黙示録講解

(第396回)


説教日:2019年9月22日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(148)


 先主日には、私が夏期休暇をいただいたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日も、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた約束のみことばに関連することとして、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてお話しします。
 そこには、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 前回は、22節ー23節に記されている、

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

というイエス・キリストの教えについて、序論的なことをお話ししました。
 前回お話ししたことをまとめておきますと、ここで、

 父はだれをもさばかず

と言われていることは、否定を表すことばが最初と最後にあって、父なる神さまがさばきをなさらないことが強調されています。
 ところが、旧約聖書においては、神、または、神である「」こそが、さばきを執行される方であるということが、繰り返し示されています。そのさばきは、地のすべての民、あるいは、全世界の民、諸国の民だけでなく、ご自身の民に対しても執行されます。
 その一方で、旧約聖書には、「」がダビデ契約に基づいてとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されるダビデの子が、「」と「」に油注がれた者、すなわち、メシアに敵対する、国々の民をさばくことを示すみことばがあります。
 その一つは、前回取り上げた詩篇2篇です。また、後ほど、もう一つのみことばである詩篇110篇についてお話しします。
 詩篇2篇について、前回お話ししたことに補足を加えながら、振り返っておきましょう。
 2節には

 なぜ 地の王たちは立ち構え
 君主たちは相ともに集まるのか。
 主と主に油注がれた者に対して。

と記されています。ここでは、国々の民を代表する王たちが、「」と「主に油注がれた者」に敵対していることが記されています。
 そして、7節ー9節には、

 「私はの定めについて語ろう。
 主は私に言われた。
 『あなたはわたしの子。
 わたしが今日 あなたを生んだ。
 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。
 あなたは 鉄の杖で彼らを牧し
 陶器師が器を砕くように粉々にする。』」

と記されています。
 ここに記されていることは、サムエル記第二・7章12節ー16節に記されている、「」がダビデに与えてくださった契約において約束してくださったことを踏まえています。そこには、

あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

と記されています。
 詩篇2篇7節において、「」が言われた、

 あなたはわたしの子。
 わたしが今日 あなたを生んだ。

ということは、サムエル記第二・7章14節前半に記されている、

 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。

という「」のみことばを受けています。これは、「」に油注がれた者であるダビデの子が、「」が「とこしえまでも堅く立てる」と約束してくださった王国の王座に着座するときのことを述べています。
 そして、詩篇2篇8節において、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。

と言われていることは、「」が「」に油注がれた者であるダビデの子の主権を、すべての「国々」の上に堅く立ててくださることを意味しています。言い換えると、「」がダビデの子の「王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださるということです。
 この場合の、「国々」と「地の果ての果てまで」は実質的に同じことを指しています。「地の果ての果てまで」というのは隠喩(暗喩)で、「地の果ての果てまで」に深く関連しているもの、あるいは、近いもののことで、そこに住んでいる人々を指しています。[注] この「国々」と「地の果ての果てまで」の組み合せによって、「国々」といってもいくつかの「国々」のことではなく、「地の果ての果てまで」至る「国々」、すなわち、すべての「国々」のことであることが示されています。

[注]隠喩(暗喩)でよく知られているのは、「ゆりかごから墓場まで」というものです。「ゆりかご」と「墓場」に深くかかわっているのは「人」で、「ゆりかごから墓場まで」は「人の一生」を意味しています。

 また、ここで、

 わたしに求めよ。

と「」が言われるのは、これがダビデ契約において約束されていることだからです。「」に油注がれた者であるダビデの子は「」の契約に基づいて、「地の果ての果てまで」及ぶ「国々」を求めるようになります。すると、ご自身の契約を必ず守られる「」は、彼に「国々」を「ゆずり」として、「地の果ての果てまで」を「所有」としてお与えになるのです。もちろん、この「ゆずり」(相続財産)と「所有」は実質的に同じものを指しています。ダビデの子は「国々」を「ゆずり」として受けることによって、それを「所有」するのです。
 ダビデの子がすべての「国々」を「」から「ゆずり」として与えられるのは、「」がこの世界とその中のすべてのものをお造りになって所有しておられる方だからです。申命記10章14節には、

