黙示録講解

(第390回)


説教日:2019年8月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(143)


 黙示録2章27節前半には、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束が記されています。今は、このみことばとの関連で、19章15節で栄光のキリストのことを、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記しているみことばについてお話ししています。
 ここでは、まず、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と言われています。ここで、栄光のキリストの口から出ていたと言われている「鋭い剣」の「」ということば(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣を表しています。
 この「」はローマ帝国において皇帝などが生殺与奪の権をもっていることを象徴的に表していました。黙示録では、栄光のキリストが、この「」をもっておられることが示されています。これによって、イエス・キリストこそが、究極的な生殺与奪の権をもっておられる方であることが示されています。
 19章15節で、この「」は栄光のキリストの口から出ていたと言われていることは、栄光のキリストのみことばが栄光のキリストがもっておられる究極的な生殺与奪の権であることを意味しています。マタイの福音書10章28節には、

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方」とは父なる神さまのことです。イエス・キリストは、その父なる神さまのみこころをすべて実現される方です。「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方」は、また、御子イエス・キリストによって、「たましいもからだも」、罪の結果である死と滅びから贖い出し、真の意味で、生かすことがおできになる方です。
 これまで、このこととのかかわりで、さらに、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてお話ししています。そこには、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」

と記されています。
 先主日は、私の個人的な事情があって、19節に記されている、

 子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

というイエス・キリストの教えとかかわることとして、別の機会にお話ししたことを用いて、三位一体論の形成の過程で問題となった「従属説」の根拠の一つとなっている、御子イエス・キリストにも知らないことがあったという問題を取り上げてお話ししました。
 今日は話を戻して、先ほど引用しました、19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話を続けます。
 この教えは、19節冒頭に、

 イエスは彼らに答えて言われた。

と記されているように、これまでお話ししてきた、2節ー18節に記されていることを受けて語られたものです。ここで、

 イエスは彼らに答えて言われた。

と言われているときの「彼ら」は、2節ー18節に出てくる、ユダヤ人の指導者たちのことです。
 2節ー18節には、イエス・キリストが、安息日に、エルサレムにある「ベテスダと呼ばれる池」の回廊に横たわっていた「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことが記されています。ユダヤ人の指導者たちは、イエス・キリストが安息日にいのちにかかわることではない病気を癒されたということで、安息日にかかわる「」の戒めに背いているとして、イエス・キリストを迫害するようになりました。このことを受けて、最後の17節ー18節には、

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

と記されています。
 ここには、ユダヤ人の指導者たちが「ますますイエスを殺そうとするようになった」ことが示されています。その理由は二つあります。
 一つは、最初にユダヤ人の指導者たちがイエス・キリストを迫害するようになった原因で、「イエスが安息日を破っていた」ということです。しかし、イエス・キリストは安息日に関する「」の戒めについてのラビたちの解釈に基づく規定に反していただけです。イエス・キリストは安息日に関する「」の戒めの本来の意味と精神に沿って、安息日においてこそ人々の病を癒しておられました。
 もう一つは、イエス・キリストが、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

と言われて、「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」ということです。
 しかし、イエス・キリストが「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」ということは、神を一位一体の神としているユダヤ人の指導者たちが理解していることと、新約聖書の啓示の光のもとで、三位一体論的にイエス・キリストがどのような方であるか(まことの神であられつつ、今から2千年前に、まことの人としての性質をお取りになって来てくださった贖い主であられること)を理解している私たちが理解していることには違いがあります。
 このような、2節ー18節に記されていることと、それを受けてイエス・キリストがユダヤ人の指導者たちに語られた、19節ー29節に記されている教えのつながりを見ると、19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えが、安息日にかかわる神である「」のみこころと深くつながっていることが分かります。
 確かに、イエス・キリストが、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

と言われて、「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」ということは、ユダヤ人の指導者たちからすれば、「イエスが安息日を破っていた」ということより、はるかに由々しき問題です。しかし、イエス・キリストは、ご自身が「三十八年も病気にかかっている人」を、安息日において、お癒しになったことの意味を示してくださるために、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

と言われたのです。
 それで、2節ー18節に記されていることからの流れの中では、19節ー29節に記されていることは、イエス・キリストが、安息日において、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことと深くかかわっていること、それゆえに、安息日の意味が背景になっていることが分かります。


 当然、イエス・キリストは、このことを踏まえた上で、19節ー20節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

