黙示録講解

(第393回)


説教日:2019年8月25日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(146)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束にかかわるお話を続けます。
 今日も、お話の経緯は省略して、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてお話しします。そこには、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 これまで3回にわたって、このイエス・キリストの教えが、これに先立つ2節ー18節に記されているをことを受けて語られたものであることから考えられることをお話ししました。
 今日はすでにお話しした、19節ー21節に記されている、イエス・キリストの教えについて、さらに一つのことに触れてから、関連するお話を進めていきます。
 19節前半に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

という教えは、イエス・キリストが行われることは、すべて父なる神さまのみこころから出ているということと、イエス・キリストが行われることは、父なる神さまが行われることと一致しているということを示しています。続いて19節後半に記されている、

 すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

という教えは、父なる神さまがなさることでイエス・キリストにできないことはないうことを意味していて、イエス・キリストが父なる神さまに等しいまことの神であられることを踏まえています。そして、これに続く20節前半に記されている、

 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

という教えは、父なる神さまがイエス・キリストにご自身がなさることをすべてお示しになることは、父なる神さまのイエス・キリストへの愛から出ているということを示しています。このことはすべて現在時制で表されていて、常に変わらないことを伝えています。
 ここには注意しなければならないことがあります。ここでは、「父が子を愛し」ておられることと、「ご自分がすることをすべて、子にお示しになる」ことが同等の重さをもったこととして示されています。ですから、ここでは、まず、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛しておられることが、決して変わることがないこととして示されています。
 すでにお話ししたように、ヨハネの福音書1章1節ー2節には、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されています。詳しい説明は省きますが、ここで、「ことば」すなわち御子イエス・キリストが「初めに神とともに(プロス・トン・セオン)おられた」ということは、「ことば」が永遠に「」すなわち父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることを示しています。この永遠に変わることがない父なる神さまと御子の愛の交わりが、3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されている御子による創造の御業の遂行の奥に、また、根底にあります。このことは創造の御業の遂行ばかりでなく、摂理の御業と、特別摂理としての贖いの御業の遂行にも、そのまま当てはまります。
 それで、5章20節前半に記されている、

 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

という教えにおいても、「父が子を愛し」ておられるという変わることがないことまずあります。そして、父なる神さまは、その愛によって「ご自分がすることをすべて、子にお示しになる」のです。
 ここでは父なる神さまの御子への愛が示されています。同じように、御子の父なる神さまへの愛を示しているのは、14章31節に記されている御子イエス・キリストの教えです。そこには、

それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。

と記されています。ここで、

 わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っている

と言われているときの「愛していて」と「行っている」は、現在時制で表されていて、常に変わらないことであることを示しています。ここでは、まず、イエス・キリストが父なる神さまを愛していることが常に変わらないことであることが示されています。そして、その愛によって、父なる神さまが「命じられたとおりに行っている」ことが示されています。
 新改訳2017年版は、ここでは、

 わたしが父を愛していて、

と訳して、イエス・キリストが父なる神さまを愛しておられることが変わることのないことであることと、このこと自体がそれとしての意味をもっていることをより明確に伝えています。5章20節でも、「父が子を愛し」をこれと同じように訳して、

 父が子を愛していて、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と訳すと、イエス・キリストの教えの意図がより明確に伝わると思われます。[注]

[注]ギリシア語では、14章31節の「わたしが父を愛していて」の後には句読点がありますが、5章20節の「父が子を愛して(いて)」の後にはありません。けれども、句読点までもが霊感されているわけではありませんので、この違いは決定的なものではありません。また、14章31節の「愛している」はアガパオーで、5章20節の「愛している」はフィレオーですが、これには意味の上での違いはありません(D. A. Carson, The Gospel according to John, p.251.参照)。

 このように、父なる神さまは御子イエス・キリストを愛しておられて、その愛によって、ご自身がなさることをすべて御子イエス・キリストにお示しになられます。そして、御子イエス・キリストは父なる神さまを愛しておられて、その愛によって、父なる神さまがお示しになったことをすべて行われます。ですから、イエス・キリストが、

 子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

と言われ、

 わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っている

と言われても、それは一方的な服従ではなく、そこには、愛の根底にある自由があります。御子イエス・キリストはまったく自由な方として、父なる神さまを愛しておられ、その愛によって、父なる神さまのみこころに従っておられます。
 そのことは、5章20節後半ー21節に記されている、

また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

という教えからも汲み取ることができます。


 それがどのようなことかをお話しする前に、これまでお話ししてきたことの補足をしておきたいと思います。
 父なる神さまが「これよりも大きなわざを子にお示しになる」のは、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛しておられることによっています。
 この「これよりも大きなわざ」の「これ」も「大きなわざ」も複数形です。この場合、「これ」は、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことを中心として、その後、ユダヤ人の指導者たちに、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

