黙示録講解

(第406回)


説教日:2019年12月15日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(159)


 本主日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 ヨハネの福音書5章19節ー29節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 これまで4回にわたって、24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えについてお話ししました。今日も、すでにお話ししたことを踏まえて、さらにお話を続けます。
 いつものように、まず、これまでお話ししたことで、今日お話することとかかわっていることをまとめておきます。
 先主日にお話ししたことですので詳しい説明は省きますが、ここで、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は

と言われている人は、常に、イエス・キリストのみことばを聞いて、イエス・キリストをお遣わしになった方を信じている人のことです。
 また、ここで、

 わたしのことばを聞いて[直訳「わたしのことばを聞く者」]

と言われているときの「わたしのことば」は、イエス・キリストが語られたみことば、すなわち、イエス・キリストの教えの全体を意味しています。
 それで、ここでイエス・キリストが言われる「わたしのことばを聞く者」(直訳)には、時間的に、常に、イエス・キリストが語られることを聞こうとするだけでなく、内容の上でも、イエス・キリストが語られることはすべて聞き取ろうとする姿勢があります。
 また、ここで、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は

と言われているときの「わたしを遣わされた方」は父なる神さまのことです。そして、

 わたしを遣わされた方を信じる者

と言われているときの「信じる」ということばは、イエス・キリストを遣わされた方、すなわち、父なる神さまの言われたことは真実であり、まことであるとして受け入れることを意味しています。言うまでもなく、その根底には、父なる神さまが真実な方であるということがあり、その人が父なる神さまが真実な方であると信じているということがあります。


 今日は、このこととのかかわりで、詩篇119篇160節に、

 みことばのすべては真実です。
 あなたの義のさばきはことごとく
 とこしえに至ります。

と記されているみばを取り上げてお話ししたいと思います。
 ここで、

 みことばのすべては真実です。

と言われているときの「すべて」は「頭」「かしら」を表すことば(ローシュ)で表されています。聖書では「かしら」は全体を代表的に表わしています。それで、数の上でも「合計」を表したりします。それで、ここでは、

 あなたのみことばのすべては真実です。

となります。
 ここで「頭」「かしら」を表すことば(ローシュ)が用いられていることは、詩篇119篇が独特の記され方をしていることとかかわっています。
 詩篇119篇は全部で176節あります。これは8節ずつで区切られる22の部分から成り立っています。そして、それぞれの部分を構成する八つの節は、すべてヘブル語のアルファベットの同じ文字で始まっています。[注] 引用した160節は、153節ー160節の最後にあります。これら八つの節は、英語の「r」に当たる「レーシュ」で始まっています。

[注]私たちが学ぶ時には、ヘブル語のアルファベットは23文字あるのですが、この詩篇では21番目の「スィーン」と22番目の「シーン」(形はまったく同じで上につく点の位置だけが違います)で、161節ー168節が始まっています。

 それとともに、ここでこの「頭」「かしら」を表すことばが用いられていることには意味があると考えられています。
 一つの理解は、「」のみことばの「主要な」特質が「真実」であるということを表しているというものです(Allen p. Ross, A Commentary on the Psalms., vol.3, p.584)。
 もう一つの理解は、ヘブル語聖書の七十人訳がこの「頭」「かしら」を表すことば(ローシュ)を「初め」(アルケー)と訳してることに基づいて、「」のみことばは「初め」から[一貫して]「真実」であるということを表しているというものです(Willem A.VanGemeren, "Paslms", The Expositor's Commentary., vol. 5, p.761)。
 この二つの理解は、実質的に同じことを示しています。そして、大切なことは、繰り返しになりますが、「」のみことばがすべて真実であるということは、「」ご自身が、常に、真実であられることの現れであるということです。
 このことを踏まえて、このみことばが記されている状況についてもう少し見てみましょう。
 詩篇119篇で、作者である詩人は「」のしもべであるために加えられる迫害による苦しみの中にあって、「」に嘆きつつ訴えています。
 そのことは、この153節ー160節においても、はっきりと見て取れます。153節ー160節には、

