黙示録講解

(第389回)


説教日:2019年7月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアテラにある教会へのみことば(142)


 黙示録2章27節前半には、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束が記されています。
 今は、このみことばとの関連するお話をしていますが、今日は、一連の経緯は省略しますが、これまで6回にわたってお話ししてきた、ヨハネの福音書5章2節ー18節に記されているみことばを踏まえて、それに続く、19節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

というイエス・キリストの教えにかかわることをお話しします。
 このイエス・キリストの教えについてはすでにお話ししていますので、振り返っておきますと、ここでイエス・キリストが言われる、

 子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

ということは、御子イエス・キリストが行われることはすべて父なる神さまのみこころから出ているということ、イエス・キリストはすべての点で父なる神さまのみこころに従っているということを意味しています。そして、

 すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

ということは、父なる神さまがなさることで御子イエス・キリストにできないことはないということを意味していて、御子イエス・キリストが父なる神さまと等しい方、まことの神であることを示しています。
 イエス・キリストが行われることはすべて父なる神さまのみこころから出ているということ、イエス・キリストはすべての点で父なる神さまのみこころに従っているということは、御使いたちや最初に神のかたちとして造られた状態の人にも当てはまります。そのようなことから、イエス・キリストは、父なる神さまと等しいまことの神ではない、という主張がなされることがありました。このような主張は一般に「従属説」と呼ばれます。
 もちろん、私たちは、みことばの全体、特に、新約聖書のみことばは、イエス・キリストが父なる神さまと等しいまことの神であられることを示していることを認めています。そのような私たちにとって、この「従属説」とのかかわりで、問題となることがいくつかあります。今日は、その代表的な一つのことを取り上げます。


 マタイの福音書24章36節には、

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この教えについては、すでにお話ししたことがありますが、ここで、改めて、お話ししたいと思います。
 これは一般に「オリーブ山での教え」と呼ばれる、マタイの福音書24章ー25章に記されている、終わりの日についてのイエス・キリストの教えの中で語られたことです。この教えがどのような経緯で語られるようになったのかは、24章1節ー3節に、

イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」

と記されています。
 36節で「その日、その時がいつなのかは」と訳されている部分は、直訳ではその日、その時については」です。「その日、その時について」ということには、「その日、その時がいつなのか」ということだけでなく、「その日、その時」に至るまでの歴史においてどのようなことが起こるかということや、「その日、その時」にどのようなことが起こるかということがかかわっています。それらのことについては、イエス・キリストは、この36節の前の4節ー35節において教えておられます。そして、3節に記されている弟子たちの問いかけには「いつ、そのようなことが起こるのですか」ということがあります。それで、この直訳の「その日、その時については」ということは、新改訳の訳が示しているように、「その日、その時がいつなのか」ということについての教えです。
 ここでイエス・キリストは、「その日、その時」すなわちイエス・キリストの再臨の日時「がいつであるか」は父なる神さまだけが知っておられて、ご自身は知らないと言っておられます。そうであれば、イエス・キリストにも知らないことがあるということになり、イエス・キリストは神ではないということになるように思われます。これが、私たちにとって問題となることの一つです。
 これについては注意すべきことが二つあります。
 第一に、神さまが何かを知っておられるということと、私たちが何かを知っているということの間には違いがあります。私たちにとっては、イエス・キリストの再臨の日時は、仮に私たちがいなくても定められている時です。それは私たちの意思とは関係なくある時です。けれども、神さまにとっては、イエス・キリストの再臨の日時がそれとして独立して、つまり、ご自身のみこころと関係なくあって、それを父なる神さまは知っておられるが、イエス・キリストは知らないということではありません。
 ここで、イエス・キリストが言っておられるのは、イエス・キリストの再臨の日時は父なる神さまがご自身の意思で定められたことであり、それゆえに父なる神さまが知っておられることであり、イエス・キリストはそれに関わっておられない、その意味で、知ってはおられないということです。
 これと関連して、使徒の働き1章6節ー7節に記されているイエス・キリストと弟子たちのやり取りを見ておきましょう。そこには、

そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。

と記されています。ここでイエス・キリストは、終わりの日にかかわる「日程」は、父なる神さまが「ご自分の権威をもって定めておられる」ということを示しておられます。
 第二に、イエス・キリストの再臨の日時がいつであるかということは、それが示されているとしたら、だれでも分かることです。仮にその日が2050年1月1日であるとすると、「イエス・キリストは2050年1月1日に再臨される」ということは、主の民であればだれでも分かります。これを知るのに特殊な能力が必要なわけではありません。これは、私が相対性理論や量子力学が分からないというのとは違います。私は相対性理論や量子力学について説明されても、よく分かりません。というのは、私にはそれを理解する能力がなくて、私には難しすぎるからです。
 このことを踏まえると、先ほど「その日、その時について」ということには、「その日、その時がいつなのか」ということだけでなく、「その日、その時」に至るまでの歴史においてどのようなことが起こるかということや、「その日、その時」にどのようなことが起こるかということがかかわっているということをお話ししましたが、「その日、その時がいつなのか」ということより、「その日、その時」に至るまでの歴史においてどのようなことが起こるかということや、「その日、その時」にどのようなことが起こるかということのほうが、はるかに難しいことであることが分かります。イエス・キリストはそのはるかに難しいことをご存知であられるのです。
 ですから、イエス・キリストが、

 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

と言っておられるからといって、イエス・キリストは知る能力において父なる神さまより劣るということにはなりません。言い換えると、イエス・キリストは父なる神さまがご自身の意思で定めておられる再臨の日時のことを知りたいけれども、理解する能力がないので知ることができないということではありません。また、予知能力がないので知ることができないということでもありません。これはイエス・キリストの能力にかかわることではなく、父なる神さまの意思にかかわることです。イエス・キリストの再臨の日時を決定されるのも、それをイエス・キリストにお示しになるのも父なる神さまの意思によることです。
 そのことは、ただ単に、イエス・キリストの再臨の日時に関することだけでなく、イエス・キリストの地上の生涯全体に当てはまることです。今取り上げているヨハネの福音書5章19節には、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

というイエス・キリストの教えが記されていますし、12章49節には、

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

と記されています。また、イエス・キリストは地上の生涯において、常に、父なる神さまのみこころ(ご意思)に従っておられます。ピリピ人への手紙2章6節ー8節に、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。

と記されているとおりです。さらに、イエス・キリストは父なる神さまに従って歩まれた地上の生涯において、父なる神さまに信頼して、父なる神さまのみこころを行うことができるようにと、祈っておられます(マタイの福音書26章39節、42節、44節、参照・マタイの福音書11章25ー27節、ヨハネの福音書17章、ヘブル人への手紙5章7節、そのほか、イエス・キリストが祈っておられる例は、ルカの福音書23章34節)。ですから、父なる神さまがお示しにならないことは、イエス・キリストもあえて知ろうとはされなかったと考えられます。そして、それが、

