黙示録講解

(第392回)


説教日:2019年8月18日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(145)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束にかかわるお話を続けます。
 今日も、お話の経緯は省略して、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてお話しします。そこには、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 先主日と先々主日には、このイエス・キリストの教えが、これに先立つ2節ー18節に記されていることを受けて語られたものであるということから考えられることをお話ししました。今日は、そのことを補足するお話をします。まず、先週お話ししたことを復習してから、お話を進めます。
 2節ー18節には、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことが記されています。ユダヤ人の指導者たちは、イエス・キリストが安息日に、いのちにかかわることではない病気を癒されたことで、安息日にかかわる「」の戒めに背いているとして、イエス・キリストを迫害するようになりました。それで、最後の17節ー18節に記されているように、イエス・キリストは、ご自身が、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことの意味と理由を示すために、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

とお答えになりました。これに対して、ユダヤ人の指導者たちは、イエス・キリストが「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」として「ますますイエスを殺そうとするように」なりました。
 このことを受けて、イエス・キリストはユダヤ人の指導者たちに19節ー29節に記されている教えを語られました。それで、この19節ー29節に記されている教えは、イエス・キリストが、安息日において、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことと、その意味と理由を、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

と教えられたことに深くかかわっていることが分かります。
 19節ー20節前半に記されている教えにおいて、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と言われていることは、イエス・キリストが遂行される天地創造の御業と摂理の御業、特別摂理の御業としての贖いの御業の「すべて」の御業に当てはまります。
 それとともに、この教えは、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことを糾弾しているユダヤ人の指導者たちに語られた教えです。それで、この時イエス・キリストは、彼らに、安息日において、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったのは、「父がしておられることを見て」行ったことであるということを示しておられます。また、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

という教えも、イエス・キリストは、父なる神さまが「今に至るまで働いておられ」る「ことを見て」ご自身も働いておられることを示しておられます。
 この教えは、安息日において、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことの意味と理由を示すために語られたものです。それで、父なる神さまが「今に至るまで働いておられ」るということは、神さまが、天地創造の御業において、ご自身の安息の「日」として祝福して聖別された「創造の御業の第7日において」「今に至るまで働いておられ」るということを意味しています。創造の御業の第7日はいまだ閉じていなくて、終わりの日まで続きます。


 神さまが天地創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福して聖別されたのは、天地創造の御業が永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにあって充足しておられる御子によって遂行されたこととかかわっています。天地創造の御業は父なる神さまが、御子によって、ご自身の愛を造られたものに示され、注がれた御業でした。神さまはその愛を受けとめるものとして、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになり、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねにました。
 神さまが創造の御業の第7日をご自身の安息の「日」として祝福し聖別されたことの中心と目的は、神さまがご自身の愛を人に注いでくださり、人が神さまを愛して、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きることにあります。
 このことが、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすこととどのようにかかわっているかが問題となります。
 人は、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、この世界が神さまの御臨在される世界であり、御臨在に伴う祝福に満ちた、とても豊かな世界、神さまの愛と慈しみが注がれている世界であることを、さまざまに咲く花、実る果実、多様な生き物たちの生態の不思議さなどに触れながら、具体的に、また現実的に汲み取ることができるようになっていました。それによって、人は神さまの御臨在をより身近に感じ取ることができるようになり、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きるいのちの祝福にあずかることができたのです。
 このことは、今すでに、私たち「主」の民の現実となっています。そのことを、私たちにとって最も日常的なことを例に取って見てみましょう。
 私たちは、日々、

 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

と祈っています。その私たちは、神さまが天地創造の御業において、ご自身が造り出された地にご臨在してくださって、地に光が注ぐようにしてくださり、大気圏を形造られ、地が適度に乾き、雨によって適度に潤うようにしてくださったこと、地殻変動によって、原始の大水を一所に集められ、地が現れるようにしてくださり、地から植物を芽生えさせてくださって以来、摂理の御業によって、真実にすべての植物の特性を生かして、育て続けてくださっているので、「日ごとの糧を、今日も」いただくことができることを知っています。詩篇65篇9節ー10節には、

 あなたは地を訪れ 水を注ぎ
 これを大いに豊かにされます。
 神の川は水で満ちています。
 あなたは こうして地を整え
 人々の穀物を備えてくださいます。
 地のあぜ溝を水で満たし
 その畝をならし
 夕立で地を柔らかにし
 その生長を祝福されます。

