黙示録講解

(第400回)


説教日:2019年10月27日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(153)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばに関連することとしてお話ししている、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 ヨハネの福音書5章19節ー29節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 先主日は、22節ー23節に記されている、

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

というイエス・キリストの教えの後半の23節に記されている、

 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

ということについてお話ししました。
 ここに出てくる「敬う」ということば(ティマオー)は、ものに「値をつける」こと、「見積もる」こと、「評価する」ことを表します。そして、そこから転じて、人を正当に評価して、「深い敬意を表す」こと、「尊敬する」こと、「敬う」ことを表します。それで、ここで、

それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

と言われているときの「敬う」ということは、父なる神さまと御子イエス・キリストがどなたであり、どのような方であるかを、神のみことばである聖書に基づいて、正しく理解した上で「敬う」ことです。
 この、

それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

という、イエス・キリストの教えは、父なる神さまと御子イエス・キリストが、等しく敬われるべき方であることを示しています。
 そのことは、先主日お話ししました、黙示録4章と5章に記されている、天における礼拝において、「御座に着いておられる方」、すなわち、父なる神さまと、「屠られた子羊」、すなわち、御子イエス・キリストが等しく讃えられており、礼拝されていることにはっきりと現されています。
 今日は、この天における礼拝において、「屠られた子羊」が讃えられ、礼拝されていることについて、もう少しお話しします。


 その天における礼拝の描写においては、ここに出てくる「敬う」ということば(動詞・ティマオー)の名詞の形で、新改訳で「誉れ」と訳されていることば(ティメー)が「栄光」ということば(ドクサ)と組み合わされて出てきて、「御座に着いておられる方」と「屠られた子羊」を讃えるために用いられています。
 具体的には、黙示録4章9節には、「御座に着いておられる方」の御前に仕えている「四つの生き物」が、

 栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、

と記されています。ここでは「栄光と誉れと感謝」という三つの栄誉が「御座に着いておられる方」にささげられていますが、「栄光と誉れ」の組み合せがあります。
 また、同じ4章の11節には、御前に仕えている「二十四人の長老たち」が、

 主よ、私たちの神よ。
 あなたこそ
 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。
 あなたが万物を創造されました。
 みこころのゆえに、それらは存在し、
 また創造されたのです。

と言って「御座に着いておられる方」を讃えていることが記されています。ここでは「栄光と誉れと力」という三つの栄誉が「御座に着いておられる方」にささげられていますが、やはり「栄光と誉れ」の組み合せがあります。
 章が変わって、5章11節ー12節には、

また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。彼らは大声で言った、
 「屠られた子羊は、
 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を
 受けるにふさわしい方です。」

と記されています。
 ここでは「屠られた子羊」が讃えられていますが、ここで、

 屠られた子羊は、
 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を
 受けるにふさわしい方です。

と記されていることは、先ほど引用した4章11節に、

 主よ、私たちの神よ。
 あなたこそ
 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。

と記されていることと対応しています。
 ここでは、「力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美」という七つの栄誉が「屠られた子羊」にささげられています。そして、ここにも「誉れと栄光」の組み合せが出てきます。
 また、ここでは、

 屠られた子羊は、
 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を
 受けるにふさわしい方です。

と言われていますが、ギリシア語の原文では最初に出てくる「ふさわしい方」ということば(形容詞・アクスィオス)が示しているように、まさに、「屠られた子羊」への正当な評価がなされたうえでの「敬い」が示されています。
 4章に記されている礼拝では、「四つの生き物」と「二十四人の長老たち」が、それぞれ、三つの栄誉を「御座に着いておられる方」にささげていますが、ここでは七つの栄誉が「屠られた子羊」にささげられています。これは、「屠られた子羊」が「御座に着いておられる方」と等しく礼拝され、栄誉を受けるべき方であることを示すためのことです。
 このことは、これに続く13節に、

また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこういうのを聞いた。
 「御座に着いておられる方と子羊に、
 賛美と誉れと栄光と力が
 世々限りなくあるように。」

