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説教日:2019年9月8日 |
今日は、これらのことを踏まえて、続く22節ー23節に記されている、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。 というイエス・キリストの教えについて、序論的なことをお話しします。 ここで、 父はだれをもさばかず と言われていることは、否定を表すことばが最初と最後にあって、父なる神さまがさばきをなさらないことが強調されています。 旧約聖書においては、神、または、神である「主」こそが、さばきを執行される方であるということが示されています。そのさばきは、地のすべての民、あるいは、全世界の民、諸国の民(創世記18章25節、詩篇58篇11節、75篇2節、7節、96篇10節、13節、イザヤ書51章5節、66章16節、エレミヤ書25章31節、ヨエル書2章12節、ミカ書3章11節、ゼパニヤ書3章8節など)、だけでなく、ご自身の民に対しても執行されます[特に、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書などの預言書に繰り返し出てきます]。ユダヤ教のラビたちの教えにおいても、世をさばくことは神ご自身のなさることとされていたようです。 その一方で、旧約聖書には、「主」がダビデ契約に基づいてとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されるダビデの子が、「主」と「主」に油注がれた者(メシア)に敵対する、国々の民をさばくことを示すみことばがあります。 詩篇2篇1節ー12節には、 なぜ 国々は騒ぎ立ち もろもろの国民は空しいことを企むのか。 なぜ 地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。 主と 主に油注がれた者に対して。 「さあ彼らのかせを打ち砕き 彼らの綱を解き捨てよう。」 天の御座に着いておられる方は笑い 主はその者どもを嘲られる。 そのとき主は 怒りをもって彼らに告げ 激しく怒って 彼らを恐れおののかせる。 「わたしが わたしの王を立てたのだ。 わたしの聖なる山 シオンに。」 「私は主の定めについて語ろう。 主は私に言われた。 『あなたはわたしの子。 わたしが今日 あなたを生んだ。 わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。 地の果ての果てまで あなたの所有として。 あなたは 鉄の杖で彼らを牧し 陶器師が器を砕くように粉々にする。』」 それゆえ今 王たちよ悟れ。 地をさばく者たちよ 慎め。 恐れつつ 主に仕えよ。 おののきつつ震え 子に口づけせよ。 主が怒り おまえたちが道で滅びないために。 御怒りが すぐにも燃えようとしているからだ。 幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。 と記されています。 2節では、国々の民を代表する王たちが、「主」と「主」に油注がれた者、すなわち、メシアに敵対していることが、 なぜ 地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。 主と 主に油注がれた者に対して。 と記されています。そして、7節ー9節には、 「私は主の定めについて語ろう。 主は私に言われた。 『あなたはわたしの子。 わたしが今日 あなたを生んだ。 わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。 地の果ての果てまで あなたの所有として。 あなたは 鉄の杖で彼らを牧し 陶器師が器を砕くように粉々にする。』」 と記されており、「主」に油注がれた者(メシア)が「主」に敵対する国々の民をおさばきになることが示されています。 ここで、「主」が言われた、 あなたはわたしの子。 わたしが今日 あなたを生んだ。 ということは、「主」がダビデに契約を与えてくださったことを記している、サムエル記第二・7章12節ー16節に、 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。 と記されている「主」のみことばにおいて、14節前半で、 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。 と言われていることを受けています。これは、ダビデの子が、ダビデの王座に着座する時のことを述べています。 ここに記されている、「主」がダビデに与えてくださった契約、すなわち、ダビデ契約のみことばには、二つの面があります。まず、一つの面をお話ししますが、もう一つの面は、後ほど、預言者たちの預言のみことばを取り上げる時にお話しします。 その一つの面は、このみことばにおいては、古い契約の下での「地上的なひな型」としての意味をもっている、ダビデの血肉の子孫たちが継承していく地上の王国の王たちのことが示されているということです。この場合は、「あなたの身から出る世継ぎの子」は単数形ですが、集合名詞として、ダビデの子ソロモンを初めとする、ダビデ王朝の歴代の王たちを表していることになります。そのために、そのダビデの子たちは「地上的なひな型」としての限界の中にあります。それで14節後半に、 彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。 と記されています。 実際に、建物としてのエルサレム神殿を建てたのは、ダビデの血肉の子であるソロモンでした。また、ソロモンの時代に、王国としてのイスラエルは最も繁栄しました。 しかし、そのソロモンも、晩年には、外国からめとった妻たちが持ち込んできた神々に仕えるようになりました。そのために、ソロモンは「主」のさばきを受けることになりました。列王記第一・11章4節ー13節に、 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。ソロモンは、シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った。こうしてソロモンは、主の目に悪であることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。当時ソロモンは、モアブの忌むべきケモシュのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレクのためにも、そうした。彼は異国人であるすべての妻のためにも同じようにしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げた。主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から離れたからである。