先主日には秋の特別集会をしましたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は黙示録からのお話に戻ります。
今お話ししているのは、2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、
彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。
という約束のみことばとの関連で取り上げている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてです。
ヨハネの福音書5章19節ー29節には、
イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」
と記されています。
これまで3回にわたって、22節ー23節に記されている、
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。
という教えの後半の23節に記されている、
それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。
ということについてお話ししました。
今日は、続く24節に記されている、
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
という教えについてお話しします。
この教えは、
まことに、まことに、あなたがたに言います。
というみことばから始まっています。
このように、何かを語る時に、
まことに、まことに、あなたがたに言います。
というように「まことに」ということばから始めることは、他の福音書にも見られることで、イエス・キリストだけがなさっておられることです。また、「まことに、まことに」というように「まことに」ということばを重ねて、強調して語り始めることはヨハネの福音書にだけ見られることです。
ここで「まことに、まことに」と言われているときの「まことに」ということばは、私たちが神さまに祈るときの最後に加える「アーメン」ということばです。
今日は、この「アーメン」ということばについて、少し時間を取ってお話ししたいと思います。
このことばは、ヘブル語の「確証する」こと、「是認すること」、「支持する」ことなどを表す(TWOT, #116)動詞「アーマーン」の同族語の「アーメーン」ということばを音訳したギリシア語を、日本語に音訳したものです。
旧約聖書では、基本的には、「そのとおりです」ということと「そのようになりますように」ということを表していて、語られたことに対する応答として、それに同意したり、それを認めたり、受け入れることを表すために用いられています。
その用例をいくつか見てみましょう。
民数記5章22節、申命記27章15節ー26節、ネヘミヤ記5章13節、エレミヤ書11章5節には「主」の契約に背く者たちへののろいが宣告されたことに対して「アーメン」と言って応答することが記されています。
代表的に申命記27章15節以下のことをお話しすると、申命記27章ー28章には「主」の契約を守る者への祝福と、それに背く者へののろいが記されています。実は、申命記全体が古代オリエントの文化において一般的に見られる「宗主権条約」の形式(書式)に従って記されています。その条約文においては「祝福とのろい」は条約文を構成する必須の要素になっています。
27章15節ー26節には、具体的にのろわれるべきことが挙げられています。たとえば、のろわれるべきこととして挙げられている最初の五つは、15節ー19節に、
職人の手のわざである、主が忌み嫌われる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな答えて、アーメンと言いなさい。「自分の父や母を軽んじる者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「隣人との地境を移す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「目の見えない人を道に迷わせる者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「寄留者、孤児、やもめのさばきを曲げる者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
と記されています。
少し話がそれますが、第1ー第3に挙げられているのは、偶像を造り礼拝すること、父母を軽んじること、「主」が割り当てられた土地(相続地)に関して不正を行うことなど、根本的に大切なことです。それに続いて、「目の見えない人」と「寄留者、孤児、やもめ」など、社会的に弱い人々に不正を行うことが挙げられています。
このことは注目に値します。というのは、この後に、さまざまな形で近親相姦をすること、獣姦をすること、秘かに隣人を殺すこと、わいろを受け取り、咎のない人を殺すことなど、今日の社会では、社会的に弱い人々のことよりはるかに大切なことと考えられていることが続いているからです。
このことは、モーセ律法全体において、「主」が「主」の契約共同体の隣人の内にある弱く貧しい人々のことに心を注いでくださっていることが強調されていることを反映しています。それは、イスラエルの民自体がエジプトの奴隷であったのに、「主」がそのイスラエルの民を愛し、一方的な愛と恵みによって奴隷の状態から贖い出してくださったことに基づいています。24章17節ー18節に、