と言われて、そのことの意味と理由を説明されたこと、さらに、ここ19節ー29節で、ユダヤ人の指導者たちをさらに教えておられることです。
 そして「これよりも大きなわざ」の中心は、21節に記されている、イエス・キリストの、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

という教えに示されています。「これよりも大きなわざ」には、それに続く22節に、

 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。

と記されている、御子イエス・キリストが「すべてのさばきを」執行されることも含まれています。しかし、その中心は、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

ということの方にあります。というのは、これまでお話ししてきたように、この、19節ー29節に記されている教え全体が、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことを糾弾しているユダヤ人の指導者たちに対して、安息日の本来の意味について教えておられるものであるからです。
 どういうことかということはすでにお話ししたとおりですが、改めて、まとめておきましょう。
 父なる神さまが御子イエス・キリストによって創造の御業を遂行され、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し聖別されたのは、その創造の御業の第7日において、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きるためのことでした。そして、神さまがご自身の契約によって約束してくださっていたこと、すなわち、人が歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまを愛して、そのみこころに従いとおしたときに、そのことへの報いとして、人に、より一段と豊かな栄光を与えてくださり、人がそのより豊かな栄光にあって、神さまとの愛の交わりに生きるようになることが実現するときに、神さまの安息がまったきものとなることになっていました。
 そのより一段と豊かな栄光にあって、神さまとの愛の交わりに生きるようになることこそが、永遠のいのちの本質です。
 実際には、神さまが創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し、聖別されたみこころは、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、踏みにじられてしまいました。しかし、神さまは私たちご自身の民への愛を変えられることはありませんでした。私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子を遣わしてくださいました。御子イエス・キリストは罪を除いて、私たちと同じ人としての性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださいました。そして、そのように、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださいました。それによって、私たちがより一段と豊かな栄光にあって、神さまとの愛の交わりに生きるようになるため、すなわち、永遠のいのちに生きるようになるためでした。御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、そのような意味をもった贖いの御業が成し遂げられたことによって、24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

ということが、私たちの現実となっており、神さまの安息は回復されています。このことも、先ほどの「これよりも大きなわざ」に含まれています。しかし、神さまの安息がまったきものとなるのは、21節に記されている、

 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

ということが、完全に実現するときです。それは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが実現してくださいます。
 このようなことから、先ほどの「これよりも大きなわざ」の中心は、御子イエス・キリストがすべてのさばきを執行されることよりも、私たちご自身の民を栄光のからだによみがえらせてくださることの方にあります。

 以上は、すでにお話ししたことへの補足です。
 話を元に戻しますと、5章20節後半ー21節に記されている、

また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

という教えに示されている、父なる神さまが「これよりも大きなわざを子にお示しになる」ことは、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛しておられることによってなされます。そして、父なる神さまがお示しになる「これよりも大きなわざ」の中心は、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

ということにあります。それで、御子イエス・キリストは、このように父なる神さまが示してくださるみこころに従われます。それは、14章31節に記されているように、御子イエス・キリストが、常に、父なる神さまを愛しておられて、父なる神さまが「命じられたとおりに行って」おられるからです。しかし、それは一方的な服従ではなく、そこには、愛の根底にある自由があります。この、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

というイエス・キリストの教えで注目したいのは、

 子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

と言われていることです。ここでは「与えたいと思う者に」と言われていることに注意してください。これによって、御子イエス・キリストの明確なご意思が働いていることが示されています。ここには、愛の根底にある自由があります。御子イエス・キリストはまったき自由にあって、父なる神さまを愛しておられ、その愛にあって、また、その愛によって、父なる神さまのみこころに従っておられます。そうであるからこそ、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

ということにおいて、また、御子イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従ってなされるすべての御業には、父なる神さまと御子イエス・キリストの間に、愛による完全な一致があるのです。
 御子イエス・キリストが、まったき自由にあって、父なる神さまを愛しておられ、その愛にあって、また、その愛によって、父なる神さまのみこころに従っておられるということは、私たち主の民にとっても意味をもっています。私たちも、自由な者として、自由にあって、神さまを愛して従うことなしには、真の意味で、神さまのみこころに従うことはできないからです。
 もちろん、私たちの自由は、神さまが御子イエス・キリストによって、私たちの罪を贖ってくださり、神の子どもとしてくださって与えてくださった、神の子どもとしての自由です。
 ペテロの手紙第一・2章21節ー25節には、

 キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、
 その足跡に従うようにと、
 あなたがたに模範を残された。
 キリストは罪を犯したことがなく、
 その口には欺きもなかった。
 ののしられても、ののしり返さず、
 苦しめられても、脅すことをせず、
 正しくさばかれる方にお任せになった。
 キリストは自ら十字架の上で、
 私たちの罪をその身に負われた。
 それは、私たちが罪を離れ、
 義のために生きるため。
 その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
 あなたがたは羊のようにさまよっていた。
 しかし今や、自分のたましいの牧者であり
 監督者である方のもとに帰った。