見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、のものである。

と記されています。また、詩篇24篇1節には、

 地とそこに満ちているもの
 世界とその中に住んでいるもの
 それはのもの。

と記されています。その他、詩篇95篇4節ー5節、コリント人への手紙第一・10章26節、使徒の働き17章24節、参照として詩篇100篇3節(「私たちは主のもの主の民」)などを見てください。
 このように、ここ詩篇2篇では、「」に油注がれた者であるダビデの子の主権が、空間的、地理的にあまねくすべての「国々」に及ぶようになるということが示されています。そして、ダビデ契約そのものを記しているサムエル記第二・7章12節ー16節では、「」がダビデの子の「王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださると約束されていて、ダビデの子の主権が、時間的、歴史的に永遠に及ぶようになるということが示されています。
 詩篇2篇では8節に続いて9節に、

 あなたは 鉄の杖で彼らを牧し
 陶器師が器を砕くように粉々にする。

と言われています。
 ここで、「鉄の杖」と言われているときの「」と訳されていることば(シェーベト)には、二つの可能性があります。
 一つは、王がもっている笏(しゃく)のことで、王権、王の主権を象徴するものです。この場合、それが「鉄の笏」であるということは、その王権の堅固さ、それが揺るぐことがないものであることを示しています。
 もう一つの可能性は、新改訳が採用している「」で、羊飼いが羊を飼うときにもっているものです。この場合、それが「鉄の杖」であるということは、その「」の堅固さを示しています。
 この部分の動詞(ヘブル語原文では最初に出てきます)にも二つの可能性があります。新改訳第3版は、ヘブル語聖書(マソラ本文)の読み方に従って、

 (あなたは鉄の杖で彼らを)打ち砕き、

と訳しています。これは、「」に油注がれた者であるダビデの子が堅固な「鉄の杖」あるいは「鉄の笏」、すなわち、揺るぐことがない主権をもって、国々の民をさばくことを意味しています。
 もう一つの可能性は、2017年版の本文の、

 (あなたは 鉄の杖で彼らを)牧し

という訳が示している可能性です[2017年版は欄外別訳で、第3版の訳を示しています]。この場合は動詞を、七十人訳(ヘブル語聖書のギリシア語訳)に従って、「牧し」と訳しています。この場合は、「」に油注がれた者であるダビデの子が羊飼いのように、堅固な「鉄の杖」をもって、国々の民を導いてくださり、襲ってくる獣から守ってくださることを意味しています。
 私たちが取り上げている黙示録2章27節に記されている、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という栄光のキリストの約束のみことばは、この2017年版の本文の訳の方を採用しています。ただし、このことから、詩篇2篇9節のこの部分を、

 あなたは 鉄の杖で彼らを牧し

と理解すべきであるということになるわけではありません。あくまでも、これも一つの可能性です。
 ただ、この可能性のある二つの理解の仕方がまったく矛盾しているわけではないと考えられます。というのは、詩篇2篇はこの9節で終っているのではなく、続く10節ー12節に、

 それゆえ今 王たちよ悟れ。
 地をさばく者たちよ 慎め。
 恐れつつ に仕えよ。
 おののきつつ震え 子に口づけせよ。
 主が怒り おまえたちが道で滅びないために。
 御怒りが すぐにも燃えようとしているからだ。
 幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。

と記されているからです。国々の王たち、国民たちが悟って、「恐れつつ に仕え」「主に身を避ける」ようになれば、「」に油注がれた者であるダビデの子が、羊飼いが羊たちを守り、導くように、彼らを守り、導いてくださるようになります。詩篇2篇はこの可能性を示しています。
 9節では、これに続いて、

 陶器師が器を砕くように粉々にする。

と言われています。これは、「」に油注がれた者であるダビデの子が「」と「」に油注がれた者に敵対する王たちや国々の民を、その揺るぐことがない主権をもって、おさばきになることを示しています。そのさばきは、歴史的にいつの時代の者に対しても、地理的にどこにいる者に対しても、確実に執行されます。


