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説教日:2019年10月6日 |
ダニエルが見た幻によって示された4頭の獣は海から上ってきたと言われています。古代オリエントの文化では、海は渾沌や破壊をもたらし、神々に敵対する暗闇の力を表示するものでした。バビロニアの創世神話である「エヌマ・エリシュ」では、複雑な神々の関係があるのですが、アッカド語で「海」を意味する女神ティアマトを打ち破ったマルドゥクがバビロニアの主神になります。マルドゥクは二つに引き裂いたティアマトのからだの半分で天を造り、もう半分で地を造ったとされています。また、カナンの神話でも「海」を意味するヤムを打ち破ったバアルが主神になります。 ダニエルが見た幻のうちに示された第四の獣については、 その後また夜の幻を見ていると、なんと、第四の獣が現れた。それは恐ろしくて不気味で、非常に強かった。大きな鉄の牙を持っていて、食らってはかみ砕き、その残りを足で踏みつけていた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。私がその角を注意深く見ていると、なんと、その間から、もう一本の小さな角が出て来て、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には人間の目のような目があり、大言壮語する口があった。 と記されています。これは、7節ー8節の二つの節わたって記されていますが、その他の獣のことは、それぞれ1節ずつに記されています。また、この第四の獣の描写も、これがこの上なく狂暴な獣であることを示しています。さらに、この獣だけが「十本の角」をもっています。「角」は広く「力」を象徴的に表していますが、この場合のように、黙示文学では帝国の王たちを表象的に表しています。この第四の獣のことを説明している24節には、 十本の角は、この国から立つ十人の王。 と記されています。 第四の獣の描写においては、この獣の頭にあった「十本の角」の間から出てきた「小さな角」に特別な注意が払われています。そして、 その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。 と記されていますし、 この角には・・・大言壮語する口があった。 と記されています。ここには、「小さな角」に「大言壮語する口」があるという皮肉が見られます。 この「小さな角」のことを説明している25節には、 [彼は]いと高き方に逆らうことばを吐き、 いと高き方の聖徒たちを悩ます。 彼は時と法則を変えようとする。 聖徒たちは、一時と二時と半時の間、 彼の手に委ねられる。 と記されています。 この第四の獣が終わりの日に登場してくる反キリストの帝国を指し示し、その「小さな角」が反キリストを指し示しています。 この「小さな角」のことをさらに説明している26節ー27節には、 しかし、さばきが始まり、 彼の主権は奪われて、 彼は完全に絶やされ、滅ぼされる。 国と、主権と、天下の国々の権威は、 いと高き方の聖徒である民に与えられる。 その御国は永遠の国。 すべての主権は彼らに仕え、服従する。 と記されています。 このさばきのことは、2節ー14節においては、前半の、4頭の獣のことを記している2節ー8節に続いて、後半の9節ー14節に記されています。 9節ー14節には、 私が見ていると、 やがていくつかの御座が備えられ、 「年を経た方」が座に着かれた。 その衣は雪のように白く、 頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。 御座は火の炎、 その車輪は燃える火で、 火の流れがこの方の前から出ていた。 幾千もの者がこの方に仕え、 幾万もの者がその前に立っていた。 さばきが始まり、 いくつかの文書が開かれた。 そのとき、あの角が大言壮語する声がしたので、私は見続けた。すると、その獣は殺され、からだは滅ぼされて、燃える火に投げ込まれた。残りの獣は主権を奪われたが、定まった時期と季節まで、そのいのちは延ばされた。 私がまた、夜の幻を見ていると、 見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。 その方は「年を経た方」のもとに進み、 その前に導かれた。 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、 この方に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、 過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない。 と記されています。 9節には「年を経た方」が出てきます。これは神さまのことを擬人化して表したものです。「年を経た方」は、神さまを知恵に満ちている人になぞらえるものです。また、13節には「人の子のような方」が出てきます。この「年を経た方」と「人の子のような方」は、神のかたちとして造られた人の表象で表されていて、その前の2節ー8節において、この世の帝国が4頭のどう猛な獣の表象によって表されていることと対比されます。 9節では、この「年を経た方」が「座に着かれた」と言われています。10節で、 さばきが始まり、 と言われているように、その「座」はさばきの座です。 この方については、 その衣は雪のように白く、 と言われています。これは、義と聖さを象徴的に表しています。また、 頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。 と言われていることは、この方が「年を経た方」と言われていることと対応しています。その意味で、これは知恵を象徴的に表していると考えられます。 この方が座しておられる、 御座は火の炎、 その車輪は燃える火で、 火の流れがこの方の前から出ていた。 と言われています。「その車輪」と言われていますように、この方が座しておられる「御座」には「車輪」があります。これは焼き尽くす火の戦車です。それで、この焼き尽くす火の戦車に座しておられる方は霊的な戦いを戦われる方、その意味で、聖書にしばしば出てくる「神である戦士」です。この「神である戦士」については、出エジプト記の贖いの御業を遂行された「主」が、紅海でエジプトの王パロの軍隊を滅ばされたときにモーセとイスラエルの民が歌った歌を記している出エジプト記15章1節ー18節の3節に、 主はいくさびと。 その御名は主。 と記されています。 火は神さまのさばきとかかわっています。11節には、 そのとき、あの角が大言壮語する声がしたので、私は見続けた。すると、その獣は殺され、からだは滅ぼされて、燃える火に投げ込まれた。 と記されています。「あの角」とは第四の獣の「十本の角」の間から出てきた「小さな角」で「大言壮語する口」があったものです。先ほど触れたように、これは終わりの日に現れてくる反キリストのことで、ここでは反キリストに対して執行されるさばきを預言的に示しています。 