に)聞き従わない者」を表していますが、「(いのちを)見ることがない」は未来時制で表されていて、将来にわたって「(いのちを)見ることがない」ということを表しています。そして、

 神の怒りがその上にとどまる。

と言われているときの「とどまる」ということは現在時制で表されていて、今すでに「神の怒り」がその人の上にとどまっているし、将来にわたってもそうであることを示しています。このことも、この人が「御子に聞き従わない」状態にあること、それ自体がさばきであることを意味しています。
 これらのことを踏まえて、改めて、5章24節に、

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがない

と記されている中で、

 さばきにあうことがない

と言われていることを見てみたいと思います。
 改めて確認しておきますと、ここで、

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがない

と言われていることは、現在の事実を表しています。それで、

 さばきにあうことがない

ということも、御子イエス・キリストのみことばの教えを聞いて、御子イエス・キリストをお遣わしになった父なる神さまを信じている人が、今すでに、また将来にわたってさばきを受けることがないということを示しています。
 このことは、先ほどお話しした、3章18節後半に、

 (御子を)信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

と記されており、3章36節に、

 御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

と記されていることと対比されます。
 3章18節後半に記されていることも、36節に記されていることも、父なる神さまがその一方的な愛によって遣わしてくださった御子を信じない状態にあること、それ自体がさばきであるということを示していました。
 このことを踏まえると、5章24節において、現在時制で、

 さばきにあうことがない

と言われていることは、そのこと自体がさばきであると言われている。父なる神さまがその一方的な愛によって遣わしてくださった御子を信じない状態にあることからも、救い出されているということを意味していることが分かります。
 そして、今は、父なる神さまがその一方的な愛によって遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じ、信頼して、自分を御子イエス・キリストにお委ねして歩むようにしていただいています。それは、3章21節に、

 真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

と記されている「真理を行う者」としての歩みをする者としていただいていることを意味しています。そして、これらすべてのことが、父なる神さまの一方的な愛から出ており、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことに基づいてお働きになる御霊の導きによっています。それで、最後には、すべての栄誉、栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することに至ります。

 このように、「真理を行う者」においては、先ほど引用した、8章31節ー32節に、

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

というイエス・キリストの教えに示されていることが実現しています。私たちは真理そのものであられるイエス・キリストを信じ、イエス・キリストを信頼して、イエス・キリストにすべてをお委ねして歩む者としていただいています。それで、私たちはイエス・キリストにあって、自由を与えられた者として歩んでいます。
 ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節には、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されています。
 ここで、

 その自由を肉の働く機会としないで、

と言われているのは、ガラテヤの教会に、続く15節に、

 気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。

と記されているような現実があったからです。ここで、

 互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしている

と言われていることは、「肉の働き」によって信徒たちの間に生み出されている現実を野生の獣が闘っている様子になぞらえて示しています。このように、警告した上で、続く16節では、

 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません

と教えています。
 ここでは「」と「御霊」が対比されています。この場合の「御霊」はイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる「御霊」です。また、この「御霊」は「来たるべき世」「来たるべき時代」あるいは「新しい世」「新しい時代」を動かし、特徴づけている動因のことで、この「御霊」と対比されている「」は「この世」「この時代」を動かし、特徴づけている動因のことです。
 そして、御霊に導かれて「愛をもって互いに仕え合い」つつ歩む者においては、22節ー23節に、

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

と記されている「御霊の実」が結ばれることが示されています。
 この「御霊の実」(単数形)は一つで、これに、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という、九つの人格的な特質が備わっていると考えられます。それで、「御霊の実」は主イエス・キリストに似た人格であると考えられます。
 コリント人への手紙第二・3章18節には、

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されています。
 このように、御霊に導かれて愛のうちを歩むことについて、ヨハネは、その第一の手紙4章18節ー19節において、

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

と記しています。
 18節で、

 全き愛は恐れを締め出します。

と言われているときの「全き愛」は、19節で、

 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

と言われていることとのつながりで理解すべきものです。それは、9節ー10節において、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と言われているように、父なる神さまが私たちを愛してくださり、「私たちの罪のために」「宥めのささげ物としての御子を遣わされ」たことに現されている愛こそが「全き愛」であり、「恐れを締め出します」。
 ヨハネの福音書5章24節に記されているイエス・キリストの教えおいて、現在時制で、

 さばきにあうことがない

と記されていることは、ヨハネの手紙第一・4章18節において、

 恐れには罰が伴い

と記されている刑罰への恐れが、「宥めのささげ物としての御子」によって、私たちから完全に取り除かれていることを意味しています。
 私たちは今すでに、「私たちの罪のための」「宥めのささげ物としての御子を遣わされ」たことに現されている父なる神さまの「全き愛」に包まれています。そして、私たちは今すでに、刑罰への恐れから解放されて、自由を与えられています。それで、私たちは神さまのさばきを恐れて、誰かを愛するのではありません。そのような愛、すなわち、さばきを恐れて愛することは、その人自身を愛することが目的ではなく、自分を守るためのものです。
 もちろん、私たちのうちにはなおも罪の本性が残っており、実際に、罪を犯します。ヨハネの手紙第一・1章8節ー10節に、

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

と記されているとおりです。しかし、父なる神さまが私たちを愛して、「私たちの罪のための」「宥めのささげ物として」遣わしてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いは、その私たちの罪のすべてを完全に贖ってあまりあるものです。それで、9節では、

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

と言われています。このような神さまの恵みの備えがあるので、私たちの間では、19節で、

 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

と記されていることが実現しているのです。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第409回)へ戻る

「黙示録講解」
(第411回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church