黙示録講解

(第403回)


説教日:2019年11月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(156)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 ヨハネの福音書5章19節ー29節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 先主日は、24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えが、

 まことに、まことに、あなたがたに言います。

というみことばから始まっていることについてお話ししました。
 今日は、これに続く、

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えについてお話しします。

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は

と言われているときの「わたしのことば」は単数形で、イエス・キリストが語られたみことばの全体を意味しています。イエス・キリストのみことばはすべてが調和のうちにあり、全体的なまとまりがあります。
 19節ー20節には、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここでは、御子イエス・キリストがなさっておられることは、すべて、ご自分から行っておられるのではなく、父なる神さまがなさっておられることを見て行っておられることであるということが示されています。これだけですと、本当は、そのようなことはないのですが、御子イエス・キリストは、父なる神さまがなさっておられることのすべてを見ておられるのではないのではと思われてしまう可能性もあります。しかし、ここでは、

 父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになる

と言われています。そして、

 すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

とも言われています。
 御子イエス・キリストがなさっておられることは、すべて、ご自分からではなく、父なる神さまから出ています。御子イエス・キリストがなさっておられることは、すべて、父なる神さまがなさっておられることです。また、父なる神さまがなさっておられることは、すべて、御子イエス・キリストがなさっておられます。
 この場合には、イエス・キリストがなさっておられることが取り上げられています。それは、イエス・キリストが38年間も病気にかかっている人を、安息日にお癒しになったことで、ユダヤ人の指導者たちから、イエス・キリストが安息日を破っていると糾弾された時に、17節に記されているように、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

とお答えになったこととかかわっています。
 この「今に至るまで」というのは、天地創造の御業の6日間に創造の御業を遂行された神さまが、天地創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し聖別されたことを受けています。
 その、神さまがご自身の安息の「日」とされた天地創造の御業の第7日はいまだ閉じていなくて、世の終わりまで続きます。父なる神さまは、この、ご自身の安息の「日」において、天地創造の御業以来「今に至るまで」お造りになったすべてのものを真実に支えてくださり、導いてくださっています。それで、御子イエス・キリストも、安息の日において、38年間も病気にかかっている人を、安息日にお癒しになったのです。
 ヨハネの福音書1章1節ー3節には、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されています。天地創造の御業は、永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにおられる「ことば」、すなわち、御子によって遂行されました。このことを、5章19節に記されている、

 子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

というイエス・キリストの教えに当てはめると、天地創造の御業は、御子が父なる神さまがなさることを見て遂行されたものであるということになります。
 また、ヘブル人への手紙1章3節には、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されています。ここに記されている御子イエス・キリストが、

 その力あるみことばによって万物を保っておられます

ということも、御子が父なる神さまがなさることを見て遂行しておられることであるということになります。
 ヨハネの福音書5章24節に記されている、

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

という教えにも同じようなことが当てはまります。
 このようなことを踏まえて、ここで、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は

と言われていることを見てみましょう。
 ここで「信じる」と訳されていることばは、これに相当する言い方の区別が日本語にないので説明するのが難しいのですが、より一般的な、神さまを「信頼して自分を委ねる」という意味合い[ピステウオー・エン、あるいは、ピステウオー・エイス、英語のbelieve inに当たります]ではなく、神さまを「信用する」とか、神さまが言われることを「本当のことであるとして受け入れる」というような意味合い[ピステウオー、英語のbelieveに当たります]を伝えています。ただ、これは微妙な意味合いの違いであって、明確な違いではありません。神さまを「信頼して自分を委ねる」ことには、神さまを「信用する」こと、神さまが言われることを「本当のことであるとして受け入れる」ことも含まれますし、神さまを「信用する」ので、あるいは、神さまが言われることを「本当のことであるとして受け入れる」ので、神さまを「信頼して自分を委ねる」のです。
 ここで言われていることを理解するために、これに関連するイエス・キリストの教えをいくつか見てみましょう。すべてヨハネの福音書からの引用ですので、章と節だけを示します。
 7章16節ー17節には、

わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストの教えは、イエス・キリストをお遣わしになった方、すなわち、父なる神さまの教えであるということが示されています。
 また、12章48節ー50節には、

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストが語られることは、父なる神さまがイエス・キリストに言われたとおりのことであることが示されています。
 さらに、14章9節ー10節には、

イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストが語られるみことばは、イエス・キリストのうちにおられる父なる神さまが「ご自分のわざを行っておられる」もの、父なる神さまが語っておられるものだということが示されています。


 さらにまた、8章28節には、

あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが「わたしはある」であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。

と記されています。
 ここで、

 あなたがたが人の子を上げたとき、

と言われていることは、ユダヤ人たちがイエス・キリストを十字架につけることを指しています。
 ここでは、彼らはイエス・キリストを十字架につけたときに、二つのことを知るようになると言われています。もちろん、これはすべてのユダヤ人のことではなく、ユダヤ人の中からこの二つのことを知るようになる人々が出てくるということです。
 一つは、

 わたしが「わたしはある」であること

です。この「わたしが『わたしはある』である」は、強調形のエゴー・エイミで表されています。これは、契約の神である「主」、ヤハウェの御名です。つまり、イエス・キリストこそが契約の神である「主」ヤハウェであられるということです。イエス・キリストは私たちご自身の民の罪を贖うために十字架につけられました。そして、十字架の上で私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、すべて、私たちに代わって受けてくださいました。それによって、私たちの罪は、すべて、完全に、贖われました。ここでは、イエス・キリストを十字架につけて殺したユダヤ人たちが、自分たちが十字架につけたイエス・キリストによって成し遂げられた罪の贖いにあずかって、自分たちが十字架につけたイエス・キリストこそが、

  わたしが「わたしはある」である

というお方、契約の神である「主」ヤハウェであられることを悟るようになることが示されています。
 ユダヤ人たちが知るようになるもう一つのことは、そのイエス・キリストが、

 自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたこと

です。イエス・キリストイエス・キリストこそが契約の神である「主」ヤハウェであられることを知るようになるユダヤ人たちは、また、そのイエス・キリスト、ヤハウェであられるイエス・キリストが、父なる神さまが教えられたとおりのことを語っておられたということを知るようになるということです。
 このこととの関連で、16章13節ー15節に記されているイエス・キリストの教えも見てみましょう。そこには、

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストの弟子たちに福音の真理を悟らせてくださる方は「真理の御霊」であることが示されています。このことはそのまま私たちにも当てはまります。先ほどの、ユダヤ人たちが自分たちが十字架につけたイエス・キリストこそは契約の神である「主」ヤハウェであられることを悟るようになるのは、「真理の御霊」が彼らを「すべての真理に導いて」くださるからに他なりません。ここでは、

 真理の御霊が来ると

と言われています。「真理の御霊」はやがて来られる方です。それは、このことをイエス・キリストが語っておられる時からすると、やがて来られるということです。イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪をすべて完全に清算してくださってから、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上り、父なる神さまの右の座に着座され、そこから御霊を遣わしてくださったことによって、このことは、すでに、私たち「主」の契約の民の間で実現しています。
 この栄光のキリストが遣わしてくださった御霊は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになります。私たち「主」の民一人一人を、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、私たちを栄光のキリストの復活のいのちにあずからせてくださって新しく生まれさせてくださり、栄光のキリストとの愛の交わり、また、栄光のキリストにあってご臨在してくださっている父なる神さまとの愛の交わりに生きる神の子どもとして導いてくださいます。この栄光のキリストとの愛の交わり、また、栄光のキリストにあってご臨在してくださっている父なる神さまとの愛の交わりに生きることが、永遠のいのちの本質です。
 ここでは、この御霊のことが「真理の御霊」と呼ばれています。それは、この「真理の御霊」が私たちを導いてくださって「すべての真理」を悟らせてくださるからです。その「すべての真理」とは、イエス・キリストご自身と、イエス・キリストが私たちご自身の民のために成し遂げてくださった贖いの御業にかかわる福音の真理のすべてです。ですから、「真理の御霊」が私たちを導いてくださらない限り、人は福音の真理を一つも悟ることができません。
 そして、14節では、

