黙示録講解

(第391回)


説教日:2019年8月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(144)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束にかかわるお話を続けます。
 今日もお話の経緯は省略して、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてお話しします。そこには、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 先主日は、このイエス・キリストの教えは、これに先立つ2節ー18節に記されていることを受けて語られたものであるということから考えられることをお話ししました。そのことをまとめてから、さらに、それと関連することをお話しします。
 19節で、

 イエスは彼らに答えて言われた。

と言われているときの「彼ら」は、2節ー18節に出てくる、ユダヤ人の指導者たちのことです。
 2節ー18節には、イエス・キリストが、安息日に、エルサレムにある「ベテスダと呼ばれる池」の回廊に横たわっていた「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことが記されています。ユダヤ人の指導者たちは、イエス・キリストが安息日にいのちにかかわることではない病気を癒されたということで、安息日にかかわる「」の戒めに背いているとして、イエス・キリストを迫害するようになりました。このことを受けて、最後の17節ー18節には、

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストが、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

と言われたことによって、ユダヤ人の指導者たちは、イエス・キリストが「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」として「ますますイエスを殺そうとするようになった」と言われています。
 しかし、イエス・キリストがこのように言われたのは、ご自身が、安息日において、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことの意味と理由を示してくださるためでした。それで、2節ー18節に記されていることからの流れの中では、19節ー29節に記されている、イエス・キリストがユダヤ人の指導者たちに語られた教えは、イエス・キリストが、安息日において、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことと深くかかわっていること、そして、そのことの意味と理由を示すために語られた、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

という教えを踏まえていることが分かります。
 19節ー20節前半に記されている教えにおいて、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と言われていることは、イエス・キリストが遂行される「すべて」の御業、すでに成し遂げられた御業、今なしておられる御業、そして、これからなしてくださる御業の「すべて」に当てはまります。これには天地創造の御業も含まれます。
 それとともに、この時、この教えが、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことを糾弾しているユダヤ人の指導者たちに語られたということからすると、特に、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことと、このことの意味と理由を示すために語られた、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

という教えに当てはめられています。
 具体的には、このことを、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

という教えに当てはめると、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それで「父がしておられることを見ている」わたしも働いているのです。

ということになります。
 また、安息日において、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことは、イエス・キリストが、「父がしておられることを見て」行ったことであるということになります。
 20節後半には、

 また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここで「これよりも大きなわざ」と言われているときの「これ」は、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことです。それで、ここでは、父なる神さまは、イエス・キリストが安息日において、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになった御業「よりも大きなわざ」をお示しになると言われています。そして、その「これよりも大きなわざ」とは、続く21節に記されている、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

ということです。
 これは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちご自身の民をよみがえらせてくださることを意味しています。それによって、私たちは、人が創造の御業において神のかたちとして造られた時の状態よりもさらに豊かな栄光を与えられたものとして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わり、また、父なる神さまと御子イエス・キリストを信じる者である私たちお互いの愛の交わりに生きるようになります。
 この交わりは、終わりの日に完成しますが、すでに、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、死からいのちに移って、神の子どもとしていただいている私たちの間の現実となっています。ヨハネの手紙第一・1章3節に、

