黙示録講解

(第388回)


説教日:2019年7月21日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(141)


 黙示録2章27節には、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼ら[諸国の民]を牧す。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束のみことばが記されています。
 今は、このみことばと関連することについてお話ししています。
 今日も、これまでのお話の経緯を省略して、これまで5回にわたってお話ししてきた、ヨハネの福音書5章2節ー18節に記されているみことばについてのお話を続けます。
 5章2節ー18節には、

エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。【本節欠如】そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

と記されています。
 今日は、すでにお話ししたことを踏まえて、それを補足することをお話をしたいと思います。
 2節ー9節には、イエス・キリストが、安息日に、エルサレムにある「ベテスダと呼ばれる池」の回廊に横たわっていた「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことが記されています。
 これまで、この「ベテスダと呼ばれる池」のことは、お話ししていませんので、まず、この池のことをお話しします。
 この池はエルサレム神殿の北にある貯水用の池です。全体は南北に長い長方形の池で、北の池と南の池の二つに分かれていました。大きさは南の池の方が少し大きかったようです。
 この池の復元図はいくつかあって、微妙に違うところがありますが、その一つ(New Bible Dictionary, p.131にあるもの)によると、全体を取り囲む四つの回廊と、北の池と南の池の間にある回廊を合わせて五つの回廊がありました。その回廊は屋根付きの回廊で、その外側は、光や空気をとおす窓はあったでしょう(この復元図には示されていませんが、ほかの復元図には、いくつもの窓が示されています)が、壁で囲まれ、その壁に上がアーチ型になっている回廊への入口がいくつかありました。池に面している側には何本もの柱があり、その壁と柱で屋根を支えていました。3節に出てくる「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たち」はこの回廊に集まってきていて、それらの柱の間を通って、池に入ろうとしていたわけです。
 新改訳では、4節は「本節欠如」となっていますが、3節後半から4節にかけて、もともとの本文にはなく、後に書き加えられたと考えられますが、古くからあったと考えられる言い伝えによる説明があります。それは新改訳の欄外訳として記されています。いくつかの写本では、3節後半に、

 彼らは水が動くのを待っていた。

を加えています。そして、それらより有力ではない、いくつかの写本では、その3節後半に、さらに続けて4節として、

それは、主の使いが時々この池に降りて来て水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである。

という説明を加えています。この説明は古くからの言い伝えで、7節に記されている、

主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。

という「三十八年も病気にかかっている人」のことばは、ここに集まってきている人々がこの言い伝えを信じていたことを示しています。
 とはいえ、4節に記されている言い伝えは、もともとの霊感されたみことばに含まれていないものですので、あくまでも、人々の言い伝えでしかありません。
 そうではあっても、そのような言い伝えが生み出される何らかのことがあったと考えられます。エウセビオスは、この池の一つの水が赤かったということを伝えていますが、これは、この水が鉄分を含んだ鉱泉の湧き水であった可能性を示しています。その場合には、その水に何らかの薬効があったのかも知れません。
 「水がかき回される」ということは、そこで湧き出る水の量が、時に、より多くなるか、地中にあるガスなどの気体により泡立つことによっているのではないか、あるいは、そこに貯められた水が取水される時に起こるのではないかなどと考えられています。
 いずれにしても、そこにいた「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たち」は、もう、そのような言い伝えにすがるほかはないほど、厳しい状態にあった人々でした。「三十八年も病気にかかっている人」の、

主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。

ということばは、そのような言い伝えにすがりつつ、自分には望みがないことも示しています。そこにいる「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たち」は、みな同じように弱さを抱えた人々ですから、お互いにいたわりあっていると思いたくなりますが、この「三十八年も病気にかかっている人」のことばは、お互いが「最初に入った者」だけが癒されるという言い伝えにすがっている、ライバルであるという厳しい現実を示しています。


 この「三十八年も病気にかかっている人」は初めからこのベテスダの池の回廊に来ていたとは限りませんが、この時までに行き着いた所がこのような所でした。しかも、14節には、

