黙示録講解

(第407回)


説教日:2019年12月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(160)


 先主日は2019年の降誕節の主日でしたので、黙示録からのお話はお休みしました。今主日は黙示録からのお話に戻ります。今お話ししているのは、2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてです。
 そこには、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 これまで5回にわたって、24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えについてお話ししました。まず、

 まことに、まことに、あなたがたに言います。

ということばについてお話しし、続いて、4回にわたって、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者

と言われていることについてお話ししました。
 今日は、それに続いて、

 永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

と記されていることを中心としてお話しします。
 ここに記されている、

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えは、基本的に、現在の私たち主の契約の民のことを述べています。
 すでにお話ししたように、ここで、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者

と言われているときの「聞く」ということばと「信じる」ということばは、現在時制の分詞で表されています[冠詞「ホ」によって実体化されて「聞いて・・・信じる者」(単数形)となっています]。これは、常に、イエス・キリストの教えのみことばを聞いて、イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神さまを信じている人を表しています。また、これは、イエス・キリストのみことばを聞いて、イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神さまを信じている人、一人一人に例外なく当てはまることですし、その人がいつの時代にあっても、当てはまることです。
 ここで、その人が、

 永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、

と言われているときの「永遠のいのちを持っている」ということも「さばきにあう(直訳「さばきの中に入る)ことがない」ということも現在時制で表されています。イエス・キリストのみことばを聞いて、イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神さまを信じている人は、すでに、永遠のいのちをもっており、もはや、さばきにあうことはないというのです。この場合の「さばき」は神である「」に対して犯した罪に対するさばきを意味しています。
 永遠のいのちをもつということは、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって最終的なさばきが執行されて、人の罪が清算されるようになる後に、栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地において、完全な形で実現することです。そうではあっても、この24節での主旨は、終わりの日のことというより、現在のことの方にあります。
 また、さばきにあうことはないということは、言うまでもなく、終わりの日に再臨される栄光のキリストによる最終的なさばきを受けることはないということも意味していますが、この24節での主旨は、やはり、終わりの日のことというより、現在のことの方にあります。


 この二つのことを理解する鍵は、神さまが創造の御業において、ご自身がお造りになったすべてのものと契約を結んでくださったことにあります。その契約のことを私たちは「創造の契約」と呼んでいます。
 聖書に記されている契約は、古代オリエントの文化と社会に見られる契約で、近代以降の市民法における契約とは異なっています。近代以降の市民法における契約は、契約の当事者双方の合意によって結ばれるものです。しかし、古代オリエントにおける契約あるいは条約は、基本的に、契約当事者双方の合意によって結ばれるものではなく、大王と呼ばれる主権者がその主権の下にある従属者を自分との契約関係に入れることによって結ばれるものです。それで、その契約は「大王の契約」と呼ばれます。条約としては「宗主権条約」と呼ばれます。そして、その契約関係は、少なくとも建前の上では、「我と汝」、「私とあなた」という人格的な関係です。
 聖書における神さまの契約も、創造者であり主権者である神さまが、その主権の下にある造られたすべてのものをご自身との契約関係に入れることによって結ばれたものです。それで、神さまは人や御使いたちのようには人格的なものではないものたちとも契約を結んでおられます。そのことは、聖書のみことばから汲み取ることができます。
 その一つは、エレミヤ書33章に記されています。
 そのことをお話しする前に触れておきますが、もう一つは、創世記9章に記されている、神さまが大洪水によるさばきを執行された後、箱舟から出てきたノアとその息子たちとその子孫たちだけでなく、彼らとともにいるすべての生き物たちと契約を結んでくださったことです。
 エレミヤ書33章19節ー22節には、

エレミヤに次のようなのことばがあった。はこう言われる。「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」

と記されており、25節ー26節には、

はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」

と記されています。
 ここでは、神である「」が昼と夜という、ご自身がお造りになったものの中の人格的な存在ではないものとも契約を結んでくださったことが示されています。とはいえ、ここでの主旨は、神である「」の契約に基づく真実は、それがどの契約であっても変わることがないということにあります。それで、人には常に変わることなく繰り返されている昼と夜の入れ替わりや、人の目には揺るぐことなく定まっていると見える「天と地の諸法則」が証ししている「」の契約に基づく真実が、そのまま、ダビデ契約を根底から支えている「」の真実であることが示されています。
 ここでは、また、その「」がご自身の契約に基づく真実によって「天と地の諸法則」を定められたということが示されています。このことから、「」が結ばれた契約はそのほかのさまざまな被造物におよんでいることが分かります。というのは、ここで「天と地の諸法則」と言われているときの「天と地」ということばは、メリスムスという表現方法で、秩序と調和のうちにあるこの造られた世界のすべてのものを指しているからです。
 私たちの感覚では、昼や夜と契約を結ぶということはおかしなことですが、これは神である「」が一方的で主権的なご自身の契約によって、昼と夜が来ることを真実な御手ををもって支えてくださることを約束し保証してくださっていることを意味しています。そのような契約がいつ結ばれたのかということが問題となります。これについては、神さまが遂行された創造の御業とともに昼と夜と契約を結んでくださったということになります。具体的には、創世記1章2節ー5節に、