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

と記されているとおりです。


 ここには、終わりの日に起こるべきことにかかわる「すでに」に分類されることと「いまだ」に分類されることがあります。また、この「すでに」と「いまだ」のそれぞれにも、御子イエス・キリストが私たちご自身の民の「ために」なしてくださる歴史的な御業(historia salutis)と、御子イエス・キリストが遣わしてくださった御霊が、私たちに「対して」なしてくださる御業(ordo salutis これは、「御子イエス・キリストが御霊によって私たちに対してなしてくださる御業」と言うこともできます)の二つがあります。この二つの御業のうち、御子イエス・キリストが私たちご自身の民のためになしてくださる御業(historia salutis)が、基本的な御業で、それに基づいて、御霊が私たちに対してなしてくださる御業(ordo salutis)がなされます。
 御子イエス・キリストが私たちご自身の民のためになしてくださる歴史的な御業(historia salutis)のうちの「すでに」なされている御業は、三つありますが、三つとも、今から2千年前にイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に含まれています。
 一つは、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りを、私たちに代わってすべて受けてくださったことです。これは、終わりの日に執行されるべき、私たちの罪に対する最終的なさばきがイエス・キリストの十字架の死において、すでに執行されたということです。それで、私たちの罪に対するさばきはすでにイエス・キリストの十字架の死において終っています。
 二つ目は、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことです。これは生き返ったということではなく、創造の御業において神のかたちとして造られた状態の人の栄光より、さらに豊かな栄光をもつものによみがえったということです。この死者の中からのよみがえりも終わりの日に起こるべきことですが、今から2千年前に、すでに、イエス・キリストにおいて起こっています。
 三つ目は、イエス・キリストが天に上られて、ダビデ契約に約束されていた永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座されたことと、そこから御霊を遣わしてくださったことです。このイエス・キリストが遣わされた御霊は、「新しい時代」とか「来たるべき時代」と呼ばれる、終わりの日に実現する新しい天と新しい地の歴史に属する時代を生み出し、導き、特徴づける御霊です。父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、この御霊によって、私たちご自身民を治めてくださっています。私たちを支え、導き、養い育ててくださっています。これによって、「新しい時代」とか「来たるべき時代」の歴史がすでに始まっているのです。
 御子イエス・キリストが私たちご自身の民のためになしてくださる歴史的な御業(historia salutis)のうちの「いまだ」なされていない御業は、終わりの日にイエス・キリストが再臨されて、父なる神さまから委ねられた権威により、サタンとその霊的な子孫たちの罪に対する最終的なさばきを執行されること、私たちご自身の民を栄光のからだによみがえらせてくださること、そして、新しい天と新しい地を再創造されることです。
 御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて働く御霊が、私たちに対してなしてくださる御業(ordo salutis)のうち、「すでに」私たちに対してなされている御業は、私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださっていること、有効召命によって、私たちを新しく生まれさせてくださったこと、私たちの罪を悟らせてくださって、私たちが罪を悔い改め、福音のみことばに証しされているイエス・キリストを信じるようにしてくださったこと、信じた私たちを義と認めてくださったこと、義と認めてくださった私たちを子としてくださったこと、子としてくださった私たちを導いて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きるようにしてくださって、私たちを御子イエス・キリストのかたちに似た者となるように、養い育ててくださっていることです。
 御霊が私たちに対してなしてくださる御業(ordo salutis)のうち、「いまだ」なされてはいない御業は、終わりの日に、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださり、ご自身が再創造された新しい天と新しい地に住まう者、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る者として導いてくださることです。

 これらのことを踏まえて、みことばの教えをいくつか見てみましょう。
 ヨハネの福音書5章24節には、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

と記されています。このことは、すでに、私たちの現実になっています。私たちは御子イエス・キリストのみことばを聞いて、御子イエス・キリストを私たちの贖い主として遣わしてくださった父なる神さまを信じています。それで、私たちは「永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」。
 ここで私たちが「さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」と言われているときの「死からいのちに移った」ということは、より直訳調には「死から出ていのちのうちに移っている」という感じになります。この「移っている」は(完了時制で表されていて)過去に起こったことであり、その結果、あるいは、それによってもたらされた状態が今も続いていることを示しています。今、私たちは「いのちのうちに」あるということです。
 そして、この「いのち」は永遠のいのちです。そして、その「いのち」の本質は、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わり、また、父なる神さまと御子イエス・キリストを信じる者である私たちお互いの交わりに生きることにあります。
 これと同じことが、ヨハネの手紙第一・3章14節に、