後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

と記されています。
 このことは、この「三十八年も病気にかかっている人」の場合は、その病気になったことの原因が、

 もう罪を犯してはなりません。

と言われている罪にあったということを示しています。ただ、その罪がどのような罪であったかは、ここでも、この後でも、明らかにされてはいません。
 注意したいことは、一般的なこととしては、重い病気にかかったから、あるいは、大きな災害に遭ったから、その人は重い罪を犯しているということはありません。この点については、ルカの福音書13章1節ー4節に記されているイエス・キリストの教えを見てください。すべての病は、人が造り主である神さまに対して罪を犯したことと、実際に、罪を犯していることの結果ですが、私たちも含めて、すべての人が自らの内に罪の性質を宿しており、罪を犯してしまいます。ただ、今は、神さまの一方的なあわれみによって、それぞれの罪に相当する結果を刈り取ることがないようにしていただいているのです。
 もちろん、御子イエス・キリストがその十字架の死によって、ご自身の民の罪を完全に贖ってくださっていますから、私たちイエス・キリストを信じている者たちが、罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰としてのさばきを受けることはありません。
 これらのことを踏まえた上でのことですが、この「三十八年も病気にかかっている人」の場合は、その病気になったことの原因が、この人の罪にありました。
 注目したいことは、ここで、イエス・キリストはこの人の罪を暴くようなことはしておられないということです。
 イエス・キリストは、13節に、

しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

と記されているように、「群衆」がそこにいて、この人が癒されたことに蒼然として、みながこの人に注目している状況で、この人にこの人の罪のことを語ることはありませんでした。後になって、この人が「宮の中で」そこにいる人々の一人であった時に、個人的に語りかけておられます。
 また、イエス・キリストは、ただ、

 もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。

と言われただけで、その罪が何であるかには触れておられません。それは、このように言えば、この人に十分に伝わったからであると考えられます。ということは、この人自身が、これらの苦しみの原因が自分自身の罪にあるということを、少なくとも、何らかの形で感じ取っていたということを意味しています。
 ここで、決定的に大切なことは、イエス・キリストが、このような状態にあった「この人を」お癒しになることこそが安息日になされることにふさわしいとしておられるということです。
 この人は「三十八年も病気にかかっている人」で、言い伝えにすがってベテスダの池の回廊に来ていても、望みはないことを痛感させられている状態にある哀れな人というだけではありませんでした。そのような状態になった原因が、この人自身が犯した罪にあったのです。
 そして、そのことを、この人もどこかで知っていました。そうであれば、この人としては、自分は罪を犯したことの報いを受けているのであるから、自分が最初にこの池に入ることができないことも、罪の報いであると考えるほかはなかったのではないでしょうか。また、そうであれば、この人は、望みがないどころか、絶望的な状態にあったことでしょう。
 イエス・キリストは、このような人をお癒しになることこそが安息日になされることにふさわしいとしておられるのです。
 先ほども引用した14節には、

後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

と記されています。
 ここでは、この人が「宮の中」にいたことが記されています。これは、「ベテスダと呼ばれる池」の回廊で臥せっていたことと対比されます。この時、この人は、神である「」の神殿にいました。もちろん、「」を礼拝するためにそこにいたのです。この人は、自分の力で「」の神殿に来て、「」を礼拝することができるようになりました。
 イエス・キリストが、宮の中でこの人を見つけてくださって、

見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。

と語ってくださったことは、この人の罪の問題を取り上げてくださって導いてくださっていることを意味しています。ただ、「三十八年も病気にかかって」自分では動くこともできない状態にあったことから解放されたというだけのことではないのです。その原因であった罪の問題に触れてくださって、罪の力からも解放してくださったのです。
 ここで、イエス・キリストがこの人に、

 見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。

と語ってくださったことから、この人が罪の力から解放されたとまでは言えないのではないかという見方や疑問もあることでしょう。
 これには二つのことがかかわっています。
 第一に、