と記されています。人はこのような造り主である神さまの真実な御手の支えの下で、地を耕し、種を蒔き、作物の手入れをし、収穫をしています。そして、いろいろな形での取り引きをして、それが私たちそれぞれの許に届けられます。そのような人の社会的、経済的な活動のすべても、造り主である神さまの真実な御手の支えの下でなされます。
 もちろん、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されているように、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、ものの見方、考え方、生き方が「神はいない」という根本原理によって規定され、動かされてしまっている人は、造り主である神さまの摂理の御業による、真実な御手の支えを認めません。しかし、だからといって、神さまはその真実な御手を引っ込めてしまわれることはありません。マタイの福音書5章45節に記されている、

父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださ[ってい]る

というイエス・キリストの教えは(現在時制で表されていて、この場合は)、天地創造の御業以来、人類の罪による堕落の後も、変わることがない事実を伝えています。
 ですから、人にとって、ごく日常的なことである、食べることも飲むことも、造り主である神さまと無関係になされることではありません。

 先ほどお話ししたように、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、ものの見方、考え方、生き方が「神はいない」という根本原理によって規定され、動かされてしまっている人は、造り主である神さまの摂理の御業による、真実な御手の支えを認めません。そうであっても、地から作物が芽生えてきて、生長し、実を結ぶようになることに、神的なものの働きを感じ取っています。それで、人類の歴史をとおして、農耕文化においては豊饒の祭りが生み出され、人が生み出した偶像に栄誉が帰せられてきました。
 私たちもかつては、そのような、「神はいない」という根本原理によって規定され、動かされてしまっている文化の中に生きていて、そのようなことに馴染んでしまっていました。しかし、今は、造り主である神さまの一方的な愛と恵みによって、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかっていますし、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれ、神の子どもとしていただいて、神さまの愛と恵みに包まれて生きています。それで、私たちは、地から作物が芽生えてきて、生長し、実を結ぶようになることに、造り主である神さまの真実な御手のお働きを汲み取っています。
 ですから、私たちは、ごく日常的な、食べ物を食べる時にも、ただ、目の前にある物を食べているのではありません。目の前にあるものを食べているだけであれば、それは動物たちや獣たちと変わりありません。私たちは食べ物をいただくだけでなく、常に、私たちの間にご臨在してくださって、私たちを養い、育ててくださっている主の愛と恵みを受け取ります。さらに、この目をより広く開いて、私たちの住んでいるこの地にご臨在してくださって、私たちとこの地にあるすべてのものを真実に支えてくださっている、神さまの御手を身近に感じ取ります。
 いろいろな機会にお話ししたことですが、私の父は、私が小学校の5年生の時に亡くなりました。それまでは、学校から帰って来ると「ただいま」ではなく、「おかあちゃ。なんか。」と言いながら、家の戸を開けて、家に入っていました。それは「お母さん。何か、おやつをください。」という意味です。けれども、父が亡くなったため、母が外に出て働くようになると、母はおやつを戸棚に入れておいてくれるようになりました。それで、学校から帰って来ても、黙って戸を開けて家に入って、戸棚を開け、おやつを取って食べるようになりました。
 ある時、いつものように家に帰って、戸棚を開けておやつに手を伸ばした時に、何とも言えない寂しさ、深い寂寥感が込み上げてきて、しばらく、そこに立ち尽してしまいました。おやつはあるけれど、母がいないということを実感したのです。私はずっと、おやつを楽しみにして家に帰って来ていたと思っていたのですが、その時に、おやつは付録で、母がいるということがいちばん大事なことだった、母が手渡してくれるおやつを受け取ることが楽しみだったということに気がつきました。
 私たちは、食べるものの美味しさに引かれます。それは正当なことです。造り主である神さまが造ってくださったよいものを、そのまま、あるいは、それぞれの食材の特質を生かして調理して、いただいているのですから。そうであっても、私たちにとっていちばん大切なことは、食べ物そのものではありません。神さまが、私たちそれぞれを限りなく愛してくださって、そのような食べ物を与えてくださり、その美味しさを味わうことと、それを分かち合う交わりで私たちの心を喜ばせてくださるとともに、私たちを養い、育ててくださっているということです。私たちは食べる時にも飲む時にも、神さまご自身に目を向けます。
 ですから、飲むこと、食べることという、毎日繰り返しなされるごく日常的なことも、神さまの御前においてなされることです。そして、それが毎日繰り返される度に、人が神さまの愛と恵みを汲み取って、神さまへの感謝に満ちた愛をを表していくことは、文化的なことであり、歴史的なことなのです。
 このことは、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまを愛してなす、すべてのことに当てはまります。
 そのようにして造られる歴史と文化は、人が神さまの愛を受けとめ、神さまを愛して、いっさいの栄光を神さまに帰し、神さまを礼拝することを中心とし、目的としている歴史と文化です。そのような歴史と文化が造られる期間が、創造の御業の第7日であり、神さまはその創造の御業の第7日を、ご自身の安息の「日」として祝福し聖別されたのです。