 新約聖書は、ここに記されている「」に油注がれた者であるダビデの子が、御子イエス・キリストにおいて成就していることを示しています。
 そのことはいくつかの個所に示されていますが、ここでは、使徒の働き13章33節に記されていることを見てみましょう。そこには、

神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、
 「あなたはわたしの子。
 わたしが今日、あなたを生んだ」
と書かれているとおりです。

と記されています。
 これは、パウロの一行がピシディアのアンティオキアにやって来てから、安息日に会堂に行った時、パウロが乞われて語った奨励のことばに出てくるものです。
 ここでパウロは、神さまがイエス・キリストをよみがえらせてくださったことによって、詩篇2篇に、

 あなたはわたしの子。
 わたしが今日、あなたを生んだ。

と記されている約束を成就してくださったと証ししています。
 先ほどお話ししたように、詩篇2篇7節に記されている、

 あなたはわたしの子。
 わたしが今日 あなたを生んだ。

というみことばは、神である「」がダビデ契約において約束してくださった、「」に油注がれた者であるまことのダビデの子が、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されるときのことを示しています。そして、ここでは、そのことが、神さまがイエス・キリストをよみがえらせてくださったことによって成就していると言われています。
 ここでは、それがどういうことであるかは詳しく説明されてはいません。しかし、使徒の働きでは、すでに、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に起こったことを記している2章において、そのことがどういうことかが説明されています。
 使徒の働き2章32節ー35節には、

このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。
 「主は、私の主に言われた。
 あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

と記されています。
 これは、ペテロが最初の聖霊降臨節の日に起こったことの意味を、その場に居合わせた人々に語ったことばです。最初の聖霊降臨節の日に起こったことについては、後ほどお話しします。
 神さまは、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪を贖ってくださったイエス・キリストに栄光をお与えになって、死者の中からよみがえらせてくださいました。さらに、神さまは、そのイエス・キリストを、天において、ご自身の右の座に着座させてくださいました。そして、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが「約束された聖霊を御父から受けて」「注いでくださった」のです。これが最初の聖霊降臨節の日に起こったことの意味でした。
 ペテロは、このことにおいて、詩篇110篇1節においてダビデが言っている、

 主は、私の主に言われた。
 あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。

ということが成就したと述べています。
 最初の、

 主は、私の主に言われた。

ということばは、旧約聖書の詩篇110篇1節では、

 は私の主に言われた。

となっていて、「」は(新改訳では太字になっていて)契約の神である「」、ヤハウェのことです。そして、ダビデが「私の主」と呼んでいる方は、ダビデの主ですが、詩篇2篇2節に出てくる「」に油注がれた者のことです。その方は、「」がダビデ契約において約束してくださった、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座するようになる、まことのダビデの子です。ここでは、ダビデが、そのまことのダビデの子のことを「私の主」と呼んでいるのです。
 これらのことから分かりますが、ダビデ契約において約束されていた「」がとこしえに堅く立ててくださる王座とは、父なる神さまの右の座のことだったのです。
 繰り返しになりますが、詩篇2篇7節に記されている、

 あなたはわたしの子。
 わたしが今日 あなたを生んだ。

というみことばは、神である「」がダビデ契約において約束してくださった、「」に油注がれた者であるまことのダビデの子が、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されるときのことを示しています。このことは、まことのダビデの子として来てくださり、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになり、私たちご自身の民を永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストが、天に上られて、父なる神さまの右の座に着座されたことによって成就しています。
 「」がとこしえに堅く立ててくださる王座である父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストは、そこから注いでくださった「約束された聖霊」によって、私たちご自身の民を治めてくださいます。
 その聖霊は、栄光のキリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになり、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業がもたらす祝福に私たちをあずからせてくださいます。
 具体的には、私たちご自身の民を栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、その復活のいのちにあずからせてくださって新しく生まれさせてくださいました。そして、福音のみことばに証しされているイエス・キリストを父なる神さまがお遣わしになった贖い主として信じるように導いてくださいました。このことによって、私たちは神さまの御前に義と認めていただき、神の子どもとしての身分を与えていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わり、また、兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きる者として、導いていただいています。
 これらはすでに私たちご自身の民の現実になっていますが。それだけではありません。ローマ人への手紙8章11節には、

