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説教日:2019年11月24日 |
さらにまた、8章28節には、 あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが「わたしはある」であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。 と記されています。 ここで、 あなたがたが人の子を上げたとき、 と言われていることは、ユダヤ人たちがイエス・キリストを十字架につけることを指しています。 ここでは、彼らはイエス・キリストを十字架につけたときに、二つのことを知るようになると言われています。もちろん、これはすべてのユダヤ人のことではなく、ユダヤ人の中からこの二つのことを知るようになる人々が出てくるということです。 一つは、 わたしが「わたしはある」であること です。この「わたしが『わたしはある』である」は、強調形のエゴー・エイミで表されています。これは、契約の神である「主」、ヤハウェの御名です。つまり、イエス・キリストこそが契約の神である「主」ヤハウェであられるということです。イエス・キリストは私たちご自身の民の罪を贖うために十字架につけられました。そして、十字架の上で私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、すべて、私たちに代わって受けてくださいました。それによって、私たちの罪は、すべて、完全に、贖われました。ここでは、イエス・キリストを十字架につけて殺したユダヤ人たちが、自分たちが十字架につけたイエス・キリストによって成し遂げられた罪の贖いにあずかって、自分たちが十字架につけたイエス・キリストこそが、 わたしが「わたしはある」である というお方、契約の神である「主」ヤハウェであられることを悟るようになることが示されています。 ユダヤ人たちが知るようになるもう一つのことは、そのイエス・キリストが、 自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたこと です。イエス・キリストイエス・キリストこそが契約の神である「主」ヤハウェであられることを知るようになるユダヤ人たちは、また、そのイエス・キリスト、ヤハウェであられるイエス・キリストが、父なる神さまが教えられたとおりのことを語っておられたということを知るようになるということです。 このこととの関連で、16章13節ー15節に記されているイエス・キリストの教えも見てみましょう。そこには、 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。 と記されています。 ここでは、イエス・キリストの弟子たちに福音の真理を悟らせてくださる方は「真理の御霊」であることが示されています。このことはそのまま私たちにも当てはまります。先ほどの、ユダヤ人たちが自分たちが十字架につけたイエス・キリストこそは契約の神である「主」ヤハウェであられることを悟るようになるのは、「真理の御霊」が彼らを「すべての真理に導いて」くださるからに他なりません。ここでは、 真理の御霊が来ると と言われています。「真理の御霊」はやがて来られる方です。それは、このことをイエス・キリストが語っておられる時からすると、やがて来られるということです。イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪をすべて完全に清算してくださってから、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上り、父なる神さまの右の座に着座され、そこから御霊を遣わしてくださったことによって、このことは、すでに、私たち「主」の契約の民の間で実現しています。 この栄光のキリストが遣わしてくださった御霊は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになります。私たち「主」の民一人一人を、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、私たちを栄光のキリストの復活のいのちにあずからせてくださって新しく生まれさせてくださり、栄光のキリストとの愛の交わり、また、栄光のキリストにあってご臨在してくださっている父なる神さまとの愛の交わりに生きる神の子どもとして導いてくださいます。この栄光のキリストとの愛の交わり、また、栄光のキリストにあってご臨在してくださっている父なる神さまとの愛の交わりに生きることが、永遠のいのちの本質です。 ここでは、この御霊のことが「真理の御霊」と呼ばれています。それは、この「真理の御霊」が私たちを導いてくださって「すべての真理」を悟らせてくださるからです。その「すべての真理」とは、イエス・キリストご自身と、イエス・キリストが私たちご自身の民のために成し遂げてくださった贖いの御業にかかわる福音の真理のすべてです。ですから、「真理の御霊」が私たちを導いてくださらない限り、人は福音の真理を一つも悟ることができません。 そして、14節では、 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。 と言われています。御霊が語られることは、御子イエス・キリストが語られることです。さらに、15節では、 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。 と言われています。御霊が語られることは、御子イエス・キリストが語られることであり、御子イエス・キリストが語られることは、父なる神さまが語られることです。 これらのことを踏まえて、改めて5章24節に、 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。 と記されていることを見てみましょう。 ここで、 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者 と言われているときの、 「わたしのことば」は、イエス・キリストが語られたみことばの全体です。その、イエス・キリストが語られたみことばは、父なる神さまがイエス・キリストに言われたとおりのことです。それで、イエス・キリストが語られたみことばを聞く人は、父なる神さまのみことばを聞いています。 そして、 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者 と言われているときの「わたしを遣わされた方を信じる」ということは、「わたしを遣わされた方」すなわち父なる神さまが語られたことは真実であるとして受け入れることを意味しています。それは、また、イエス・キリストが語られたことは真実であるとして受け入れることを意味しています。イエス・キリストが語られたことは真実であるとして受け入れることがなければ、父なる神さまが語られたことは真実であるとして受け入れることはできません。それで、イエス・キリストは、 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者 言い換えると、 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方のことばは真実であるとして受け入れる者 と言われたのです。 ここでは父なる神さまのことが「わたしを遣わされた方」と言われています。父なる神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださったことについて、3章16節ー18節には、 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。 と記されています。 16節で、 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。 と言われているように、父なる神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださったことは、父なる神さまの「そのひとり子をお与えになったほど」の愛から出ていることが示されています。これに続いて、 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 と言われているときの「一人として滅びることなく」というみことばは、父なる神さまが御子を遣わしてくださらなければ、人はすべて滅びることになるということを意味しています。それは、すべての人が神さまに対して罪を犯しており、その罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを自分自身が受けて滅びるようになるということです。ここでは、神さまはご自身に対して罪を犯している人々を愛してくださって、ご自分の御子をも与えてくださったと言われているのです。 ローマ人への手紙5章8節には、 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。 と記されています。 また、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節には、 神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。 それによって 神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 と記されています。 父なる神さまが御子を遣わされたのは、御子を「私たちの罪のために、宥めのささげ物」としてくださるためでした。それは、御子イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって、すべて受けてくださったことによって実現しています。 ヨハネの福音書3章に戻ると、17節では、父なる神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださった目的について、 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 と言われています。これをもう少し詳しく言うと、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく」、御子を「私たちの罪のために、宥めのささげ物」として十字架につけて、私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを御子に対して執行するためでした。そして、この十字架につけられて「私たちの罪のために、宥めのささげ物」となられた御子によって、「世が救われるため」でした。そればかりではありません。御子イエス・キリストは十字架の死に至るまで、ご自分をお遣わしになった父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして、栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。それは、父なる神さまが私たちご自身の民を御子イエス・キリストのよみがえりにあずからせてくださって、永遠のいのちをもつものとしてくださるためでした。 5章24節に記されている、 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。 ということを私たちご自身の民の間に実現してくださるために、父なる神さまは御子イエス・キリストを遣わしてくださり、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、贖いの御業を遂行してくださいました。 そして、ご自身が御子イエス・キリストによって成し遂げてくださったことは、御子イエス・キリストをとおして、私たちへの愛を現してくださったことだと、私たちに証ししてくださっています。私はその父なる神さまの愛による証しを真実であるとして受け入れています。 それで、ここでは、御子イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神さまを信じている私たちご自身の民は、すでに、「永遠のいのち」をもっていると言われています。また、私たちの罪に対するさばきは御子イエス・キリストの十字架において執行されて終っているので、私たちは「さばきにあうことがな」いと言われています。さらに、私たちは御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかっているので、「死からいのちに移って」いると言われています。 |
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