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説教日:2019年9月22日 |
新約聖書は、ここに記されている「主」に油注がれた者であるダビデの子が、御子イエス・キリストにおいて成就していることを示しています。 そのことはいくつかの個所に示されていますが、ここでは、使徒の働き13章33節に記されていることを見てみましょう。そこには、 神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、 「あなたはわたしの子。 わたしが今日、あなたを生んだ」 と書かれているとおりです。 と記されています。 これは、パウロの一行がピシディアのアンティオキアにやって来てから、安息日に会堂に行った時、パウロが乞われて語った奨励のことばに出てくるものです。 ここでパウロは、神さまがイエス・キリストをよみがえらせてくださったことによって、詩篇2篇に、 あなたはわたしの子。 わたしが今日、あなたを生んだ。 と記されている約束を成就してくださったと証ししています。 先ほどお話ししたように、詩篇2篇7節に記されている、 あなたはわたしの子。 わたしが今日 あなたを生んだ。 というみことばは、神である「主」がダビデ契約において約束してくださった、「主」に油注がれた者であるまことのダビデの子が、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されるときのことを示しています。そして、ここでは、そのことが、神さまがイエス・キリストをよみがえらせてくださったことによって成就していると言われています。 ここでは、それがどういうことであるかは詳しく説明されてはいません。しかし、使徒の働きでは、すでに、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に起こったことを記している2章において、そのことがどういうことかが説明されています。 使徒の働き2章32節ー35節には、 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。 「主は、私の主に言われた。 あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されています。 これは、ペテロが最初の聖霊降臨節の日に起こったことの意味を、その場に居合わせた人々に語ったことばです。最初の聖霊降臨節の日に起こったことについては、後ほどお話しします。 神さまは、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪を贖ってくださったイエス・キリストに栄光をお与えになって、死者の中からよみがえらせてくださいました。さらに、神さまは、そのイエス・キリストを、天において、ご自身の右の座に着座させてくださいました。そして、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが「約束された聖霊を御父から受けて」「注いでくださった」のです。これが最初の聖霊降臨節の日に起こったことの意味でした。 ペテロは、このことにおいて、詩篇110篇1節においてダビデが言っている、 主は、私の主に言われた。 あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。 ということが成就したと述べています。 最初の、 主は、私の主に言われた。 ということばは、旧約聖書の詩篇110篇1節では、 主は私の主に言われた。 となっていて、「主」は(新改訳では太字になっていて)契約の神である「主」、ヤハウェのことです。そして、ダビデが「私の主」と呼んでいる方は、ダビデの主ですが、詩篇2篇2節に出てくる「主」に油注がれた者のことです。その方は、「主」がダビデ契約において約束してくださった、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座するようになる、まことのダビデの子です。ここでは、ダビデが、そのまことのダビデの子のことを「私の主」と呼んでいるのです。 これらのことから分かりますが、ダビデ契約において約束されていた「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座とは、父なる神さまの右の座のことだったのです。 繰り返しになりますが、詩篇2篇7節に記されている、 あなたはわたしの子。 わたしが今日 あなたを生んだ。 というみことばは、神である「主」がダビデ契約において約束してくださった、「主」に油注がれた者であるまことのダビデの子が、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されるときのことを示しています。このことは、まことのダビデの子として来てくださり、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになり、私たちご自身の民を永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストが、天に上られて、父なる神さまの右の座に着座されたことによって成就しています。 「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座である父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストは、そこから注いでくださった「約束された聖霊」によって、私たちご自身の民を治めてくださいます。 その聖霊は、栄光のキリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになり、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業がもたらす祝福に私たちをあずからせてくださいます。 具体的には、私たちご自身の民を栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、その復活のいのちにあずからせてくださって新しく生まれさせてくださいました。そして、福音のみことばに証しされているイエス・キリストを父なる神さまがお遣わしになった贖い主として信じるように導いてくださいました。