 見なさい。あなたは良くなった。

というイエス・キリストのみことばは、一見すると、この人の病気が癒されたことを言っているだけのように思われます。しかし、これまでお話ししてきたように、イエス・キリストはこの人の病気がこの人の罪とかかわっていることを示しておられます。また、この人も、自分が「三十八年も病気にかかっている」状態になったことの原因が、自分自身の犯した罪にあるということを、少なくとも、どこかで知っていました。そうであれば、この人は、

 見なさい。あなたは良くなった。

というイエス・キリストのみことばが、その病気の原因である罪とかかわることとして語られているということを汲み取ることができたはずです。
 第二に、この人は、「三十八年も病気にかかっている」自分のような者を、仰々しい儀式はもとより、祈りさえもなく、

 起きて床を取り上げ、歩きなさい。

という短いことばをもって、即座に、また、完全にお癒しになったイエス・キリストの権威に、言い換えると、イエス・キリストのみことばの権威に、最も現実的に触れています。この、

 もう罪を犯してはなりません。

というイエス・キリストのみことばは、そのような権威があるみことばなのです。このみことばは命令法で語られていますが、イエス・キリストの命令のみことばには、それに従う力をも与えてくださる権威があります。
 同じヨハネの福音書8章1節ー11節には、律法学者とパリサイ人たちが、「姦淫の場で捕らえられた女」をイエス・キリストの御許に連れて来て、イエス・キリストに、

先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。

と問いかけたことが記されています。これに対して、イエス・キリストは、この女性をご覧になることなく、

 あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。

とお答えになりました。すると、そこにいた人々は、年長者たちから順に去って行き、イエス・キリストとその女性だけが残されました。最後に、イエス・キリストは、

 わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。

と言われて、この女性を送り出されました。
 この記事はこれで終っています。それ以上のことは記すまでもないことだからです。当然、この女性はそれまでの罪に縛られた生活から解放され、イエス・キリストを主とする歩みを始めたと考えられます。この「三十八年も病気にかかっている人」の場合も、

 これからは、決して罪を犯してはなりません。

というみことばは、単なる戒めではなく、その罪の生活から離れる力をも与えてくださる権威ある戒めです。
 いずれにしても、鍵となっていることは、イエス・キリストがこの「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになることこそが安息日になされることにふさわしいとされたことです。言い換えると、この人の癒しが、ただ身体的な病気の癒しで終っていないで、その病気とそれがもたらした苦しみの原因である罪の赦しと、罪の生活からの解放を伴っていたことが、安息日になされることにふさわしいことであったのです。
 このことは、この「三十八年も病気にかかっている人」や先ほどの女性が、これまでの罪に縛られていた生活から解放されたことを意味していますが、二人がもはや何の罪をも犯すことがなくなったということではありません。ヨハネの手紙第一・1章8節ー10節に、

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

と記されているように、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いにあずかって、罪を赦されたばかりでなく、罪の力から解放されている私たち「」の民の内には、なおも罪の性質が残っており、私たちは罪を犯します。しかし、その私たちが神さまの一方的な愛と恵みによって神の子どもとしていただいている者であることは揺るぐことはありません。それは私たちの善さや力によるのではなく、神さまの愛と恵みの確かさと、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの完全さによることです。それで、私たちは罪を犯した時には、

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

という神さまのみことばを信じて、その都度、神さまにその罪を告白して、その罪を赦していただきますし、「すべての不義からきよめて」いただきます。
 それは、「三十八年も病気にかかって」いて、「ベテスダと呼ばれる池」の回廊で臥せっていたけれども、御子イエス・キリストによって癒され、自分の足で「」の神殿に行って「」を礼拝するようになった人も、先ほどの女性も同じです。

 実は、この人については、一般的には、厳しい見方がなされています。
 具体的に言うと、第一に、ヨハネの福音書5章10節ー11節には、

そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」

と記されています。
 この人は、ユダヤ人の指導者たちに、

 今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない

と言われたとき、自分を守るために、

 私を治してくださった方が、「床を取り上げて歩け」と私に言われたのです。

と答えて、その責任をイエス・キリストに押しつけているというのです。
 けれども、先ほどお話ししたように、この人からすると、「三十八年も病気にかかっている」自分のような者を、仰々しい儀式はもとより、祈りさえもなく、

