黙示録講解

(第398回)


説教日:2019年10月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(151)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた約束のみことばに関連することとして、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてお話しします。
 ヨハネの福音書5章19節ー29節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 今は、22節ー23節に記されている、

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

というイエス・キリストの教えについてお話ししています。
 ここでは、

 父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。

と言われています。
 これまでこのイエス・キリストの教えの背景となっていると考えられる旧約聖書のみことばを取り上げてお話ししました。それは、「」がダビデ契約に基づいてとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されるダビデの子が、「」と「」に油注がれた者、すなわち、メシアに敵対する国々の民をさばくことを示すみことばです。
 すでにお話ししたみことばは詩篇2篇と詩篇110篇1節、そして、先主日にお話しした、ダニエル書7章13節ー14節です。
 このダニエル書7章13節ー14節には、

 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が
  天の雲とともに来られた。
  その方は「年を経た方」のもとに進み、
  その前に導かれた。
  この方に、主権と栄誉と国が与えられ、
  諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、
  この方に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、
  過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

と記されています。
 先主日にも触れましたが、このみことばは、ヨハネの福音書5章27節に記されている、

 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。

という、イエス・キリストの教えの背景にあると考えられています。ここで、

 子は人の子だからです。

と言われているときの「人の子」ということばが、ダニエル書7章13節に出てくる「人の子のような方」を踏まえているということです。
 このこと自体には異存はありません。確かに、先主日にお話ししたように、イエス・キリストがご自身のことを「人の子」と呼ばれるときには、このダニエル書7章13節に出てくる「人の子のような方」を踏まえてのことです。
 ただ、ここには一つの問題があります。
 それは、ここで、

 子は人の子だからです。

と言われているときの「人の子」ということば(ヒュイオス・アンスロープー)には、冠詞[ギリシア語の冠詞は英語の定冠詞に当たります]がついていないということです。新約聖書の中では、イエス・キリストがご自身のことを「人の子」と呼ばれるときには、ここ以外では(ホ・ヒュイオス・トゥー・アンスロープーとなっていて)、「」にも「人の」にも冠詞がついています。
 この違いに何らかの意味があるのか、それとも、これは文学的・文法的な違いなのかについては見方が別れています。
 これに意味があるとする見方では、この場合の「人の子」は「人」を意味しているとされています。
 「人の子」が複数形の場合(新改訳は、通常「人の子ら」と訳しています)には、「人(人々)」を意味していますが、ここで問題となるのは単数形の「人の子」ですので、単数形の「人の子」のことを取り上げます。
 「人」が並行法によって「人の子」と言い換えられている例は、詩篇8篇4節、80篇17節、イザヤ書51章12節、56章2節、エレミヤ書49章18節、33節、50章40節などに見られます。
 また、エゼキエル書では、全体にわたって、「」がエゼキエルに呼びかけるときには、「人の子よ。」と呼びかけておられます。
 このようなことから、ヨハネの福音書5章27節において、

 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。

と言われていることは、「」すなわち御子が人なので、父なる神さまから「さばきを行う権威」を委ねられたという意味であると考えます。
 この理解には問題もあります。
 ここで、

 子は人の子だからです。

ということは、

 父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。

ということの理由や根拠を示しています。そして、この見方が考えている「人の子」は、冠詞つきの「人の子」すなわちメシアのことではなく、一般的な人のことです。それで、この見方は、父なる神さまが御子に「さばきを行う権威」を委ねられたのは、御子がメシアであるからというのではなく、(一般的な)人であるからであるとしています。
 しかし、父なる神さまが御子に「さばきを行う権威」を委ねられたと言われているときの「さばきを行う権威」は、終わりの日における最終的な「さばきを行う権威」です。終わりの日における最終的な「さばきを行う権威」は(一般的な)人には委ねられていないためにこの見方は成り立ちません。
 もう一つの見方は二つのことに注目します。
 まず、ここで

 子は人の子だからです。

というみことばは、ギリシア語では、「人の子」という述語を表す名詞が、「です」という動詞(英語のbe動詞に当たるエイミ動詞)の前に出てきます。このような場合には、動詞の前にある述語を表す名詞に冠詞がついていなくても、特定のものを表すことがある(すべてが特定のものを表すわけではありません)という文法上の法則があります。これは「コールウエルの法則」と呼ばれるもので、有名な事例は、ヨハネの福音書1章1節に出てくる、

