黙示録講解

(第405回)


説教日:2019年12月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(158)


 本主日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 ヨハネの福音書5章19節ー29節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 これまで3回にわたって、24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えについてお話ししました。今日は、すでにお話ししたことを踏まえて、さらにお話を続けます。
 まず、これまでお話ししたことを一つ補足しますと、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は

と訳されている部分を直訳調に訳すと、

 わたしのことばを聞く者、そしてわたしを遣わされた方を信じる者は

となります。この「聞く者」(ホ・アクーオーン)と「信じる者」(ホ・ピステウオーン)は現在分詞で表されています[冠詞(ホ)で実体化されているので「」と訳されています]。これは、過去のある時に父なる神さまを信じるようになったことも含めてのことですが、常に、イエス・キリストのみことばを聞いて、イエス・キリストをお遣わしになった方を信じている者のことを示しています。
 そして、すでにお話ししたことですが、ここで、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は

と言われているときの「わたしのことば」は単数形で、イエス・キリストが語られたみことば、すなわち、イエス・キリストの教えの全体を意味しています。
 それで、ここでイエス・キリストが言われる「わたしのことばを聞く者」(直訳)には、時間的に、常に、イエス・キリストが語られることを聞こうとするだけでなく、内容の上でも、自分の気に入ったことだけを聞くのではなく、イエス・キリストが語られることはすべて聞き取ろうとする姿勢があります。
 しかし、かつての私たちはそのような姿勢をまったくもっていませんでした。
 最初の人が神である「」に罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、すべての人が自らのうちに罪の本性を宿して生まれてきて、自らのうちに罪の本性を宿している者として生きています。それで、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されているように、造り主である神さまはいない、ということが、すべての人の考え方と生き方の根本的な前提となっており、根本的な発想となっています。そのために、すべての人が造り主である神さまを神としない社会を形成し、その文化とその伝統を生み出しています。これが、みことばが示している「この世」、「この時代」の特質で、いつの時代のどの社会においても共通しています。それで、これは、私たちが生まれ育った時代と社会の現実です。私たちは、そのような、造り主である神さまを神としない時代と社会の発想になじんでいて、知らず知らずのうちに、そのような発想を身につけてしまっていました。
 このような、造り主である神さまを神としないという根本的な発想に基づいて生み出されている「この世」、「この時代」のことを、神さまのみことばはいろいろな面から描写しています。
 そのようなみことばの一つですが、ローマ人への手紙1章18節ー23節には、

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。

と記されています。
 ここで、

 不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている

と言われているときの「啓示されている」ということについては、いくつかの見方があります。結論的なことを言いますと、これは、ただ単に、人の知性に訴える形で示されているということではなく、旧約聖書において預言的に示されている、終わりの日において神である「」の聖なる御怒りによるさばきが執行されることを頂点とするさばきが、ある形において、すでに歴史の中で現実になっているということを示していると考えられます。
 ここで「ある形において」さばきが執行されているということは、「歴史の歯車が回転していく中でさばきが執行されている」というようなことです。
 今日は、それが具体的にどのようなことかお話ししてから、今お話ししていることとかかわることをお話ししたいと思います。
 「歴史の歯車が回転していく中でさばきが執行されている」ということの最も典型的な現れは、すべての人が死んでいくということです。
 ローマ人への手紙6章23節に、

 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と記されているように、「」は罪がもたらす「報酬」、報いです。これに先立つ20節ー21節には、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになったイエス・キリストを信じるようになる前の私たちのことが、

