黙示録講解

(第397回)


説教日:2019年10月6日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(150)


 先主日は、講壇交換のために、黙示録からのお話はお休みしました。今日は、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた約束のみことばに関連することとして、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 19節ー29節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 今お話ししているのは、22節ー23節に記されている、

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

というイエス・キリストの教えについてです。
 ここでは、

 父はだれをもさばかず

と言われています。
 ところが、旧約聖書においては、神、または、神である「」こそが、さばきを執行される方であるということが、繰り返し示されています。そのさばきは、地のすべての民、あるいは、全世界の民、諸国の民だけでなく、ご自身の民に対しても執行されます。
 しかし、それとともに、旧約聖書には、「」がダビデ契約に基づいてとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されるダビデの子が、「」と「」に油注がれた者、すなわち、メシアに敵対する、国々の民をさばくことを示すみことばがあります。
 すでに取り上げたのは詩篇2篇と詩篇110篇1節です。この他にもありますので、今日は、ヨハネの福音書5章27節に記されている、

 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。

という、イエス・キリストの教えの背景にあると考えられている、ダニエル書7章13節ー14節に記されていることについてお話しします。
 そこには、

 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が
  天の雲とともに来られた。
  その方は「年を経た方」のもとに進み、
  その前に導かれた。
  この方に、主権と栄誉と国が与えられ、
  諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、
  この方に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、
  過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

と記されています。これは、ダニエルが寝床で見た(1節)幻によって示されたことです。
 この幻については、すでに何度か取り上げたことがあるので、復習になりますが、改めて、いくつかのことを整理し、補足しながらお話ししたいと思います。
 ダニエルが見た幻のことは、7章2節ー14節に記されています。先ほど引用した13節ー14節に記されていることは、その最後の部分です。
 7章2節ー14節に記されている幻による啓示は、大きく、前半の2節ー8節と後半の9節ー14節の二つに分かれます。前半の2節ー8節には、海から上がってきた「四頭の大きな獣」のことが記されています。

私が夜、幻を見ていると、なんと、天の四方の風が大海をかき立てていた。すると、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から身を起こされて人間のように二本の足で立ち、人間の心が与えられた。すると見よ、熊に似た別の第二の獣が現れた。その獣は横向きに寝ていて、その口の牙の間には三本の肋骨があった。すると、それに『起き上がって、多くの肉を食らえ』との声がかかった。その後、見ていると、なんと、豹のような別の獣が現れた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。その後また夜の幻を見ていると、なんと、第四の獣が現れた。それは恐ろしくて不気味で、非常に強かった。大きな鉄の牙を持っていて、食らってはかみ砕き、その残りを足で踏みつけていた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。私がその角を注意深く見ていると、なんと、その間から、もう一本の小さな角が出て来て、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には人間の目のような目があり、大言壮語する口があった。