地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。

と記されていますが、神さまが創造の御業において、この「」を「闇が大水の面の上にある」状態にお造りになった時に「」を、そして、原始の太陽をお造りになった時に「」を、ご自身の契約関係のうちにあるものとしてお造りになったと考えられます。そして、その「」が「」にあるようにされ、その「光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられ」て、それぞれに意味と役割をお与えになったのだと考えられます。聖書において「名をつける」ことは名をつけた側が、名をつけられた側を主権の下に置くということを意味しています。神さまはその主権の下に置かれた「」と「」に真実を尽くしてくださり、それぞれにお与えになった役割を支えてくださっていると考えられます。
 このように、神さまはご自身の主権的なみこころにしたがって、ご自身がお造りになったものと契約を結んでくださいました。そして、今日に至るまで、この契約に基づいて、造られたすべてのもの一つ一つを真実に支えてくださっています。その意味で、神さまが創造の御業においてお造りになったすべてのものを、みこころにしたがって真実に支えてくださり、導いてくださっている摂理の御業は、神さまの契約に基づいて遂行されていると考えられます。
 神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものと契約を結んでくださって、真実に支えてくださっています。この契約は神さまの創造の御業において、造られたすべてのものと結ばれた契約です。その意味でこの契約を「創造の契約」と呼びます。[注]

[注]「創造の契約」は伝統的に「わざの契約」と呼ばれてきた契約に当たりますが、「わざの契約」は神さまと神のかたちとして造られている人との契約のことです。
 この「わざの契約」にはいくつかの問題があります。
 「わざの契約」は、伝統的には、「恵みの契約」と対比されています。しかし、神さまが創造の御業において、神のかたちとして造られている人をご自身との契約関係に入れてくださったのは、神さまの一方的で主権的な愛に基づく恵みによることです。それで、これに「恵み」と対比される「わざ」という呼び名を付けて「わざの契約」と呼ぶことには問題があります。
 また、「わざの契約」は、一般的には、神さまと人との何らかの合意に基づいて結ばれていると考えられています。それは、聖書が記された古代オリエントの契約ではなく、近代以降の市民法における契約に従ってのことではないかと思われます。
 さらに、「わざの契約」は善悪の知識の木についての戒めが与えられた時に結ばれたと考えられています。そうすると、神のかたちとして造られている人の心に初めから記されている律法は神である「主」との契約関係のあり方にかかわる律法ではなかったのかという大きな問題が生じてきます。
 また、一般的には、「わざの契約」が結ばれるまでの神さまと人との関係が契約関係でないとすれば、どのような関係であったのかという問題が生じます。それに対しては、一般的には、それは「自然的関係」であったとされて、ルカの福音書17章5節ー10節に記されているイエス・キリストの教えに出てくる主人としもべの関係がそれに当たると言われています。しかし、そのイエス・キリストの教えは、契約の神である「」とそのしもべである弟子たちのあり方を教えているものです。それで、そこに出てくる主人としもべの関係が、契約の神である「」とそのしもべの関係ではなく、造り主である神さまと神さまによって造られた人の間にあったとされる「自然的関係」を背景としているとすることには無理があります。

 神である「」は創造の御業とともに、ご自身がお造りになったすべてのものをご自身との契約関係に入れてくださいました。そして、その契約に基づいて、創造の御業において一つ一つのものに与えられた特質を生かしてくださって、すべてのものを真実に支え、導いてくださっています。それで、神である「」と造られたものそれぞれの契約関係のあり方は、造られたものそれぞれの本質的な特質によって異なっています。
 神である「」がお造りになった壮大な宇宙の無数とも思える天体も、そこで起こっているさまざまな事象も、神さまの御手の支えの下で存在し、起こっています。
 また、創世記1章2節には、

