黙示録講解

(第387回)


説教日:2019年7月14日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(140)


 今は、黙示録2章27節前半には、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧す。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束のみことばとの関連で、19章15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

というみことばについてお話ししています。
 今日も、これまでのお話の経緯を省略して、これまで4回にわたってお話ししてきたヨハネの福音書5章2節ー18節に記されているみことばについてのお話を続けます。
 5章2節ー18節には、

エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。【本節欠如】そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

と記されています。
 これまでお話ししたことを振り返っておきますと、2節ー9節には、イエス・キリストが、安息日に、エルサレムにある「ベテスダと呼ばれる池」の回廊に横たわっていた「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことが記されています。
 安息日に関するユダヤ教の教師であるラビたちの規定では、それがいのちにかかわる病気でないかぎり、安息日に医療行為をしてはならないとされていました。それで、イエス・キリストが安息日に医療行為をしたことを知ったユダヤ人の指導者たちは、イエス・キリストを迫害しました。
 これに対して、17節に記されているように、イエス・キリストはユダヤ人の指導者たちに、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

とお答えになりました。
 これを受けて、続く18節には、ユダヤ人の指導者たちがイエス・キリストに対する迫害をより激しくしたことが記されています。その理由として、

イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである

と記されています。
 確かに、みことばは安息日を破ることも、自分を神と等しくすることも死に値する罪であることを示しています。
 しかし、イエス・キリストは安息日に関する「」の戒めについてのラビたちの解釈に基づく規定に反していただけです。イエス・キリストは、一貫して、安息日に人々の病を癒すことは、安息日に関する「」の戒めの本来の意味と精神に沿っていることを示しておられます。すでにお話ししたことですので詳しい説明は省きますが、17節に記されている、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

という教えも、そのような主旨の教えです。
 また、イエス・キリストが「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」ということも、神さまを一位一体の神としているユダヤ人の指導者たちが理解していることと、新約聖書の啓示の光のもとで、三位一体論的にイエス・キリストのことを理解している私たちが理解していることには違いがあります。


 被造物である人間や御使いが自分を神と等しくすることは、神さまの聖さを冒すことです。それで、先々主日と先主日には、神さまの聖さについてお話ししました。
 神さまの聖さの本質は、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまが、ご自身がお造りになったものと「絶対的に」区別される方であるということにあります。
 このことの根底にあるのは、神さまが、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主であられるということです。
 神さまは、その存在において無限、永遠、不変であるだけでなく、その属性の一つ一つにおいても無限、永遠、不変であられます。具体的には、神さまは「知恵」において無限、永遠、不変であり、「力」において無限、永遠、不変であり、「聖性」において無限、永遠、不変であり、「義」において無限、永遠、不変であり、「慈しみ」において無限、永遠、不変であり、「まこと」において無限、永遠、不変であられます。また、神さまの存在と一つ一つの属性の栄光も無限、永遠、不変です。
 これに対して、神さまによって造られたものは、すべて、人も、御使いも、壮大な宇宙も、あらゆる点において、有限であり時間的であり、経過していくものです。神さまがお造りになったこの世界は時間的な世界であり、時間的に経過していくものですし、空間的に広がっている世界です。この世界の中にあるものはすべて、コロサイ人への手紙1章16節のことばで言うと、「天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも」時間的に経過していくものであり、空間的に、ある一定の位置を占めています。今あるものは過去や未来にはなく、「ここ」にあるものは「あそこ」にはありません。このように、御使いたちや人間も含めて、この世界とその中のすべてのものには、被造物としての限界があります。
 それで、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまと、あらゆる点において、有限であり時間的であり、経過していくすべての被造物は「絶対的に」区別されます。
 このように、神さまがあらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主であられることと、それゆえに、神さまは神さまによって造られたこの世界とその中にあるすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということが、神さまの聖さの本質です。
 それで、人であれ御使いであれ、一介の被造物でしかないものが、自分を神と等しいものであるとすること、あるいは、人が何らかの被造物を神とすることは、神さまの聖さを冒すことです。ユダヤ人の指導者たちが、イエス・キリストは「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」としていることは、この意味で、神さまの聖さを冒していると考えているわけです。