と記されています。
 これら4頭の獣たちは、ダニエルが仕えていたバビロンの時代から始まって、それに続いて興ってくるこの世の帝国を表しています。それで、これら4頭の獣が、実際に歴史に興ってきたどの帝国であるかということが論じられてきました。そして、その見方は大きく二つに別れていますが、それぞれに言い分があり、決着はついていません。
 おそらく、そのように決着をつけがたいということはダニエル書のこの部分が意図するところで、それによって、いくつかのことが示されていると考えられます。
 第一に、これら4頭の獣によって表象的に示されているのは、この世の帝国です。それぞれが「獣」の表象によって示されていることは、この世の帝国の特質です。その権力は軍事力や経済的な力などの血肉の力によって支えられています。それは、また、罪の自己中心性によって動かされ、自らを神の位置に据えて、いっさいのものを支配しようとする特質をもった権力です。そして、このことを実現するために、血肉の力を使って、力ずくで人を支配し、邪魔者を抹殺します。
 それは、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、その本性が腐敗してしまっていることによっています。そのために、罪の自己中心性がさまざまな形で現れてきてしまいます。自己中心的なおごりや高ぶり、その裏返しの、ねたみやそしりや憤りという内側の状態から始まり、それを表す暴力的なことばや行いが生まれてきます。これは、すべての人それぞれのうちに起こっていることですが、これが集団となるとそれがより大掛かりな形で現れてきます。社会的には、力のある者が弱い立場の人々を搾取し、抵抗する人々を弾圧することや、国家間の紛争や戦争となって現れてきます。人類の歴史の中で、これらのことが絶えたことはありません。このことは、今日、私たちが住んでいる世界において、ますます深刻な状態を生み出しています。
 第二に、ここに出てくる、4頭の獣たちによって表象的に示されているのは、架空の国々のことではなく、実際に、この世の歴史の中に登場してくる国々のことであるということです。それで、バビロンに続くいくつかの帝国の特徴が、これら4頭の獣に見られる形で記されています。
 第三に、これら4頭の獣の「4」という数字は完全数です。特に、2節に出てくる「天の四方の風」ということばは、より一般的な「四方」あるいは「地の四隅」と同じように、空間的あるいは地理的な広がりの全体性を表します。それで、これら4頭の獣によって、この世の国々全体が象徴的に表されていると考えられます。しかも、これら4頭の獣が次々と現れてくるということから、これら4頭の獣によって象徴的に表されているのは、ダニエルが仕えていたバビロンの時代から世の終わりに至るまでの歴史の中に登場してくるこの世の国々であると考えられます。それで、これら4頭の獣は地理的・空間的にも、時間的・歴史的にも、この世のすべての国々を象徴的に表していると考えられます。
 第四に、このような意味をもっているこれら4頭の獣についての描写では、だんだんとその凶暴性が増していき、第四の獣において頂点に達します。これによって、世の終わりに至るまでの歴史の中に登場してくるこの世の国々は、だんだんとその凶暴性を増していくことが示されています。そして、終わりの日に登場してくる帝国においてその頂点に至ることが示されています。
 第五に、最も大切なことですが、これは、ダニエル書2章28節に記されているダニエルがネブカドネツァルに語ったことばを用いると、「天に秘密を明らかにするひとりの神がおられます。この方が終わりの日に起こることを」ダニエルにお示しになったものです。この方は、ご自身がこれら4頭の獣によって表象的に表されているこの世の帝国すべてを治めておられる、歴史の主です。それで、歴史の主であられるこの方は「終わりの日に起こることを」ダニエルにお示しになることがおできになったのです。決して、ご自身のみこころとは関係なく起こることを予見して、それをダニエルにお示しになったのではありません。


 ダニエルが見た幻によって示された4頭の獣は海から上ってきたと言われています。古代オリエントの文化では、海は渾沌や破壊をもたらし、神々に敵対する暗闇の力を表示するものでした。バビロニアの創世神話である「エヌマ・エリシュ」では、複雑な神々の関係があるのですが、アッカド語で「海」を意味する女神ティアマトを打ち破ったマルドゥクがバビロニアの主神になります。マルドゥクは二つに引き裂いたティアマトのからだの半分で天を造り、もう半分で地を造ったとされています。また、カナンの神話でも「海」を意味するヤムを打ち破ったバアルが主神になります。
 ダニエルが見た幻のうちに示された第四の獣については、

その後また夜の幻を見ていると、なんと、第四の獣が現れた。それは恐ろしくて不気味で、非常に強かった。大きな鉄の牙を持っていて、食らってはかみ砕き、その残りを足で踏みつけていた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。私がその角を注意深く見ていると、なんと、その間から、もう一本の小さな角が出て来て、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には人間の目のような目があり、大言壮語する口があった。

と記されています。これは、7節ー8節の二つの節わたって記されていますが、その他の獣のことは、それぞれ1節ずつに記されています。また、この第四の獣の描写も、これがこの上なく狂暴な獣であることを示しています。さらに、この獣だけが「十本の角」をもっています。「角」は広く「力」を象徴的に表していますが、この場合のように、黙示文学では帝国の王たちを表象的に表しています。この第四の獣のことを説明している24節には、

 十本の角は、この国から立つ十人の王。

と記されています。
 第四の獣の描写においては、この獣の頭にあった「十本の角」の間から出てきた「小さな角」に特別な注意が払われています。そして、

 その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。

と記されていますし、

 この角には・・・大言壮語する口があった。

と記されています。ここには、「小さな角」に「大言壮語する口」があるという皮肉が見られます。
 この「小さな角」のことを説明している25節には、

 [彼は]いと高き方に逆らうことばを吐き、
 いと高き方の聖徒たちを悩ます。
 彼は時と法則を変えようとする。
 聖徒たちは、一時と二時と半時の間、
 彼の手に委ねられる。

と記されています。
 この第四の獣が終わりの日に登場してくる反キリストの帝国を指し示し、その「小さな角」が反キリストを指し示しています。
 この「小さな角」のことをさらに説明している26節ー27節には、