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

というイエス・キリストの教えに示されていると考えられます。

 それでは、このようにイエス・キリストが父なる神さまのみこころに従いとおされたことは、イエス・キリストが神ではないことを意味しているのでしょうか。
 これについて考えるためには、存在あるいは本質と職務(働き)の違いを理解しておく必要があります。
 たとえ話をすると、ある親子が会社を運営しています。そして、父が社長として会社を経営し、息子が製品を造っています。ある人が息子に「お宅の会社では、来年度、この製品をどれくらい造る予定ですか」と聞いたところ、息子が「私は父の計画に従ってものを造っているだけなので、来年のことは分かりません。恐れ入りますが、そのことは父にお聞きいただけないでしょうか」と答えました。
 この場合、息子は父の意思決定に従っています。さらに、父が経営者として考えていることで、父が教えてくれなければ分からないこともあります。このことから、息子は人間ではないとか、人間より少し劣る存在だと言うことはできません。息子が父の計画に従って製品を造っているのは、父が経営者という職務に就いており、息子が製造係という職務に就いているためのことです。これは職務(あるいは働き)の違いによることであって、人としての本質の違いにはよっていません。人としての本質から言い言うと、父と息子の間に上下関係はありません。父と息子は等しく人であります。ただ、会社を運営していく上では、社長として会社の経営方針を立てている父と、その方針に従って製品を造っている息子の間には、職務上の上下関係があります。
 このように、ある働きをする上で、意思決定をする者と、それに従う者との関係には上下関係がありますが、それは職務上の上下関係であって、必ずしも、そこに本質の上での違いがあるとは限りません。つまり、職務上の上下関係からは、上位の職務に就いている者の本質と下位の職務に就いている者の本質が違うと言うことも、同じであると言うこともできないのです。
 たとえば、創造の御業において、造り主である神さまは神のかたちとしてお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。このことにおいては、神であるは造り主としての「職務」についておられ、人は使命を委ねられたしもべとしての職務に就いています。この場合には、神さまと神のかたちとして造られている人との間には、本質的な違いがあります。しかし、それはその職務の違いによっているのではありません。それ以前に、神としての本質と人としての本質に違いがあるのです。仮に、神さまが人になんの義務も使命もお与えにならなかったとしましょう。その場合には、神さまと人との間には職務的な上下関係はなくなります。けれども、神さまと人との間には本質的な違い、本質における違いがあります。
 もう一つの例を見てみましょう。マルコの福音書10章45節には、

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。イエス・キリストと私たちの民の関係は、イエス・キリストが主であり、私たちはその民であり、しもべです。けれども、主であられるイエス・キリストは「仕えられるためではなく仕えるために」来られました。その地上でのお働きは、私たちご自身の民、ご自身のしもべのために十字架におかかかりになって「贖いの代価として」ご自身のいのちを与えてくださることにありました。これに対して、私たちは、主のために何もしないで、主であられるイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっているだけです。この場合、イエス・キリストは仕える者の立場に立たれ、私たちは仕えられる者の立場に立っています。ただし、私たちが主人としてイエス・キリストに贖いの御業を成し遂げるよう命じたわけではありませんので、このことにおいては、主人としもべの関係はありません。いずれにしましても、仕える立場に立ってくださったイエス・キリストは神の御子としての本質をもっておられ(ここでは、イエス・キリストのまことの人としての性質については触れないことにします。それについては後ほど取り上げます)、仕えられる立場に立った私たちは神のかたちとして造られている人としての本質をもっています。この場合も、それぞれが立っている立場の違いは、本質の違いをそのまま反映しているわけではありません。
 これらのことを踏まえて言うと、イエス・キリストがまことの神であるかどうかを問うことは、イエス・キリストの本質を問うことです。これを、御業(創造と摂理の御業、特別摂理としての贖いの御業)に関連して担われた職務の違いに基づいて、父なる神さまと御子の本質は異なっていると言うこと、つまり、父なる神さまは神であるが、御子イエス・キリストは神ではないと言うことはできません。御業をなすに当たって父なる神さまが担われた職務と、御子イエス・キリストが担われた職務の違いに基づいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの本質が違うとか、同じであるとか言うことはできないのです。この御業にかかわる職務における区別と、存在の本質における区別を混同してしまうと、最初の例において、社長である父親は人であるが、製造に携わっている息子は人ではないとしてしまうのと実質的に同じ主張が生まれてきます。

