黙示録講解

(第409回)


説教日:2020年1月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(162)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてお話しします。
 そこには、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 これまで7回にわたって、24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えについてお話ししてきました。
 今日も、先主日に続いて、イエス・キリストのみことばの教えを聞いて、イエス・キリストをお遣わしになった父なる神さまを信じる者が、

 さばきにあうことがない。

ということに関連することをお話しします。
 すでにお話ししたように、ここで、

 さばきにあうことがない

と言われていることは現在時制で表されています。それで、これは、今すでに、イエス・キリストのみことばの教えを聞いて、イエス・キリストをお遣わしになった父なる神さまを信じている者が、いかなる意味においても、さばかれることはないということを示しています。
 もちろん、これには、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって執行される最終的なさばきによってさばかれることはないということも含まれています。
 19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えにおいては、確かに、ご自身が終わりの日に再臨されて、最終的なさばきを執行されることが視野に入っています。そのことは、この教えの最後の部分である27節ー29節に、

また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

と記されていることから分かります。そして、繰り返しになりますが、イエス・キリストのみことばの教えを聞き、イエス・キリストを遣わされた父なる神さまを信じている人は、その終わりの日における最終的なさばきを受けて滅びることはありません。というのは、イエス・キリストを遣わされた父なる神さまのみこころは、父なる神さまがお遣わしになった御子イエス・キリストを信じる者が「永遠のいのち」をもつようになることにあるからです。このヨハネの福音書では、3章16節ー18節前半に、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。

と記されており、6章38節ー20節に、

わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。

と記されているとおりです。
 しかし、この24節においては、イエス・キリストのみことばの教えを聞き、イエス・キリストを遣わされた父なる神さまを信じている人が、今すでに、

 永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがない

という、現在の事実を示しています。


 このように、終わりの日における最終的なさばきにあうことがないばかりか、今すでに、いかなる意味においてもさばきにあうことがないと言うことができることの根拠はいろいろなことから説明することができます。その一つは、同じヨハネが、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節において、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記していることにあります。
 ここでは、父なる神さまが御子イエス・キリストを「私たちの罪のための宥めのささげ物として」(直訳)遣わしてくださったと言われています。
 ここに出てくる「宥めのささげ物」(ヒラスス)は、人の罪に対する神さまの聖なる御怒りを宥めるささげものを表しています。[注] 今日は、この点について、お話ししたいと思います。

[注]このことばは、動詞のヒラスコマイの関連語の一つですが、この語群の意味については、論争がなされてきました。これについては、すでに古典的になっている、Leon Morris, Apostolic Preaching of the Cross (1955, 3rd ed.1984).において、新改訳が示している「宥めのささげ物」という意味の正当性が論証されています。
 ここに出てくる「宥めのささげ物」と訳されていることば(ヒラスス)は、新約聖書の中ではヨハネの手紙第一に2回出てくるだけです。ここの他、2章2節に出てきますが、どちらにおいても、「私たちの罪のための」「宥めのささげ物」と言われています。ただし、2章2節においては「いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための」ということばが付け加えられています。

 神さまの怒りは、神さまがどのようなお方であるかということ、特に、神さまの聖さと義にかかわっています。神さまはご自身がお造りになったすべてのものを真実に支えてくださっておられる方であり、いかなるものの助けも必要としてはいません。それで、罪によって堕落してしまった人が考える神々、もの言わぬ偶像、自ら動くこともできない偶像のように、人の助けを必要としていて、人が供え物を怠ると怒りを発して、人に災いを下すというようなことは決してありません。
 詩篇50篇7節ー13節には、神である「」のみことばが、

 聞け わが民よ。わたしは語ろう。
 イスラエルよ わたしはあなたを戒めよう。
 わたしは神 あなたの神である。
 あなたのいけにえのことで
 あなたを責めるのではない。
 あなたの全焼のささげ物は
 いつもわたしの前にある。
 わたしはあなたの家から雄牛を
 囲いから雄やぎを 取ろうとしているのではない。
 森のすべての獣はわたしのもの。
 千の丘の家畜らも。
 わたしは 山の鳥も残らず知っている。
 野に群がるものたちも わたしのもとにいる。
 たとえ飢えても わたしはあなたに言わない。
 世界とそれに満ちるものはわたしのものだ。
 わたしが雄牛の肉を食べ
 雄やぎの血を飲むだろうか。

