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説教日:2019年9月1日 |
どのようにして驚くようになるのかということについては、二つの可能性が考えられます。 一つは、ユダヤ人の指導者たちも含めたユダヤ人たちが、積極的な意味で、「ことの真相」を知るようになって驚くということです。 この場合は、すでに繰り返しお話ししてきたように、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことは、安息日の真の意味を表すことでした。そして、その御業が指し示していた安息日の真の意味が実現するのは、やがて、イエス・キリストが、その十字架の死によってご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、ご自身の民をご自身の死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださり、永遠のいのちをもつ者としてくださるようになるときのことです。それは、 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。 と言われていることが実現するときです。 そして、そのことは、完全に実現するということではありませんが、24節に、 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。 と記されているように、すでに、ユダヤ人と異邦人の区別なく、イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった贖い主として信じている「主」の民の間の現実となっています。 もう一つの可能性は、ユダヤ人の指導者たちも含めたユダヤ人たちが、消極的な意味でと言ったらいいでしょうか、「こんなはずではなかった」というような意味で、「ことの真相」を知るようになって驚くということです。 そのような意味で驚く事例としては、詩篇48篇4節ー6節、イザヤ書13章8節などには、「主」のさばきが執行される時に、そのさばきにあう人々が驚く、あるいは、おじ惑うようになることが預言的に示されています。その時になって、自分たちが頼みとしていたものが、空しいものであったことを悟るようになるのです。 「主」に敵対している王たちのことを記している、詩篇48篇4節ー6節には、 見よ王たちは集って ともどもにやって来た。 彼らは見ると驚き おじ惑い慌てた。 その場で震えが彼らをとらえた。 子を産むときのような激しい痛みが。 と記されています。 また、バビロンに対するさばきのことを預言的に記しているイザヤ書13章8節には、 彼らはおじ惑い、 子を産む女が身もだえするように、 苦しみと激しい痛みが彼らを襲う。 彼らは炎のような顔で互いに驚く。 と記されています。 新約聖書に記されていることも見てみましょう。 マタイの福音書26章63節ー66節には、 そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒 した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒 することばを聞いたのだ。どう思うか。」すると彼らは「彼は死に値する」と答えた。 と記されています。 ここには、地上の生涯の最後に、「祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ」た者たちに捕らえられ(47節、57節)、弟子たちにも見捨てられた(56節)イエス・キリストが「最高法院」で、審問をお受けになった時のことが記されています。 イエス・キリストを審問した「最高法院」(サンヘドリン)の議員たちは、イエス・キリストが彼らに語られたことは「神を冒 することば」であるとし、それゆえに、イエス・キリストは「死に値する」としました。 64節に記されている、 しかし、わたしはあなたがたに言います。 というイエス・キリストのことばでは、「あなたがたに」が最初に出てきて強調されています。ですから、それに続く、 あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。 ということばは、単なる、審問の上でのやり取りではなく、イエス・キリストが、特に、大祭司を初めとする「最高法院」の議員たち向けて、ご自身がどなたであるかを証しされたみことばです。イエス・キリストは、このような証しをすることによって、ご自身が神を冒 する者として死に定められることをご存知であられて、なおも、ご自身がどなたであるかを、彼らに証しされたのです。 彼らの中から、後に、イエス・キリストを信じるようになった人がいたことの可能性を否定することはできません。そのような人々がいた可能性を認めた上でのことですが、そのような場合は、コリント人への手紙第一・12章3節に、 聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。 と記されているように、神さまの一方的な恵みにあずかり、聖霊に導かれて、イエス・キリストを信じるようになります。そのような人々にとっては、このイエス・キリストの、いわば、いのちがけの証しは大きな意味をもつようになったはずです。その場合、このような人々は、先ほどの積極的な意味で、「ことの真相」を知って、驚くようになります。 その一方で、その後の生涯をとおして、イエス・キリストのことを神を冒 した偽メシアであると思い続けた人々は、やがて、イエス・キリストが、 あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。 