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。

と記されています。その頃の私たちは「罪の奴隷であった」、罪の力に縛られて生きていたと言われています。そのことが、

 義については自由にふるまっていました。

と言われています。
 この場合の「」は倫理的な正しさを意味していますが、大切なことは、この倫理的な正しさとしての「」は造り主である神さまの御前における「」であって、造り主である神さまを神としないで生きている人々が考えている「」のことではありません。
 かつての私たちは、自分たちなりの義の尺度をもってましたし、それに照らして正しく生きていこうとしていました。そして、実際には、そのように徹底して正しく生きていくことはできないことが自分たちの現実であることを認めながら、いろいろな弁解をしながら生きていました。そして、お互いの間で比べ合って、人並みであるとか、あの人たちよりはましであるというようなことで安心している状態でした。つまり、人と比べるときに自覚されるようになる「相対的な義」を頼みとしていたのです。しかし、そのように生きようとしていたかつての私たちは、自らのうちに罪を宿しているために、人を神のかたちとしてお造りになって、真実に支えてくださっている神さまを神とすることはしていませんでした。
 そのような状態にあった時の私たちのことがローマ人への手紙2章14節ー15節に、

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

と記されています。
 かつての私たちが、自分たちなりの義の尺度をもっていたのは、

 彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。

と記されているように、神さまが人を神のかたちとしてお造りになり、その心にご自身の愛の律法を記してくださっているからです。その愛の律法は、マタイの福音書22章37節ー40節に記されているイエス・キリストの教えに示されているように、

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。

という「第二の戒め」に集約され、まとめられます。そして、この愛の律法こそが、聖なる神さまの御前における「」、すなわち、神さまの御前で通用する「」の尺度です。
 かつての私たちは、造り主である神さまを愛するどころか、造り主である神さまを神とすることもなく、この「第一の戒め」を踏みにじって生きていました。このことが、神さまのみことばが示している罪の本質です。ローマ人への手紙6章20節に、

 あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。

と記されていることは、聖なる神さまの御前において、神さまが神のかたちとしてお造りになった人の心に記しておられる愛の律法を踏みにじって生きていたこと、特に、その「第一の戒め」などないかのように生きていたことを指しています。
 造り主である神さまが神のかたちとしてお造りになった人の心に記してくださっている愛の律法に導かれて、神さまとの愛の交わりに生きること、そして、神さまとの愛の交わりに生きているものとして、お互いに愛し合って生きることこそが、神のかたちとして造られている人のいのちの本質です。罪はこの神さまとの愛の交わりを断ち切ってしまうものです。さらには、お互いの間の愛の交わりを自己中心的に歪めてしまうものです。
 かつての私たちは造り主である神さまとの愛の交わりに生きるどころか、造り主である神さまを神としていない状態にありました。それで、神のかたちとして造られている人としてのいのちを失っている状態にありました。これを、ヨハネの福音書15章1節に、

 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

と記されており、5節に記されている、

 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。

というイエス・キリストのたとえを用いて言うと、イエス・キリストは「まことのぶどうの木」であり、私たちはその「」です。私たちは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによって「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストと結び合わされて。「農夫」にたとえられている父なる神さまに対して、父なる神さまの御前で生きています。それは、私たちがイエス・キリストとの愛にある交わりに生きているということ、また、イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛の交わりに生きているということです。
 かつての私たちは、罪によって「まことのぶどうの木」であり、神のかたちとして造られている人のいのちの源である御子イエス・キリストとの愛の交わりから断ち切られてしまっていました。ぶどうの木から切り離された枝も、しばらくの間は、枝として生きています。しかし、それはだんだんと枯れていく状態にあります。それと同じように、罪によって、神のかたちとして造られている人のいのちの本質である造り主である神さまとの愛の交わりを断ち切られている状態の人は、しばらくの間は生きています。しかし、それは罪がもたらした死と滅びの力に捕らえられている状態でのことです。それは、ついには、死と滅びに至ります。
 これが、神さまのみことばの光の下で明らかにされている造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人の状態です。
 創世記3章17節ー19節には、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった最初の人アダムに対する神である「」のさばきの宣告が記されています。それは、19節に記されている、

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついにはその大地に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたは土のちりだから、
 土のちりに帰るのだ。