 私の苦しみをご覧になり
 私を助け出してください。
 私はあなたのみおしえを忘れません。
 私の言い分を取り上げ
 私を贖ってください。
 あなたのみことばにしたがって
 私を生かしてください。
 救いは悪しき者から遠く離れています。
 彼らがあなたのおきてを求めないからです。
 あなたのあわれみは偉大です。
 主よ あなたの定めにしたがって
 私を生かしてください。
 私を迫害し 敵とする者が多くいます。
 しかし私は あなたのさとしからそれません。
 私は裏切る者どもを見て 忌み嫌います。
 彼らがあなたのみことばを守らないからです。
 ご覧ください。
 どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。
 主よ あなたの恵みによって
 私を生かしてください。
 みことばのすべては真実です。
 あなたの義のさばきはことごとく
 とこしえに至ります。

と記されています。
 ここで、この詩人が「」を信じ、信頼している「」のしもべであることは、彼が「」のみことばを信じ、信頼していることから汲み取ることができます。
 ここには、「」のみことばをいろいろな面から表すことば、「みおしえ」(153節・トーラー)、「みことば」(154節・イムラーあるいはエムラー「語られたことば」)、「おきて」(155節・ホーク)、「定め」(156節・ミシュパート)、「さとし」(157節・エードゥート)、「戒め」(159節・ペクダー)、「みことば」(160節・ダーバール)が出てきます。
 この詩人は、そのすべてを信じ、信頼し、受け入れています。それは、ここで彼が神さまのことを「」(ヤハウェ)と呼んでいることから分かるように、彼が「」の一方的な愛と恵みによって「」との契約関係に入れていただいていて、「」との親しい愛の交わりに生きていることに基づいています。
 彼が契約の神である「」との親しい愛の交わりに生きていることを表すみことばを見てみましょう。
 154節には、

 私の言い分を取り上げ
 私を贖ってください。
 あなたのみことばにしたがって
 私を生かしてください。

と記されています。前半で、

 私の言い分を取り上げ

と言われているときの、「言い分」と訳されたことば(リーブ)と「取り上げる」と訳されたことば(リーブ)は、名詞と動詞の関係にあります。
 このことばは、一般的な争いを表すこともありますが、法廷における争い(法廷闘争)を表すことがあります。ここでは、この詩人は「」を信じ、信頼し、そのみことばに従って歩んでいるために迫害を受けています。彼を迫害している人々は、「」の「おきてを求めない」(155節)し、「」の「みことばを守らない」(158節)人々です。そして、この詩人は自分で復讐をしないで、ひたすら「」に訴えて、「」にすべてをお委ねしています。これらのことから、彼は天にある「」の法廷に訴えていると考えられます。
 そして、これに続いて、

 私を贖ってください。

と願っています。ここで「贖う」と訳されていることば(ガーアル)は、ヨブ記19章25節で、ヨブが、

 私は知っている。
 私を贖う方は生きておられ、
 ついには、土のちりの上に立たれることを。

と告白したときの「贖う方」(ゴーエール・ガーアルの分詞形)を思い起こさせます。ヨブも自分を「」との契約関係に入れていただいた者として理解していましたし、「」のみことばに従って生きていました。そして、大きな災いと苦しみに見舞われた時には、天にある「」の法廷における「法廷闘争」をしようとしながら、ついには、自分を「贖う方」を信じるようになりました。この「贖う方」は、基本的に、ある人の親族としてその人を困難な状況や危険な状況から救い出す務めを果たす人を指しています。
 この詩人も、「」がその一方的な恵みとあわれみによって「」のしもべとしてくださって、ご自身との親しい交わりに生きる者としてくださった自分を、困難で危険な状態から解放していただきたいと願っています。
 その一方で、彼は、自分が「」を信じ、信頼し、そのみことばに従って歩んでいることが、あたかも、「」の御前に功績となるかのように思ってはいませんし、そのことを頼みとしてもいません。この154節では、続いて、