 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

と記されています。神さまはこの「」の最初の状態を造り出された時に、すでに、

 神の霊がその水の面を動いていた。

と言われているように、ご自身が御霊によって、この「」にご臨在しておられました。神さまは、初めから、この「」をご自身がご臨在される所として聖別してくださっておられます。この御霊による神さまの御臨在も神さまの契約に基づくものです。そして、ご自身の御臨在に伴うさまざまな祝福とその豊かさをもってこの「」を満たしてくださっています。まず、ご自身が光であられることを表示する物理的な光が地にあるようにされ、それに伴う温かさがもたらされ、大気圏の形成とともに澄んだ空気と晴れ上がっていく大空がもたらされました。これはやがて、広大な大空を満たすさまざまな天体が神さまの御手のわざを証しする場となっていきます。また、地殻変動に伴って海と陸地が分けられ、地は適度に渇きつつ、適度に潤うように雨が降るようになりました。そのような備えの下にさまざまな植物が芽生えるようにしてくださり、その間に、さまざまな生き物たちが生息するようにしてくださいました。海にもそれを満たさんばかりの魚などの生き物が生息するようにしてくださっていました。これらすべてが、神さまの御臨在に伴う豊かさとしての意味をもっています。神さまはこれらのすべてを、ご自身の契約に基づいて、真実に、それぞれの特質を生かしつつ、いつくしみをもって支えてくださっています。
 しかし、それらの壮大な宇宙にあるものも、この「」にあるものも人格的なものではないので、造り主である神さまを知りません。それで、それらのものと神さまとの契約関係は人格的なものではありません。神さまが、その契約に基づいて、一方的な真実といつくしみをもって、それらの一つ一つの特質を生かしつつ、支えてくださっているのです。
 これらのものの中心に、人格的な存在として造られている御使いと人がいます。御使いも人も、神さまの一方的な愛と恵みによって、神さまとの契約関係にあるものとして造られています。それで、御使いと人の神である「」との契約関係は、愛による交わりを特質とする人格的な関係です。そして、この神である「」との愛による交わりこそが御使いと人のいのちの本質です。

 このように、御使いと人は神である「」の契約に基づく一方的な愛と恵みによって、神である「」の御臨在の御許において、「」との愛の交わりに生きるいのちの祝福にあずかっています。その中でも、肉体と霊魂からなる人は、神のかたちとして造られており、物理的な面をもっているこの世界のすべてのものを治める使命を委ねられています。創世記1章26節ー28節に、

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

と記されているとおりです。
 その使命は、神さまの創造の御業そのものが創造の御業の六つの日にわたって遂行された歴史的な御業であり、そのようにして造られた世界が歴史的な世界であることにかかわっていて、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命です。また、天地創造の六つの日にわたって遂行された歴史的な御業の目的は、神さまがご自身の安息の「日」として祝福して、聖別された第七日にあります。そして、この天地創造の第七日が、神のかたちとして造られている人が、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たす時間的・歴史的な舞台となっています。
 神のかたちとして造られている人は無機的に流れる時の中で歴史と文化を造る使命を果たすように召されたのではなく、神さまがご自身の安息の「日」として祝福し、聖別しておられる天地創造の第七日において歴史と文化を造る使命を果たすように召されているのです。それで、その歴史と文化を造る使命を果たすことの中心は、人が神である「」の御臨在の御許において、「」の愛を受け止め、「」を愛して、「」を神として礼拝することにあります。神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の時として祝福し、聖別してくださったのは、神のかたちとして造られている人にご自身の愛を注いでくださり、人が神である「」の愛を受け止め、それに応えて、愛をもって神である「」を神として礼拝するようになるためでした。神さまは人がご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛の交わりに生きることを喜びとされ、そのことにおいて安息されるのです。また、このように、神さまの愛を受け止め、神さまを愛して礼拝することを中心とした神さまとの愛の交わりこそが、神のかたちとして造られている人のいのちの本質でもあります。
 このように豊かな意味をもっている天地創造の第七日が、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たす時間的・歴史的な舞台です。この天地創造の第七日はいまだ閉じてはいません。それは、神さまがご自身のみこころにしたがって閉じられる時、すなわち、終わりの日まで続きます。
 神さまは神のかたちとして造られている人との契約において、特別な祝福を示してくださっています。それは、人が神である「」を愛して、神として礼拝することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神である「」のみこころに従いとおしたなら、それに対する報いとして、最初に神のかたちとして造られた時の状態よりさらに豊かな栄光の状態に入れてくださるということです。それによって、人が神である「」の栄光の御臨在にさらに近づき、より豊かな栄光に満ちた愛の交わりに生きるようになるためでした。その、神である「」とのより豊かな栄光に満ちた愛の交わりに生きるいのちこそが永遠のいのちです。また、人が神である「」とのより豊かな栄光に満ちた愛の交わりに生きるようになることによって、天地創造の第七日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別してくださった神さまのみこころが実現し、神さまの安息が完成するようになるのです。
 このように、創造の御業における神である「」のみこころの核心は、神のかたちとして造られている人がご自身を愛して、礼拝することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、ご自身のみこころに従いとおして、最初に神のかたちとして造られた時の状態よりさらに豊かな栄光の状態に入ること、また、それによって、ご自身とのより豊かな栄光にある愛の交わり、すなわち、永遠のいのちに生きるようになることにありました。そして、これが、創造の契約の祝福だったのです。