寄留者や孤児の権利を侵してはならない。やもめの衣服を質に取ってはならない。あなたがエジプトで奴隷であったこと、そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを覚えていなければならない。それゆえ私はあなたに、このことをせよと命じる。
と記されているとおりです(その他、これに続く19節ー22節、10章19節、15章7節ー15節、16章11節ー12節などを見てください)。
「アーメン」ということばの別の用例に戻ります。
列王記第一・1章36節には、ダビデがバテ・シェバにその子ソロモンをダビデの王座に着く王とすることを誓ってから、祭司ツァドク、預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤに、これからなすべきことを具体的に指示をしたことに対して、ベナヤが、
アーメン。王の神、主も、そう言われますように。
と言って応答したことが記されています。また、エレミヤ書28章6節には「主」の約束への応答として「アーメン」と言うことが記されています。ただし、これはエレミヤが偽預言者ハナヌヤの預言のことばに対して「そうあってほしいものだ。(けれども、それは実現しない。)」というような皮肉を込めて言ったものです。
さらに別の用例ですが、歴代誌第一・16章36節、ネヘミヤ記8章6節、詩篇41篇13節、72篇19節、89篇52節、106篇48節には、「主」への讃美、頌栄の後に、「アーメン」ということばが続いています。ちなみに、ここに挙げた詩篇41篇13節、72篇19節、89篇52節、106篇48節は、詩篇が5巻から構成されていますが、第一巻ー第4巻のそれぞれの最後に当たります。ただし、72篇では19節の後に20節の「エッサイの子ダビデの祈りは終わった。」があります。
代表的に、歴代誌第一・16章1節ー36節には、ダビデが「主」の契約の箱をエルサレムに運んで来て、「そのために張った天幕[元々の「幕屋」ではありません]の真ん中に」安置した時に、アサフとその兄弟たちを任命して、感謝のことばをもって「主」を讃美したことが記されています。36節には、その讃美の結びのことばが
ほむべきかな、イスラエルの神、主。
とこしえから、とこしえまで。
と記されていて、続いて、
それから、民はみな「アーメン」と言い、主をほめたたえた。
と記されています。
旧約聖書のもう一つの用例ですが、今お話ししている、イエス・キリストが「アーメン、アーメン」ということばで語り始めておられることとのかかわりで、特に注目したいのは、イザヤ書65章16節に記されている、
この地で祝福される者は
まことの神によって祝福され、
この地で誓う者は
まことの神によって誓う。
かつての苦難は忘れられ、
わたしの目から隠されるからだ。
というみことばです。
ここには「まことの神」(エローヘー・アーメーン)が2回出てきます。この「まことの神」の「「まことの」が「アーメン」ということばで表されています。直訳すれば「アーメンである神」となるでしょうか。ヘブル語聖書のギリシア語訳である7十人訳はこれを「まことの神」(ホ・セオス・ホ・アレースィノス)と訳しています。新改訳はこれと同じ訳です。
イザヤ書65章ではこの16節に続く17節ー19節には、
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
先のことは思い出されず、心に上ることもない。
だから、わたしが創造するものを、
いついつまでも楽しみ喜べ。
見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、
その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び、
わたしの民を楽しむ。
そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
と記されています。
ここには、新しい天と新しい地の創造のことが預言的に記されています。実際には、この新しい天と新しい地の創造のことは、ここに引用した17節ー19節で終っていなくて、この章の終わりの25節まで記されています。そして、そこに記されていることが全体として、16節の、最後に、
かつての苦難は忘れられ、
わたしの目から隠されるからだ。
と言われていることを生き生きと記しています。
20節ー25節には、
そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、
寿命を全うしない老人もいない。
百歳で死ぬ者は若かったとされ、
百歳にならないで死ぬ者は、
のろわれた者とされる。
彼らは家を建てて住み、
ぶどう畑を作って、その実を食べる。
彼らが建てて他人が住むことはなく、
彼らが植えて他人が食べることはない。
わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、
わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を
存分に用いることができるからだ。
彼らは無駄に労することもなく、
子を産んで、突然その子が死ぬこともない。
彼らは主に祝福された者の末裔であり、
その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、
彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
狼と子羊はともに草をはみ、
獅子は牛のように藁を食べ、
蛇はちりを食べ物とし、
わたしの聖なる山のどこにおいても、
これらは害を加えず、滅ぼすこともない。
主は言われる
と記されています。
