黙示録講解

(第404回)


説教日:2019年12月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(157)


 本主日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 ヨハネの福音書5章19節ー29節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 これまで2回にわたって、24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えについてお話ししました。今日は、先主日にお話しした、24節に記されている

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えについて、さらに補足するお話をします。
 まず、先主日にお話ししたことで、これからお話しすることとかかわっていることを振り返っておきます。
 ここで、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は

と言われているときの「わたしのことば」(ホ・ロゴスの対格)は単数形で、イエス・キリストが語られたみことば、すなわち、イエス・キリストの教えの全体を意味しています。イエス・キリストの教え、イエス・キリストが語られたみことばには、私たちの想像を遥かに越えた広さ、高さ、深さがありつつ、私たちの想像を遥かに越えた、親しさと細やかさと日常性を備えています。そのすべてが調和のうちにあり、全体的なまとまりがあります。
 そして、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者

と言われているときの「わたしを遣わされた方を信じる」ということは、「わたしを遣わされた方」、すなわち、父なる神さまが語られたことは真実であるとして受け入れることを意味しています。それは、また、イエス・キリストが語られたことは真実であるとして受け入れることを意味しています。というのは、イエス・キリストが語られることは、すべて、父なる神さまがイエス・キリストにお示しになったことであるからです。
 先主日に引用したイエス・キリストの教えの一部を二つ引用しますと、7章16節には、

 わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。

と記されていますし、12章50節には、

 わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。

と記されています。
 さらに、先主日には引用しませんでしたが、3章31節ー36節には、

上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

と記されています。
 今日は、このみことばについてお話しして、先主日にお話ししたことの補足としたいと思います。
 ここに記されていることはイエス・キリストの教えではなく、著者であるヨハネの説明のことばです。
 31節に出てくる「上から来られる方」とは、御子イエス・キリストのことです。この「上から来られる方」は、同じ31節の後の部分で、「天から来られる方」と言い換えられています。これは、無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられる方が、人としての性質を取って来てくださったことを踏まえています。
 その意味で、これは、1章1節ー3節で、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と証しされている、まことの神であられる、永遠の「ことば」が、14節で、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と証しされていることに当たります。
 それで、ここでは、

 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。

と言われています。1章3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と証しされている方は、当然、「すべてのものの上におられる」方であり、すべてのものを真実に支え、導いておられる方です。
 一つの疑問は、ここでは、この方のことが「上から来られた方」、「天から来られた方」というように、すでに来られた方と言われないで、「上から来られる方」、「天から来られる方」(現在分詞、ホ・エルコメノス)と言われていることです。これについては、あまり自信がないのですが、おそらく、英語圏の人々は、このような疑問をもたないのではないかと思います。というのは、英語では、出自、出身や属している所などを聞く時に、Where do you come from?というように現在時制で聞き、I come from....と現在時制で答えることがあるからです。いずれにしても、この「上から来られる方」、「天から来られる方」は、イエス・キリストの出自、出身は天であり、イエス・キリストが天に属しておられることを示しています。
 この「上から来られる方」、「天から来られる方」と対比されているのは、

 地から出る者は地に属し、地のことを話す。

と言われているときの「地から出る者」です。
 これは、先ほどのように、英語で出自、出身や属しているところを聞く時に、Where are you from?と聞き、I am from....と答えることを考えると分かりやすいかと思います。
 ここでは「地から出る者」は「地に属し」ていると言われています。この、

 地から出る者は地に属し、地のことを話す。

と訳されている部分を直訳調に訳すと、

 地から出ている者は地に属している。そして、彼は地から話す。

というようになります。この直訳調の「地から出て」と「地に属して」と「地から」の三つは同じことば(エク・テース・ゲース)で表されていて、その結びつきの緊密さを感じさせます。
 注意したいのは、ここで取り上げられているのは、地から出て、地に属している者のことで、必ずしも、この世の者、この世に属している者のこととは限りません。この、地から出て、地に属している者はすべての人に当てはまります。これに対して、32節では、「上から来られる方」、「天から来られる方」は、「すべてのものの上におられる」と言われていることから分かりますが、ただ一人の方、御子イエス・キリストです。
 新改訳2017年版で、