 しかし、さばきが始まり、
 彼の主権は奪われて、
 彼は完全に絶やされ、滅ぼされる。
 国と、主権と、天下の国々の権威は、
 いと高き方の聖徒である民に与えられる。
 その御国は永遠の国。
 すべての主権は彼らに仕え、服従する。

と記されています。
 このさばきのことは、2節ー14節においては、前半の、4頭の獣のことを記している2節ー8節に続いて、後半の9節ー14節に記されています。

 9節ー14節には、

私が見ていると、
 やがていくつかの御座が備えられ、
 「年を経た方」が座に着かれた。
 その衣は雪のように白く、
 頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。
 御座は火の炎、
 その車輪は燃える火で、
 火の流れがこの方の前から出ていた。
 幾千もの者がこの方に仕え、
 幾万もの者がその前に立っていた。
 さばきが始まり、
 いくつかの文書が開かれた。
 そのとき、あの角が大言壮語する声がしたので、私は見続けた。すると、その獣は殺され、からだは滅ぼされて、燃える火に投げ込まれた。残りの獣は主権を奪われたが、定まった時期と季節まで、そのいのちは延ばされた。
私がまた、夜の幻を見ていると、
 見よ、人の子のような方が
 天の雲とともに来られた。
 その方は「年を経た方」のもとに進み、
 その前に導かれた。
 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、
 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、
 この方に仕えることになった。
 その主権は永遠の主権で、
 過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

と記されています。
 9節には「年を経た方」が出てきます。これは神さまのことを擬人化して表したものです。「年を経た方」は、神さまを知恵に満ちている人になぞらえるものです。また、13節には「人の子のような方」が出てきます。この「年を経た方」と「人の子のような方」は、神のかたちとして造られた人の表象で表されていて、その前の2節ー8節において、この世の帝国が4頭のどう猛な獣の表象によって表されていることと対比されます。
 9節では、この「年を経た方」が「座に着かれた」と言われています。10節で、

 さばきが始まり、

と言われているように、その「」はさばきの座です。
 この方については、

 その衣は雪のように白く、

と言われています。これは、義と聖さを象徴的に表しています。また、

 頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。

と言われていることは、この方が「年を経た方」と言われていることと対応しています。その意味で、これは知恵を象徴的に表していると考えられます。
 この方が座しておられる、

 御座は火の炎、
 その車輪は燃える火で、
 火の流れがこの方の前から出ていた。

と言われています。「その車輪」と言われていますように、この方が座しておられる「御座」には「車輪」があります。これは焼き尽くす火の戦車です。それで、この焼き尽くす火の戦車に座しておられる方は霊的な戦いを戦われる方、その意味で、聖書にしばしば出てくる「神である戦士」です。この「神である戦士」については、出エジプト記の贖いの御業を遂行された「」が、紅海でエジプトの王パロの軍隊を滅ばされたときにモーセとイスラエルの民が歌った歌を記している出エジプト記15章1節ー18節の3節に、

 主はいくさびと。
 その御名は

と記されています。
 火は神さまのさばきとかかわっています。11節には、

そのとき、あの角が大言壮語する声がしたので、私は見続けた。すると、その獣は殺され、からだは滅ぼされて、燃える火に投げ込まれた。

と記されています。「あの角」とは第四の獣の「十本の角」の間から出てきた「小さな角」で「大言壮語する口」があったものです。先ほど触れたように、これは終わりの日に現れてくる反キリストのことで、ここでは反キリストに対して執行されるさばきを預言的に示しています。

 13節ー14節は先ほども引用しましたが、

私がまた、夜の幻を見ていると、
 見よ、人の子のような方が
 天の雲とともに来られた。
 その方は「年を経た方」のもとに進み、
 その前に導かれた。
 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、
 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、
 この方に仕えることになった。
 その主権は永遠の主権で、
 過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

と記されています。
 ここでは

 見よ、人の子のような方が
 天の雲とともに来られた。

と言われています。
 この「人の子のような方」は、先ほどお話ししたように、「年を経た方」とともに、神のかたちとして造られている人の表象で表されていて、2節ー8節に出てくる4頭の「獣」の表象で表されているこの世の帝国とその王たちと対比されています。この方は「年を経た方」から「主権と栄誉と国」を委ねられるのにふさわしい方であり、「諸民族、諸国民、諸言語の者たち」を、「主権と栄誉と国」を委ねてくださった「年を経た方」のみこころに従って治める方です。
 ここでは、