13節ー14節は先ほども引用しましたが、 私がまた、夜の幻を見ていると、 見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。 その方は「年を経た方」のもとに進み、 その前に導かれた。 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、 この方に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、 過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない。 と記されています。 ここでは 見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。 と言われています。 この「人の子のような方」は、先ほどお話ししたように、「年を経た方」とともに、神のかたちとして造られている人の表象で表されていて、2節ー8節に出てくる4頭の「獣」の表象で表されているこの世の帝国とその王たちと対比されています。この方は「年を経た方」から「主権と栄誉と国」を委ねられるのにふさわしい方であり、「諸民族、諸国民、諸言語の者たち」を、「主権と栄誉と国」を委ねてくださった「年を経た方」のみこころに従って治める方です。 ここでは、 その主権は永遠の主権で、 過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない と言われています。 これは、「主」がダビデに与えてくださった契約において、ダビデの子が着座する王座を永遠に堅く立ててくださると約束してくださっていることに当たります。前回お話ししたように、それは、私たちご自身の民の罪を贖うために十字架におかかりになって死んでくださり、私たちご自身の民を永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった御子イエス・キリストが、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたことにおいて成就しています。 また、ここでは、この方が「天の雲とともに来られた」と言われています。この「天の雲とともに」は原文のアラム語(イム・アナーネー・シェマッヤー)が示していることですが、新改訳第3版が採っている、ギリシア語の七十人訳の「天の雲の上に」(エピ・トーン・ネフェローン・トゥー・ウーラヌー)すなわち「天の雲に乗って」が示していることが、聖書のほかの個所に示されていることと調和します。これは、先ほど触れた、神である「主」が霊的な戦いを戦う「神である戦士」であられることとかかわっています。詩篇68篇4節ー6節には、 神に向かって歌い 御名をほめ歌え。 雲に乗って来られる方のために道を備えよ。 その御名は主。その御前で喜び躍れ。 みなしごの父 やもめのためのさばき人は 聖なる住まいにおられる神。 神は孤独な者を家に住まわせ 捕らわれ人を歓喜の歌声とともに導き出される。 しかし頑迷な者は焦げつく地に住む。 と記されていますし、104篇1節ー4節には。 わがたましいよ主をほめたたえよ。 わが神主よあなたはまことに大いなる方。 あなたは威厳と威光を身にまとっておられます。 あなたは光を衣のようにまとい 天を幕のように張られます。 水の中にご自分の高殿の梁を置き 密雲をご自分の車とし 風の翼に乗って進み行かれます。 風をご自分の使いとし 燃える火をご自分の召使いとされます。 と記されています。 また、イザヤ書19章1節には、 エジプトについての宣告。 見よ。主は速い密雲に乗って エジプトに来られる。 エジプトの偽りの神々はその前にわななき、 エジプト人の心も真底から萎える。 と記されています。 これらの引用から分かりますが、「雲に乗って来られる」方は神である「主」、ヤハウェです。ですから、ダニエル書7章13節に出てくる「天の雲とともに(雲に乗って)来られる」「人の子のような方」は人と同じような方でありつつ、神であられます。 また、これらの引用から分かることは、「主」、ヤハウェが「雲に乗って来られる」のは、ご自身の契約の民のために救いとさばきの御業を遂行されるためであるということです。 ダニエル書7章14節には、 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、 この方に仕えることになった。 と記されています。ここに出てくる「仕える」ということば(アラム語・ペラハ)はダニエル書に9回出てくることばで、基本的に「神に仕える」ことを意味していて(K&B, p.1957)、「礼拝する」ことをも意味しています(TWOT, 2940)。これは、 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、 この方の民となったということを意味しています。そして、これは、創世記12章3節に、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 と記されている、「主」がアブラハムに与えてくださった約束が成就することを意味しています。 これらのことから、ダニエル書7章13節で、 見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。 と言われていることは、この「人の子のような方」が神である戦士として、さばきを執行されるためでもありますが、最終的には、「諸民族、諸国民、諸言語の者たち」の救いを完成してくださるためのことであることが分かります。 イエス・キリストは、これらのことを背景として、ご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。これは、その当時、「メシア」という称号には、血肉の力によって敵を制圧して、メシアの国を建てるというような意味合いがあったために、そのような意味合いのない「人の子」を用いられたと考えられます。 最後に、これらのことと関連するイエス・キリストの教えを見てみましょう。 マタイの福音書24章30節ー31節には、 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。 と記されています。また、26章63節ー64節には、 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」 と記されています。 2017年版が24章30節で「人の子が天の雲のうちに」と訳しているときの「天の雲のうちに」と26章64節で「天の雲とともに」と訳しているときの「雲とともに」は、どちらも先ほど触れたダニエル書7章13節の七十人訳の「天の雲の上に」(エピ・トーン・ネフェローン・トゥー・ウーラヌー)すなわち「天の雲に乗って」です。そして、24章30節ー31節では、人の子が栄光とともに来臨されるのは選びの民を御許に集めるためであると言われています。 |
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