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説教日:2019年10月20日 |
ただ、最初の三つの理由や根拠を表す接続詞(ガル)によって導入されている教えが、その前の教えをどのように説明しているかははっきりしていますが、最後の理由や根拠を表す接続詞(ガル)によって導入されている22節に記されている、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。 という教えが、その前の教えとどのようにつながって、それを説明しているかということでは見方が別れています。 それが、直前の21節で、 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。 と言われていることの理由あるいは根拠を示しているという見方と、これらの21節と22節に記されていることが、ともに、19節ー20節に、 まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。 と記されていることの理由あるいは根拠を示しているという見方があります。 私は、ない知恵を絞って考えてみたのですが、どちらの見方(考え方)についても、どうしてそのように理解するのかについての詳しい議論がないために、このどちらを取った方がよいのか判断しかねています。 この難しさを認めた上で、また、無理を承知で、私なりの考えをお話ししたいと思います。 19節ー23節に記されていることでは、最初の三つの理由や根拠を表す接続詞(ガル)によって導入されている教えは、それぞれが、その前に記されている教えを説明しています。そのこともあって、通常は、このような場合には、22節に記されていることは、直前の21節に記されていることの説明をしているというように考えます。けれども、この場合には、問題があります。というのは、21節で、 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。 と言われていることは「救い」のことなのに、22節で、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。 と言われていることは「さばき」のことです。そのために、どうして、22節に記されている「さばき」のことが、21節に記されている「救い」のことの理由あるいは根拠を示していると言えるのかという疑問が生じてしまいます。 おそらく、このことから、21節と22節に記されていることが、ともに、19節ー20節に記されていること、特に、20節に、 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。 と記されていることの最後に、 また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。 と言われていることを受けて、21節で(接続詞ガルを生かして、訳します)、 それは、父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えるからです。 と説明し、さらに、22節で(同じく、接続詞ガルを生かして)、 また、それは、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられたからです。 と説明していると考えられているのではないかと思われます。つまり、20節に記されている「これよりも大きなわざ」とは、21節に記されている救いの御業だけでなく、22節に記されているさばきの御業でもあると説明しているということです。 けれども、これまで繰り返しお話ししてきましたが、22節に記されている、 父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。 と言われていることの背景となっている、詩篇2篇においても、詩篇110篇1節においても、また、この二つの詩篇の根底にあるダビデ契約においても、さらには、ダニエル書7章9節ー14節においても、そして、これらすべての預言的なみことばの出発点にある創世記3章15節に記されている「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきの宣告という形で与えられている「最初の福音」においても、神である「主」が約束してくださっている贖い主、メシアが、神である「主」に敵対しているものたちに、さばきを執行されること自体が最終的な目的ではありません。 むしろ、「最初の福音」に合わせて言うと、「女」と「女の子孫」の共同体が、その「かしら」である贖い主、メシアをとおして「主」の契約の民として回復され、「主」との愛にあるいのちの交わりに生きるようになることが、そして、それによって、天地創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福され、聖別された神さまの安息が回復され、完成することが最終的な目的です。 先主日にお話ししたことを改めて確認しておきますが、最初の「人」アダムとその妻エバが神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後に、神である「主」が直接的に、サタンに対する最終的なさばきを執行されたとすれば、罪によってサタンと一体になっていた「人」とその妻もともにさばかれて、滅びていたことでしょう。その場合には、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、その歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになったことに示されているみこころも、さらに、天地創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福され、聖別された神さまのみこころも、実現しないことになってしまいます。 このようなことがあるので、神である「主」は、その時、ご自身が直接的にさばきを執行されないで、「女」と「女の子孫」の共同体と、サタンとその霊的な子孫の共同体との間に「敵意」を置いてくださって、「女」と「女の子孫」の共同体が、サタンとその霊的な子孫の共同体に対する霊的な戦いを展開するようになるというみこころをお示しになりました。