このことによって、私たちは神さまの御前に義と認めていただき、神の子どもとしての身分を与えていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わり、また、兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きる者として、導いていただいています。 これらはすでに私たちご自身の民の現実になっていますが。それだけではありません。ローマ人への手紙8章11節には、 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。 と記されています。 ここで、 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、 と言われていることは、実際に、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が」私たちご自身の民のうちに住んでおられるという意味合いを伝えています。終わりの日には、父なる神さまが「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」によって、私たちご自身の民のからだを栄光あるからだによみがえらせてくださいます。 また、ここで、 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、 と言われているときの「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」は、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが注いでくださった「約束された聖霊」のことです。 この「約束された聖霊」のことが、ここローマ人への手紙8章11節では、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」と言われていますが、その前の9節には、 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。 と記されており、「約束された聖霊」のことが「神の御霊」とも「キリストの御霊」とも言われています。そして、この「キリストの御霊」が私たちのうちに住んでおられることは、続く10節では、 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。 と言われているように、「キリストが」私たちのうちにおられることであると言われています。 父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストは、このように豊かな意味をもっておられる御霊を注いでくださり、この御霊によって私たちご自身の民を導いてくださり、私たちを父なる神さまと兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きる者としてくださっています。 このことともに、注目したいのは、ペテロが最初の聖霊降臨節の日に語ったときに引用した詩篇110篇1節には、 主は私の主に言われた。 「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されていて、「主」が「あなたの敵」と呼んでおられる存在(複数形)がいるということです。その意味で、このみことばも「主」がまことのダビデの子であるメシアをとおして、メシアの敵をおさばきになることを示しています。この「あなたの敵」は、詩篇2篇では1節ー2節で、「主と主に油注がれた者に対して」敵対していると言われている国々の民であり、地の王たちです。 しかし、これにはもう一つの面があります。ペテロは最初の聖霊降臨節の日に起こったことについて語ったときに、詩篇110篇1節に記されている、 主は私の主に言われた。 「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 というみことばを引用しています。そして、その日に起こったことは、このみことばに示されているダビデの主が、父なる神さまの右の座から「約束された聖霊」を注いでくださったことによって起こったと説明しています。 その日に起こったことは、使徒の働き2章1節ー11節に、 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」 と記されています。 ここに記されている、「激しい風が吹いて来たような響き」や「炎のような舌」などは、栄光の「主」の御霊の御臨在に伴う現象です。神さまの栄光の御臨在に伴う現象は「セオファニー」、栄光のキリストの御臨在に伴う現象は「クリストファニー」と呼びますが、それに相当する栄光の「主」の御霊の御臨在に伴う現象があったのです。 その日、エルサレムに「天下のあらゆる国々から来て住んでいた」「敬虔なユダヤ人たち」と「改宗者」たちは、「それぞれ自分の国のことばで」、ガリラヤ人であるイエス・キリストの弟子たちが語る「神の大きなみわざ」のことを聞きました。それで、ここで弟子たちが語ったのは意味不明のことではなく、明確な「神の大きなみわざ」の証しのことばでした。 ペテロはそれがどのようなことであるかを人々に説明しましたが、その最後に、 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。 と言いました。これは、詩篇2篇のことばで言うと、ユダヤ人たちも、「主と主に油注がれた者に対して」敵対していたということです。それを聞いた人々のことが37節ー38節に、 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 と記されており、41節には、 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。 と記されています。 まことのダビデの子として来てくださって、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストは、詩篇110篇1節に記されている父なる神さまの右の座に着座されて、御霊によって、かつては「主と主に油注がれた者」に敵対していたご自身の民を救いの中に導き入れてくださるのです。このことがないままに、「主と主に油注がれた者に対して」敵対している人々へのさばきが執行されることはありません。「主」の贖いの御業の歴史においては、常に、救いの御業とさばきの御業が、いわば同時並行的になされます。 |
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