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説教日:2019年1月5日 |
また、堕落後の人の「心」のあり方について、エレミヤ書17章9節には、 人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。 と記されています。これは、新改訳2017年版では5節から始まる「主」のみことばとなっていますが、「主」のみことばは8節までで、9節と10節は、エレミヤと「主」の対話となっていると考えられます[その根拠については、Lundbom, Jeremiah 1-20,AB ,p.786を見てください。]。 ここで「人の心」と言われているときの「人の」はヘブル語にはありませんが、[「心」に定冠詞がついていて]「心」のことが一般化されているので「人の心」と訳されています。それで、ここでは、 人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。 ということが、誰にも当てはまることとして語られています。しかし、エレミヤはこれを、自分は大丈夫だけれども、一般的に「人の心は」というように、他人事のように語っているのではありません。 エレミヤは「主」の預言者として立てられ、「主」から示されたことを語ってきました。当然、その働きの根底には「主」との親しい交わりがあります。そのことをうかがわせるみことばがあるので、それを見てみましょう。23章21節ー22節には、 わたしはこのような預言者たちを 遣わさなかったのに、 彼らは走り続ける。 わたしは彼らに語らなかったのに、 彼らは預言している。 わたしとの親しい交わりに加わっていたなら、 彼らは、わたしの民にわたしのことばを聞かせ、 民をその悪い生き方から、 その悪しき行いから 立ち返らせたであろうに。 と記されています。ここでは、偽預言者たちが「主」との親しい交わりに加わっていないために、偽りの預言をしていることが示されています。「主」から遣わされた預言者であるエレミヤは、「主」との親しい交わりにあって、生きていたことを汲み取ることができます。エレミヤはこの「主」との親しい交わりをとおして、「主」がどなたであるかをより深く知るようになりました。それは「主」の聖さを現実的に知ることを意味しています。エレミヤは聖なる「主」の御前に、ユダの民がいかに罪に汚れてしまっているかを痛感し、その罪を指摘しつつ、迫って来ている終末的なさばきを、もはや避けられないこととして預言したのです。 その預言は、エレミヤ書全体をとおして見られますが、具体的なユダの民の罪の一例としては、7章30節ー34節に、 それは、ユダの子らが、わたしの目に悪であることを行ったからだ と記されています(同じことは、32章34節ー35節にも記されています。ただし、そこでは、続く、36節ー44節に、回復の約束が記されています)。 ここで「わたしの名がつけられているこの宮」と言われているのは、契約の神である「主」ヤハウェの栄光の御臨在があるエルサレム神殿のことです。「忌まわしいもの」は複数形で、さまざまな偶像のことです。ここに記されていることと同じことは、エゼキエル書5章11節に記されています。より具体的に、エルサレム神殿にどのような偶像が置かれており、そこで、どのようなことがなされていたかは、エゼキエル書8章全体にわたって記されています。 ちなみに、ここエレミヤ書7章31節ー32節に出てくる「ベン・ヒノムの谷」(ゲー・ベン・ヒンノーム[ゲーは「谷」、ベンは「息子」、ヒンノームは人の名]の別名ゲー・ヒンノーム[ヒンノムの谷])が、後に「地獄」を表す「ゲヘナ」(ゲエンナ)のもととなっています。 これが、「主」がご覧になっておられるユダの民の現実なのですが、人々は偽預言者や祭司やその他の指導者たちに欺かれて、この現実に気付かないでいます。8章10節ー11節に、 それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に、 彼らの畑を侵略者に与える。 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、 みな利得を貪り、 預言者から祭司に至るまで、 みな偽りを行っているからだ。 彼らは、わたしの民の傷を簡単に手当てし、 平安がないのに、 「平安だ、平安だ」と言っている。 と記されているとおりです(偽預言者たちの働きについては、その他、5章13節、14章13節ー18節、18章18節、23章9節ー17節、23章21節、25節ー40節、27章9節ー10節、14節ー16節、28章、29章8節ー9節などを見てください)。 この偽預言者や祭司やその他の指導者たちは、自らの罪がもたらす霊的な闇によって、自らを欺いていますし、それに聞き従っているユダの民も、自らを欺いてしまっています。このような現実に触れながら、エレミヤは、人の「心」のことを、 人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。 と述べていると考えられます。