 あなたのみことばにしたがって
 私を生かしてください。

と願っています。ここでは、「」が自分を生かしてくださるのは、契約の神である「」のみことばの約束によっているということを示しています。
 また、156節では、

 あなたのあわれみは偉大です。
 主よ あなたの定めにしたがって
 私を生かしてください。

と願っています。彼は契約の神である「」が自分を生かしてくださるのは「」の「あわれみ」によっているということを告白しています。ここで、

 あなたのあわれみは偉大です。

と言われているときの「偉大」と訳されていることば(ラビーム)は、続く157節で、

 私を迫害し 敵とする者が多くいます。

と述べているときの「多い」ということばと同じことばです。これによってこの詩人は、自分を「迫害し、敵とする者が」どんなに多くても、「」の「あわれみ」はさらにまさるということを告白して、その「あわれみ」に信頼しています。
 さらに、159節では、

 ご覧ください。
 どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。

と述べています。しかし、彼は、そのことを頼みとはしないで、続いて、

 主よ あなたの恵みによって
 私を生かしてください。

と願っています。ここでも、「」が自分を生かしてくださるのは契約の神である「」の恵みによっていることを告白しています。ここに出てくる「恵み」と訳されていることば(ヘセド)は、「」の契約に基づく真実な「恵み」や「愛」のことです。
 このように、この詩人は、「」の一方的な愛と恵みによって「」のしもべとしていただいて、「」との親しい交わりに生きている者として、「」のみことばを信じて、それに従って歩んでいるために、多くの人々から迫害を受けて苦しんでいますが、ひたすら「」に頼り、「」を呼び求めています。
 彼は、そのような中で、3回、「」に、

 私を生かしてください(ハイェーニー)。

と願っています。その都度、

 あなたのみことばにしたがって
 私を生かしてください。

というように(154節)、「」のみことばの約束への信頼を表し、

 あなたのあわれみは偉大です。
 主よ あなたの定めにしたがって
 私を生かしてください。

というように(156節)、「」のあわれみに基づく「定め」に信頼していることを表し、

 主よ あなたの恵みによって
 私を生かしてください。

というように(159節)、「」の契約に基づく真実な「恵み」や「愛」への信頼を表しています。

 そして、これらのことを受けて、160節では、

 みことばのすべては真実です。
 あなたの義のさばきはことごとく
 とこしえに至ります。

と告白しているのです。
 ここで、

 みことばのすべては真実です。

と言われているときの「みことば」には「あなたの」がついていますので、これより前の部分と同じように、「あなたのみことば」とした方がよいと思われます。繰り返しになりますが、「」の「みことばのすべて」が「真実」であるということは、「」ご自身が、常に「真実」であられることの現れです。
 この詩人は、「」の一方的な愛と恵みによって「」のしもべとしていただいて、「」との親しい交わりに生きている者として、「」のみことばに従って歩んでいるために、多くの人々から迫害を受けて苦しんでいます。この詩人は、常に「真実」であられる「」に信頼しています。それは、具体的には、「真実」な「」の「みことば」に信頼し、「」の「真実」な「みことば」に導かれて歩むことに現れてきます。
 これに続いて、

 あなたの義のさばきはことごとく
 とこしえに至ります。

と記されていることは、「」のしもべとして、「」のみことばに従って歩んでいるために、多くの人々から迫害を受けて苦しんでいる詩人がご自身に向かって嘆き、訴えていることにお応えになって、「」が「義のさばき」において、彼の正しさを明らかにしてくださるということを示しているように思われます。
 けれども、この理解ですと、そのことが、

 とこしえに至ります。

と言われていることがどのようなことか分かりにくくなります。
 ここで、

 あなたの義のさばきはことごとく
 とこしえに至ります。

と言われているときの「さばき」と訳されていることば(ミシュパート)は、156節で、

 主よ あなたの定めにしたがって
 私を生かしてください。

と言われているときの「定め」と訳されていることばと同じことばです。このことばは、また、119篇89節ー91節に、

 よあなたのみことばは とこしえから
 天において定まっています。
 あなたの真実は代々に至ります。
 あなたが地を据えられたので
 地は堅く立っています。
 それらは今日もあなたの定めにしたがって
 堅く立っています。
 万物はあなたのしもべだからです。