このことは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、再創造される新しい天と新しい地のことを記している黙示録21章3節ー4節に記されている、
見よ、神の幕屋が人々とともにある。
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から
涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、
悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。
というみことばを思い起こさせます。
このことから分かりますが、イザヤ書65章16節で、
この地で祝福される者は
まことの神によって祝福され、
この地で誓う者は
まことの神によって誓う。
かつての苦難は忘れられ、
わたしの目から隠されるからだ。
と言われていることは、「主」がご自身の契約の民を回復してくださる時のことを示しています。
ここでは、
この地で祝福される者は
まことの神によって祝福され、
と言われていますが、聖書の中では神さまの祝福は神さまの契約に基づくものです。そして、その契約の祝福の中心は神さまがご自身の民の神となってくださり、ご自身の民の間に住んでくださることにあります。
見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、
その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び、
わたしの民を楽しむ。
と言われていることは、そのような「主」の契約に基づく祝福を意味しています。
また、神さまの真実はご自身の契約に対する真実です。それは「主」が契約において約束してくださったことを必ず実現してくださることに現れてきます。それで、
この地で誓う者は
まことの神によって誓う。
と言われていることは、真実なる(アーメンである)神さまはご自身が与えてくださった契約の約束を必ず実現してくださる方であることを信じ、真実なる(アーメンである)神さまにまったく信頼して、誓うということを意味しています。
新約聖書における「アーメン」の用例を見てみましょう。
ローマ人への手紙1章25節、9章5節、11章36節、ガラテヤ人への手紙1章5節、エペソ人への手紙3章21節、ピリピ人への手紙4章20節、テモテへの手紙第一・6章16節、テモテへの手紙第二・4章18節、ヘブル人への手紙13章21節、ペテロの手紙第一・4章11節、ペテロの手紙第二・3章18節、ユダの手紙25節、黙示録1章6節、7章12節などにおいて、神さまあるいは御子イエス・キリストに対する頌栄的な讃美のことばの後に「アーメン」が出てきます。
代表的に二つのみことばを引用しておきますと、父なる神さまへの頌栄的な讃美のことばとして、ローマ人への手紙11章36節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
と記されています。また、御子イエス・キリストへの頌栄的な讃美のことばとして、黙示録1章5節後半ー6節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、
私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。
と記されています。
また、別の用例ですが、ローマ人への手紙15章33節、ガラテヤ人への手紙6章18節、黙示録22章21節などでは、祝福の祈りの後に「アーメン」が加えられています。ガラテヤ人への手紙6章18節には、
兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。
と記されています。
さらに、別の用例ですが、主の預言のみことばや約束のみことばを信じて、「そのようになりますように」と応答することが、黙示録1章7節に、
見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。
と記されています。また、22章20節にも、
これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
と記されています。
また、別の用例を示すものですが、コリント人への手紙第一・14章15節ー17節には、
それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。そうでないと、あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っていることが分からないのですから。あなたが感謝するのはけっこうですが、そのことでほかの人が育てられるわけではありません。
と記されています。これは、教会では、異言で祈ったり讃美するより、知性で讃美し祈ることを奨めているものです。このことは、教会における祈りや讃美において「アーメン」ということばが加えられていたことを示唆しています。
祈りや讃美において「アーメン」ということばが加えられていたことは天における礼拝のことを記している、黙示録5章13節ー14節に、
また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。
と記されていることにも表されています。同様のことは19章1節ー4節にも記されています。
さらに、もう一つの用例として、今お話ししている、イエス・キリストが「アーメン、アーメン」ということばで語り始めておられることとのかかわりで、特に注目したいのは、先ほど取り上げたイザヤ書65章16節に記されている、
この地で祝福される者は
まことの神によって祝福され、
この地で誓う者は