 先ほど、イエス・キリストが「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」ということも、神さまを一位一体の神としているユダヤ人の指導者たちが理解していることと、新約聖書の啓示の光のもとで、三位一体論的にイエス・キリストのことを理解している私たちが理解していることには違いがあると言いました。
 このことを理解するために、これまでお話ししたことを踏まえて、改めて、三位一体論についてお話ししたいと思います。ここで、特に、お話ししたいことは、三位一体論においては「三」と「一」という「数」を神さまに当てはめているという問題についてです。
 まず、お話しすることは、「数」がどのようなものであるかということです。
 そのために、改めて確認しておきたいことは、私たち人間の限界です。
 私たち人間は神さまによって造られたものであり、神さまによって造られたこの世界に属しています。神さまはこの世界を時間的であり、時間的に経過していく世界として、また、空間的に広がっている世界としてお造りになりました。そのために、私たち人間は、時間的に経過していくものであり、空間的に、ある一定の位置を占めています。私たちは「今ここに」いるのであって、同時に、過去や未来にいることはできませんし、ほかの所にいることもできません。
 私たち人間はそのような被造物としての限界の中にあります。それで、私たちは存在においても、思考においても、想像においても、時間や空間を超えることができません。私たちは「今」を超えて過去や未来を考えることができますが、過去も未来も時間の枠の中にあります。「ここ」を超えて、とてつもなく遠い「宇宙の果て」を考える、というより、想像することができますが、その「宇宙の果て」も、宇宙全体も空間の枠の中にあります。これも想像上のことですが、いわゆる「タイムマシン」で過去や未来に行くとしても、時間の枠の中のことですし、「ワープ」によって、一気に宇宙の果てに行くとしても、空間の枠の中のことです。
 また、私たちが考える無限は空間的にどこまでも広がっていることであり、私たちが考える永遠は時間的にどこまでも続いていることです。その意味で、量的なものです。私には数学的な才能はないのですが、数字の「8」の字を横にしたような「無限大」も量的なものです。
 このような私たちは、どんなに思考力や想像力を働かせても、時間や空間を超えるということがどのようなことであるかを経験することはもとより、知ることも、想像することもできません。
 けれども、この世界とその中のすべてのものをお造りになった神さまは、この時間的で空間的な世界の枠の中におられる方ではありません。それで、神さまが無限、永遠、不変の方であるというときの「無限」、神さまに当てはまる「無限」は、空間的にどこまでも広がっている無限ではありませんし、神さまに当てはまる「永遠」は、時間的にどこまでも続いている永遠ではありません。
 神さまに当てはまる「無限」や神さまに当てはまる「永遠」については、私たちは、ただ、私たちが考える量的な無限や量的な永遠のようなものではないというように、否定的にしか言うことができません。せいぜい、私たちが考える量的な無限や量的な永遠をはるかに超えていると言うことができるだけです。ただ、そうは言っても、それを想像することさえできません。
 このように、私たちには、また、御使いたちにも、神さまに当てはまる「無限」や、神さまに当てはまる「永遠」がどのようなことなのかを知ることができません。
 このような被造物としての限界の中にある私たちには「数」の概念があり、私たちは物の数を数えます。私たちがもっている「数」の概念は空間的な概念です。どういうことかと言うと、私たちが存在しているものを「一つ」「二つ」「三つ」・・・と数えることができるのは、それらが空間的に広がっていて、区切られているものである場合です。空気は空間的に広がっているものですが、私たちは空気を数えることができません。ただ、「この部屋の空気」というように区切ると数えることができるようになります。そして、「この部屋の空気」を「別の部屋の空気」と区別することができるようになり、それらを数えることができます。
 このように、私たちが数えることができるものは、空間的に広がっていて、区切られているものです。また、それで、限界があるものです。「ここ」にあれば、「あそこ」にはないものです。「今」あれば、過去にはもはやなく、未来にはいまだないものです。
 私たちが「神さまはお一人である」と言うとき、私たちは自分の思いの中で、神さまを区切ってしまっています。けれども、無限、永遠、不変の方である神さまは、空間的に広がっておられる方ではないし、いかなる意味でも限界がない方ですから、神さまを区切ることはできません。それで、厳密に言うと、あらゆる点において無限、永遠、不変の神さまには、あらゆる点において被造物としての限界の中にある私たちがもっている「数」の概念が当てはまりません。それは、あくまでも、私たちが被造物としての限界の中にあることによっています。
 ですから、私たちはこのような被造物としての限界の中にあるものとして神さまのことを考えていますし、このような限界の中にあるものとしてしか神さまのことを考えることができません。また、神さまはこのような被造物としての限界の中にある私たちに分かるように、私たちに合わせてご自身を啓示してくださっています。
 そして、三位一体の神さまについて、神のみことばである聖書は全体として三つのことを示しています。
 第一に、神さまの実体あるいは本質は一つであるということです。この意味で、神さまは唯一の神です。唯一の神さまがおられるだけであって他に神はありません。
 第二に、この神さまは、御父と御子と御霊の三つの位格においてあるということです。御父と御子と御霊は、その本質と栄光において等しい神です。御父はまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられます。御子はまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられます。そして、御霊はまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられます。
 第三に、御父、御子、御霊は、お互いに区別される方であるということです。ですから、同じ神がある時には御父として現れ、別の時には御子として現れ、また、さらに別の時には御霊として現れるということではありません。
 このように、まとめられる三位一体の神さまについての理解において、私たちは空間的に広がっていて、区切られているものに当てはまる「一」と「三」という「数」を、存在において無限、永遠、不変の方である神さまに当てはめています。その意味で、無理なことをしているのです。それは、被造物としての限界の中にある私たちには、このようにしてしか、みことばをとおしてご自身を啓示してくださっている神さまを理解することができないからです。