 地から出る者は地に属し、地のことを話す。

と訳されているときの、

 地のことを話す。

ということについては注意が必要です。というのは、ここで言われている地から出て、地に属している者は、「地のこと」ばかりを話して、天のことは話さないかのような印象を与えてしまうかも知れないからです。
 先ほどお話ししたように、この「地のことを話す」は直訳調では「地から話す」で、地から出て、地に属している者としての根本的なものの見方や考え方に従って話すということを意味しています。彼は「天」についてもいろいろなことを話すのですが、地から出て、地に属している者の視点から、また、地から出て、地に属している者の発想に従って話すのです。それで、「天」について決定的なことを話すことはできません。
 そればかりではありません。実際には、地から出て、地に属している者は、「天」の中心にご臨在しておられる神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっています。そのために、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されているように、造り主である神さまはいないということを根本的な前提としています。
 地から出て、地に属している者は、生きておられるまことの神さまを神としないで、自分たちの間尺に合う神々を考え出し、それに仕えるさまざまな社会と文化を造り出しています。そのような状態にある人々のことが、ローマ人への手紙1章18節ー23節には、

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。

と記されています。地から出て、地に属している者は、そのような状態にあって、「天」のことも、あれこれと語っているのです。


 これに対して、「上から来られる方」、「天から来られる方」は、初めから「天」に属しておられ、それゆえに、真の意味で「天」に属しておられます。この方については、32節で、

 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。

と言われています。
 この方が「見たこと、聞いたこと」とは、「天」のことです。この方は「すべてのものの上におられる」方です。「天」もこの方がお造りになったものであり、この方が権威をもって治めておられるものです。この方は、申命記10章14節で、

 見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、のものである。

と証しされている栄光の神である「」です。また、列王記第一・8章27節には、エルサレム神殿を建設したダビデの子ソロモンが、その神殿を奉献した時に、神である「」に祈った祈りにおいて、

それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。

と告白したことが記されています。神である「」は存在において無限、永遠、不変の方です。その方が、造られた世界のどこかに納まってしまうことはありえません。その方は、また、栄光において無限、永遠、不変の方です。その方が、その無限の栄光のままにこの造られた世界にご臨在されるとしたら、この世界は一瞬のうちにその栄光によって焼き尽くされてしまいます。
 そうであっても、神である「」はこの世界にご臨在されます。それは、栄光の主であられる方が、無限に身を低くされ、無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、「天」にご臨在され、「地」にご臨在されるからです。そのようにして、無限に身を低くされて、「天」にご臨在され、「地」にご臨在される「役割」「職務」を担っておられる方が、御子イエス・キリストです。
 ですから、ヨハネの福音書3章32節で、

 この方は見たこと、聞いたことを証しされる

と言われているのは、人が自分の国で見たこと、聞いたことを話すということとは、まったく、意味が違います。人の場合には、見ることも、聞くことも限られていますし、その真相や本質を完全に汲み取ることもできていません。しかし、この方は、ご自身の知恵と御力によって「天」とそこにあるものすべてをお造りになった方であり、「天」とそこにあるものすべてを真実に保ち続けておられる方です。それで、「天」のことを、すべて、その主権者としての権威をもって、決定的に語る方です。この方の証しは確かな証しです。
 しかし、32節には、

 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。

と記されています。この方の証しは確かな証しなのですが、

 だれもその証しを受け入れない。

というのです。
 それは、先ほどお話ししたように、地から出て、地に属している者は、実際には、「天」の中心にご臨在しておられる神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていて、造り主である神さまはいないということを根本的な前提として、すべてのことを考え、生きているからです。地から出て、地に属している者はすべて、造り主である神さまによって造られ、その御手によって支えられて生きているのに、自らのうちに罪の本性を宿すものとして生まれてくるので、その神さまはいないということを当然のこととして生きています。それぞれが造り主である神さまはいないということを当然のこととして生きているだけでなく、社会も国家も含めた、すべての時代が、造り主である神さまはいないということを当然のこととする文化を造り出し、それを継承する歴史を造り出しています。そのために、すべての人が、自らのうちにある罪の力に捕らえられて生きているのに、そして、その行き着く先は、罪のもたらす死であり、滅びであるのに、そのことに気づくこともできません。
 このように、32節では、

 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。

と記されています。
 ところが、続く33節には、

 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。

と記されています。地から出て、地に属している者は、

 だれもその証しを受け入れない。

と言われているのに、

 その証しを受け入れた者

がいるというのです。
 このことを理解するための鍵があります。
 それは、31節において、御子イエス・キリストのことが「上から来られる方」と呼ばれていることです。この「上から来られる方」の「上から」と訳されていることば(アノーセン)は、このヨハネの福音書3章の前半に記されている、イエス・キリストが「ユダヤ人の議員」であったニコデモの問いかけに答えて語られた教えに出てくることばです。3節ー5節には、