主が二度も彼に現れ、このことについて、ほかの神々に従っていってはならないと命じておられたのに、彼が主の命令を守らなかったのである。そのため、主はソロモンに言われた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約と掟を守らなかったので、わたしは王国をあなたから引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く。ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える。」 と記されているとおりです。 この「主」のみことばのとおり、ソロモンの死後に、ソロモンの家来でソロモンが重んじていたヤロブアムが北の十部族を治めるようになりました。これが北王国イスラエルです。そして、残りの2部族、具体的にはユダとベニヤミンが南王国ユダとなりました。 引用した「主」のさばきのみことばは、大切なことを示しています。 第一に、ソロモンの罪のために、ダビデが確立し、ソロモンに受け継がれ、繁栄を極めた王国は、永遠に堅く立てられるどころか、彼の死後に分裂してしまうことを示しています。このことは、ソロモンがダビデ契約に約束されていたまことのダビデの子ではなかったことを意味しています。 そして、ソロモンがまことのダビデの子ではなかったということは、また、ソロモンが建設した神殿も、まことの意味でダビデの子が建設すると約束されていた神殿ではなかったことを意味しています。 第二に、ソロモンの罪のために、ダビデが確立した王国は永遠に堅く立てられるどころか、彼の死後に分裂してしまうことになりますが、「主」がダビデに与えられた契約に示されている約束は、取り消されていないことを示しています。 そのことは、ここに記されている「主」のみことばでは、「ダビデに免じて」というみことばと「わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために」というみことばによって示されています。 また、分裂後の南王国ユダの歴史においても、ダビデの血肉の子孫である王たちの中には、「主」に立ち返って改革した王たちもいましたが、偶像の神々に仕えた王たちが多くいました。それでも、「主」は、ダビデに与えられた契約に示されている約束が、取り消されていないことを王たちにお示しになりました。それで、「ダビデに免じて」というみことばが、列王記第一・15章4節(アビヤム)、列王記第二・8章19節(ヨラム、参照・歴代誌第二・21章7節「ダビデと結ばれた契約のゆえに」))に出てきます。また、「ダビデのために」というみことばが、列王記第二・19章34節(ヒゼキヤの時代に、エルサレムがアッシリア軍に包囲されたとき)、20章6節(ヒゼキヤの病が癒されたとき)に出てきます。 その都度、「主」のあわれみが示されていくのですが、ユダ王国の王たちの罪も極まっていき、ついには、バビロンの手によって、エルサレムは陥落し、エルサレム神殿は破壊されてしまいました。 この流れを決定づけたのは、ユダ王国の王たちの中で最も長い55年間も治めたマナセでした。マナセは、エルサレムがアッシリア軍に包囲されたときに、堅く「主」を信じたヒゼキヤの子です。列王記第二・21章1節ー18節にはマナセの生涯のことが記されていますが、マナセの罪が次々と記されています。その記録の導入である2節には、 彼は、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目に悪であることを行った。 と記されており、それに続いて、具体的なことが記されています。そして、その結びである16節には、 マナセは、ユダに罪を犯させて、主の目に悪であることを行わせた罪だけでなく、咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった。 と記されています。そして、マナセの後の王たちの中には、列王記第二・23章25節に、 ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって主に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。 と記されているヨシヤもいますが、マナセの罪のゆえの「主」の御怒りは収まることがありませんでした(列王記第二・23章26節ー27節、24章3節ー4節)。 このようにして南王国ユダは滅亡しましたが、ダビデ王朝は紀元前1010/11年ー587年の423年ほど続きました。これは、古代オリエントの王朝の中では稀に見る長さです。エジプトなど帝国の歴史は長いのですが、そこには、謀反などによって繰り返される、王朝の交代があります。とりわけ、これがエジプトと、アッシリアやバビロンなどメソポタミアの帝国に挟まれていた弱小国であった南王国ユダのことであったという点で、特異なことであったのです。 このような南王国ユダの歴史は、ダビデの血肉の子孫たちが着座した王座は永遠の王座ではないことを示しています。その一方で、南王国ユダの特異な歴史は、「主」がダビデ契約に示された約束を守ってくださる方であることを、ことばの上だけでなく、実際の歴史をとおして示しているものです。 これらのことを踏まえた上で、なお、はるかにバビロンへの捕囚を見据えて預言者としての働きをしたイザヤも、バビロンへの捕囚が決定的なものとなっている時代に預言者として働いたエレミヤも、すでに捕囚が始まっている時代に、捕囚の民の間で預言者として働いたエゼキエルも、「ダビデ」という名を用いて、やがて「主」が遣わしてくださるまことのダビデの子について預言をしています。 それぞれ代表的なみことばを見てみましょう。 イザヤ書9章6節ー7節には、 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、 その名は「不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、 ダビデの王座に就いて、その王国を治め、 さばきと正義によってこれを堅く立て、 これを支える。今よりとこしえまで。 万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 と記されています。 エレミヤ書23章5節ー6節には、 見よ、その時代が来る。 ――主のことば―― そのとき、わたしは ダビデに一つの正しい若枝を起こす。 彼は王となって治め、栄えて、 この地に公正と義を行う。 彼の時代にユダは救われ、 イスラエルは安らかに住む。 『主は私たちの義』。 それが、彼の呼ばれる名である。 と記されています。 エゼキエル書37章24節ー28節には、 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただ一人の牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしの掟を守り行う。