 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。

と言われています。御霊が語られることは、御子イエス・キリストが語られることです。さらに、15節では、

 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

と言われています。御霊が語られることは、御子イエス・キリストが語られることであり、御子イエス・キリストが語られることは、父なる神さまが語られることです。

 これらのことを踏まえて、改めて5章24節に、

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

と記されていることを見てみましょう。
 ここで、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者

と言われているときの、
 「わたしのことば」は、イエス・キリストが語られたみことばの全体です。その、イエス・キリストが語られたみことばは、父なる神さまがイエス・キリストに言われたとおりのことです。それで、イエス・キリストが語られたみことばを聞く人は、父なる神さまのみことばを聞いています。
 そして、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者

と言われているときの「わたしを遣わされた方を信じる」ということは、「わたしを遣わされた方」すなわち父なる神さまが語られたことは真実であるとして受け入れることを意味しています。それは、また、イエス・キリストが語られたことは真実であるとして受け入れることを意味しています。イエス・キリストが語られたことは真実であるとして受け入れることがなければ、父なる神さまが語られたことは真実であるとして受け入れることはできません。それで、イエス・キリストは、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者

言い換えると、

 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方のことばは真実であるとして受け入れる者

と言われたのです。
 ここでは父なる神さまのことが「わたしを遣わされた方」と言われています。父なる神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださったことについて、3章16節ー18節には、

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

と記されています。
 16節で、

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。

と言われているように、父なる神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださったことは、父なる神さまの「そのひとり子をお与えになったほど」の愛から出ていることが示されています。これに続いて、

 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と言われているときの「一人として滅びることなく」というみことばは、父なる神さまが御子を遣わしてくださらなければ、人はすべて滅びることになるということを意味しています。それは、すべての人が神さまに対して罪を犯しており、その罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを自分自身が受けて滅びるようになるということです。ここでは、神さまはご自身に対して罪を犯している人々を愛してくださって、ご自分の御子をも与えてくださったと言われているのです。
 ローマ人への手紙5章8節には、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と記されています。
 また、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節には、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されています。
 父なる神さまが御子を遣わされたのは、御子を「私たちの罪のために、宥めのささげ物」としてくださるためでした。それは、御子イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって、すべて受けてくださったことによって実現しています。
 ヨハネの福音書3章に戻ると、17節では、父なる神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださった目的について、

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

と言われています。これをもう少し詳しく言うと、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく」、御子を「私たちの罪のために、宥めのささげ物」として十字架につけて、私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを御子に対して執行するためでした。そして、この十字架につけられて「私たちの罪のために、宥めのささげ物」となられた御子によって、「世が救われるため」でした。そればかりではありません。御子イエス・キリストは十字架の死に至るまで、ご自分をお遣わしになった父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして、栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。それは、父なる神さまが私たちご自身の民を御子イエス・キリストのよみがえりにあずからせてくださって、永遠のいのちをもつものとしてくださるためでした。
 5章24節に記されている、

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

ということを私たちご自身の民の間に実現してくださるために、父なる神さまは御子イエス・キリストを遣わしてくださり、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、贖いの御業を遂行してくださいました。
 そして、ご自身が御子イエス・キリストによって成し遂げてくださったことは、御子イエス・キリストをとおして、私たちへの愛を現してくださったことだと、私たちに証ししてくださっています。私はその父なる神さまの愛による証しを真実であるとして受け入れています。
 それで、ここでは、御子イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神さまを信じている私たちご自身の民は、すでに、「永遠のいのち」をもっていると言われています。また、私たちの罪に対するさばきは御子イエス・キリストの十字架において執行されて終っているので、私たちは「さばきにあうことがな」いと言われています。さらに、私たちは御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかっているので、「死からいのちに移って」いると言われています。


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