という宣告で終わっています。
 これは、人の死は、人が造り主である神さまに対して犯した罪に対するさばきとしてもたらされるものであるということを示すものです。このようにして、すべての人が生まれてから、死に至る歩みを始めているという現実が、先ほどの「歴史の歯車が回転していく中でさばきが執行されている」ということの典型的な現れです。また、この神である「」のさばきの宣告に示されている、人が食べるために労苦を重ねるということ、そこから生じる争いがもたらすさまざまな苦しみと悲しみも、「歴史の歯車が回転していく中でさばきが執行されている」ということの現れです。
 けれども、ここに示されている肉体的な死は、神さまの聖なる御怒りによるさばきのすべてではありません。言ってみれば、肉体的な死は神さまの聖なる御怒りによるさばきの序章に過ぎません。マタイの福音書10章28節には、

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。ここで、

 たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方

と言われているのは、神さまのことです。この教えは、人の肉体的な死が死のすべてではないこと、人の罪に対する神さまの聖なる御怒りによって、世間で地獄とも言われているものに当たる「ゲヘナ」で、「たましいもからだも」滅ぼされることが人の死の真相であることを踏まえて語られています。「ゲヘナ」で、「たましいもからだも」滅ぼされることをマルコの福音書9章43節では、「ゲヘナに、その消えない火の中に落ちる」こととして描いています。


 しかし、このことにはもう一つの面があります。それは、人は、本来、死ぬべきものとして造られているのではないということです。人が神である「」に罪を犯して、御前に堕落してしまった後は、すべての人が死ぬべきものとなってしまいました。しかし、本来、その死は人にとって自然なものではないのです。
 これが、神さまのみことばの光の下で見た人の本来の姿と、堕落後の人の現実です。私たちはすべての人が死の力に捕らえられていることを、人の肉体的な死に触れる度に思い起こされますし、時には、思い知らされます。かつては、それは人にとって自然なことであると思い込んで、あきらめにも近い思いをもっていました。
 しかし、それは私たち自身の罪がもたらしていた霊的な闇によるもので、自分で自分を欺くものでした。先ほど引用した、詩篇14篇1節に、

  愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されているように、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている状態にある人は、造り主である神さまはいないということにして、人は自分が犯した罪に対するさばきを受けて死ぬということを否定しているのです。それは、必ずやって来る神さまの聖なる御怒りによるさばきをないものとして、その意味で、それから目をそらすことによって、安心しようとすることです。神さまのみことばは、そのようにして自分の罪の霊的な闇がもたらしているわなにはまってしまっていることも、「歴史の歯車が回転していく中でさばきが執行されている」ということの現れであることを示しています。
 このように、人は死ぬべきものとして造られてはいませんし、本来、死は人にとって自然なものではありません。死は人が造り主である神さまに対して犯した罪に対する、神さまの聖なる御怒りによる刑罰としてもたらされるものです。そうであれば、もし、人が犯した罪が贖われることがあれば、罪に対する刑罰も執行されることはなくなります。
 これはその通りなのですが、これには重大な問題があります。
 造り主である神さまは無限、永遠、不変の栄光の主です。その神さまによって造られ、今も、神さまによってすべてを支えられている人が、神さまに対して罪を犯したし、今も、罪を犯しているのです。それで、人の罪はそれがどのような罪であっても、無限、永遠、不変の栄光の神さまの聖さを冒す罪であり、その重さは無限です。このような無限に重い罪を贖うためには、やはり、無限の償いがなされなければなりません。それは、人にも御使いにも決してできないことです。まして、自らの罪のために父なる神さまの聖なる御怒りの下にある人には、なおさら無理なことです。
 それで、父なる神さまは、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子をお遣わしになりました。ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節には、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されています。また、マルコの福音書10章45節には、