しかし、先ほど述べたように、決して他人事として述べているのではありません。 そのことと関連することを見ておきましょう。 エレミヤは「主」の御前に、ユダの民がいかに罪に汚れてしまっているかを痛感し、その罪を指摘しつつ、迫って来ている終末的なさばきを、もはや避けられないこととして預言しました。しかも、そのために迫害にあいますが、預言をやめることはありませんでした。その一方で、エレミヤはユダの民の罪を糾弾し、迫って来ている「主」のさばきを預言しながら、ユダの民のために深く嘆きました。8章18節ー9章2節には、 私の悲しみは癒やされず、 私の心は弱り果てている。 見よ。遠い地から 娘である私の民の叫び声がする。 「主はシオンにおられないのか。 シオンの王は、そこにおられないのか。」 「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、 異国の空しいものによって、 わたしの怒りを引き起こしたのか。」 「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。 しかし、私たちは救われない。」 娘である私の民の傷のために、 私は傷ついた。 うなだれる中、 恐怖が私をとらえる。 乳香はギルアデにないのか。 医者はそこにいないのか。 なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか。 ああ、私の頭が水であり、 私の目が涙の泉であったなら、 娘である私の民の殺された者たちのために 昼も夜も、泣こうものを。 ああ、私が荒野に 旅人の宿を持っていたなら、 私の民を置いて、 彼らから離れることができようものを。 彼らはみな姦通する者、 裏切り者の集まりなのだ。 と記されています。 ここで、誰が嘆いているかについては、見方が別れています。 一つの見方は、この全体が、基本的に(8章19節に「主」の応答のことばがある)、エレミヤの嘆きのことばであるというものです[新改訳2017年版(カギカッコのつけ方から分かります)、Lundbom (AB)]。 もう一つは、8章22節までがエレミヤの嘆きのことばで、9章1節ー2節は「主」の嘆きのことばであるというものです[Kelley (WBC)]。 さらに、もう一つの見方は、「主」あるいはエレミヤの嘆きのことばであるというものです(Brueggemann[彼は批評的な立場から「エレミヤ」と言わないで「詩人」と呼んでいます)。 これらのうちでどの見方を取るべきかについては(9章1節ー2節についてのLundbomの解釈に説得力があるので)、基本的に、エレミヤの嘆きのことばであると考えたほうがよいと思われます。たとえ9章1節ー2節が「主」の嘆きのことばであるとしても、エレミヤがそれにまったく心を合わせていることは確かなことです。 このように、エレミヤはユダの民の罪が深刻なものであることを糾弾し、「主」のさばきが避けられないことを預言しつつ、ユダの民に深い思いを注いで、深く嘆いています。エレミヤにとって、それは、決して、他人事ではなかったのです。これに応えてくださるかのように、やがて「主」はエレミヤに、さばきの後にもたらされる「主」の一方的なあわれみによる回復を示してくださいました(24章4節ー7節、29章10節ー14節、30章ー31章、32章36節ー44節、33章)。 このように、エレミヤはユダの民と距離を置いて、冷静に、その意味において、自分がかかわっていない他人事のように預言をするようなことはありませんでした。そのことを考えると、エレミヤは17章9節において、 人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。 と記したとき、これを一般的なこととして記していますが、決して他人事として記しているのではないことが分かります。むしろ、神である「主」との親しい交わりにおいて、「主」の聖さを知るようになったエレミヤは、自分自身の「心」を深く見つめて、ここに記していることが自分自身の現実であることを自覚しつつ、これを記していると考えられます。 ここで、 それは癒やしがたい。 と訳されていることは、新国際訳(NIV)と同じですが、新アメリカ標準訳(NASB)のように、 それは絶望的に病んでいる。 と訳すと、その深刻さがより分かりやすいかもしれません。ここで用いられていることば(アーナシュ)については「エレミヤ17・9では、心が霊的に病んでいるという点で、絶望的な状態にあることを示している。」(TWOT,#135)という理解もあります。 これに続く、 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。 と訳されているときの「知り尽くす」ということば(ヤーダァ)は、「知る」ことを表しています。「知り尽くす」という訳は、一つの解釈を示しています。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。 というと、ある程度、あるいは、かなり分かるけれども、分からない部分もあるというような意味合いを伝えますが、ここでは、人がその「何よりもねじ曲がって」いて、絶望的に病んでいる「心」の状態を知ることができないということを示しています。 