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。

と記されています。
 ここで、

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、

と言われていることは、実際に、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が」私たちご自身の民のうちに住んでおられるという意味合いを伝えています。終わりの日には、父なる神さまが「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」によって、私たちご自身の民のからだを栄光あるからだによみがえらせてくださいます。
 また、ここで、

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、

と言われているときの「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」は、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが注いでくださった「約束された聖霊」のことです。
 この「約束された聖霊」のことが、ここローマ人への手紙8章11節では、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」と言われていますが、その前の9節には、

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

と記されており、「約束された聖霊」のことが「神の御霊」とも「キリストの御霊」とも言われています。そして、この「キリストの御霊」が私たちのうちに住んでおられることは、続く10節では、

キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。

と言われているように、「キリストが」私たちのうちにおられることであると言われています。
 父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストは、このように豊かな意味をもっておられる御霊を注いでくださり、この御霊によって私たちご自身の民を導いてくださり、私たちを父なる神さまと兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きる者としてくださっています。

 このことともに、注目したいのは、ペテロが最初の聖霊降臨節の日に語ったときに引用した詩篇110篇1節には、

 は私の主に言われた。
 「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

と記されていて、「」が「あなたの敵」と呼んでおられる存在(複数形)がいるということです。その意味で、このみことばも「」がまことのダビデの子であるメシアをとおして、メシアの敵をおさばきになることを示しています。この「あなたの敵」は、詩篇2篇では1節ー2節で、「と主に油注がれた者に対して」敵対していると言われている国々の民であり、地の王たちです。
 しかし、これにはもう一つの面があります。ペテロは最初の聖霊降臨節の日に起こったことについて語ったときに、詩篇110篇1節に記されている、

 は私の主に言われた。
 「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

というみことばを引用しています。そして、その日に起こったことは、このみことばに示されているダビデの主が、父なる神さまの右の座から「約束された聖霊」を注いでくださったことによって起こったと説明しています。
 その日に起こったことは、使徒の働き2章1節ー11節に、

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」

と記されています。
 ここに記されている、「激しい風が吹いて来たような響き」や「炎のような舌」などは、栄光の「」の御霊の御臨在に伴う現象です。神さまの栄光の御臨在に伴う現象は「セオファニー」、栄光のキリストの御臨在に伴う現象は「クリストファニー」と呼びますが、それに相当する栄光の「」の御霊の御臨在に伴う現象があったのです。
 その日、エルサレムに「天下のあらゆる国々から来て住んでいた」「敬虔なユダヤ人たち」と「改宗者」たちは、「それぞれ自分の国のことばで」、ガリラヤ人であるイエス・キリストの弟子たちが語る「神の大きなみわざ」のことを聞きました。それで、ここで弟子たちが語ったのは意味不明のことではなく、明確な「神の大きなみわざ」の証しのことばでした。
 ペテロはそれがどのようなことであるかを人々に説明しましたが、その最後に、

ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

と言いました。これは、詩篇2篇のことばで言うと、ユダヤ人たちも、「と主に油注がれた者に対して」敵対していたということです。それを聞いた人々のことが37節ー38節に、

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

と記されており、41節には、

 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

と記されています。

 まことのダビデの子として来てくださって、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストは、詩篇110篇1節に記されている父なる神さまの右の座に着座されて、御霊によって、かつては「と主に油注がれた者」に敵対していたご自身の民を救いの中に導き入れてくださるのです。このことがないままに、「主に油注がれた者に対して」敵対している人々へのさばきが執行されることはありません。「」の贖いの御業の歴史においては、常に、救いの御業とさばきの御業が、いわば同時並行的になされます。


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