と言われたことが現実になる時には、「ことの真相」を知って、驚愕するようになります。これが、「こんなはずではなかった」という意味で、「ことの真相」を知るようになるということです。 このことに関して、もう一つのことをお話ししたいと思います。 マタイの福音書16章15節ー16節には、ペテロが弟子たちを代表して、イエス・キリストのことを、 あなたは生ける神の子キリストです。 と告白したことが記されています。そして、17節には、これを受けてイエス・キリストがペテロに、 バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。 と言われたことが記されています。父なる神さまが御霊によって、このことを悟らせてくださったのです。 21節には、この「キリスト告白」を受けてのことですが、 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。 と記されています。ところが、続く22節ー23節には、 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 と記されています。 ペテロにとって、また、弟子たちにとって、神さまから遣わされたメシア、キリストが、こともあろうに、「主」の民、ユダヤ人の指導者である「長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され」るということは、思いもよらないこと、いや、ありえないことでした。 実際に、イエス・キリストは偽メシアであるということで、「長老たち、祭司長たち、律法学者たちから」捨てられ、こともあろうに、異邦人であるローマ人の手によって、十字架につけられて殺されてしまいました。イエス・キリストは、申命記21章23節に、 木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。 と記されているように、十字架につけられて「神にのろわれた者」となられたのです。 ユダヤ人からすれば、それは、イエス・キリストが神を冒 した者であるとして、死に値するとした「最高法院」の判決が正当なものであったことを確証することにほかなりませんでした。 コリント人への手紙第一・1章22節ー24節に、 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです と記されているように、「十字架につけられたキリスト」は「ユダヤ人にとってはつまずき」でしかありません。しかし、 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。 ガラテヤ人への手紙3章13節ー14節に、 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。 と記されているとおりです。 このように記している使徒パウロは、当初、異邦人であるローマ人の手によって、十字架につけられて「神にのろわれた者」として死んだナザレのイエスを神から遣わされたメシアであるとする者たちは、神を冒 する者であり、死に値するとして、クリスチャンたちを迫害しました。そのような者たちは抹殺されなければならないと考えていたのです。使徒の働き9章1節ー2節に、 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。 と記されているとおりです。ここに出てくる「サウロ」はパウロのユダヤ名で、ここでは、ユダヤ教徒であった時のパウロを指しています。また、22章3節ー5節には、パウロを殺害しようとして暴動を起こした群衆に証しした、 私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。そしてこの道を迫害し、男でも女でも縛って牢に入れ、死にまでも至らせました。このことについては、大祭司や長老会全体も私のために証言してくれます。 というパウロのことばが記されています。実際、パウロの迫害によって死に至った主の民たちがいたのです。 9章では、先ほど引用した1節ー2節に続いて、3節ー5節には、 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 と記されています。 後に、パウロがアグリッパ王に弁明したときのことを記している26章3節では、このこの時の「天からの光」のことを、パウロは、 真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。 と述べています。 聖書の中には「太陽のよう(に輝く)」という言い方は何回か出てきます[マタイの福音書13章43節(「正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」}、17章2節(変貌の山における栄光のキリストの御顔)、黙示録1章16節(栄光のキリストの御顔)、10章1節(御使いの顔)]が、ここに出てくる「太陽よりも(明るく輝いて)」ということばは、私が調べたかぎりでは、ここに出てくるだけです。 この場合、パウロがこの「天からの光」を見たのが「真昼」であり、屋外においてであったために、太陽の輝きを越えていたことを汲み取ることができたと考えられます。しかも、この「天からの光」はパウロとパウロとともにいた人々の周りを照らした特殊な光でした。 これは「クリストファニー」と呼ばれる栄光のキリストの顕現ですが、パウロが後になって、それが「太陽よりも明るく輝いて」いたことを証ししていることには意味があります。