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。

と記されています。
 ここで「死からいのちに移った」と言われていることも、先ほどと同じことばで表されていて、より直訳調には「死から出ていのちのうちに移った」という感じになります。「移った」は(完了時制で表されていて)過去に起こったことであり、その結果、あるいは、それによってもたらされた状態が今も続いていることを示していて、今、私たちは「いのちのうちに」あるということを示しています。
 ここでは、そのことは、私たちが「兄弟[姉妹]を愛している」ことに現れてくることが示されています。
 ここで大切なことは、ことの順序です。ここでは、より直訳調にですが、

私たちは、自分が死から出ていのちのうちに移ったことを知っています。それは、私たちが兄弟たちを愛しているからです。

と言われています。私たちは兄弟姉妹を愛したから、そのことへの報いを受けて、死からいのちに移していただいたのではありません。父なる神さまの一方的な愛と恵みによって、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じるようになり、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、死からいのちに移っているので、兄弟姉妹を愛するようになったのです。それで、私たちは、イエス・キリストにあって、兄弟姉妹を愛しているので、自分たちが死からいのちに移っていることが「分かる」ということになります。

 ヨハネの福音書5章20節後半ー21節に記されている、

また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

というイエス・キリストの教えに戻りますと、この教えでは、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことは、「これよりも大きなわざ」である、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

ということと比べられています。それはこの二つのことの間に何らかの共通項があるからです。
 このことと、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことの意味と理由を示すために、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

という教えを語られたことを合わせて見ると、イエス・キリストが教えられた、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

ということが、神さまの安息の完成に関わっているということが見えてきます。
 そのことを考えるために、この、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

という教えについて、すでにお話ししたことを振り返っておきましょう。
 繰り返しになりますが、この教えは、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことの意味と理由を示すために語られたものです。それで、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。

と言われているときの「今に至るまで」ということは、天地創造の御業において、神さまがご自身の安息の日として祝福し聖別された創造の御業の第7日において、ということです。創造の御業の第7日は、終わりの日に至るまでのこの世界の歴史が造られる期間となっています。神さまが天地創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し聖別されたことの目的は、ご自身がお疲れになったから休むということにはありません。
 みことばの引用と詳しい説明を省いて、結論的なことだけを言いますと、三位一体の神さまは永遠に、御父、御子、御霊の無限の愛の交わりのうちに、完全に充足しておられます。それは、御父と御子の間に、御霊による、無限の愛の交わりがあるということです。天地創造の御業は、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる御子によって遂行されました。それで、天地創造の御業は、父なる神さまがご自身の愛を御子によって、お造りになるものに注がれる御業でした。そして、その神さまの愛を受け止めるものとして、神さまは人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになりました。
 実際に、神さまはエデンの園をご自身が御臨在する所として聖別され、そこに神のかたちとして造られている人を住まわせてくださいました。そして、御子が無限、永遠、不変の栄光を隠して、人間になぞらえた言い方をすると、御子が限りなく身を低くして、エデンの園にご臨在されました。
 神のかたちとして造られている人は、委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすために、エデンの園の土地を耕し、生き物たちに慈しみを注ぎました。これらのことはみことばから汲み取ることができます。そして、それは、耕した土地からの収穫をもって、生き物たちのいのちがより豊かに育まれるためのことであったと考えられます。
 人はそのようにして歴史と文化を造る使命を果たすことをとおして、神さまが創造の御業において、いかに豊かな祝福に満ちた世界をお造りになったかを現実的に知るようになり、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きていました。それも、神さまがご自身の安息の日として祝福し聖別された創造の御業の第7日においてなされていたことです。それで、そのように、神さまとの愛の交わりに生きること自体が、豊かな祝福であり、神のかたちとして造られている人としてのいのちの本質でした。
 しかし、神さまは(一般に「業の契約」と呼ばれている)「創造の契約」において、神のかたちとして造られている人を、さらに豊かな祝福にあずからせようとされました。それは、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに従いとおしたなら、そのことに対する報いとして、最初に神のかたちとして造られた時の状態より、さらに豊かな栄光を与えてくださるということです。それによって、神のかたちとして造られている人を、より豊かな栄光にあって、神さまとのさらに深く、豊かな愛の交わりに生きるようにしてくださろうとしたのです。これは、神さまの人への一方的な愛から出ていることです。
 それは、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに従いとおすことに対する報いとして与えられる、さらに豊かな栄光です。それで、人がどのように、歴史と文化を造る使命を果たしたかに対する評価は歴史の終わりになされます。神さまはそれぞれの人がどのようにその使命を果たしたかに応じて、ふさわしい報いとしての栄光を与えてくださっていたはずです。[注]