 そればかりでなく、神さまは、その一方的な愛と恵みによって、人が神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きることによって、神さまの栄光をより豊かに現す歴史と文化を造る使命を果たしていったなら、そのことへの報いとして、創造の御業において神のかたちとして造られた時の栄光よりもさらに豊かな栄光をお与えになることを約束してくださっていました。これが、一般に「わざの契約」と呼ばれていますが、創造の契約において神さまが約束してくださっていた祝福でした。
 それによって、神さまと人の愛の交わりは、さらに豊かな栄光にある愛の交わりとなるはずでした。人はより近く神さまの御臨在の御許に近づき、より深く豊かな愛の交わりに生きるようになるはずでした。そして、そのことが実現する時に、神さまの安息は完成し、創造の御業の第7日は閉じて、新しい「第8日」の歴史が始まることになっていました。
 この「第8日」は、この場合、「創造の御業の第7日の次の日」という意味ですが、聖書の中に、その意味で出てくることはありません。ただ、聖書の中では、「8日目」が新しい出発の時を意味している事例がいくつかあります。たとえば、割礼は、その子が生まれて8日目に施されました(創世記17章12節)。新しく生まれた動物は「8日目」からいけにえとして、主にささげることができるようになりました(レビ記22章27節)。アロンとその子らが祭司職に任職されるために7日間を要しました(レビ記8章33節)が、そのアロンが最初のいけにえをささげたのが8日目でした(レビ記9章1節)。さらに、ツァラアトに冒された人がきよめられたときに、その人のための聖めの儀式が、祭司によって、宿営の外で7日間行われ(レビ記14章1節ー9節)、その人は8日目に宿営の中に入り、主の御前に、聖めのためのいけにえをささげることができるようになりました(10節ー32節)。これと同様のことは、女性が「漏出からきよくなった」ときの規定にも見られます(レビ記15章28節ー30節)。これらのことは、「8日目」が「新しい出発の時」、特に、罪や罪の汚れがきよめられた後の「新しい出発の時」を意味していることを示しています。これは、最終的には、罪の贖いがなされた後の、新しい歴史の始まりを指し示していると考えられます。
 このようなことから、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、歴史と文化を造る使命をめぐって、最終的なさばきを執行されて、罪の清算をされた後、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地の歴史のことを「第8日」と呼ぶことがあります。私が(ものの本から、知る限りでは)ピューリタンの時代には、すでにこのように呼ばれていたようです。
 先ほどお話ししたように、神さまは創造の契約において、人が神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きることによって、神さまの栄光をより豊かに現す歴史と文化を造る使命を果たしていったなら、そのことへの報いとして、創造の御業において神のかたちとして造られた時の栄光よりもさらに豊かな栄光をお与えになることを約束されました。その「さらに豊かな栄光」は最初の創造の御業において神のかたちとして造られた人が、成長し成熟していくことによって得られるもののことではなく、神さまが人を新たに造り変えてくださることによって与えられる、一段と高く豊かな栄光です。
 私たちはこれがどのような栄光であるかを知っています。これは、最初の創造の御業において神のかたちとして造られた人としての性質を取って来てくださった御子イエス・キリストが、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって獲得してくださった栄光です。イエス・キリストはこの栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。この栄光は、私たちご自身の民をそれにあずからせてくださるための栄光ですので、最初の創造の御業において造られた人の神のかたちとしての栄光より、一段と高く豊かな人としての栄光です。
 これを「一段と高い栄光」と言ったのは、それが成長とともに徐々に身についていくものではないということを、分かりやすくするためのことです。この「一段と高い栄光」は、この世の価値尺度で考えられている栄光ではありません。この世の価値尺度で考えられている栄光は、自らを富ませ、人の上に立って権力を振るう王に典型的に見られるものです。しかし、この「一段と高い栄光」は、私たちが罪の力に縛られて、造り主である神さまを神とすることもなかった時に、私たちを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために、貧しくなって来てくださり、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださった、栄光の主であられる御子イエス・キリストにおいて最も豊かに現されている栄光です。
 天における礼拝のことを記している黙示録5章12節に、