 ことばは神であった。

というみことばです。それで、5章27節で、

 子は人の子だからです。

と言われているときの、冠詞のない「人の子」は、冠詞がついている「人の子」と同じ方、すなわち、メシアを表すことができます。
 また、ダニエル書7章13節において、

 見よ、人の子のような方が
 天の雲とともに来られた。

と言われているときの「人の子」ということばは、アラム語でも七十人訳のギリシア語でも冠詞のない「人の子」です。
 このこととのかかわりで、先ほど挙げた、「人」が並行法によって「人の子」と言い換えられている例の中に注目したいみことばがあります。それは、詩篇80篇17節に記されている、

 あなたの右にいる人の上に御手が
 ご自分のため強くされた人の子の上に
 御手がありますように。

というみことばです。この場合の「人の子」は、ことばとしては他のみことばと同じように、「人」が並行法によって、ヘブル語でも七十人訳のギリシア語でも冠詞のない「人の子」と言い換えられています。けれども、言われていることの内容からは、1節ー3節に、

 イスラエルの牧者よ聞いてください。
 ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ
 光を放ってください。
 ケルビムの上に座しておられる方よ。
 エフライムとベニヤミンとマナセの前で
 御力を呼び覚まし
 私たちを救いに来てください。
 神よ私たちを元に戻し
 御顔を照り輝かせてください。
 そうすれば私たちは救われます。

と記されていることから分かりますが、他のみことばとは違って、「」がダビデに与えてくださった契約に約束されている、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座して、「」の民のために救いの御業を遂行してくださる方、メシアのことです。
 このように、冠詞のない「人の子」でも、約束のメシアを表すことができます。それで、一般的には、これは文学的・文法的な違いであるとされています。


 しかし、この一般的な理解にも疑問は残ります。
 というのは、この理解が示しているのは、冠詞のない「人の子」でも、約束のメシアを表すことができるということだけです。そして、ここで言われていることの全体的な流れの中で、この場合の冠詞のない「人の子」は、特定の方、すなわち約束のメシアであることが分かるということです。けれども、この説明は、新約聖書の他のすべての個所において、ダニエル書7章13節に出てくる、アラム語でも七十人訳のギリシア語でも冠詞のない「人の子」を背景として、「あの人の子」というように、冠詞つきの「人の子」が用いられているのに、どうして、ここヨハネの福音書5章27節だけで、冠詞のない「人の子」が用いられているのかということの説明にはなっていません。
 ちなみに、先ほど触れた、ヨハネの福音書1章1節の、

 ことばは神であった。

が、冠詞のない「」が「であった」という動詞の前に置かれて表されている例では、「ことば」が冠詞つきの(その)「」であったとしてしまうと、「ことば」がその前で、

 ことばは神とともにあった。

と言われているときの「」すなわち「父なる神さま」であったということになってしまいます。それで、冠詞のない「」を「であった」という動詞の前に置いて、「ことば」が「」でありつつ、「」すなわち「父なる神さま」と区別される方であることを表しているという理由があります。
 この問題について、私は、ヨハネの福音書5章27節の冠詞のない「人の子」は、ダニエル書7章13節に出てくる、アラム語でも七十人訳のギリシア語でも冠詞のない「人の子」を背景としていて、文法的に可能な「あの人の子」という意味合いを伝えつつ、なお、それを時間的に越えてさかのぼって示されているメシアを表していると考えています。
 具体的には、創世記3章15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されている、「蛇」に対するさばきの宣告に示されているメシアのことです。この「蛇」に対するさばきの宣告は「蛇」を用いて「」すなわちエバを誘惑したサタンへのさばきの宣告です。ここには、サタンがエバを誘惑するために用いた「蛇」は、神である「」がサタンへのさばきを宣告するのにうってつけのものであったという皮肉があります。
 このさばきの宣告は、特に、「」とのかかわりにおいて示されています。これは、「蛇」が直接的に働きかけたのが彼女であったことによっていると考えられます。エバは「蛇」の誘惑によって欺かれて、神である「」の戒めに背き、善悪の知識の木から取って食べてしまいました。そればかりでなく、その結果、彼女自身が「蛇」の果たしていた役割を負って、夫アダムを神である「」の戒めに背くように誘ってしまいました。このように、エバはこの誘惑の出来事において、「蛇」の背後にあって働いていたサタンとの一体性をより強く表しています。これは罪による一体性です。
 神である「」は、まず、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。