と記されていことに明確に示されています。ここでは、「御座に着いておられる方と子羊」が、全く同じことばで、しかも、同時に讃えられています。そして、ここにも「誉れと栄光」の組み合せがあります。

 このように、黙示録4章と5章に記されている天の礼拝においては、御子イエス・キリストが父なる神さまと同じように讃えられ、礼拝されるべき方であることが告白されています。そして、実際に、父なる神さまと同じように、讃えられ、礼拝されています。このことに、御子イエス・キリストが父なる神さまと等しいまことの神であられることが、この上なく明確に示されています。
 このことを踏まえた上で改めて注目したいのは、ここでは、御子イエス・キリストのことが「屠られた子羊」として示されており、「屠られた子羊」として讃えられ、礼拝されているということです。
 特に、5章8節ー10節には「四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏し」て、「新しい歌を歌った」ことが記されています。その「新しい歌」においては、子羊が、

 あなたは、巻物を受け取り、
 封印を解くのにふさわしい方です。
 あなたは屠られて、
 すべての部族、言語、民族、国民の中から、
 あなたの血によって人々を神のために贖い、
 私たちの神のために、彼らを王国とし、
 祭司とされました。
 彼らは地を治めるのです。

と讃えられています。
 最初に歌われている、

 あなたは、巻物を受け取り、
 封印を解くのにふさわしい方です。

ということは、この子羊への礼拝を記している8節ー10節の前の1節ー7節に、

また私は、御座に着いておられる方の右の手に巻物を見た。それは内側にも外側にも字が書かれていて、七つの封印で封じられていた。また私は、一人の強い御使いが「巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げているのを見た。しかし、天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった。私は激しく泣いた。その巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったからである。すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。子羊は来て、御座に着いておられる方の右の手から巻物を受け取った。

と記されていることを受けています。
 ここには、「御座に着いておられる方の右の手に」ある、「七つの封印」で封じられている「巻物」が出てきます。
 この巻物のことは旧約聖書のエゼキエル書2章9節ー10節に、

私が見ると、なんと、私の方に手が伸ばされていて、その中に一つの巻物があった。その方はそれを私の前で広げた。それは表にも裏にも文字が書かれていた。そこに嘆きと、うめきと、悲痛が記されていた。

と記されていることを背景として記されています。
 ここに出てくる「その方」とは、1章に記されている、栄光の顕現において示されている神である「」です。
 エゼキエルはすでに前597年の第二回の捕囚によってバビロンに連れて行かれ、捕囚の地にありますが、この時、預言者として召され、預言をするようになります。1章と2章はエゼキエルの召しのことを記しています。その際に、「」はエゼキエルにこの「巻物」をお示しになりました。この「巻物」には、この前の部分で「反逆の家」と呼ばれている「イスラエルの民」(南王国ユダの民のこと)へのさばきのことが記されていました。それで「そこに嘆きと、うめきと、悲痛が記されていた」と言われています。ダニエルたちの第一回の捕囚とエゼキエルたちの第二回の捕囚が示しているように、「」のさばきは始まっているのですが、パレスチナに残されたユダの民たちは悔い改めることがありませんでした。それで「」はエゼキエルを預言者として召され、彼らに対して「」が彼らの罪をおさばきになることを告げられたのです。それは、さばきが運命的に決まっているということではなく、彼らが悔い改めて「」に立ち返ることを求めるものです。実際には、彼らは悔い改めることがなかったので、「」はさらなる警告を与えてくださっていますが、その一つ一つが、悔い改めて「」に立ち返ることを求めるためのものです。
 エゼキエル書では、そのように「」のさばきのことが示され、警告されているのですが、ユダの民は悔い改めることはありませんでした。それで、「」はバビロンの王ネブカドネツァルを用いて警告しておられたさばきを執行されました。それによって、前587/6年に、エルサレムとエルサレム神殿は破壊され、ユダの民はは捕囚となりました。しかし、「」はエゼキエルをとおして、その来たるべきさばきの後に、なお、「」の一方的な愛と恵みによって与えられていた契約に基づく回復があることをお示しになっています(34章ー48章)。
 また、黙示録5章に出てくる「巻物」が封じられていることは、その当時の習慣を背景としていて、そこに記されていることにかかわる「時」が来るまで封じられているということを意味しています。この封じることとかかわっている旧約聖書の背景はダニエル書12章4節で、そこには、

ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと捜し回る。

と記されています。ダニエルには終わりの日に至るまでの、神である「」の救いとさばきの御業の歴史が啓示されていて、それがダニエル書に記されています。
 また、これまで、繰り返しお話ししてきましたが、黙示録13章以下に出てくる海から上ってきた「獣」の背景にダニエル書7章に記されている四つの獣、特に、第四の獣の十本の角の間から生えてきた「小さな角」があります。
 これらのことを考えると、黙示録において、「封印を解くのにふさわしい方」である「屠られた子羊」が「御座に着いておられる方の右の手から巻物を受け取った」ことは、ダニエルが封じるよう命じられた、神である「」の救いとさばきの御業の歴史が記された「」[セーフェル「巻物」、七十人訳のギリシア語では、黙示録で「巻物」と訳されていることば(ビブリオン)]に当たるものが「屠られた子羊」によって「封印」が解かれることを示唆していると考えられます。
 黙示録では、「屠られた子羊」が受け取った「巻物」の六つの「封印」を解いたことは6章に記されています。「子羊」が封印を解く度に、異なったさばきが執行されていきます。そして、第七の「封印」を解いたことは8章1節に記されていますが、その前の7章に、「」の民がさばきから守られていることと、「子羊の血」による罪の贖いにあずかって、最終的な救いの完成へと導き入れられて、神さまの栄光の御臨在の御許で仕えるようになることが記されています。
 これは先ほどお話しした、「」がエジプトにさばきを下された時にイスラエルの民が守られていて、ついには、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたことに符合しています。

 黙示録5章8節ー10節に記されている「四つの生き物と二十四人の長老たち」が「屠られた子羊」を讃えて歌った「新しい歌」では、

 あなたは、巻物を受け取り、
 封印を解くのにふさわしい方です。

という讃美のことばに続いて、

 あなたは屠られて、
 すべての部族、言語、民族、国民の中から、
 あなたの血によって人々を神のために贖い、
 私たちの神のために、彼らを王国とし、
 祭司とされました。
 彼らは地を治めるのです。

と歌われています。
 今お話ししたように、「子羊」が封印を解く度に、異なったさばきが執行されていきますが、「すべての部族、言語、民族、国民の中から」、「屠られた子羊」の血によって贖われて、神の民とされた人々が祭司の王国を形成し、「地を治める」ようになります。
 このことには、二つの旧約聖書の背景があります。
 一つは、古い契約の下での贖いの御業の原点である、出エジプトの贖いの御業です。「」はモーセをとおして、エジプトの奴隷であったイスラエルの民をエジプトから贖い出してくださいました。その際に、エジプトに10のさばきを下されましたが、エジプトの「ゴシェンの地」に住むイスラエルの民は守られました。
 その最後のさばきにおいては、エジプトの地に住むすべての初子を滅ぼすというものでしたが、「」はイスラエルの民に、「傷のない一歳の雄」羊をさばきが執行される日の夕暮れに屠って、その血をそれぞれの家の「二本の門柱と鴨居」に塗るように、そしてその肉を「火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて」食べるように命じられました。さばきが執行された夜に、「」は「二本の門柱と鴨居」に塗られている子羊の血をご覧になると、その家を過越されました。その家ではすでにさばきが執行されているとみなされたのです。言い換えると、過越の子羊がその家の者の身代わりになって屠られたのです。自分の長子が滅ぼされたパロは、イスラエルの民をエジプトの地から去らせました。
 このようにして、イスラエルの民はエジプトの奴隷の状態から贖い出されました。そして、「」がご臨在されるシナイ山の麓に宿営し、「」の契約を与えられ、「」の民とされました。その際に、「」がモーセをとおして語られたみことばが、19章5節ー6節前半に、