 これら三つのことについて、もう少しお話ししたいと思います。
 第一の、神さまは唯一の神であられ、唯一の神さまがおられるだけであって他に神はいないということは、改めて説明するまでもないことです。
 第二の、この唯一の神さまは、御父と御子と御霊の三つの位格においてあり、御父と御子と御霊は、その本質と栄光において等しい神であられるということと、第三の、御父、御子、御霊は、お互いに区別される方であるということは、初期の教会の歴史の中で論争があったことです。その論争の中心は、御子がまことの神であられるかどうかという点にありました。
 御子がまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられるということは、みことばのいろいろな個所から論証することができます。代表的なこととして、すでに繰り返しお話ししてきた、二つのことを取り上げておきましょう。
 一つは、ヨハネの福音書1章1節ー2節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されていることです。
 まず、1節で、

 初めにことばがあった。

と言われているときの「初めに」は、3節に、

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されていることから分かるように、創世記1章1節に、

 はじめに神が天と地を創造された。

と記されているときの「はじめに」に相当していて、天地創造の御業の「初めに」に当たります。今日、これまでお話ししてきたことから分かりますが、時間はこの造られた世界の時間であって、この時間的な世界が造られた時から始まっています。また、

 初めにことばがあった。

と言われているときの「あった」は、未完了時制で表されていて過去における継続を表しています。つまり、天地創造の御業の「初め」の時点において、「ことば」は継続して存在しておられたということです。このことは、御子がこの時間的な世界を超えた方、すなわち、永遠に存在される方であるということを示しています。
 さらに、続く、

 ことばは神とともにあった。

というみことばの「神とともに」ということば(プロス・トン・セオン)は、「ことば」すなわち御子が「」の方を向いているという意味合いを伝えていて、御子が御父との愛の交わりのうちにおられることを示しています。
 このことは、御父と御子が位格的に区別される方であることを示しています。
 御子が御父との愛の交わりのうちにおられるということは、この「神とともに」(プロス・トン・セオン)あったということばだけから結論することができないという見方もあります。そうであったとしても、ヨハネの福音書1章1節ー18節は、ヨハネの福音書のプロローグ(序文)に当たりますが、その最後の18節に記されている、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

というみことばにおいて、御子のことが「父のふところにおられるひとり子の神」と言われていることに明確に示されています。ここで「父のふところにおられる」ということは、父なる神さまの愛に包まれていることを意味しています。また、ここでは、御子のことが「ひとり子の神」と言われていて、御子が「」であられることが示されています。
 1節で、

 ことばは神とともにあった。

と言われていることは、大切なことであるので、2節において、さらに、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われています。これによって、御子は創造の御業の「初め」の時点において継続して、すなわち、永遠に御父との愛の交わりのうちにおられることが示されています。このことは、1節において、

 ことばは神とともにあった

と言われていることだけからも汲み取ることができます。というのは、1節冒頭で、

 初めにことばがあった。

と言われているときの「初めに」は、続いて、

 ことばは神とともにあった。

と言われていることにもかかると考えられるからです。
 このようなことが示された上で、1節では、

 ことばは神であった。

と言われています。これには、少し難しい問題がかかわっていますが、結論的なことを言いますと、この言い方によって、「ことば」すなわち御子を「」すなわち父なる神さまと区別しつつ、なおも、「ことば」すなわち御子がまことの神であられることを示しています。
 改めて、注目しておきたいのは、

 ことばは神とともにあった。

と言われていることです。これは、先ほどお話ししたように、「ことば」すなわち御子が永遠に御父との愛の交わりのうちにおられることを示しています。ヨハネの手紙第一・4章16節に、

 神は愛です。

と記されているように、神さまの本質的な特質は愛です。しかし、もし「ことば」すなわち御子がまことの神ではなかったとしたら、それゆえに、神が一位一体の神であるとしたら、神には無限に豊かな愛の性質があるけれども、その無限に豊かな愛をそのまま受けとめて、同じく無限の愛をもって応えてくれる存在がいないことになってしまいます。
 さらに、神さまはその属性においても無限、永遠、不変の栄光に満ちておられます。それで、神さまの愛も無限、永遠、不変の栄光に満ちています。しかし、一位一体の神は、その無限、永遠、不変の栄光に満ちた愛を「そのまま」表現することはできません。もし神さまが被造物に、ご自身の無限、永遠、不変の栄光に満ちた愛を「そのまま」表現されたら、被造物はその無限、永遠、不変の栄光によってたちまちのうちに焼き尽くされてしまいます。
 また、一位一体の神は自らの本質的な特質である愛を現すために、被造物が必要であるということになります。そうすると、神も被造物を必要としていて、被造物に依存しているということになってしまいます。