と記されています。
 7節ー8節で、

 聞け わが民よ。わたしは語ろう。
 イスラエルよ わたしはあなたを戒めよう。
 わたしは神 あなたの神である。
 あなたのいけにえのことで
 あなたを責めるのではない。
 あなたの全焼のささげ物は
 いつもわたしの前にある。

と言われています。これは、イスラエルの民が、

 わたしは神 あなたの神である。

と言われる「」ご自身を真の意味で知らないために、「」への礼拝を正しく理解していないということを、「」が指摘しておられるものです。
 8節では、イスラエルの民が「」へのささげ物を「いつも」献げていると言われています。ここには「いけにえ」と「全焼のささげ物」(ここでは、ともに複数形)が出てきます。
 「いけにえ」(ゼバハ)は、いけにえ全般を指すことばですが、しばしば、「交わりのいけにえ」(シェレム[聖書では、一箇所を除いて、すべて複数形のシェラーミームで用いられています])と結びつけられています(レビ記3章1節、17章5節[注 これらでは、「交わりのいけにえ」のことがゼバハ・シェラミームというように、「いけにえ」を表すゼバハと「交わりのいけにえ」を表すシェラーミームの組み合せで表されています。]TWOT, #525a)。
 もう一つの、「全焼のささげ物」(オーラー)は、最も基本的ないけにえで、聖書においては、創世記8章20節に、大洪水によるさばきの後に、箱舟から出てきたノアが献げたいけにえとして出てきます。これによって、「全焼のささげ物」の起源が、洪水前の父祖たちの時代にまでさかのぼることを汲み取ることができます。また、「」へのささげ物に関する規定を記しているレビ記において、最初に取り上げられているのも「全焼のささげ物」です。レビ記1章4節には、「全焼のささげ物」を献げる人が、

 その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。

と記されています。
 注目すべきことは、この「全焼のささげ物」も、しばしば重要な場面で「交わりのいけにえ」とともにささげられていたということです(出エジプト記20章24節、24章5節、レビ記6章12節、ヨシュア記8章31節、士師記20章26節、サムエル記第一・10章8節、13章9節、サムエル記第二・6章17節、18節、24章25節、列王記第一・3章15節、9章25節、歴代誌第一・16章1節、21章26節、歴代誌第二・31章2節、エゼキエル書43章12節、45章15節)。このことは、先ほど引用した、レビ記1章4節で、「全焼のささげ物」をする人が「全焼のささげ物の頭に手を置く」ことによって、「それがその人のための宥めとなり」、「彼は受け入れられる」と言われていることとのつながりを示唆しています。
 このように、ここ詩篇50篇8節では、いけにえ全般を表す「いけにえ」と、最も基本的ないけにえである「全焼のささげ物」が出てきます。それで、この二つの組み合せによって、すべてのささげ物を代表的に表わしていると考えられます。それで、ここでは、イスラエルの民が「」によって示されているすべてのささげものを滞りなく献げていたことが表されています。
 しかし、問題は、それを献げているイスラエルの民にあったのです。その問題は9節ー13節に記されている、

 わたしはあなたの家から雄牛を
 囲いから雄やぎを 取ろうとしているのではない。
 森のすべての獣はわたしのもの。
 千の丘の家畜らも。
 わたしは 山の鳥も残らず知っている。
 野に群がるものたちも わたしのもとにいる。
 たとえ飢えても わたしはあなたに言わない。
 世界とそれに満ちるものはわたしのものだ。
 わたしが雄牛の肉を食べ
 雄やぎの血を飲むだろうか。

という「」のみことばに示されています。
 イスラエルの民は、神である「」が食べ物を必要としているので、自分たちがその必要を満たしていると考えていました。これは、「」を、堕落後の人が考えている神々、もの言わぬ偶像、自ら動くこともできない偶像と同じだと考えることです。
 「」は、