 三位一体論においては、御父、御子、御霊が位格的に区別される(三位)とともに、神の実体あるいは本質は一つ(一体)であると理解しています。
 そして、位格的に区別される御父、御子、御霊を、その存在の本質において理解するこことを「本質論的[本質的]三位一体(Essential Trinity)」あるいは「本体論的[存在的]三位一体(Ontological Trinity)」と呼びます。御父、御子、御霊はその神としての本質は同等です。それで、御父は神であり、御子は神であり、御霊は神です。
 これに対して、創造と摂理の御業と贖いの御業において御父、御子、御霊が担われた職務(役割分担)の違いから理解された三位一体を「経綸論的[経綸的]三位一体(Ecomomical Trinity、Economic Trinity)」と呼びます。創造と摂理の御業と贖いの御業において御父は神を代表し表し、御業を計画する職務を担われ、御子は御父のみこころに従って御業を遂行する職務を担われ、御霊は御子が遂行された御業をそれが当てはまるもの、それぞれに適用してくださる役割を担われます。このようにして、御父、御子、御霊が担われたそれぞれの職務(役割分担)の間には上下関係、従属関係があります。イエス・キリストがメシアとしての職務を担われたのは、父なる神さまのみこころに従って贖いの御業を遂行されるためです。
 とはいえ、ヨハネの福音書14章10節に、

わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

と記されており、26節に、

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

と記されているように、御子イエス・キリストは、父なる神さまと御霊との一体にあって贖いの御業を遂行しておられます(その他、マタイの福音書12章28節、ルカの福音書3章22節、4章1節、14節、ヨハネの福音書1章32節、33節、3章34節、16章13節ー15節、使徒の働き10章38節、テトスへの手紙3章6節などを参照)。
 このことからも分かるように、三位一体の御父、御子、御霊のそれぞれの職務の違いは絶対的なものではなく、御父、御子、御霊は一体にあってそれぞれの職務を果たされます。これは、創造の御業についても、贖いの御業についても当てはまります。

 ヨハネの手紙第一・1章3節には「御子イエス・キリスト」という御名が出てきます。「御子」は父なる神さまのひとり子ということを表し、「イエス」はヘブル語の「ヨシュア」という名に当たるギリシア語の名で、その当時は、普通の人の名でした。ただし、イエス・キリストの場合には、民数記13章16節に、

以上が、モーセがその地の偵察のために遣わした者の名である。モーセはヌンの子ホセア[「救い」あるいは「ヨシュア」(「主は救い」)の短縮形]をヨシュアと名づけた。

と記されていることを背景にしていると考えられます。「キリスト」は「油を注がれた者」を意味しています。旧約聖書では神であるに仕える王や祭司、また、時に預言者に油を注ぎましたが、そのようにしてに聖別された人々を「油を注がれた者」すなわち「メシア」と呼んでいました。その「メシア」が後に専門用語化していき、が約束してくださっている贖い主を指すようになりました。「メシア」ということばはヘブル語(マーシーァハ)やアラム語(メシーハー)を音訳したものですが、ギリシア語では「キリスト」(クリストス)になります。「キリスト」は神の御子がご自身の民の罪のために贖いの御業を遂行されるという職務の上での称号です。
 ですから、「御子イエス・キリスト」という御名は、父なる神さまのひとり子(「御子」)が、父なる神さまのみこころにしたがって、人としての性質を取って来てくださり(「イエス」)、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、私たちを栄光あるいのちすなわち永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったこと、さらには、天に上って父なる神さまの右の座に着座され、そこから、約束の御霊を注いでくださった(「キリスト」)ことを表しています。
 これらのことは、すでに成し遂げられていますが、「御子イエス・キリスト」が、私たちご自身の民のためになしてくださる御業がもう一つ残されています。それが、父なる神さまが定めておられる終わりの日に再臨されて、神であるに敵対している暗やみの主権者とそのしもべたちに対するさばきを執行し、ご自身の民を死者の中からよみがえらせてくださり、新しい天と新しい地を再創造されて、救いを完成してくださることです。