と記されているみことばの最後に、

 それらは今日もあなたの定めにしたがって
 堅く立っています。
 万物はあなたのしもべだからです。

と言われているときの「定め」と訳されていることばです。ここでは、

 よあなたのみことばは とこしえから
 天において定まっています。

と言われているときの「」と、

 あなたが地を据えられたので
 地は堅く立っています。

と言われているときの「」の組み合せがあり、この部分の最後に、

 万物はあなたのしもべだからです。

と言われている「万物」を表しています。そして、この「万物」は、「」のとこしえの「みことば」と「定め」によって支えられ、保たれ、導かれて「堅く立っています」。
 おそらく、160節の、

 あなたのみことばのすべては真実です。
 あなたの義のさばきはことごとく
 とこしえに至ります。

は、89節ー91節に記されている、「」によって造られたすべてのものを支え、導いている「」のとこしえの「みことば」と「定め」が、人の世界、特に、「」の「みことば」と「定め」を信じて歩んでいる「」の契約の民に当てはめられていると考えられます。
 新改訳が160節で、

 あなたの義のさばきはことごとく

というように、「定め」ではなく「さばき」と訳しているのは、おそらく、これが「」と結びついているためでしょう。しかし、この「」ということば(ツェデク)が神である「」に当てはめられているときには、「」がご自身の契約に約束してくださっていることを真実に実現してくださることに示される場合もあるという見方もあります(TWOT, p.755a)。
 おそらく、これを受け入れてのことでしょう、新改訳で「あなたの義のさばき」と訳されていることばの「義の」を「真実な」と訳して、この部分を「あなたの真実な決定」(faithful decisions of yours)と訳している注解者もいます(John Goldingay, Psalms., vol.3, p.438)。
 その他の訳を見てみますと、新欽定訳は新改訳と同じ「あなたの義のさばき」です。新国際訳は「あなたの義の律法(laws)」と訳しており、新アメリカ標準聖書と新改定標準訳は「あなたの義の定め(ordinances)」と訳しています。先ほど触れたロス(Allen P. Ross)は「あなたの義の決定(decisions」と訳しています。これは「あなたの義の定め(ordinances)」とほぼ同じことを示しています。
 また、ここ160節の新改訳で、

 あなたの義のさばきはことごとく
 とこしえに至ります。

と言われているときの「とこしえに至ります」と訳されていることば(レオーラーム)は、98節で、

 よあなたのみことばは とこしえから
 天において定まっています。

と言われているときの「とこしえから」と同じことばです。どちらも、それら(「みことば」と、「さばき」あるいは「定め」)がとこしえのものであることを表しています。
 このように理解すると、160節で、

 あなたのみことばのすべては真実です。

と言われていることと、

 あなたの義の定めはことごとく
 とこしえに至ります。

と言われていることは、ほぼ同じことを別の面から述べていることになります。この二つのことが、並行法的に重ねられているということです。
 この詩人は、契約の「」のしもべとして、「」の「みことば」と「定め」の真実さと確かさを信じて、それに従って歩んでいるために迫害を受けて、苦しんでいます。そのような、苦しみの中で、なお、契約の神である「」のとこしえの「みことば」と、とこしえの「定め」の真実さと確かさを信じて、自分のすべてを「」にお委ねしていることが示されていると考えることができます。
 そうするとどうなるのかということについては、いくつかのことが考えられます。
 最も基本的なことは、「」が、この人が苦しみを経験している間に、常に、この人とともにいてくださって、この人が経験している苦しみをご自身のこととして受け止めてくださっているということです。そして、その苦しみをとおして、この人をご自身の聖さにあずからせてくださり、ご自身の民として育み育ててくださるということです(参照・ヘブル人への手紙12章1節ー11節)。また、やがて、その苦しみから解放してくださって、「」がこの人の神であられることを明らかにしてくださるとともに、この人こそが「」の契約の民であることを明らかにしてくださるようになるということです。
 その際にも、「」がこの人を迫害して苦しめていた人々をおさばきになって、滅ぼされてしまうこともあるでしょう。
 それとともに、この詩人が、自分は「」の一方的な愛と恵みにあずかってあわれみを受けた者であるということを受け止めて、自分を迫害し、苦しめている人々のためにとりなし祈り続けたときに、「」がそれをお聞きになって、この詩人を迫害して苦しめていた人々を悔い改めに導いてくださって、ご自身の一方的な愛と恵みにあずからせてくださり、この詩人とともに、「」の愛と恵みを讃えるようになることもあるでしょう。


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