 森のすべての獣はわたしのもの。
 千の丘の家畜らも。
 わたしは 山の鳥も残らず知っている。
 野に群がるものたちも わたしのもとにいる。

と言われます。しかし、それらによってご自分の必要を満たしておられるのではありません。むしろ、それらのものを、ご自身のいつくしみで満たし、一つ一つを真実に支えておられます。
 この詩篇では、続く14節ー15節に、

 感謝のいけにえを神に献げよ。
 あなたの誓いをいと高き神に果たせ。
 苦難の日に
 わたしを呼び求めよ。
 わたしはあなたを助け出し
 あなたはわたしをあがめる。

と記されています。
 「」がイスラエルの民にささげ物を献げるように求めておられるのは「」の必要を満たすためではなく、「」がイスラエルの民の必要を満たしてくださるためのことです。「」へのささげ物は、「」がイスラエルの民に示してくださっている豊かな愛と恵みといつくしみと、その現れとして与えてくださっている、さまざまな賜物に対する感謝を表すためのものです。ここで、

 あなたの誓いをいと高き神に果たせ。

と言われているときの「誓い」は、ここでは、その前の、

 感謝のいけにえを神に献げよ。

と言われているみことばと関連していて、神である「」が示してくださった、豊かな愛と恵みに対する感謝を表す自発的な献げ物を指していると考えられています。
 そのような感謝は、特に、試練や困難な状況において「」が愛と恵みとあわれみをお示しになり、真実な御手をもって支えてくださり、導いてくださることに対して表されます。それで、これは15節に、

 苦難の日に
 わたしを呼び求めよ。
 わたしはあなたを助け出し
 あなたはわたしをあがめる。

と記されていることにつながっています。
 いずれにしても、「」がご自身の民に求めておられるささげ物は、「」の愛と恵みといつくしみを受け止めたことによって自発的に生まれてくる、「」への感謝と讃美を具体的に表すものです。「」は、ご自身の民をお喜びくださり、ご自身の民との交わりを喜びとしてくださいます。それで、ご自身の民とともに住まわれ、ともに歩んでくださり、豊かな愛と恵みを注いでくださることを喜びとしてくださいます。このことをわきまえ、心に刻むこと、そして、「」への愛をもって御許に近づくことが、いつの時代においても、「」の民の礼拝の中心にあります。

 このようなことを踏まえて、もう一つ、続く、詩篇51篇に記されていることを見てみましょう。
 16節ー17節には、

 まことに私が供えても
 あなたはいけにえを喜ばれず
 全焼のささげ物を望まれません。
 神へのいけにえは砕かれた霊。
 打たれ砕かれた心。
 神よあなたはそれを蔑まれません。

と記されています。
 16節では、

 まことに私が供えても
 あなたはいけにえを喜ばれず
 全焼のささげ物を望まれません。

と言われています。ここにも、先ほどの、いけにえ全般を表す「いけにえ」と、最も基本的ないけにえである「全焼のささげ物」の組み合せがあります(ここでは、ともに単数形)。それで、ここでも、「」へのすべてのささげ物のことに触れていると考えられます。
 ここで、

 まことに私が供えても
 あなたはいけにえを喜ばれず
 全焼のささげ物を望まれません。

と言われていることは、「」へのいけにえそのものを否定しているわけではありません。これは、これに続いて17節で、

 神へのいけにえは砕かれた霊。
 打たれ砕かれた心。
 神よあなたはそれを蔑まれません。

と言われていることとのつながりから理解すべきことです。
 ここで「砕かれた霊」、「打たれ砕かれた心」と言われているのは、単なるへりくだり、謙遜のことではありません。3節ー4節前半には、

 まことに 私は自分の背きを知っています。
 私の罪は いつも私の目の前にあります。
 私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。
 私はあなたの目に 悪であることを行いました。

