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説教日:2019年7月7日 |
先主日には、イエス・キリストが「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」ということを理解するために、神さまの聖さについてお話ししました。 まず、いくつかのことを補足しながら、振り返っておきます。 神さまの聖さの本質は、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまは、ご自身がお造りになったものと「絶対的に」区別される方であるということにあります。 このことの根底にあるのは、神さまが、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主であられるということです。 言い換えると、その存在においても、「知恵、力、聖性、義、慈しみ、まこと」(ウェストミンスター小教理問答問4・松谷訳)などの、一つ一つの属性においても、無限、永遠、不変の方であられ、その存在と一つ一つの属性の栄光も無限、永遠、不変であるということです。 これに対して、神さまによって造られたものは、それが最も高く優れた御使いであっても、神のかたちとして造られている人であっても、また、観測できる範囲だけでも137億光年の彼方に広がっており、実際には、その光が地球に到達するまでの137億年の間にも膨張しているので、470億光年の彼方に広がっていると考えられている大宇宙であっても、あらゆる点において、有限であり時間的であり、経過していくものです。 神さまがお造りになったこの世界は、時間的な世界であり、時間的に経過していくものですし、空間的に広がっている世界です。この世界の中にあるものはすべて、御使いたちや私たち人間も含めて、時間的に経過していくものであり、空間的にある一定の位置を占めています。今あるものは過去や未来にはなく、「ここ」にあるものは「あそこ」にはありません。 御使いたちは霊的な存在であり、物質的な面がありませんので、御使いたちには物質的、空間的な広がりはありません。そうではあっても、同じ御使いが、同時に、いくつかの所にいることはありませんし、時間的に経過しないこともありません。先主日にお話ししましたように、御使いたちも、かつて知らなかったことを知るようになることがあります。それによって、神である「主」とそのご計画をより豊かに知るようになることがあります。その意味での、人格的な成長があります。 このように、御使いたちや人間も含めて、この世界とその中のすべてのものには、被造物としての限界があります。それで、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまと、神さまによって造られたこの世界とその中にあるすべてのものは「絶対的に」区別されます。このことが、神さまの聖さの本質です。 このことと関連して、イザヤ書66章1節ー2節に記されている「主」のみことばを見てみましょう。そこには、 主はこう言われる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 あなたがたがわたしのために建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしの安息の場は、 いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造った。 それで、これらすべては存在するのだ。 ――主のことば―― わたしが目を留める者、それは、 貧しい者、霊の砕かれた者、 わたしのことばにおののく者だ。 と記されています。 「主」が言われる、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 というみことばは、「主」がご自身のことを人になぞらえて(擬人化して)私たちに示してくださっているものです。この場合は、王が王座に着座している様子を想像してみてください。「主」は天に座しておられ、その足を地に置いておられるというのです。言うまでもなく、「足台」は、王座に座る王がその足を乗せる台のことです。「地」が「主」の御臨在にかかわる「足台」であると言われていることは、旧約聖書ではここだけです(新約聖書ではマタイの福音書5章35節に出てきます)。その他、歴代誌第一・28章2節、詩篇99篇5節、132篇7節、イザヤ書60章13節、哀歌2章1節では、「主」の神殿あるいはそこに置かれている契約の箱が、「主」の「足台」であると言われています(哀歌2章1節ではエルサレムのことであるという理解もあります)。 これらの個所で、「地」や「主」の神殿あるいはそこに置かれている契約の箱が、「主」の「足台」であると言われていることは、「主」の御臨在が人の住んでいるこの「地」を超えていること、すなわち、「主」は「天」を「王座」としてご臨在しておられることを踏まえています。 ここ(イザヤ書66章1節)には「天」と「地」の組み合せがあります。これは、創世記1章1節に記されている、 はじめに神が天と地を創造された。 というみことばに出てくる「天」と「地」の組み合せに相当するもので、これによって、この造られた世界とその中に存在するすべてのものを表しています。それで、この「天と地」ということばは、今日、私たちが使っている「宇宙」に当たります。ただ、私たちが使っている「宇宙」ということばは、物質的な宇宙を表していますが、 はじめに神が天と地を創造された。 というみことばに出てくる「天と地」には、物質的な宇宙だけでなく、御使いたちのように物質的な面をもっていないので、目で見ることができない存在も含まれています。このことから、 これらすべては、わたしの手が造った。 それで、これらすべては存在するのだ。 というみことばは、 はじめに神が天と地を創造された。 というみことばに示されていることに相当することを示していることが分かります。 これらのことから、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 という「主」のみことばは、見えるものも見えないものも含めて、この宇宙のすべてのものをお造りになった「主」が、すべてのものを治めてておられる王として、そこ(この宇宙全体)にご臨在しておられることを示しています。 