 その主権は永遠の主権で、
 過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない

と言われています。
 これは、「」がダビデに与えてくださった契約において、ダビデの子が着座する王座を永遠に堅く立ててくださると約束してくださっていることに当たります。前回お話ししたように、それは、私たちご自身の民の罪を贖うために十字架におかかりになって死んでくださり、私たちご自身の民を永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった御子イエス・キリストが、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたことにおいて成就しています。
 また、ここでは、この方が「天の雲とともに来られた」と言われています。この「天の雲とともに」は原文のアラム語(イム・アナーネー・シェマッヤー)が示していることですが、新改訳第3版が採っている、ギリシア語の七十人訳の「天の雲の上に」(エピ・トーン・ネフェローン・トゥー・ウーラヌー)すなわち「天の雲に乗って」が示していることが、聖書のほかの個所に示されていることと調和します。これは、先ほど触れた、神である「」が霊的な戦いを戦う「神である戦士」であられることとかかわっています。詩篇68篇4節ー6節には、

 神に向かって歌い 御名をほめ歌え。
 雲に乗って来られる方のために道を備えよ。
 その御名は。その御前で喜び躍れ。
 みなしごの父 やもめのためのさばき人は
 聖なる住まいにおられる神。
 神は孤独な者を家に住まわせ
 捕らわれ人を歓喜の歌声とともに導き出される。
 しかし頑迷な者は焦げつく地に住む。

と記されていますし、104篇1節ー4節には。

 わがたましいよをほめたたえよ。
 わが神よあなたはまことに大いなる方。
 あなたは威厳と威光を身にまとっておられます。
 あなたは光を衣のようにまとい
 天を幕のように張られます。
 水の中にご自分の高殿の梁を置き
 密雲をご自分の車とし
 風の翼に乗って進み行かれます。
 風をご自分の使いとし
 燃える火をご自分の召使いとされます。

と記されています。
 また、イザヤ書19章1節には、

 エジプトについての宣告。
 見よ。は速い密雲に乗って
 エジプトに来られる。
 エジプトの偽りの神々はその前にわななき、
 エジプト人の心も真底から萎える。

と記されています。
 これらの引用から分かりますが、「雲に乗って来られる」方は神である「」、ヤハウェです。ですから、ダニエル書7章13節に出てくる「天の雲とともに(雲に乗って)来られる」「人の子のような方」は人と同じような方でありつつ、神であられます。
 また、これらの引用から分かることは、「」、ヤハウェが「雲に乗って来られる」のは、ご自身の契約の民のために救いとさばきの御業を遂行されるためであるということです。
 ダニエル書7章14節には、

 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、
 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、
 この方に仕えることになった。

と記されています。ここに出てくる「仕える」ということば(アラム語・ペラハ)はダニエル書に9回出てくることばで、基本的に「神に仕える」ことを意味していて(K&B, p.1957)、「礼拝する」ことをも意味しています(TWOT, 2940)。これは、

 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、

この方の民となったということを意味しています。そして、これは、創世記12章3節に、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

と記されている、「」がアブラハムに与えてくださった約束が成就することを意味しています。
 これらのことから、ダニエル書7章13節で、

 見よ、人の子のような方が
 天の雲とともに来られた。

と言われていることは、この「人の子のような方」が神である戦士として、さばきを執行されるためでもありますが、最終的には、「諸民族、諸国民、諸言語の者たち」の救いを完成してくださるためのことであることが分かります。
 イエス・キリストは、これらのことを背景として、ご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。これは、その当時、「メシア」という称号には、血肉の力によって敵を制圧して、メシアの国を建てるというような意味合いがあったために、そのような意味合いのない「人の子」を用いられたと考えられます。
 最後に、これらのことと関連するイエス・キリストの教えを見てみましょう。
 マタイの福音書24章30節ー31節には、

そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。

と記されています。また、26章63節ー64節には、

しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」

と記されています。
 2017年版が24章30節で「人の子が天の雲のうちに」と訳しているときの「天の雲のうちに」と26章64節で「天の雲とともに」と訳しているときの「雲とともに」は、どちらも先ほど触れたダニエル書7章13節の七十人訳の「天の雲の上に」(エピ・トーン・ネフェローン・トゥー・ウーラヌー)すなわち「天の雲に乗って」です。そして、24章30節ー31節では、人の子が栄光とともに来臨されるのは選びの民を御許に集めるためであると言われています。


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