と記されており、5節には、

 ご覧ください。私は咎ある者として生まれ
 罪ある者として母は私を身ごもりました。

と記されています。これらのことに表されているように、「砕かれた霊」、「打たれ砕かれた心」は、5節に記されているように、自分自身のうちに生来の罪の本性があるために、神さまに背く罪を犯してしまう者であるということ、そして、3節ー4節前半に記されているように、実際に罪を犯してしまっていることを深い悲しみとともに認めることから生まれてくるものです。
 しかし、それは嘆きで終るものではありません。
 すでに、50篇においてお話ししたように、「」へのささげ物は、「」がご自身の民に示してくださっている真実な愛と恵みとあわれみに対する感謝を表すためのものです。そして、その「」の愛と恵みとあわれみは、特に、「」の民の試練や苦難において示されます。それも、それによって、「」がご自身の民を、「」との愛の交わりに生きるようにしてくださることを目的としています。
 この51篇では、外からやって来る試練や苦難ではなく、自らの罪がもたらす苦しみと悲しみが取り上げられています。そのような状態にある人が献げる「」へのいけにえは、自分自身のうちに生来の罪の本性があるために、神さまに背く罪を犯してしまうし、実際に、罪を犯してしまっている者であるということを深い悲しみとともに認めることから生まれてくる「砕かれた霊」、「打たれ砕かれた心」です。そして、「」は、そのような「砕かれた霊」、「打たれ砕かれた心」をもって献げられるいけにえが、ご自身の民の罪を贖うものであることを示してくださっています。
 先ほど引用したレビ記1章4節に、「全焼のささげ物」を献げる人が、

 その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。

と記されていました。ここで

 その全焼のささげ物の頭に手を置く。

と言われていることは、それによって、その人が「その全焼のささげ物」と一体となることを表しています。そして、続く5節に記されているのですが、「その全焼のささげ物」が、その人の身代わりになって屠られて、血を流すことによって、

 それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。

と言われています。
 ここで、

 それがその人のための宥めとなり、

と言われているときの「宥めとなり」(レカペール[レは前置詞、カペールはキッペールの不定詞・構成形)という訳が示しているように、これはその人が犯した罪に対する「」の聖なる御怒りを踏まえています。人が犯す罪はすべて神さまの聖なる御怒りに値するのです。そして、

 彼は受け入れられる。

と言われているように、「その全焼のささげ物」が、その人の身代わりになって屠られて、血を流すことによって「宥めとなり」、その「全焼のささげ物」を献げた人は「」との交わりを回復されるのです。
 このことは、また、ここで、代表的に取り上げられている「いけにえ」(ゼバハ)と「全焼のささげ物」(オーラー)が、それぞれ、「交わりのいけにえ」(シェラミーム)と、しばしば結びつけられていることによっても示唆されています。
 詩篇51篇では、7節に、

 ヒソプで私の罪を除いてください。
 そうすれば私はきよくなります。
 私を洗ってください。
 そうすれば 私は雪よりも白くなります。

と記されています。
 ここには「ヒソプ」が出てきます。「」はイスラエルの民を奴隷として苦しめていたエジプトに対するさばきを執行され、エジプトに住むすべての初子を撃たれた時に、イスラエルの民のためには「過越の子羊」を備えてくださいました。そして、出エジプト記12章21節ー22節に記されているように、その日の夕暮れにその子羊を屠り、

ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。

と命じられました。その夜、「」がエジプトの地に住む初子を撃たれた時、子羊の血が塗られている家では、すでに、さばきが執行されているとみなされて、その家を過ぎ越されました。
 「ヒソプ」は、また、水に浸して、その水を汚れたものに振りかけてきよめる時に用いられました(民数記19章18節、参照・レビ記14章4節、49節[ツァラアトからのきよめ])。
 これらのきよめは、ただきよめられて終るものではなく、それによって、きよめられた人が「」との交わりに生きるように回復されることを目的としています。
 ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節において、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されているときの「宥めのささげ物」は、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りを宥めるためのささげ物です。これまでお話ししてきたことから分かりますように、この「宥めのささげ物」は私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りを宥めるだけのものではありません。それが献げられた目的は、神さまが私たちをご自身との愛の交わりに生きる者として回復してくださること、また、私たちご自身の民をお互いの間の愛の交わりに生きる者として回復してくださることにありました。
 そのことは、ここで、

 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。

と言われていること、さらには、

 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と言われていることに明確に示されています。


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