「主」が、すべてのものを治めてておられる王として、ご臨在しておられるということは、「主」がお造りになったすべてのものを真実に支えてくださり、保ってくださり、導いてくださっているということを意味しています。それで、すべてのものは、それをお造りになった「主」の知恵と力や、それを支え導いてくださっている「主」の真実さと慈しみに満ちている栄光を現しています。 詩篇19篇1節には、 天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されており、119篇89節ー91節には、 主よあなたのみことばは とこしえから 天において定まっています。 あなたの真実は代々に至ります。 あなたが地を据えられたので 地は堅く立っています。 と記されています。また、104篇24節には、 主よあなたのみわざはなんと多いことでしょう。 あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。 地はあなたのもので満ちています。 と記されています。 イザヤ書66章1節では、これに続いて、「主」は、 あなたがたがわたしのために建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしの安息の場は、 いったいどこにあるのか。 と問いかけておられます。 ここでは、「主」の契約の民が建てる「主」の神殿のことが問題となっています。そして、その「主」の神殿が「わたしの安息の場」と呼ばれています。 このことの意味を考えるために、かつて、ダビデの子ソロモンが、エルサレムのシオンの丘に壮大な「主」の神殿を建設した時のことを記している列王記第一・8章に記されていることを見てみましょう。 「主」の神殿が完成し、契約の箱を神殿の聖所の奥の至聖所に運び入れた祭司たちが聖所から出てきた時のことを記している10節ー11節には、 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。 と記されています。 ここで「主の宮に満ちた」と言われている「雲」は、出エジプトの時代に、モーセをとおしてイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださった「主」がイスラエルの民の間にご臨在してくださっていることを表示する「雲の柱」のことです。出エジプト記13章21節ー22節には、 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。 と記されています。この「主」の御臨在を表示する「雲の柱」(夜には、その中に火があって「火の柱」となっていました)は、イスラエルの民がエジプトから贖い出された時から、イスラエルの民とともにありました。 そして、出エジプト記25章9節ー10節に記されている、 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。 という「主」がモーセに命じられたみことばに従って、「主」のための聖所としての幕屋が造られた時から、「雲の柱」によって表示された「主」の御臨在はその聖所の奥の至聖所に置かれた契約の箱の上蓋である「宥めの蓋」の両端に造られたケルビムの間にありました。同じ25章の22節には、 わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。 という「主」がモーセに語られたみことばが記されています。 ところが、「主」がイスラエルの民の間にご臨在してくださるための聖所は、そこに「主」の栄光の御臨在があることを表示しながら、「主」の栄光の御臨在の聖さを守っているケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。「主」の栄光の御臨在は聖所の奥の至聖所にありましたが、その前の聖所と至聖所の間もケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。これは、罪によって汚れた者が、そのままで、「主」の栄光の御臨在の御前に近づいてはならないということを示していました。 ここでは、神のかたちとして造られている人が「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、「主」の聖さを冒すものとなってしまったことが問題となっています。 この聖所の前には祭壇があり、そこではさまざまな意味をもったいけにえがささげられました。そのことは、基本的に、罪の贖いがなされることによって「主」の栄光の御臨在の御前に近づくことができるということを示していました。 特に、年に一度、大贖罪の日には、大祭司が「自分のために、罪のきよめのささげ物である雄牛を屠」り、「民のために、罪のきよめのささげ物である雄やぎを屠り」、それぞれの血をもって「主」の御臨在のある至聖所に入り、その血を「『宥めの蓋』の上と『宥めの蓋』の前に」振りまきました。このことについてヘブル人への手紙10章1節ー4節には、 律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。 と記されています。 また、アロンの子たちである祭司たちは、毎日、聖所に入って「主」に仕えていましたが、彼らは「毎日絶やすことなく」「穀物のささげ物や注ぎのささげ物を・・・添えて」「朝、一匹の雄の子羊を献げ、夕暮れに、もう一匹の雄の子羊を献げ」るよう命じられていました(出エジプト記29章38節ー40節)。この献げものについて29章42節ー43節には、 これは、主の前、会見の天幕の入り口での、あなたがたの代々にわたる常供の全焼のささげ物である。その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る。その場所でわたしはイスラエルの子らと会う。そこは、わたしの栄光によって聖なるものとされる。 と記されています。これが「全焼のささげ物である」と言われていることは、このささげ物が罪の贖いにかかわっていることを示しています。 これらのことについて、ヘブル人への手紙10章11節ー14節には、 さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 と記されています。 確かに、御子イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださった時に、ケルビムを織り出した垂れ幕による仕切りが取り除かれました。