[注]最初の人アダムが「創造の契約」のかしらとして、歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神さまのみこころに従いとおしていたとしたら、アダムをかしらとする人類は、より豊かな栄光を受けることになっていたでしょう。これは人類全体に当てはまることです。その場合も、それぞれの人が、具体的な状況で、どのように歴史と文化を造る使命を果たしたかは、人によって違っています。それで、そのことについての評価も、人によって違っていたことでしょう。そして、その評価は歴史の終わりになされていたはずです。
 実際には、創造の契約のかしらであるアダムが、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、人類はアダムにあって堕落し、罪の刑罰としてのさばきを受けるべきものとなってしまいました。そのさばきも、歴史と文化を造る使命にかかわるものですので、歴史の終わり、終わりの日に執行されます。ただし、私たち「」の民へのさばきは、先ほどお話ししたように、御子イエス・キリストの十字架の死において「すでに」終っています。

 そのように、神さまは神のかたちとして造られている人を深い愛をもって愛してくださいました。それで、人がご自身とのさらに深く、豊かな愛の交わりに生きるようになる時に、ご自身の安息が完成するとされました。人がご自身とのさらに深く、豊かな愛の交わりに生きるようになるまでは、ご自身の安息は完成しない、まったきものとならないとされたのです。
 しかし、実際には、そのように豊かな祝福を与えられていた人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。人は罪がもたらした死の力に捕らえられ、それと知らずに、滅びに至る道を歩むようになってしまいました。これによって、人を深い愛をもって愛してくださっていた神さまの安息がかき乱されてしまったことは言うまでもありません。
 けれども、神さまは私たちご自身の民を罪と死の力から解放し、ご自身とのより豊かな栄光にある愛の交わりのうちに生きる者としてくださるために、ご自分の御子を贖い主としてお立てになりました。そして、すでにお話ししたように、御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、御子イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からのよみがえられたことに基づいて、私たちを新しく生まれさせてくださり、ご自身の子としてくださって、ご自身との愛の交わりに生きる者としてくださいました。
 これによって、神さまが天地創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し聖別されたことの目的が、すでに、原理的、実質的に、実現しています。
 その原理的、実質的な実現の土台と出発点は、御子イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしたことに対する報いとして、より豊かな栄光を受けて死者の中からよみがえられたことにあります。
 神さまが天地創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し聖別された時には、神さまの安息の完成は、先ほどお話ししたように、歴史の終わりにもたらされるという意味で、遠い先の目的でした。それで、神さまは人が週の第7日を安息日として聖別するよう命じられました。これによって、神さまの安息の完成は歴史の終わりに実現することで、主の契約の民はその神さまの安息の完成に向かって歩んでいるということが示されていました。
 しかし、御子イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、神さまが天地創造の御業において、創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し聖別されたことの目的が、すでに、原理的、実質的に、実現しています。それで、私たち「」の民は、御子イエス・キリストが十字架の死をもって私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださった後、栄光を受けて死者の中からよみがえられた日、すなわち、週の初めの日、「主の日」(黙示録1章10節)を、週ごとの安息日として聖別して、この日に神である「」の御臨在の御許に近づいて、「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛の交わり、また、イエス・キリストにあるお互いの愛の交わりを深めていきます。
 このことは「すでに」私たちの現実になっています。それで、私たちは、このように、この主の日に、神である「」を神として礼拝しています。
 そして、終わりの日に再臨されるイエス・キリストが、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

という教えに示されていることを実現してくださる時に、神さまの安息は完成することになります。


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