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 御子イエス・キリストはまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられます。そのまことの神であられる方が、今から2千年前に、罪を除いて、私たちと同じ人としての性質を取って来てくださいました。それによって、私たちご自身の民と一つとなってくださいました。そして、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて私たちに代わって受けてくださいました。先ほど、人の死の真相は、人の罪に対する神さまの聖なる御怒りによって、「ゲヘナ」で、「たましいもからだも」滅ぼされることであるということをお話ししました。イエス・キリストは私たちの罪がもたらしたこのような刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったのです。それによって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは終っています。十字架におかかりになった御子イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった贖い主と信じている私たちは、もはや、神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けることはありません。
 ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に記されているように、このすべては、父なる神さまの私たちご自身の民への愛から出ています。それは、ご自身の御子を遣わしてくださった父なる神さまのみこころが、私たちご自身の民がその父なる神さまの愛を受け止めて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになること、さらには、私たちお互いの愛にある交わりに生きるようになることにあるということを意味しています。続く、11節に、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

と記されているとおりです。この御子イエス・キリストにある、父なる神さまとの愛にある交わりこそが人のいのちの本質です。私たちはこのいのち、永遠のいのちによって生きています。

          *
 ヨハネの福音書5章24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

というイエス・キリストの教えにおいて、「わたしを遣わされた方を信じる者」とは、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、御子イエス・キリストを遣わしてくださった方が、そのことを、御子イエス・キリストのみことばをとおして証ししてくださっているのですが、そのみことばは真実であるとして、受け入れている人のことです。
 その人が、御子イエス・キリストを遣わしてくださった方、すなわち、父なる神さまのみことばを真実であるとして受け入れたことは、どのようにして明らかになるのでしょうか。それは、その人が、自分の罪が贖われるためには、神の御子であられるイエス・キリストの十字架の死によるいのちの価が必要であったことを悟り、その罪を悔い改めて、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じるようになることに現れてきます。
 しかし、罪の力によって縛られている人は、自分の罪を認めて、悔い改めることができません。
 最初に、神のかたちとして造られた人は、エデンの園にご臨在してくださっている神である「」との愛の交わりに生きていました。その神である「」との愛の交わりは、神のかたちとして造られている人のいのちの本質でしたし、人にとっては最も祝福に満ちた喜びの源でした。
 しかし、人が神である「」に罪を犯して、御前に堕落してしまったとき、喜びの源であった神である「」の御臨在は恐怖の源になってしまいました。最初の人とその妻が、神である「」に罪を犯してしまった後のことを記している創世記3章8節ー10節には、

そよ風の吹くころ、彼らは、神であるが園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。神であるは、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」

と記されています。
 ここで、「そよ風の吹くころ」と言われているのは、エデンの園を耕し、生き物たちのお世話をしていた人が神である「」とのより直接的で親しい交わりをもつために、神である「」が親しくご臨在してくださった時を指していると考えられます。
 もちろん、この時、神である「」は、人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていることをご存知でした。しかし、あたかもそれをご存知でないかのように、エデンの園にご臨在されました。それは、人とその妻が自分たちが犯した罪を告白して悔い改める機会を与えてくださるためのことでした。
 しかし、11節ー13節に、

主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」神であるは女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」

と記されているように、人とその妻は自分たちが罪を犯したことを「」の御前で認めて、告白して、悔い改めるどころか、自分たちは被害者であるかのような言い訳をしています。アダムは、

私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。

と言って、自分の妻を告発していますし、エバは、

 蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。

と言って、「蛇」を告発しています。アダムとエバは、神である「」の戒めに背いたことは認めますが、その責任は自分にないと主張しているのです。
 これによって、神である「」に罪を犯した人は、その罪を神である「」に告白して悔い改めることはしない、というより、神である「」の御前に罪を悔い改めることができないということが示されています。
 私たちもかつてはそのような状態にありました。その私たちが父なる神さまに対して自分の罪を告白して、悔い改めることができたのは、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によることでした。その御霊が、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いを私たちに当てはめてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださったことによっています。御霊によって新しく生まれた私たちは、ご自身の御子を遣わしてくださった父なる神さまの愛を信じることができるようになり、さらにその父なる神さまの愛に触れたことによって、恐れから解放され、自分が神である「」に対して罪を犯したことを認めて、罪を告白し、悔い改めることができるようになったのです。


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