この場合、ここで言われている「心」は、人のうちなる本性の全体、その人格的な働きの全体を表しているということをわきまえる必要があります。私たちはそれが自分のことであり、お互いの間のことであるので、分かっていると感じているのですが、その私たち自身の「心」が「何よりもねじ曲がって」いて、絶望的に病んでいる状態で生きてきました。そのために、私たちにはその状態を自然なことと感じてしまう傾向があります。それで、私たちが自分の「心」の状態や人の「心」の状態を知っていると思っていても、「何よりもねじ曲がって」いて、絶望的に病んでいる「心」の真相を知っているわけではありません。 このことは、この、 だれが、それを知ることができるだろうか。 ということが、続く10節に記されている、 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、 それぞれその生き方により、 行いの実にしたがって報いる。 という神である「主」のみことばにおいて、 わたし、主が心を探り、心の奥を試す と言われていることと対比されていることからも、汲み取ることができます。ここでは、 わたし、主が(アニー・ヤハウェ) ということばが強調されていて、人にはできないことと対比されています。このことは、「何よりもねじ曲がって」いて、絶望的に病んでいる「心」の状態を真に知っておられるのは「主」ヤハウェお一人であるということを意味しています。それで、「何よりもねじ曲がって」いて、絶望的に病んでいる「心」の状態が、いくら、自分自身を含めて、人の目から隠されているとしても、「主」はその「心」のすべてを知っておられます。人が思うことも、考えることも、感じることも、なすことも、また、その動機も目的も、完全に知っておられるというのです。そして、ここでは、 それぞれその生き方により、 行いの実にしたがって報いる。 と言われています。「主」は、人が思うことも、考えることも、感じることも、なすことも、また、その動機も目的も含めて、すべてをおさばきになります。 エレミヤについてのお話が長くなってしまいましたが、詩篇14篇1節では、 善を行う者はいない。 と記されていました。 この場合の「善」の基準は、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人の心に記してくださった律法です。マタイの福音書22章37節ー40節に記されているように、その律法の最も大切な第一の戒めは、 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という戒めです。そして、第二の戒めは、 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。 という戒めです。 これは、神のかたちとして造られている人の心にあるすべてのこと、すなわち、人が思うこと、考えること、感じること、なすことのすべての動機と目的が、本来は、神である「主」への愛であり、隣人への愛であるということを意味しています。そうであって初めて、神さまの御前において「善」いとされます。 このことは、ヨハネの福音書5章29節に、 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。 と記されているときの「善」にも当てはまります。 しかし、現実には、詩篇14篇1節に、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 と記されています。ここでは「愚か者は」と言われていますが、聖書に出てくる「愚か者」の典型の一つで、ここで言われている者に当てはまるのは、神さまを侮り、あざける者です。神である「主」を侮り、あざけることは、神である「主」を愛することの正反対のことです。また、箴言9章10節に記されている、 主を恐れることは知恵の初め、 という、聖書に記されている真の知恵の基本を示すみことばに照らすと、「主」を侮り、あざけることは、「主を恐れること」の正反対のことです。それは、ただ単に、無神論的な立場に立っているということではありません。それを越えて、神さまを侮り、あざけるような思いの中で、神さまを無視して生きることです。また、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 と記されていることは、神である「主」への侮りとあざけりが、その人が思うこと、考えること、感じること、なすことのすべての動機と目的を支配しているということでもあります。 とはいえ、人は自分が神である「主」を侮り、あざけっているとは思っていません。それは、人の「心」が「何よりもねじ曲がって」いて、絶望的に病んでいるからです。そして、聖書のみことばは、人の「心」が「何よりもねじ曲がって」いて、絶望的に病んでいる状態にあって、神である「主」を侮り、あざけるような思いで無視して生き続けることも、神である主のさばきの現れであるということを示しています。