マルコの福音書15章37節ー38節に、 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 と記されているとおりです。 このことを受けて、ヘブル人への手紙10章19節ー22節には、 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。 と記されています。 古い契約の下で「主」が備えてくださった地上の幕屋としての聖所は、やがて、「主」が贖い主として遣わしてくださる御子イエス・キリストを指し示す「地上的なひな型」でした。それで、古い契約のもとでは、地上の幕屋で仕えた大祭司と祭司たちも、また、モーセであっても、いつでも、自由に「主」の栄光の御臨在のある至聖所にはいることはできませんでした。 しかし、 私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。 と言われています。この場合の「聖所」は古い契約のもとに備えられた地上の聖所のことではなく、それが「地上的なひな型」として指し示していた、「天上にある本体」すなわち「主」の栄光の御臨在のある「天そのもの」(ヘブル人への手紙9章23節ー24節)のことです。 そこにおいては、私たち「主」の契約の民は「大胆に」「主」の栄光の御臨在の御許に近づいて、「主」との愛にあるいのちの交わりに生きることができます。これまでお話ししてきたことから分かりますが、このことにおいて、神である「主」が天地創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖なるものとしてくださったことが目的としていたことが私たちの間で実現しています。このようなことから、「主」がご臨在される聖所は、「主」の「安息の場」と呼ばれるのです。もちろん、その完全な実現は終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、新しい天と新しい地を再創造されるのを待たなければなりません。 モーセが幕屋を造り終えた時のことを記している出エジプト記40章33節後半ー35節には、 こうしてモーセはその仕事を終えた。そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。 と記されています。ここに出てくる「会見の天幕」と「幕屋」は同じものです。「会見の天幕」という呼び名は、先ほど引用した25章22節において、「主」がモーセに「わたしはそこであなたと会見し」と約束してくださっていることを反映しています。 ここに記されていることは、先ほど引用した、ソロモンが建てた神殿が完成した時のことを記している、列王記第一・8章10節ー11節に、 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。 と記されていることと対応しています。 その「主」の御臨在は、出エジプトの時代以来、幕屋としての「主」の聖所にありましたが、イスラエルが約束の地であるカナンに定住した後には、ダビデの子ソロモンが建てた「主」の神殿の聖所にあるようになりました。 そのようにして、「主の栄光が主の宮に満ちた」時に、ソロモンが「主」に祈ったことが列王記第一・8章22節ー53節に記されています。引用はしませんが、その祈りの最初の部分である23節ー26節において、ソロモンは、「主」がダビデに与えてくださった契約を守ってくださって、この神殿建設が成し遂げられたことを告白し、さらに、「主」がダビデに与えてくださった契約に約束されている「イスラエルの王座に就く」ダビデの子孫がいつまでも「主」の御前に存続するように祈っています。これは、サムエル記第二・7章12節ー13節に記されている、「主」がダビデに与えられた契約の約束を受けています。ソロモンは、「主」がダビデに与えられた契約の約束を実現してくださるようにと祈り求めているのです。 今お話ししていることとのかかわりで特に注目したいのは、このように祈ったソロモンが、続く、27節において、 それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。 と告白しているということです。 ここでソロモンが、 実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。 と告白しているときの「天」と「天の天」の区別については、はっきりしていませんが、一般的には「天の天」は「天」の最上級で「最も高い天」あるいは「天の最も高い所」を表していると考えられています。初めに出てくる「天」が、 神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。 と言われているときの「地」と対比されているとすると、この初めに出てくる「天」は物理的な「天」で、さまざまな天体がある「天」のことであると考えられます。そうすると、「天の天」は、神である「主」がご臨在される所としての「天」、その意味で「最も高い天」のことであると考えられます。 いずれにしても、神である「主」ご自身は、「主」がご臨在される「最も高い天」あるいは「天の最も高い所」に収まってしまう方ではありません。神である「主」ご自身は無限、永遠、不変の栄光の主であられ、「天も、天の天も」超えた方です。 ですから、「主」が「最も高い天」あるいは「天の最も高い所」にご臨在されるということは、これまでお話ししてきた三位一体論的には、神である「主」が御子によって、また、御子にあって、その無限、永遠、不変の栄光を隠し、限りなく身を低くされて、「最も高い天」あるいは「天の最も高い所」にご臨在されるということであるということを意味しています。 そして、先ほどお話ししたように、私たち「主」の契約の民は、今すでに、「イエスの血によって大胆に聖所に入ることができます」と言われていました。この場合の「聖所」とは、「主」がご臨在される「最も高い天」あるいは「天の最も高い所」のことです。 また、私たちが「主の祈り」において、 天にいます私たちの父よ。 と祈るときの「天」も、この「最も高い天」あるいは「天の最も高い所」のことであると考えられます。 |
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