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

と記されています。
 ここで、イエス・キリストはニコデモに二つの教えを語っておられます。そのうちの最初の教えは3節に記されている、

 人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

という教えです。この教えに出てくる「新しく生まれなければ」ということの「新しく」と訳されていることばが、31節でイエス・キリストのことが「上から来られる方」と言われているときの「上から」と訳されていることば(アノーセン)です。このことばには、「新しく」という意味と「上から」(その意味で「天から」)という意味があります。ヨハネは一つのことばに二つの意味がある場合に、その二つの意味を込めて記していると考えられる事例があります。この場合も、その事例であると考えられます。
 ここでイエス・キリストはニコデモに、

 人は、上から、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

というように教えられたと考えられます。しかし、4節には、これを聞いたニコデモが、

人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。

と答えたことが記されています。ニコデモはこのことば(アノーセン)を「新しく」と理解して話を進めています。それで、3節に記されているイエス・キリストの教えも、

 人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

と訳さないと話の筋が通らなくなってしまいます。
 けれども、イエス・キリストはこの4節に記されているニコデモの問いかけに対して、

 まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

とお答えになっておられます。
 ここでイエス・キリストは、人は「水と御霊によって」生まれるのでなければ「神の国に入ること」はできないと言われます。「水と御霊によって」ということは、詳しい説明は省きますが、旧約聖書エゼキエル書36章25節ー27節に、

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。

と記されている預言のみことばを背景としていると考えられます。これは、終わりの日に、神である「」がご自身の民を回復し、新しく造り変えてくださることを約束してくださっているみことばです。ここには「きよい水」を振りかけてくださることと、「」の御霊を与えてくださることが約束されていますが、この二つは、実質的には、「」の御霊を指し示していると考えられます。それで、イエス・キリストの教えで「水と御霊によって」生まれると言われていることは、「」の御霊によって生まれるということを意味しています。イエス・キリストは、この5節に記されている、

 人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

という教えによって、3節に、

 人は、上から、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

と記されている教えで問題となっていることば(アノーセン)の「上から」ということが、実際には、「」の御霊によってということであるということを伝えています。
 それで、ヨハネの福音書3章3節と5節に記されているイエス・キリストの教えでは、

 人は、上から[御霊によって]、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

ということが教えられていることになります。
 3節に出てくる「神の国を見ること」と5節に出てくる「神の国に入ること」は実質的に同じことを示しています。神の国に入っている人は、神の国を見ることができます。この場合の、神の国を見るということは、メシアである方が、その愛と恵みによって、ご自身の民を支えてくださり、導いてくださっている祝福を、実際に、自分のこと、また、自分たちのこととして経験し、味わうようになることを意味しています。このすべては、神である「」が御霊によって私たちご自身の民それぞれのうちに、また、私たちご自身の民の間にご臨在してくださって実現してくださることです。
 これらのことから、3章32節で、

 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。

と言われているのに、33節で、

 その証しを受け入れた者は、

と言われている人々がいるのは、神である「」がその人々を御霊によって、新しく生まれさせてくださるからであることが分かります。
 このこととの関連で思い起こされるのは、コリント人への手紙第一・2章14節に記されている、

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。

という教えです。

 ヨハネの福音書3章33節では、「上から[御霊によって]、新しく生まれ」た人のことが、

 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。

と言われています。その理由が34節に、

 神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。

と記されています。ここでは、この文の後半が前半の理由を示すようになっています。それはそのとおりなのですが、前半の、

 神が遣わした方は、神のことばを語られる。

ということにも、理由を表す接続詞(ガル)があって、その前の33節に記されていることの理由を示しています。このように、34節には理由を表す接続詞(ガル)が二つあって訳すのが難しいのですが、あえて、この二つの理由を表す接続詞を訳し出して、33節ー34節のつながりを訳すと、

その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。なぜなら、神が遣わした方は、神が御霊を限りなくお与えになるので、神のことばを語られるからである。

というようになるでしょう。
 これらのことは、5章24節に、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

と記されているときの、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者

が、イエス・キリストの「ことばを聞いて」、イエス・キリストを遣わされた方、すなわち、父なる神さまがが語られたことは真実であるとして受け入れることと、実質的に、同じことを意味しています。
 改めて確認するのですが、5章24節で、イエス・キリストの「ことばを聞いて」、イエス・キリストを遣わされた方、すなわち、父なる神さまがが語られたことは真実であるとして受け入れるのは、イエス・キリストが語られることは、すべて、父なる神さまが語られることであるからです。
 それと同じように、3章33節で、イエス・キリストの「証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押した」と言われているのは、「神が遣わした方」、すなわち、イエス・キリストが「神のことばを語られる」からです。
 5章24節では、そのように、イエス・キリストの「ことばを聞いて」、イエス・キリストを遣わしてくださった方が語られることは真実であるとして受け入れた人は、

 永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

と言われています。ほぼ同じことが、3章33節ー34節に続く35節ー36節でも、

父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

と言われています。


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