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与え、あなたがたの先祖が住んだ地に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちが、とこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとの永遠の契約となる。わたしはそれを彼らに与え、彼らを増やし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖なる者とする主であることを知る。 と記されています。 これらは、先ほどお話ししたダビデ契約の二つの面のもう一つの面である、やがて「主」が堅く立ててくださる永遠の王座に着座し、まことの「主」の御住まいを建てる、まことのダビデの子についての約束を踏まえての預言です。ダビデ契約が最終的に約束していたのは、このまことのダビデの子のことです。 これらのみことばは、古い契約の下において生きていた民に対して語られました。それで、古い契約の下において生きていた民に分かるように語られています。そのために、「地上的なひな型」としての意味をもっている「ユダ」や「イスラエル」や約束の地である「あなたがたの先祖が住んだ地」などのことばが用いられています。 このような、大きな歴史の流れの中にあって、「主」がダビデ契約において約束してくださっている、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座して治めるまことのダビデの子のことが、証しされてきました。 これまでお話ししてきたことから、一つのことに注目したいと思います。それは、「主」はご自身が一方的な愛と恵みによってイスラエルを選んでくださり、ご自身の契約の民としてくださいました。そして、イスラエルを治める王としてダビデを立ててくださり、やはり、一方的な愛と恵みによってダビデに契約を与えてくださり、ダビデの子の王座を永遠に堅く立ててくださることを約束してくださいました。そして、ダビデの血肉の子孫である王たちに対して真実を尽くしてくださり、預言者たちを遣わしてくださって、みこころを示してくださり、導いてくださるとともに、 彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。 との約束のとおり、預言者たちによって、糾弾し、警告してくださったり、時には、試練をお与えになって、彼らが悔い改めて「主」に立ち返るように、忍耐深く導いてくださいました。 しかし、それにもかかわらず、ダビデの血肉の子孫である王たちは、「主」の御前で、「主」に対して、罪を犯し続けて、ついには、バビロンの捕囚へと至ってしまいました。これが、ダビデの血肉の子孫である王たちの現実でしたが、それは、それらの王たちに限らず、ユダの民の現実であり、ひいては、自らのうちに罪を宿しており、罪を犯してしまうすべての人間の現実です。 「主」はユダ王国の歴史をとおして、このような人間の現実をお示しになった上で、なお、ご自身がダビデ契約において約束してくださったことは必ず実現してくださるということをお示しになりました。これによって、「主」が約束のメシアを贖い主としてお遣わしになるのは、ただただ「主」の一方的なる愛と恵みによっているということを示してくださっています。 そして、「主」が預言者たちをとおして約束してくださっていることは、まことのダビデの子として来てくださるメシアをとおして、かつてご自身に背き続けていた民を回復してくださり、約束の地の中心にある、ご自身の御臨在の御許に住まわせてくださるということでした。このことは、まことのダビデの子が、約束の地において、「主」の御住まいを建てるということの意味です。そして、これがダビデ契約の核心にある祝福です。 先ほど引用した、詩篇2篇1節ー12節のみことばも、そのような歴史の流れの中で記され、まことのダビデの子として来られるメシアをあかししています。そこでは、まことのダビデの子として来られるメシアが、「主」に敵対する国々の民をおさばきになることが示されていました。 それとともに、このことが、「主」がダビデ契約において約束してくださっていることであるということから考えられることがあります。それは、まことのダビデの子として来られるメシアが「主」に敵対する国々の民をおさばきになることが、それとして独立していて、それで終っているのではないということです。まことのダビデの子として来られるメシアが「主」に敵対する国々の民をおさばきになることは、その、まことのダビデの子であるメシアをとおして、かつてご自身に背き続けていた民を回復してくださり、約束の地の中心にある、ご自身の御臨在の御許に住まわせてくださるということにつながっているのです。 このことを理解するために、さらに考えておかなければならないことは、これらのことは、古い契約の下にある「主」の民に対して示されたことなので、古い契約の下にある「主」の民に分かるように、古い契約の下で「地上的なひな型」としての意味をもっていることを用いて表されているということです。それは、先ほど挙げた「ユダ」や「イスラエル」や約束の地である「あなたがたの先祖が住んだ地」などだけでなく、「主」に敵対する国々の民にも当てはまります。 約束のメシア、贖い主として来てくださった御子イエス・キリストが十字架の上で流された血による新しい契約の下にある私たちは、「主」に敵対する国々の民と血肉の戦いを戦い、相手を屈服させるのではありません。これは、エペソ人への手紙6章12節に、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。 と記されているとおり、霊的な戦いなのです。その17節で、 御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。 と言われているとおり、真理の御霊によって戦う霊的な戦いです。私たちは、御霊に導かれて、「主」契約のみことばに示されている「主」の一方的な愛と恵みに信頼し、いっさいの栄光を「主」に帰して「主」を礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生き、「主」にあって、兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きることの中で(このことなしに霊的な戦いを戦うことはできません)、「主」に敵対する国々の民のためにとりなし祈りつつ、「主」の一方的な愛と恵みを証しし続けることによって、霊的な戦いを戦うのです。 |
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