と言われました。神である「」は、罪によって一つとなってしまっている「おまえ」すなわち「蛇」の背後にあって働いていたサタンと「」すなわちエバの間に「敵意」を置くと言われました。
 この「敵意」ということば(エーバー)は、ここの他には民数記35章21節ー22節、エゼキエル書25章15節、35章5節に出てきます。引用はしませんが。これらの個所においては、この「敵意」は相手を殺し、滅ぼしてしまうことにつながってるものであることを示しています。それで、これは単なる敵意という、内に秘めた思いより強いもので、相手を滅びへと至らせてしまうほどのものです。また、ここでは、この「敵意」ということばが最初に出てきて強調されています。このような強い敵意を表すことばが最初に置かれて強調されていることは、この「敵意」による敵対がきわめて強いものであることを示しています。このことはさらに、この「敵意」がサタンと「」の間においてだけでなく、

  また、おまえの子孫と女の子孫との間に

と言われているように、その「敵意」がそれぞれの子孫の間にまで及ぶと言われていることによっても示されています。このように、ここでは、この「敵意」の強さが三重に強調されているのです。
 ここで三重に強調されている「」と「女の子孫」のサタンとその霊的な子孫に対する「敵意」の強さと持続性は、人から出るものではありません。ここでは、この「敵意」ということばに続いて、「わたしは置く」(アーシート)ということばが出てきます。これによって、この「敵意」は神である「」が置いてくださるもの、その意味で、神である「」のお働きによるものであることが示されています。
 この時、「」は神である「」に対して罪を犯して御前に堕落してしまっていたので、罪によってサタンと結びついてしまっていました。それで、自分の力で罪の鎖を断ち切って、「」のもとに帰ることはできませんでした。そのことは、これに先立って、創世記3章8節ー13節に記されていますが、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった「人」とその妻は、神である「」が悔い改めの機会を与えてくださった時にも、自分たちの罪を認めて悔い改めることはありませんでした。
 神である「」は、人が自分の力で罪の鎖を断ち切って、「」のもとに帰ることができないことを明らかにされた上で、ご自身がサタンと「」の間に「敵意」を置いてくださって、その結びつきを断ち切ってくださると言われたのです。しかも、それは、サタンと「」の間のことだけでなく、サタンの霊的な子孫と「女の子孫」の間にも受け継がれていくというのです。このすべては神である「」が、その一方的な恵みによってなしてくださることです。このことに、すでに、福音としての特質があります。
 そして、この、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

というみことばは、神である「」がサタンに対するさばきの宣告として語られたことです。それで、「」と「女の子孫」がサタンとサタンの霊的な子孫に対して「敵意」をもっようになるということは、神である「」がサタンとその霊的な子孫へのさばきを執行することにおいて、「」と「女の子孫」をご自身のしもべとしてお用いになるということを意味しています。このようにして、神である「」がサタンとサタンの霊的な子孫へのさばきを執行されるときのみこころにおいて、「」と「女の子孫」は神である「」のしもべとして用いられることが明らかにされました。このことに、「」と「女の子孫」が神である「」のものとなって、救われるようになることが示されています。それで、このサタンに対するさばきの宣告は、「最初の福音」と呼ばれます。
 このサタンとその子孫の「敵意」は、もともと、サタンが神である「」に対してもっていた「敵意」であるとともに、サタンが神である「」に対して、常にもっている敵意の表れであると考えられます。サタンは被造物でしかないので、神である「」に敵意を抱いていても、「」と直接的に戦うことはできません。それで、神さまが創造の御業において歴史的な世界をお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになった「」を誘惑して、神である「」に罪を犯させることによって、創造の御業において示されている神さまのみこころの実現を阻止しようとして働いているのです。
 サタンは、「」を誘惑するようになる前に、すでに、神である「」に対して罪を犯して、神である「」に敵対している状態にありました。それで、サタンは「」を誘惑する前にのろわれたものとして存在しており、神である「」のさばきに服すべきものでした。そのサタンが「」を誘惑して罪に陥れ、さらに、彼女をとおして「人」を罪に陥れました。これによってサタンは、神である「」への反逆を増し加え、のろいをさらに積み上げることになりました。このようにして、サタンは、ただ単に、自分が神である「」のさばきに服するだけでなく、神のかたちとして造られて、神である「」がお造りになったこの歴史的な世界についての神である「」のご計画の中心にある人をも、自らの罪に巻き込み、滅びの道連れにしました。そのすべては、創造の御業において示されている神さまのみこころの実現を挫いてしまうため、その意味で、神である「」に逆らうためでした。
 そのサタンに告げられたさばきの宣告において、神である「」は、この時に、ご自身が直接的にサタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行されないで、この時は、罪によって一つになっているサタンと「」の間に、お互いを滅びに至らせようとするほどに強い「敵意」を置かれるということを告げられました。そして、その「敵意」はサタンの霊的な子孫と「女の子孫」の間にも受け継がれていくことが示されました。これによって、さらに人の歴史が続いていき、その歴史をとおして変わることなく、神である「」がサタンの霊的な子孫と「女の子孫」の間に「敵意」を置いてくださるということが示されました。
 それだけでなく、神である「」は、「女の子孫」について、