 それで、神である「」は、天地創造の第七日を時間的な舞台とする歴史の終わりに、人が歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかの評価をされます。それが歴史の終わりになされるのは、その使命が、基本的に、歴史を造る使命であるからです。神さまのみこころは、ご自身のみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を果たした人を、より豊かな栄光の状態に入れてくださること、そして、ご自身とのより豊かな栄光にある愛の交わり、すなわち、永遠のいのちに生きるようにしてくださることにありました。
 しかし、実際には、人は神である「」に対して罪を犯して堕落してしまいました。そして、その罪に対する刑罰としての死の力に捉えられ、滅ぶべきものとなってしまいました。この罪に対する刑罰は、創造の契約への違反がもたらすのろいとして下されるもので、アダムの子孫はすべて、こののろいの下にあるものとして生まれてきます。そして、その本性が罪によって汚れてしまっているために、実際に、造り主である神さまを神としないという、根本的な罪を犯してしまいます。
 父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストは、最初の人アダムが造られた時の状態、アダムが罪を犯して堕落する前の状態の人としての性質を取って来てくださいました。それで、人としては、創造の契約の下にある方としてお生まれになりました。ガラテヤ人への手紙4章4節に、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

と記されているとおりです。ここでは、御子イエス・キリストは「律法の下にある者として」遣わされたと言われています。「」の律法は、本来、「」との契約関係のあり方を示すものです。それで、マタイの福音書22章36節ー38節に記されているように、「」の律法の大切な第一の戒めは、

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という契約の神である「」を愛することです。
 そして、御子イエス・キリストは、ピリピ人への手紙2章6節ー8節に、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。

と記されているように、「十字架の死にまで」父なる神さまのみこころに従いとおされました。それも、しぶしぶのことではなく、父なる神さまを愛し、私たちご自身の民を愛してくださってのことです。
 このことにおいて、イエス・キリストは、

  あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という、律法の大切な第一の戒めを全うされ、

 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい

という大切な第二の戒めをも全うしておられます。
 このこととのかかわりで、特に、心に留めておきたいことがあります。それは、イエス・キリストが「十字架の死にまで」父なる神さまのみこころに従いとおされたと言われているときの父なる神さまのみこころは、ご自身の御子の十字架の死をもって、私たちご自身の民の罪を贖ってくださることであったということです。
 御子イエス・キリストの「十字架の死」は、私たち「」の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わってすべて受けてくださるものでした。言い換えると、御子イエス・キリストは私たち「」の民に下されるべき創造の契約ののろいを、私たちに代わってすべて受けてくださったということです。ガラテヤ人への手紙3章13節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。

と記されているとおりです。
 このように、私たちの罪は御子イエス・キリストの十字架の死によってまったく贖われており、私たち「」の契約の民の罪に対する刑罰は。御子イエス・キリストの十字架の死によって終っています。それで、私たちは、終わりの日における最終的なさばきを含めて、いかなる意味においても、罪をさばかれることはありません。それが、ヨハネの福音書5章24節で、イエス・キリストが、

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は・・・さばきにあうことがない

と(現在時制で)言われることです。
 そればかりではありません。ガラテヤ人への手紙4章では、先ほど引用した4節と続く5節ー6節に、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されています。父なる神さまに向かって、個人的に親しく、「アバ、父よ」と呼びかけることは御子イエス・キリストの特権でした。私たちは、「私たちの心に遣わされ」た「御子の御霊」によって、父なる神さまに向かって、個人的に親しく、「アバ、父よ」と呼びかける祝福にあずかっています。そして、「アバ、父よ」と呼ぶほどに父なる神さまの御臨在の御前に近づいて、父なる神さまとの愛の交わりに生きるいのちが永遠のいのちです。私たちは御子イエス・キリストにあって、すでに、この永遠のいのちをもっているのです。これが、ヨハネの福音書5章24節で、イエス・キリストが、

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、

と(現在時制で)言われることです。
 私たち「」の契約の民が、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまを個人的に、「アバ、父よ」と呼ぶほどの親しさにおいて、愛の交わりに生きるようになったことにおいて、天地創造の第七日をご自身の安息として祝福し、聖別された神さまのみこころが、すでに、実質的に、実現しています。


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