ローマ人への手紙1章28節には、 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。 と記されています。ここで、神さまが、 彼らを無価値な思いに引き渡されました。 と言われていることは、もはや、神さまが彼らを、自分たちがなすがままにされたということに当たります。[注] みことばは、それも、神さまのさばきの現れであると教えています。 [注]神である「主」は人類が堕落してしまった後に、特に、大洪水によるさばきをの後の時代においては、一般恩恵に基づく御霊の「抑止的な」お働きによって、人の罪が極まってしまわないようにしてくださっていますし、「啓発的な」お働きによって、より善いものを求めるようにしてくださっています。 ここで「善い」というときの「善さ」は、一般に「市民的善」と呼ばれるもので、 心の中で「神はいない」と言っている 状態にある人が、自分たちの価値判断に従って「善い」としているもののことです。 また、これには、裏もあって、堕落後の人が「悪い」というときの「悪」も、自分たちの価値判断に従って「悪い」としているもののことです。 心の中で「神はいない」と言っている 状態にある人は、造り主である神さまを神としないことを当然のこととしていて「悪い」とは考えていません。私たちもかつてはそのような状態に(罪がもたらした霊的な闇の中に)ありました。そして、自分たちの「心」の状態を知っていると思っていたのです。このようなことを踏まえると、エレミヤ書17章9節で、 だれが、それを知ることができるだろうか。 と言われていることの意味が分かるようになります。 神さまが人を、自分たちがなすがままにされたことの代表的な事例は、洪水前の人類のあり方に見られます。アダムからノアに至るまでの間に、人の罪による堕落が極まってしまい(創世記6章5節、11節ー13節)、「主」を恐れる者はノアとその家族だけになってしまいました。それで、神である「主」は終末的なさばきを執行されました(13節)。 もし、神である「主」が一般恩恵に基づく御霊のお働きを備えてくださらなかったとすれば、最初の人アダムとその妻エバは、「主」に対して罪を犯した直後にその腐敗を極まらせてしまい、サタンをかしらとする悪霊たちと同じように「絶対的堕落」の状態になっていたことでしょう。その場合には、その時に、最終的なさばきが執行されて、人類の歴史は終っていたことでしょう。 神さまのみことばが示している、このような人の現実を細々とお話ししたのは、かつての私たちが造り主である神さまを侮り、あざけるような思いをもって生きていたからです。また、かつて私たちは神さまに対して侮り、あざけるような思いをもっていたのですが、その神さまが、御子イエス・キリストを遣わしてくださったからです。そして、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストが、その十字架の死をもって成し遂げてくださった罪の贖いがどのようなものであるかを示すためです。 神さまと、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じるようになる前の私たちは、それまでの生涯の一瞬でも、神さまを愛したことはありませんでしたし、神さまの愛を受け止めたこともありませんでした。私たちの「心」が「何よりもねじ曲がって」いて、絶望的に病んでいたために、それがどれほどの罪であるか知りませんでしたし、今も、十分には分かっていません。しかし、「主」は、 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、 それぞれその生き方により、 行いの実にしたがって報いる。 と言われます。「主」は、そのような私たちのすべてをご存知であられます。これはあくまでも議論のためだけに言うのですが、仮に神さまにも分からない罪があるとすれば、「贖い忘れる」罪もあるということになるでしょう。しかし、神さまは私たちの罪の一つ一つをすべて完全に知っておられます。それで、御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちがいまだ気づいてもいないために、どれほど多く、どれほど重いかも分からない罪も含めて、すべての罪を完全に贖ってくださったのです。そのために、私たちは、もはや、いかなる意味においても、私たちの罪に対する刑罰としてのさばきを受けることはありません。 先ほどお話ししたこととのかかわりで言うと、神さまは、私たちが罪を犯してしまうときにも、私たちを、自分のなすがままに放置されることはありません。先ほどの一般恩恵に基づく御霊のお働きをさらに越えた、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づく御霊のお働きによって、その罪を悔い改めるとともに御子イエス・キリストを信じ信頼する信仰に導いてくださり、御子イエス・キリストによって成し遂げられた罪の贖いにあずからせてくださいます(ヨハネの手紙第一・1章9節)。 |
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