と記されています。私たちは、私たちにこのような「模範を残された」イエス・キリストの「足跡に従うように」召されています。それは、私たちが自由の中にあって、父なる神さまと御子イエス・キリストを、そして、兄弟姉妹を、さらには時代をともにする、いまだ主を信じていない人々を、愛することなくしては実現しません。
 ヨハネの手紙第一・4章18節には、

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

と記されています。
 ここに出てくる「恐れ」は「恐れには罰が伴い」と言われていることから分かりますが、自らの罪に対する神さまの御怒りによる刑罰としてのさばきへの恐れ、あるいは、その刑罰としてのさばきの予感に基づく恐れのことです。
 神さまの怒りやさばきが恐ろしいということで、神さまを愛そうとしたり、兄弟姉妹を愛そうとすることは、自分がさばかれないために、すなわち、自分を守るために、神さまを愛そうとしたり、兄弟姉妹を愛そうとすることです。その場合には、神さまを愛することや兄弟姉妹を愛することは、自分がさばかれないための手段となってしまっています。そのような愛は本当の愛ではありません。ヨハネが、

 恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

と教えているとおりです。
 愛は、自分が愛している人を手段化しません。その人自身を目的としています。神さまは、私たち自身を目的として、私たちを愛してくださっています。それで、私たちをを罪と死の力から解放して、永遠のいのちに生かしてくださるために、ご自身の御子であるイエス・キリストを遣わしてくださいました。永遠の神の御子であられる方が、人としての性質取って来てくださって、私たちと一つになってくださったのです。そして、この御子イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって、すべて受けてくださいました。それは、御子イエス・キリストが、いわゆる「地獄の刑罰」を私たちに代わって受けてくださったということです。マルコの福音書10章45節に記されている、

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

というイエス・キリストの教えに示されているように、私たちの罪が贖われるために、御子イエス・キリストのいのちの値が支払われたのです。このことによって、私たちへの最終的なさばき、いわゆる「最後の審判」は終っています。私たちは、もはや罪に対する刑罰としてのさばきを受けることはありません。
 それなのに、神さまの怒りやさばきを恐れるとしたら、それは、御子イエス・キリストの十字架の死によっても、贖われない罪があるとすることになってしまいます。ヘブル人への手紙2章14節ー15節に、

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

と記されているように、私たちは「死の恐怖」、単なる肉体的な死ではなく、神さまのさばきによる、いわゆる「地獄の刑罰」としての「死の恐怖」から解放されているのです。
 確かに、私たちはなおも罪の性質を自らの内に宿していて、実際に、思いとことばと行いにおいて、罪を犯してしまいます。しかし、その罪も、御子イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いによって贖われています。それで、ヨハネの手紙第一・1章9節には、

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

と記されています。そればかりでなく、ローマ人への手紙8章34節には、

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

と記されています。父なる神さまの右の座に着いておられる御子イエス・キリストが、ご自身が成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、「私たちのために、とりなしていてくださるのです」。
 神さまはご自身の御子のいのちの値を払って、私たちを罪の刑罰の恐れから解放してくださいました。その神さまは、決して、私たちを恐怖で縛って、従わせようとはなさいません。ですから、私たちも、自分を恐怖で縛ってしまってはいけないし、兄弟姉妹たちをさばいたりして、恐怖で縛ってはいけないのです。
 ガラテヤ人への手紙5章1節には、

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

と記されています。さらに、同じ5章13節ー14節には、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されています。ここでは、御子イエス・キリストが「自由を得させるために私たちを解放して」くださったので、その自由にあって、

愛をもって互いに仕え合いなさい。

と戒められています。そして、そのために、16節で、

 私は言います。御霊によって歩みなさい。

と戒められています。その御霊は、決して、私たちを恐怖で縛ることはありません。むしろ、神の子どもとしての自由のうちを歩ませてくださり、神さまと兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに生きる者としてくださいます。ローマ人への手紙8章15節に、

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と記されているとおりです。

 この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

ということは、御霊によって、父なる神さまとの親しい愛の交わりに生きることを意味しています。

 ちなみに、私たちは広い意味での長老教会に属しています。その長老教会(長老政治)の中心的な特質の一つは、この神の子どもとしての自由の中心にある「良心の自由」を守ることにあります。それがどのようなことであるかは、私たちの信仰告白であるウェストミンスター信仰告白第20章2項に、

ただ神のみが良心の主であって、神は何事においてであれ、その御言葉に反するような、また、信仰や礼拝に関わることであれば、御言葉に付加されるような、人間の教説と戒めから、良心を自由にされた。それゆえ、良心に従って、そのような教説を信じたり、そのような戒めに従うことは、真の良心の自由に背くものである。そして、黙従的信仰や、理解を伴わない絶対的服従を要求することは良心の自由とさらには理性の自由をも破壊するものである。

と表明されています。


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