[注]これらの贖いの御業は、「御子イエス・キリスト」が、「私たちの外で」(客観的に、今から2千年前に)、「私たちのために」成し遂げてくださった御業です。このような御業を「historia salutis」と呼びます。また、「御子イエス・キリスト」は、ご自身が父なる神さまの御許から遣わしてくださった御霊によって、今も、「私たちに対して」、「私たちそれぞれの内に」働きかけてくださる御業をなさっています。それが、神秘的結合、有効召命、新生、悔い改めと信仰、義認、子とすること、聖化、栄光化をもたらすお働きです。このようなお働きを「ordo salutis」と呼びます。

 地上の生涯において、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされた「御子イエス・キリスト」は、その終わりの日について、

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

とお教えになりました。「その日、その時」とは、「御子イエス・キリスト」が、父なる神さまのみこころによってご自身に委ねられている御業のうち、なおも、残されているもう一つの御業をなしてくださる終わりの日のことです。それで、「その日、その時」は「御子イエス・キリスト」が成し遂げられる職務にかかわる時のことです。
 このイエス・キリストの教えには、大切な意味があります。教会の歴史の中では、しばしば、終わりの日がいつであるかを、その人々からすると聖書に記されていることに基づいて、計算して割り出そうとする試みがなされてきましたし、割り出したと主張する人々が現れてきました。けれども、このイエス・キリストの教え、特に、

 子も知りません。

という教えは、そのような試みをすること自体が父なる神さまのみこころではないということを明確に示しています。「その日、その時がいつなのかは」メシアとしてのお働きを遂行される御子イエス・キリストにさえも知らされていなかったのです。当然、御使いたちやの民にも知らされてはいません。

 最後に、一つのことをお話ししておきます。これまでお話ししてきたように、イエス・キリストが「その日、その時がいつなのか」を知らないということは、父なる神さまのみこころに従って、メシアとして贖いの御業を遂行する職務の上でのことです。イエス・キリストは、その職務を遂行してくださるために、罪の性質は除いて、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、私たちの契約のかしらとなられ、私たちと一つになってくださいました。このようなお働きを遂行されるメシアとしてのイエス・キリストは、「その日、その時がいつであるか」を知らない者としての立場に立っておられます。これは「経綸論的三位一体」における御子の職務におけることです。
 けれども、「本体論的三位一体」あるいは「本質論的三位一体」において考えられる御子、すなわち、まことの神であられる御子は御父とすべてを分かちもっておられます。[注] それで、御父ご自身とそのみこころを、永遠に、すべて、また、完全に知っておられます。その御子が贖いの御業を遂行するメシアとしての職務を果たされることにおいては、無限、永遠、不変の栄光の神であられつつ、まことの人としての性質をお取りになり、人としての限界をもつ方となられ、父なる神さまがお示しにならないことは知らないという立場に立たれたのです。

[注]これは、御父と御子の間だけでなく、御霊との間にも当てはまることです。その根底には、神学用語では「(三位)相互内在性」「ペリコーレーシス」と呼ばれる教理によって示されていることがあります。この教理は「三位一体の三つの位格のそれぞれが相互に内在し、相互に浸透しあっていて、三つの位格が一つでありつつ、一つの位格は必ず[また完全に]他の二つの位格の中にあることを教える教理である」[キリスト教神学事典、247頁(カギカッコ内は補足)]

 このようなことは、私たちには不思議なこと、不可解なことと思えます。しかし、新約聖書は、まことの人としての性質を取って来て取って来られた、まことの神であられる御子イエス・キリストが、まことの人としては、人の限界のうちに留まられたことを示しています。今お話ししていることとかかわっていることの一例ですが、ルカの福音書2章40節には、

 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。

と記されており、52節には、12歳になったイエス・キリストについて、

 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。。

と記されています。この二つのみことばで注目したいことはイエス・キリストの「知恵」のことです。イエス・キリストは人としてお生まれになり、年とともに、背丈ばかりではなく、「知恵」においても成長されました。イエス・キリストも、人としての成長のそれぞれの段階を経て、「知恵」において豊かになっていったのです。しかし、まことの神としては、永遠に、無限の知恵に満ちておられ、父なる神とそのみこころを完全に知っておられます。


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