という教えを語っておられます。
 この教えでイエス・キリストは、まず、

まことに、まことに、あなたがたに言います。

と言われました。この「まことに、まことに」と訳されていることばは、通常、私たちが祈りの最後に加える「アーメン」ということばを、二つ重ねたものです。これによって、これからイエス・キリストが語られることがとても大切で、真実なこと、信ずべきことであることを示しています。
 この「まことに、まことに」ということばは、ヨハネの福音書では、この5章19節までには、1章51節、3章3節、5節、11節の4回出てきます。そして、この5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えでは3回、19節、24節、25節に用いられています。このことから、ここでイエス・キリストが語っておられることがこの上なく大切なことであるということ、ユダヤ人の指導者たちが、また、ひいては、私たちが是非とも知らなければならないことである、ということが分かります。
 このイエス・キリストの教えは、いわば、一般的なことにかかわる教えと特殊なことにかかわる教えの二つに分けられます。
 一般的なことにかかわる教えは、19節ー20節前半で、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と言われていることです。
 ここでは、イエス・キリストが父なる神さまから遣わされた約束のメシア、贖い主としてなしておられる御業のすべてに当てはまること、その意味で一般的なことが語られています。
 ここで、

 すべて父がなさることを(子も同様に行うのです)

と訳されている部分は、新改訳第3版の、

 父がなさることは何でも

というような言い方です。そして、

 ご自分がすることをすべて、(子にお示しになる)

の「すべて」は文字通り「すべて」です。この二つの「すべて」を表すことばが重ねられていることと、

子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

と言われていることが相まって、ここでイエス・キリストが言われることには例外がないことを示しています。
 このことは、2節ー18節に記されていることとかかわっていて、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことも、イエス・キリストが「父がしておられることを見て」行ったことだということを示すことになります。
 そして、そのことは、すでに、17節に記されている、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

というイエス・キリストの教えに示されていたのです。まさに、この、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです

という教えは、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことは、イエス・キリストが「父がしておられることを見て」行ったことだということを意味しています。
 もう一つの特殊なことにかかわる教えは、20節後半で、

 また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

と言われていることです。
 今お話ししたように、19節ー20節前半では、イエス・キリストがなしておられる御業のすべてに、例外なく、当てはまることが示されています。
 これに対して、ここ20節後半で、

 また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

と言われていることは、より特殊なことについての教えです。というのは、「これよりも大きなわざ」と言われているときの「これ」はイエス・キリストがすでになされた御業ですが、それは、イエス・キリストが、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったという具体的な(特殊な)御業のことだからです。
 また、ここでは、父なる神さまは、そのイエス・キリストがなされた御業「よりも大きなわざ」をお示しになると言われていますが、その、より「大きなわざ」も、これからイエス・キリストがなされるようになる具体的な御業です。それがどのような御業であるかということは、続く21節に、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

と記されています。
 この21節に記されている御業については、後ほど、日を改めてお話しすることにします。

 今お話ししたいことは、

 また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

ということは、20節前半に記されている、

 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

というイエス・キリストの教えを受けているということです。
 それで、「これ」と言われている、イエス・キリストがすでになされた御業、すなわち、安息日に、「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことは、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛して、ご自身がなさることを御子イエス・キリストにお示しになったことであった、ということを意味しています。
 このこととの関連で私たちが心に留めておきたいことは、20節前半に記されている、

 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

というイエス・キリストの教えは、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛して、ご自身がなさることを「すべて」例外なく、お示しになるということを示しているということです。
 それで、御子イエス・キリストが私たちそれぞれのためにすでになしてくださったことの一つ一つも、今なしてくださっていることの一つ一つも、また、これからなしてくださることの一つ一つ、特に、イエス・キリストが、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

と言われたことも、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛して、ご自身がなさることとして、御子イエス・キリストにお示しになっておられることなのです。
 これらのことすべては、御子イエス・キリストが、私たちそれぞれを愛してくださってなしてくださっていることです。同時に、そのすべては、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛して、ご自身がなさることとして、御子イエス・キリストにお示しになしてくださっていることです。それには例外がありません。それで、このことは、御子イエス・キリストはその贖い主としての生涯の最後に十字架におかかりになったことにも当てはまります。
 御子イエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって、お受けになりました。その時、父なる神さまは私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを、ご自身がとこしえの愛をもって愛しておられる御子イエス・キリストに、1章18節において「父のふところにおられるひとり子の神」と証しされている御子に注がれました。
 そのことさえも、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛して、ご自身がなさることとして、御子イエス・キリストにお示しになったことだったのです。
 このことにかかわることとして、同じヨハネの福音書10章17節ー18節に記されているイエス・キリストの教えを見てみましょう。そこには、

わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

と記されています。
 ここで、イエス・キリストは、

だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。

と言われて、ご自身のメシアとしての権威に基づき、ご自身の意思によって、十字架におかかりになることを示しておられます。
 そして、

わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

と教えておられます。イエス・キリストが十字架におかかりになってご自分のいのちをお捨てになった時にこそ、父なる神さまは御子イエス・キリストへの愛を注いでおられました。そうであるからこそ、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身のご意思によって十字架におかかりになられる御子イエス・キリストのご意思を受け入れ、私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを御子イエス・キリストに注がれたのです。
 言うまでもなく、ここで「再びいのちを得るために」と言われていることは、十字架におかかりになってご自分のいのちをお捨てになった後、栄光を受けて死者の中からよみがえることを指しています。そのようにして、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたのは、ご自身の益のためではなく、私たちを復活のいのち、すなわち、永遠のいのちに生きるものとしてくださるためです。これは、先ほど引用した5章21節で、イエス・キリストが、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

と言われたことにつながっていくこと、そのことの基礎となることです。
 また、10章18節で、御子イエス・キリストは、

 わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

と言われました。このことは、そのことが父なる神さまの命令だからやむを得ず(しぶしぶ)従ったということではありません。これは、御子イエス・キリストが父なる神さまを愛して、その命令に従っておられるということを意味しています。イエス・キリストが地上の生涯の最後の過越の食事の席で、(間もなく、十字架におかかりになって)世を去って行かれることを弟子たちに教えられた時のことを記しているヨハネの福音書14章31節に、

それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。

と記されているとおりです。

 このことと関連して、もう一つのみことばを見てみましょう。
 ローマ人への手紙5章8節には、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と記されています。
 ここでは、

 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた

と言われています。イエス・キリストが私たちのために死んでくださったのは、私たちがよい人間だったからではありません。むしろ、私たちが罪と死の力に捕らえられて、造り主である神さまを神とすることなく、滅びに至る道を、それと知ることもなく歩んでいた状態にあった時のことです。この後の10節では、私たちのことが神さまに対して「敵であった」と言われています。ここで、

 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた

と言われていることは、御子イエス・キリストがその一方的な愛をもって、私たちを愛してくださり、私たちのためになしてくださったことです。
 ですから、普通ですと、「キリストが私たちのために死なれたことによって」、キリストが私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられると言われると思います。しかし、ここでは、「キリストが私たちのために死なれたことによって」、父なる神さまが「私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」と言われています。
 また、この場合、仮に、

キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対する愛を明らかにしておられます。

と言われていたとしても、言われていることは伝わります。しかし、ここでは、

 神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

というように、「ご自分の(愛)」をつけて、それが父なる神さまの私たちへの愛であることを強調しています。
 もちろん、「キリストが私たちのために死なれた」のは、イエス・キリストの私たちへの愛によっています。それによって、イエス・キリストの私たちへの愛がこの上なく豊かに示されています。ここでは、そのイエス・キリストの私たちへの愛は、そのまま、父なる神さまの私たちへの愛であることが示されています。
 そして、御子イエス・キリストが私たちのために死なれたことによって明らかにされた父なる神さまの愛は、イエス・キリストが私たちのために死なれた時に、明らかにされたというだけのことではありません。

 神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と言われているときの、「明らかにしておられます」は現在時制で表されていて、それが変わることがない事実であることを示しています。それは、私たちの地上の生涯におけるだけのことではなく、私たちがこの世を去って父なる神さまと御子イエス・キリストのご臨在の御許に帰っても、そして、終わりの日に栄光のからだによみがえった後にも、とこしえに変わることがない事実です。今、天における父なる神さまの栄光の御臨在の御許においては「屠られ子羊」が讚えられています(黙示録5章9節ー13節)。また、

 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって

示されている父なる神さまと御子イエス・キリストの愛の深さと豊かさは、私たちが永遠に汲み尽くすことができないものです。
 しかも、ここローマ人への手紙5章8節では、この「明らかにしておられます」ということばが冒頭に出てきて強調されています。
 私たちは今から2千年前に、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちを愛してくださり、私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださったことを絶えず思い起こし、心に刻みます。その時、私たちは、この、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

というみことばによって、「今、この時に」父なる神さまのこの上なく豊かな愛が、私たちに示されていること、実際に、注がれていることを覚えて、心に刻むように導かれているのです。


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