それによって、「女」と「女の子孫」の共同体は、霊的な戦いにおいて神である「主」の側に立つものとして、また、神である「主」がサタンとその霊的な子孫をおさばきになるために用いられる神である「主」の「しもべ」として回復されるようになるのです。さらに、神である「主」は、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる贖い主、メシアをとおして、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されるというみこころが示されたのです。 このことを今お話ししていることとのかかわりで言うと、神である「主」は「すべてのさばきを」「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる贖い主、メシアに委ねられたということです。 そして、このように約束されていたメシアが御子イエス・キリストです。 このことを踏まえると、ヨハネの福音書5章22節で、イエス・キリストが、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。 と言われたことは、神さまが、自らの罪と罪過の中に死んでいた私たち「主」の民をご自身のものとして回復してくださるためのこと、さらには、同じことを繰り返しますが、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、その歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになったことに示されているみこころと、天地創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福され、聖別された神さまのみこころ実現してくださるためのことであったことを汲み取ることができます。 そうすると、22節で、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。 と言われていることは、その前の21節で、 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。 と言われていることを、いわば、裏側から支えている(根拠づけている)、あるいは、別の面から説明していると考えることができます。 もちろん、このように、22節で、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。 と言われていることは、21節で、 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。 と言われていることと切り離しがたくつながっているので、20節に出てくる「これよりも大きなわざ」に含まれるか、少なくとも、密接に関連していることになります。 おそらく、この場合は、このように考える方がよいのではないかと思われます。 このことを念頭に置いて、22節ー23節に記されている、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。 というイエス・キリストの教えを見てみたいと思います。 先ほどお話ししたように、ここでは、22節ー23節前半に記されている、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。 ということが一つの文となっています。そして、ここで「敬う」と訳されていることばは、正当な評価をして「敬う」ことを意味しています。 この場合に、正当な評価をして「敬う」ということは、ただ単に、22節に示されているように、御子イエス・キリストが父なる神さまから「すべてのさばき」を委ねられているからということだけでなく、そのことは、21節で、 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。 と言われていることと切り離しがたく結びついているということを理解した上で、御子イエス・キリストを「敬う」ということを意味しています。 このこととの関連で、新約聖書の中で、この「敬う」ということば(動詞・ティマオー)の名詞形(ティメー)について触れておきます。新改訳では「敬う」ということばの名詞形は「誉れ」と訳されています。「敬う」という動詞に合わせて言えば、「敬い」となります。 この「誉れ」が、「栄光」とともに、父なる神さまと御子イエス・キリストへの頌栄的な讃美に用いられている事例がいくつかありますので、それらを見てみましょう。 最初に取り上げるのは、頌栄的な讃美の文ではありませんが、「誉れ」と「栄光」の組み合せが見られる事例です。ペテロの手紙第二・1章16節ー18節には、 私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。 と記されています。 ここでペテロは、イエス・キリストが「父なる神から誉れと栄光を受けられたとき」のことを記しています。これは、マタイの福音書17章1節ー8節、マルコの福音書9章2節ー8節、ルカの福音書9章28節ー36節に記されている、一般に「変貌の山」と呼ばれている山における出来事のことです。注目したいのは、イエス・キリストが「変貌の山」で父なる神さまから「誉れと栄光」をお受けになったのは、イエス・キリストがそのメシアとしてのお働きをしておられる中で初めて苦難の死を遂げられることを予告して語られたことを受けてのことです。ルカの福音書は、その時に、栄光のうちに現れたモーセとエリヤがイエス・キリストと、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していた」と記しています(30節ー31節)。父なる神さまはいよいよ十字架への道を歩み始められるイエス・キリストに「誉れと栄光」をお与えになったのです。 