 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と言われました。「」を打つことは致命傷を与えることですが「かかと」を打つことは、それなりの打撃を与えることですが、致命傷とはなりません。
 この「」は単数形ですが、集合名詞として、歴史をとおして存続する「女の子孫」の共同体を指しています。同じように、「おまえの子孫」も歴史をとおして存続するサタンの霊的な子孫の共同体を指しています。これとともに、聖書においては共同体には「かしら」がいます。実際、「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体には「かしら」がいます。それは「おまえ」と呼ばれているサタンです。そうであれば、「」と「女の子孫」の共同体にも「かしら」がいるはずです。それは「」ではなく、「女の子孫」の中にいます。
 これらのことは、この後に続いていく人の歴史において展開されていく霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」の共同体が勝利し、「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体へのさばきを執行することを意味しています。それとともに、最終的には、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」である方が、「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体の「かしら」である「おまえ」に対するさばきを執行するということを示しています。
 もし、神である「」がサタンに対するさばきの宣告をしたこの時に、神である「」が直接的にサタンに対するさばきを執行して、サタンを滅ぼしてしまっていたら、罪によってサタンと一つになってしまっていた「人」とその妻も、サタンとともに滅ぼされてしまっていたことでしょう。そうなると、創造の御業において歴史的な世界をお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになった神さまのみこころは実現しないことになってしまいます。サタンが創造の御業において示された神さまのみこころの実現を阻止したということで、サタンが仕掛けた霊的な戦いにおいて、サタンが勝利することになってしまいます。
 しかし、神である「」はサタンの思いをはるかに越えた形で、サタンとその霊的な子孫に対するさばきが執行されるとともに、「」と「女の子孫」の共同体がご自身の民として回復されるということを示されたのです。そして、このようにして、神である「」が備えてくださる「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」である方こそが、ここで約束されているメシアです。この方は、「」と「女の子孫」という人によって構成されている共同体の「かしら」として、まことの人であり、その意味で「人の子」ということばが当てはまります。
 この「最初の福音」においては、神である「」が直接的にサタンに対する最終的なさばきを執行されないで、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」である方によってサタンに対する最終的なさばきを執行されるというみこころが示されました。このことが、ヨハネの福音書5章27節に記されている、

 父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。

というイエス・キリストの教えの根底にある背景であると考えられます。

 最後に、一つの問題に触れておきます。このイエス・キリストの教えの背景として「最初の福音」までさかのぼることには無理があるという主張もあることでしょう。
 これについては、詳しい説明を省いて、結論的なことだけをお話しします。
 すでにお話ししたように、私たちが今取り上げているヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えは、これに先立って、2節ー18節に記されていることを受けて語られたものです。具体的には、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことに対して、ユダヤ人の指導者たちは、イエス・キリストは安息日にかかわる神である「」の律法に背いていると非難しました。これに対して、イエス・キリストは、17節に記されているように、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

とお答えになりました。ここでイエス・キリストが、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。

と言われたときの「今に至るまで」は、神さまが天地創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福して、聖別されたことを受けいています。この天地創造の御業の第7日はいまだ閉じていなくて、世の終わりまで続きます。それで、この神さまがご自身の安息の「日」として祝福して、聖別された天地創造の御業の第7日が、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たす「日」、時間的な「舞台」なのです。
 そして、その歴史と文化を造る使命を果たすことの中心に、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人が、この世界にご臨在してくださる神である「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛の交わりに生きることがあります。神さまはご自身が神のかたちとしてお造りになった人を愛してくださり、人がご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛の交わりに生きることを喜びとしてくださり、そのことをご自身の安息の核心にあることとしておられます。
 サタンは神さまがこのように愛してくださった人を誘惑して、神である「」に背かせたのです。これによって、どれほど神さまの安息がかき乱されたことでしょう。しかし、神さまは「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」である方によって、ご自身の民をお救いになり、ご自身の安息を回復され、完成されます。
 イエス・キリストは、ご自身が安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことの意味について教えられた時に、天地創造の御業にまでさかのぼって教えられました。そうであれば、神さまが「さばきを行う権威」をメシアにお委ねになったことを教えられた時に、そのことが最初に示された「最初の福音」をも視野に入れておられたと考えることは無理なことではないと思われます。特に、その「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」であるメシアが「」の民を救うことによって、神さまの安息を回復し、完成される方であることを考えると、決して無理なことではないと思われます。


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