 御子がまことの神であられることについて、もう一つ、神学的なことをお話ししておきましょう。
 私たちの罪はすべて、基本的には、私たちを神のかたちとしてお造りになった神さまに対する罪です。そして、神さまは無限、永遠、不変の栄光の主であられます。私たち人間は、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対して罪を犯したし、犯しています。それで、私たち罪の深さ、あるいは、重さは無限です。そのような私たちの罪を、神さまの義の基準に照らして、きちんと償うためには、無限の償いが必要です。ですから、有限な存在である被造物は、たとえそれが最も高い御使いであっても、私たちの罪の一つをも贖うことができません。
 このように、私たちの罪が無限に深く、無限に重いものであるので、それは永遠の刑罰に価するのです。私たちも、悪霊たちも、その罪を永遠に償いきれません。神さまはそのような私たちの罪を贖ってくださることをよしとされ、そのことを福音のみことばを通して約束してくださっています。神さまはそのために、ご自身の御子、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストを私たちの贖い主としてお遣わしになりました。
 御子イエス・キリストはまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、私たちご自身の民の贖い主となられるために、人の性質を取って来てくださいました。御子イエス・キリストがまことの神であることをやめて、人に変化したということではありません。まことの神であられる御子イエス・キリストが、今から2千年前に、新たに、まことの人としての性質を取って来てくださったということです。そのまことの人としての性質とは、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになった時の、人が神である「」に罪を犯す前の人の性質です。
 イエス・キリストがまことの人としての性質を取って来てくださったのは、私たちが受けなければならない、私たちの罪に対する刑罰を、私たちに代わって受けてくださるためです。イエス・キリストは罪を除いて、私たちと同じようになられ、私たちと一つとなってくださり、私たちの代表者として、私たちが受けなければならない私たちの罪に対する刑罰をすべて、余すところなく、私たちに代わって受けてくださいました。ヘブル人への手紙2章14節ー15節には、

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

と記されています。
 先ほど、最も高い御使いでも、無限の深さと重さをもっている私たちの罪の一つをも贖うことはできないということをお話ししました。それだけではなく、御使いたちには「血と肉」がありませんので、私たちと同じようになって、私たちと一つとなって、私たちの代表者となることはできません。
 また、御子イエス・キリストによる罪の贖いの完全さについて、同じヘブル人への手紙の9章26節には、

しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。

と記されており、10章10節には、

このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。

と記されています。また、14節には、

 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成された

と記されています。
 これらのみことばに出てくる「ただ一度だけ」とか「一つのささげ物によって」ということは、それが完全なものなので、繰り返される必要がないということを意味しています。このように、これらのみことばは、私たちの罪が神さまの御前において、完全に清算され、償われていることを示しています。
 御子イエス・キリストは十字架において、ただ人が加えることができる肉体的な苦しみを味わわれただけではありません。十字架刑は、人類が考え出した最も残酷な処刑の仕方の一つであると言われています。しかし、イエス・キリストが味わわれた苦しみはそれ以上のものです。イエス・キリストは父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰のすべてを味わわれました。それは、地獄の刑罰に相当するもので、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りが余すところなくイエス・キリストに注がれたということを意味しています。これがどのようなことであるかは、私たちの想像を絶することです。
 それで、福音のみことばは、私たちの罪に対する刑罰は、すでにイエス・キリストの十字架において執行されて終わっているとあかししています。私たちは、もはや、私たちの罪に対する刑罰としてのさばきを受けることはありません。
 御子イエス・キリストがまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられることは、この他のみことばからも論証することができます。いずれにしましても、みことばは、全体として、神さまが三位一体の神さまであることを示しています。それで、私たちは、私たち自身の限界をわきまえつつのことですが、空間的に広がっていて、区切られているものに当てはまる「一」と「三」という「数」を、存在において無限、永遠、不変の方である神さまに当てはめています。

 今お話ししているヨハネの福音書5章では18節に、

そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

と記されています。イエス・キリストが、

 神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた

と言われていることは、一位一体の神を前提としているユダヤ人の指導者たちには、イエス・キリストが神さまの聖さを冒して、神を冒 しているとしか思えないということを踏まえています。これに対して、イエス・キリストは続く19節以下において、ご自身と父なる神さまとの関係を示しておられます。


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