今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

と記されています。イスラエルの民が「あらゆる民族の中にあって」「祭司の王国、聖なる国民となる」ことは、「」がイスラエルの民の父祖アブラハムに与えられた、創世記12章3節に記されている、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

という約束とかかわっています。イスラエルの民はこの「」がアブラハムに与えてくださった約束を実現してくださるために、「祭司の王国」として召されているのです。
 このことは、御子イエス・キリストが「過越の子羊」として十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったことによって成就しています。コリント人への手紙第一・5章7節には、

 私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。

と記されています。
 また、ガラテヤ人への手紙3章13節ー14節には、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されています。
 さらに、ペテロの手紙第一・2章9節ー10節には、

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

と記されています。
 ここでは、私たちが「王である祭司、聖なる国民」としていただいていることは、私たちを「闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を」「告げ知らせるためです」と言われています。この場合の「栄誉」と訳されていることば(アレテーの複数形)は、神さまについて用いられるときには、「力ある御業」か「讃える(べき)こと」を意味しているとされています。[BDAG3版は、讃美を引き起こす「力ある御業」の方に傾いているように思われます。]
 もう一つの旧約聖書の背景は、3週間前の主日(6日)とその次の主日にお話しした、ダニエル書7章に預言的に示されていたことです。7章20節ー22節には、第四の獣のことが、

その頭には十本の角があり、もう一本の角が出て来て、そのために三本の角が抜け落ちた。その角には目があり、大言壮語する口があった。その角はほかの角よりも大きく見えた。私が見ていると、その角は聖徒たちに戦いを挑み、彼らに打ち勝った。しかしそれは『年を経た方』が来られるまでのことであり、いと高き方の聖徒たちのためにさばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た。

と記されています。「もう一本の角」とは、第四の獣の十本の角の間から生えてきた「一本の小さな角」(8節)のことで、新約聖書においては、終わりの日に現れてくる反キリストのことです。
 この最後に、

いと高き方の聖徒たちのためにさばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た。

と言われていることが、26節ー27節でさらに説明されていて、

 しかし、さばきが始まり、
 彼[もう一本の角]の主権は奪われて、
 彼は完全に絶やされ、滅ぼされる。
 国と、主権と、天下の国々の権威は、
 いと高き方の聖徒である民に与えられる。
 その御国は永遠の国。
 すべての主権は彼らに仕え、服従する。

と記されています。このことが、黙示録5章8節ー10節で、「すべての部族、言語、民族、国民の中から」、「屠られた子羊」の血によって贖われて、神の民とされた人々が祭司の王国を形成し、「地を治める」ようになると言われていることの背景となっています。
 これらのみことばを踏まえて、改めて、確認しておきますが、神である「」が遂行される贖いの御業の歴史においては、さばきそのものが目的ではありません。「屠られた子羊」の血によって贖われて、神の民とされた人々が祭司の王国を形成し、「地を治める」ようになることが目的です。この場合の「地を治める」ということは、この世の権力者が治めることとは違います。これは、自らが「」を神として礼拝することを中心として「」との愛にあるいのちの交わりに生きる祭司の国として治めるということであり、「すべての部族、言語、民族、国民の中から」、「屠られた子羊」の血によって贖われる人々が起こされて、神の民となるように仕えていくことです。先ほど引用した、ペテロの手紙第一・2章9節に、

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を[力ある御業を讃えつつ]、あなたがたが告げ知らせるためです

と記されているとおりです。
 天における礼拝においては、「屠られた子羊」が、贖いの御業の歴史をとおして、このことを実現してくださっている方として讃えられ、礼拝されているのです。
 やがて私たちが召されるようになる時、私たちはこの天における礼拝に直接的に参与して、「御座に着いておられる方」と「屠られた子羊」を讚え、礼拝するようになります。


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