 屠られた子羊は、
 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と讃美を
 受けるにふさわしい方です。

と記されているように、栄光のキリストは天において「屠られた子羊」として讃えられています。父なる神さまの栄光は、愛と恵みに満ちた栄光です。その父なる神さまの栄光は十字架につけられた御子イエス・キリストにおいてこそ、最も豊かに現されています。それで、この私たちに与えられる「一段と高い栄光」を受けることとは、この「屠られた子羊」によりよく似た者、その意味で、神さまの愛と恵みに満ちた栄光をより豊かに現す者となることを意味しています。
 永遠のいのちの本質は、このように、神さまの愛と恵みに満ちた栄光において御子イエス・キリストに似た神の子どもとなって、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わり、そして、御子イエス・キリストにある神の子どもとしてのお互いの交わりに生きることにあります。私たちご自身の民がそのようないのちの祝福に入る時に、神さまの安息はまったきものとなります。

 しかし、実際には、そのように豊かな祝福を与えられていた人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。人は造り主である神さまを神とすることなく、神さまに背を向けて、滅びに至る道を歩むようになってしまいました。これによって、人を愛して、神のかたちとしてお造りになり、ご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださっただけでなく、さらに豊かな栄光にあるいのち、すなわち、永遠のいのちにあって、ご自身との愛の交わりに生きるようにしようとしてくださっていた神さまの安息は、かき乱されてしまいました。
 けれども、神さまは私たちを罪と死の力から解放して、永遠のいのちをもつ者、ご自身とのより豊かな栄光にある愛の交わりのうちに生きる者としてくださるために、ご自分の御子を贖い主として遣わしてくださいました。そして、御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちご自身の民の罪を完全に清算し、贖ってくださいました。神さまは私たちをイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださり、ご自身の子としてくださいました。このようにして、私たちは、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛の交わりと、御子イエス・キリストにある神の子どもとしてのお互いの交わりに生きる者としていただいています。
 このことは、ヨハネの福音書5章21節に、

 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

と記されているように、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たち「」の民を栄光のからだをもつ者として再創造され、死者の中からよみがえらせてくださるとともに、古い天と古い地を再創造されて、神さまの栄光の御臨在がある新しい天と新しい地を造り出されて、私たちをそこに住まわせてくださるる時に、完全な形で実現します。その時に、私たちは神さまとのより豊かな栄光にある愛の交わりに生きるようになり、神さまの安息はまったきものとなり、新しい天と新しい地の歴史が始まります。先ほどお話しした「8日目」の歴史が始まるのです。
 それとともに、先ほどお話ししたように、神さまはすでに御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちご自身の民の罪を完全に清算し、贖ってくださっています。そして、私たちをイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださり、ご自身の子としてくださっています。これによって、私たちを御子イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛の交わりに生きる者、私たちお互いの愛の交わりに生きる者としてくださっています。ヨハネの福音書5章24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

ということが、すでに、私たちの現実となっているのです。その意味で、神さまが天地創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し聖別されたことの目的は、すでに、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、原理的、実質的に、実現しています。
 その原理的、実質的な実現の土台と出発点は、御子イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしたことに対する報いとして、より豊かな栄光を受けて死者の中からよみがえられたことにあります。それで、私たちは、御子イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられた日である「週の初めの日」(ヨハネの福音書20章1節、19節、使徒の働き20章7節、コリント人への手紙第一・16章2節)を週ごとの安息日として聖別しています。
 この「週の初めの日」は、古い契約の下で安息日として聖別していた週の第7日の次の日という意味で「第8日」に当たります。私たちはすでに、私たちの主である栄光のキリストから、「8日目」としての新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を委ねていただいている者として、「週の初めの日」を、週ごとの安息の日として聖別し、イエス・キリストにあって、神さまにいっさいの栄光を帰して。神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にある永遠のいのちの交わりに生きています。


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