 起きて床を取り上げ、歩きなさい。

という短いことばをもって、即座に、また、完全にお癒しになった方と、そのみことばの権威に最も現実的に触れています。この人にとっては、

 起きて床を取り上げ、歩きなさい。

というみことばは、圧倒的な権威に裏付けられたみことばであり、それに従うことがすべてでした。
 それで、この人は自分を守ろうとしたというより、

 起きて床を取り上げ、歩きなさい。

というみことばをもって、自分を癒してくださったイエス・キリストの権威を証ししようとしていたと考えることができます。
 第二に、14節ー16節には、

後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

と記されています。
 この人が非難されているのは、自分を癒してくださったイエス・キリストの恩を忘れて、わざわざユダヤ人の指導者たちに、

 自分を治してくれたのはイエスだ

と告げに行ったので、イエス・キリストがユダヤ人の指導者たちから迫害を受けることになってしまったというのです。あるいは、そのためにイエス・キリストが迫害を受けるようになることにも思い至らない愚かなことをしたというのです。
 このことについても、この「三十八年も病気にかかって」いた人が、イエス・キリストの権威あるみことばによって、即座に、また、完全に癒されたばかりか、同じ権威あるみことばによって罪の赦しを保証していただき、罪の生活から解放されて生きる力を与えられたことを考えてしまいます。この人が、イエス・キリストのことを、これほどの権威をもっておられる方であれば、当然、ユダヤ人の指導者たちはその権威を認めるはずであると考えたであろうことは十分想像できます。
 ヨハネの福音書9章1節ー41節には、イエス・キリストが、やはり安息日に、「生まれたときから目の見えない人」をお癒しになったことが記されています。
 この目を開けてもらった人も、初めのうちは、自分を癒してくださった方がイエス・キリストであることを知りませんでした。パリサイ人たちは、この人に、

 その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない

と言いました。しかし、この人は、イエス・キリストのことは知りませんでしたが、

 あの方は預言者です

と答えています。この人がさらに、ユダヤ人の指導者たちから問い詰められた時のことが、26節ー27節に、

彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

と記されています。
 この一連の出来事のことを読んでいる私たちには、パリサイ人たちやユダヤ人の指導者たちがイエス・キリストを否定していることは明白なのですが、この目を開けてもらった人は、

 あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。

と言っています。このことは、この人が、イエス・キリストの権威は、当然、すべての人が認めるはずだと考えている、というより信じきっていることを示しています。
 これが、実際に、イエス・キリストのメシアとしての権威に現実的に触れた人の反応でした。
 同じことは、5章2節ー18節に記されている、「三十八年も病気にかかって」いて、イエス・キリストの権威あるみことばによって、即座に、また、完全に癒されたばかりか、同じ権威あるみことばによって罪の赦しを保証していただき、罪の生活から解放されて生きる力を与えられた人にも、そのまま当てはまるのではないでしょうか。
 この人が、「」の神殿でイエス・キリストに出会ってから、わざわざユダヤ人の指導者たちに、

 自分を治してくれたのはイエスだ

と告げに行ったのは、そのためにイエス・キリストが迫害を受けるようになることにも思い至らない愚かなことであったというより、当然、ユダヤ人の指導者たちもイエス・キリストの権威を認めるはずだと思ってのことであったと考えることができます。
 確かに、イエス・キリストはそのことによって迫害を受けることになりました。しかし、イエス・キリストはそのことで迷惑をこうむったとお考えになったのではありません。むしろ、そのことを捕らえて、つまり、この人がしたことを生かして、ユダヤ人の指導者たちに、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

と証ししておられます。このことがより激しい迫害を招くことをご存知であられてのことです。
 神の御子であられるイエス・キリストは、「」の神殿でこの人を見つけて、

見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。

と語られることの結果がどうなるかを予測できなかったわけではありません。それでも、この人を見つけて、このように語られたのは、この人を罪の力から解放して、この人が自由に「」を礼拝することができるようにしてくださるためでした。そして、そのことこそが、安息日になされることにふさわしいことだったのです。


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