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説教日:2019年11月3日 |
しかし、そのようにして「主」のしもべが受ける栄光は、この世の王たちの栄光とはまったく違っています。 そのことは、「主」のしもべが高く挙げられることを記しているイザヤ書52章13節に続く14節ー15節に、 多くの者があなたを見て驚き恐れたように、 その顔だちは損なわれて人のようではなく、 その姿も人の子らとは違っていた。 そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。 王たちは彼の前で口をつぐむ。 彼らが告げられていないことを見、 聞いたこともないことを悟るからだ。 と記されていることに表されています。 ここに記されていることにはいくつかの難しい点があり、いろいろな見方があります。結論的には、この新改訳2017年版の訳に示されている理解になると思われます。 いくつかのことに触れておきますと、14節で、 多くの者があなたを見て驚き恐れたように と言われているときの、「驚き恐れた」と訳されていることば(シャーマム)は、大災害によって「荒廃している」ことを表すことばで、そこから、「おののき震える」こと「ぞっとして身を引く(たじろぐ)」ことなどを表します。 また、 その顔だちは損なわれて人のようではなく、 と訳されている部分の「その顔だちは損なわれて」と訳されていることは、必ずしも「顔だち」(TWOT, #2370がこの理解を示しています)だけのことではなく、その人の現れた姿のことであると思われます。「顔だち」と訳されていることば(マルエー)は「現れ」を表すことばで、人の場合には、「見かけ」、「姿」、「容姿」、「風貌」などになります。 「姿」ということばは、この次の行で、 その姿も人の子らとは違っていた。 と言われているときに用いられています。この「姿」と訳されていることば(トーアル)は、英語では、 shape, form(TWOT, #2491)と訳されています。このことばは、53章2節で、 彼には見るべき姿も輝きもなく、 と言われている中にも「姿」として出てきます。「姿(かたち)」(「姿」と表記して「かたち」と読む)という感じでしょうか。 そうすると、この二つのことばは実質的に同じことを言っていることになります。それは、同じことのこの繰り返しによって、「主」のしもべが普通では考えられないほど酷く損なわれてしまっていることを示すためのことだと考えられます。 また、15節の、 そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。 と訳されている部分の「血を振りまく」の「血を」ということばはありません。「振りまく」と訳されていることば(ナーザーのヒフィル語幹[使役形])[注]は、きよめるために、血や油や水などを「振りかける」ことを表しています。通常は、振りかけられるものが示されていますが、ここでは示されていません。この場合は、2017年版が補っている血でしょう。というのは、この「主のしもべの第四の歌」が全体として示しているのは、「主」のしもべが何かを振りかけるといのではなく、「主」のしもべ自身が打たれ、自らのいのちを「代償のささげ物」(53章10節)としているからです。このことは、「多くの国々」が、この「主」のしもべによってきよめられることを表しています。 [注]新改訳第3版の「驚かす」は七十人訳によっています。 それで、52章14節で、 多くの者があなたを見て驚き恐れたように、 その顔だちは損なわれて人のようではなく、 その姿も人の子らとは違っていた。 と言われていることは、「多くの者」が、「主」のしもべの姿が普通では考えられないほど酷く「損なわれて人のようではない」ことを見て、ぞっとして、思わず身を引いて(たじろいで)しまうほどであることを示していることになります。 そして、このことを受けて、続く15節では、 そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。 王たちは彼の前で口をつぐむ。 彼らが告げられていないことを見、 聞いたこともないことを悟るからだ。 と言われています。 ここでは、先ほどお話ししたように、「多くの国々」が、「主」のしもべの血によってきよめられることが示されています。 そして、王たちが「彼の前で口をつぐむ」ようになります。これには三つほどの意味があると考えられます。 まず、王たちが、「主」のしもべが普通では考えられないほど酷く「損なわれ」たのは、自分たちのために打たれ、そのいのちを「代償のささげ物」とされたからだということを悟るようになって、「彼の前で口をつぐむ」ようになるということです。 また、王たちが、この上なく高く挙げられた栄光の主である「主」のしもべが、普通では考えられないほど酷く「損なわれ」るほどに、自分たちのために打たれ、そのいのちを「代償のささげ物」とされたことを悟って、「彼の前で口をつぐむ」ようになるということです。 さらに、王たちが、普通では考えられないほど酷く「損なわれ」、自分たちもその姿を見て、ぞっとして思わず身を引いて(たじろいで)しまった「主」のしもべこそが、この上なく高く挙げられた栄光の主であられたことを悟って、「彼の前で口をつぐむ」ようになるということです。 これら三つのことは、同じことを別の面から見ているもので、調和していることです。 この「口をつぐむ」ことにもいくつかの意味合いがあって、ここで何を意味しているかを決定することは難しいのですが、ここでは、少なくとも、王たちがこれらのことに圧倒されてしまっていることを伝えていると考えられています。 一般的には、王たちが「口をつぐむ」ことは、王たちが、「主」のしもべをあがめるようになることを意味していると考えられています。その場合でも、国々の王たちは、「主」のしもべの栄光が、かつての自分たちが追い求めていた栄光とはまったく違うことを悟っているはずです。 「主」のしもべが受ける栄光は、この世の王たちの栄光とはまったく違っているということは、また、「主のしもべの第四の歌」の最後の、53章11節ー12節に記されている、 彼は自分のたましいの 激しい苦しみのあとを見て、満足する。 わたしの正しいしもべは、 その知識によって多くの人を義とし、 彼らの咎を負う。 それゆえ、 わたしは多くの人を彼に分け与え、 彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 背いた者たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 背いた者たちのために、とりなしをする。 というみことばにも示されています。 「主」が「主」のしもべに「多くの人を・・・分け与え」、「主」のしもべが「強者たちを戦勝品として分かち取る」ようになるのは、「主」のしもべが「多くの人」や「強者たち」を武力によって制圧し、征服したからではありません。