黙示録4章9節には、天にある御座に着いておられる方、すなわち父なる神さまの御前に仕えている「四つの生き物」のことが、 また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、 と記されています。さらに、11節には、御前に仕えている「二十四人の長老たち」が、 主よ、私たちの神よ。 あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。 あなたが万物を創造されました。 みこころのゆえに、それらは存在し、 また創造されたのです。 と、父なる神さまを讃えていることが記されています。 注目したいのは、9節では、父なる神さまに「栄光と誉れと感謝」が帰せられていますし、11節では「栄光と誉れと力」が帰せられています。このどちらにおいても、「栄光と誉れ」の組み合せが見られるということです。 黙示録5章11節ー13節には、 また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。彼らは大声で言った、 「屠られた子羊は、 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を 受けるにふさわしい方です。」 また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこういうのを聞いた。 「御座に着いておられる方と子羊に、 賛美と誉れと栄光と力が 世々限りなくあるように。」 と記されています。 ここでは二つの讃美が記されていますが、どちらにも「誉れと栄光」の組み合せが出てきます。 ここには、もう一つ注目したことがあります。 12節では「屠られた子羊」すなわち、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになったイエス・キリストが、天において讃えられています。ここでは、「屠られた子羊」に「力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美」という七つの栄誉が帰せられています。言うまでもなく、「七」は完全数です。 このことを、4章に記されている御座に着いておられる方、すなわち父なる神さまへの讃美と比べてみると、9節では、「栄光と誉れと感謝」という三つの栄誉を帰しています。また、11節でも、「栄光と誉れと力」という三つの栄誉を帰しています。「三」も完全数です。 このことを見ると、何となく、「屠られた子羊」の方が、御座に着いておられる方より多く讃えられているような気がします。しかし、ここでの趣旨はそのようなことではありません。 旧約聖書の時代をとおして、また、その当時も、御座に着いておられる方、すなわち父なる神さまが讃えられるべきことは、誰もが当然のこととして知っていました。それで「三」という完全数に合わせて、三つの栄誉を帰して讃えられています。 しかし、御子イエス・キリストが、しかも、「屠られた子羊」が父なる神さまと同じように讃えられるべき方であることは、誰もが当然のこととして知っているわけではなかったのです。それで、神さまは黙示録の著者であるヨハネに、天における礼拝においては、「屠られた子羊」が七つの栄誉を帰せられて讃えられていることを示しておられると考えられます。これによって、「屠られた子羊」、十字架につけられて殺された御子イエス・キリストは父なる神さまと全く同じように讃えられるべき方であることがこの上なく鮮明に示されているのです。 このことは、5章13節において、 御座に着いておられる方と子羊に、 賛美と誉れと栄光と力が 世々限りなくあるように。 というように、「御座に着いておられる方と子羊」が、全く同じことばで讃えられていることにも表されています。 ここで、一つの問題に触れておきます。 先ほど引用した、4章9節と11節では、讃美しているのは、それぞれ、「四つの生き物」と「二十四人の長老たち」です。これに対して5章11節ー13節では、「多くの御使いたち」と「天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの」です。ここには、礼拝しているものの間に違いがあるのではないかと問われるかもしれません。しかし、5章では「四つの生き物」と「二十四人の長老たち」も「屠られた子羊」を讚えています。9節ー10節に、 彼らは新しい歌を歌った。 「あなたは、巻物を受け取り、 封印を解くのにふさわしい方です。 あなたは屠られて、 すべての部族、言語、民数、国民の中から、 あなたの血によって人々を神のために贖い、 私たちの神のために、彼らを王国とし、 祭司とされました。 彼らは地を治めるのです。」 と記されているとおりです。ただ、ここには「誉れ」と「栄光」の組み合わせがないので、先ほどは引用しなかったのです。ですから、讃美をささげているものたちの間に違いはありません。 これらのことから、さらに注目しておきたいことがあります。 それは、御子イエス・キリストが父なる神さまと等しく讃えられている中で用いられている「誉れ」は「栄光」と組み合わされて用いられていますが、その場合は、すべて、イエス・キリストが、さばきを執行されるということとのかかわりではなく、十字架におかかりになって死んでくださって、私たちご自身の民の罪を贖ってくださったこととのかかわりで用いられているということです。 このことも、ヨハネの福音書5章22節ー23節に、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。 と記されているイエス・キリストの教えにおいて、「すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになる」と言われていることは、ただ単に、御子イエス・キリストが父なる神さまから「すべてのさばき」を委ねられているからということだけでなく、それ以上に、御子イエス・キリストが私たちご自身の民を死と滅びの中から贖い出してくださる方であることをわきまえて(正当に評価して)「敬う」ことであり、それゆえに、さばきへの恐怖ではなく、深い感謝と讃美をもって「敬う」ことである、ということを指し示しています。 |
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