それは、パウロがその時の経験を振り返って、そのことの意味を理解したときに、この「天からの光」が、「太陽よりも明るく輝いて」いたことが大切なことであったと考えているということです。パウロは、その「太陽よりも明るく輝いて」いた「天からの光」に照らされて、地に倒れたときには、栄光の「主」の顕現に触れたことを直感したと考えられます。しかし、その時に聞こえた声が、 サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。 と言ったときに、わけが分からなくなったと考えられます。というのは、パウロが迫害していたのは、彼が「この道の者」と言っている、普通の「人」であるからです。そして、その方が、 わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 と言ったときには、さらに混乱したと考えられます。[注] [注]栄光ある存在の顕現に接した人が倒れたことは、ダニエル書10章8節ー9節に記されているダニエルと黙示録1章7節に記されているヨハネです。ヨハネは栄光のキリストの顕現に接してのことですが、ダニエルの場合は、栄光の「主」の顕現に触れたとする見方と、御使いの顕現に触れたという見方に分かれています。この時に、「太陽よりも明るく輝いて」いた「天からの光」とともに、パウロにご自身を現された方が。 サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。 と言い、さらに、 わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 と言ったことは、この方が御使いではない、ということを意味しています。 聖書のみことばをとおして、このことを理解している私たちには、この時、栄光のキリストはご自身の民と一つとなっておられたということ、それゆえに、キリストのからだである教会を迫害することは、栄光のキリストご自身を迫害することであるということを汲み取ることができます。しかし、この時のパウロには、そのように理解することはできませんでした。 けれども、後になって、パウロは、たとえば、ローマ人への手紙10章9節ー13節に、 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。 と記しています。 9節では、「口でイエスを主と告白」することが語られています。それで、11節で、 この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。 と言われているときの「この方」も、12節で、 同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。 と言われているときの「主」も、イエス・キリストのことです。また、それで、 ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになる と言われていることを受けて、13節で、 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。 と言われているときの「主」もイエス・キリストのことです。ここで引用されている、 主の御名を呼び求める者はみな救われる というみことばは、旧約聖書のヨエル書2章32節に記されている、 主の御名を呼び求める者はみな救われる。 というみことばの引用です。このことは、パウロが、イエス・キリストは契約の神である「主」、ヤハウェであると理解していることを意味しています。 パウロが、イエス・キリストを「主」、ヤハウェであると理解していることを示すみことばは他にもあります。 いずれにしても、パウロがイエス・キリストを「主」、ヤハウェであると理解することができるようになったのは、もちろん、御霊のお働きによっています。それとともに、パウロがクリスチャンたちを迫害して「ダマスコの近くまで来たとき」に、栄光のキリストがご自身をパウロに現してくださったことが、決定的な意味をもっていたと考えられます。 大切なことは、その時、パウロが、 主よ、あなたはどなたですか と問いかけた時に、栄光のキリストが、 わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 というように、人の名である「イエス」という御名でお答えになったということです。(それが一般的な名であるので「ナザレのイエス」というように、出身地名をつけて区別しています。)それによって、パウロは、異邦人であるローマ人の手によって、十字架につけられて「神にのろわれた者」として死んだナザレのイエスは、栄光の「主」、ヤハウェであるという、福音の根幹にかかわることを理解するための鍵を与えられたのです。 これによって、私たちの罪を贖うためには、「イエス」という御名を持つ方として来てくださった、栄光の「主」、ヤハウェであられる方が、私たちに代わって、私たちの罪へののろいを負ってくださる必要があったということを理解することができるようになったのです。それは、私たちの罪が無限の栄光の「主」に対する罪であって、それをきっちりと償って、贖うためには、無限の値が支払われなければならないということによっています。 このようにして、キリストのからだである教会を迫害していたパウロは、「主」の一方的な恵みにあずかって、驚くべき、いや、驚愕すべき、異邦人であるローマ人の手によって、十字架につけられて「神にのろわれた者」として死んだナザレのイエスは、栄光の「主」、ヤハウェであるという、「ことの真相」を悟るようになりました。 |
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