まことの神によって誓う。
かつての苦難は忘れられ、
わたしの目から隠されるからだ。
というみことばに出てくる「まことの神」(「アーメンである神」)を背景としていると考えられるみことばです。
黙示録3章14節には、
また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。「アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる 。
と記されています。
栄光のキリストがアジアにある七つの教会に語りかけられたみことばは、2章ー3章に記されていますが、このラオディキアにある教会へのみことばは、その最後の語りかけです。その意味で、栄光のキリストについて大切なことが示されていると考えられます。
ここでは、栄光のキリストのことが「アーメンである方」(ホ・アメーン)と言われています。これは、イザヤ書65章16節に出てくる「まことの神」(「アーメンである神」)を背景としていると考えられます。また、ここでは、この「アーメンである方」が(同格で)また「確かで真実な証人」、「神による創造の源である方」であられることが示されています。「確かで真実な証人」は、この「アーメンである方」のみことばの真実さと確かさを示しています。また、「神による創造の源である方」の「源」と訳されたことば(アルケー)は「源」とともに「初め」や「支配」、「支配者」などを表します。この「神による創造の源である方」の背景には、ヨハネの福音書1章1節ー3節に、
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
と記されているみことばがあると考えられます。「神による創造の源である方」はすべてのものをお造りになった方であられるし、お造りになったすべてのものを真実に支えておられる方、その意味での「支配者」です。
また、この「アーメンである方」の背景にイザヤ書65章16節に出てくる「まことの神」(「アーメンである神」)があるということにはもう一つの意味があります。
先ほどお話ししたように、イザヤ書65章では、この16節に続く17節ー25節に、新しい天と新しい地の創造のことが記されています。それは、「まことの神」(「アーメンである神」)がご自身の契約に基づいて新しい天と新しい地を創造されることを意味しています。このこととのかかわりで、黙示録3章14節で「アーメンである方」が「神による創造の源である方」として説明されていることの意味の広がりが考えられます。この「アーメンである方」は最初の創造の御業の「源である方」であるばかりでなく、黙示録21章1節に、
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
と記されている、新しい天と新しい地の創造の「源である方」でもあるということです。
確かに、そのことは、ここ(21章1節)には記されてはいません。
しかし、みことばが全体として示していることから分かることですが、創造の御業と贖いの御業の遂行において、父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神を代表し、その無限、永遠、不変の栄光を表現しておられます。その父なる神さまが、直接的に、新しい天と新しい地の創造の御業を遂行されたとしたらどうなるでしょうか。それがいくら、最初の創造の御業において造り出された天と地よりも豊かな栄光に満ちた新しい天と新しい地であったとしても、造り出された途端に、父なる神さまの無限、永遠、不変の栄光によって焼き尽くされてしまいます。新しい天と新しい地の創造も、ご自身の無限、永遠、不変の栄光を隠して、被造物にかかわってくださる「役割」を負ってくださっている御子が遂行されます。
さらに、「アーメン」ということばが出てくる、コリント人への手紙第二・1章19節ー20節には、
私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。
と記されています。
ここに記されているように、神さまがご自身の契約において与えてくださった約束はすべて、御子イエス・キリストにおいて、また、御子イエス・キリストによって成就していますし、成就します。御子イエス・キリストこそは、契約の神である「主」ヤハウェであられます。それで、私たちは、御子イエス・キリストによって神さまが約束してくださったことは、新しい天と新しい地の創造も含めて、すべて成就しているし、将来のことは必ず成就すると告白して「神に栄光を帰するのです」。
このように、御子イエス・キリストこそは、イザヤが預言的に示した「アーメンである神(「まことの神」」)」であられ、「アーメンである方」です。そして、この方ご自身が真実であり、真理ですし、真理の根源であられ、真理の土台です。また、この方こそは、契約の「主」であられ、ご自身が私たちに約束されたことをすべて実現してくださる方です。それで、この方が語られることは、常に、真実であり、真理です。またそれで、この方は、だれかが言ったことに応答する形で「アーメン」と言って同意されるというより、この方ご自身が語られることを聞く私たちが、「アーメン」と言って同意し、この方が語られることは真実であり、真理であるとして受け入れるのです。
御子イエス・キリストはこのような方であるので、ご自身が語られる時に、それが真実であり、真理であること、それゆえに、信ずべきことであり、信頼に値することを示す「アーメン」あるいは「アーメン、アーメン」ということばをもって語り出すことがおできになるのです。
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