むしろ、ここでは12節冒頭の「それゆえ」ということばによって、「主」のしもべが、その前に記されている、 その知識によって多くの人を義とし、 彼らの咎を負う ことによっていることが示されていますし、さらに、「主」が「主」のしもべに「多くの人を・・・分け与え」、「主」のしもべが「強者たちを戦勝品として分かち取る」ようになると言われた後に、 自分のいのちを死に明け渡し、 背いた者たちとともに数えられたからである。 と説明されています。 そればかりではありません。そのように高く挙げられた栄光の主である「主」のしもべは、その人々の上に立って支配するのではなく、 多くの人の罪を負い、 背いた者たちのために、とりなしをする。 と言われています。 ここでは、このことが「主」のしもべが栄光を受けることの後に記されています。また、「主」のしもべが、 多くの人の罪を負い、 ということは完了時制で記されていますが、 背いた者たちのために、とりなしをする。 ということは、未完了時制で表されていて、その働きが将来にわたってなされて行くことを示しています。それで、ここでは、「主」のしもべが「多くの人の罪を」負ったことに基づいて、栄光を受けた後に、なおも、 背いた者たちのために、とりなしをする ことを引き続きなしていくことを示しています。 「主のしもべの第四の歌」は全体的にこのようなことを示しているのですが、53章1節ー7節には、 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕はだれに現れたか。 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。 砂漠の地から出た根のように。 彼には見るべき姿も輝きもなく、 私たちが慕うような見栄えもない。 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で、病を知っていた。 人が顔を背けるほど蔑まれ、 私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みを担った。 それなのに、私たちは思った。 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 それぞれ自分勝手な道に向かって行った。 しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。 彼は痛めつけられ、苦しんだ。 だが、口を開かない。 屠り場に引かれて行く羊のように、 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、 彼は口を開かない。 と記されています。 ここでは、この上なく高く挙げられるべき栄光の主であられる「主」のしもべが、どう見ても「神に罰せられ、打たれ、苦しめられた」としか思えないほど、酷い苦しみを受けたのは、 私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 と説明されており、その結果、 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 と言われています。そして、そのことは、「主」が、ご自身に背いて「自分勝手な道に向かって行った」「私たちすべての者の咎を彼[主のしもべ]に負わせた」ことであると言われています。 そして、引用の最後の7節には、 彼は痛めつけられ、苦しんだ。 だが、口を開かない。 屠り場に引かれて行く羊のように、 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、 彼は口を開かない。 と記されています。ここに出てくる、「主」のしもべが「屠り場に引かれて行く羊」にたとえられていることが、黙示録5章において、讃えられ、礼拝を受けておられる「屠られた子羊」の背景となっています。 これらのことと、これまで数回にわたってお話ししてきたことを踏まえると、ヨハネの福音書5章23節に記されている、 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。 という御子イエス・キリストの教えにおいて、「父を敬うのと同じように、子を敬う」ということには、(これだけしかないという意味ではありませんが)二つのことが含まれていることが分かります。 一つは、何よりも、この上なく高く挙げられた栄光の「主」であられる御子イエス・キリストが、私たちの罪の咎を負ってくださって、十字架におかかりになり、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださったことによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかることです。そして、御子イエス・キリストが私たちを永遠のいのちに生きるものとしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことにあずかって、私たちが永遠のいのちに生きるようになることです。 それは、私たちのために「屠られた子羊」となられ、ご自身のいのちを捨ててくださった御子イエス・キリストの愛を受け取ることですし、ご自身の御子をも私たちのためにお与えになった父なる神さまの愛を受け取ることです。また、私たちも御子イエス・キリストと父なる神さまの愛に応えて、御子イエス・キリストと父なる神さまを愛することです。 言うまでもなく、それは私たちが、地にあってなお、天上の礼拝に参与し、「御座に着いておられる方」と「屠られた子羊」を讃えて、礼拝することを中心として、御子イエス・キリストと父なる神さまのとの愛にあるいのちの交わりに生きることです。 このことなくして、父なる神さまと御子イエス・キリストを敬うことはできません。 もう一つは、栄光についての理解にかかわることです。言い換えると、私たちがこの世にあってもっていた価値観を転換することです。無限の栄光の「主」であられる御子イエス・キリストが、父なる神さまに背いていた私たちのために、限りなく貧しくなられ、十字架の苦しみをお受けになってご自身のいのちを捨ててくださったことにおいてこそ、父なる神さまの栄光が最も豊かに現されています。この栄光は、この世の国々が追い求めている栄光とはまったく違います。 私たちがこの世の国々が追い求めている栄光の空しさをわきまえ、御子イエス・キリストの十字架において現されている父なる神さまの栄光こそが真の栄光であることを認めて、その栄光を讃えることを目的として生きることなくして、また、私たち自身も、自分の十字架を負って愛のうちを歩むことによって、御子イエス・キリストの御足の跡を踏み行くことなくして、父なる神さまと御子イエス・キリストを敬うことはできません。 |
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