黙示録講解

(第385回)


説教日:2019年6月30日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(138)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧す。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束のみことばについてのお話を続けます。今は、このみことばとの関連で、19章15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

というみことばについてお話ししています。
 今日も、これまでお話ししてきたことの経緯は省略して、前回と前々回お話ししたヨハネの福音書5章2節ー18節に記されていることをもう少しお話ししたいと思います。
 5章2節ー18節には、

エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。【本節欠如】そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

と記されています。
 ここでは、まず、イエス・キリストがエルサレムにある「ベテスダと呼ばれる池」の回廊に横たわっていた「三十八年も病気にかかっている人」をお癒しになったことが記されています。
 しかし、9節には、

 その日は安息日であった。

と記されています。ユダヤ教のラビたちの律法にかかわる教えを集大成した『ミシュナー』の安息日に関する規定では、それがいのちにかかわる病気でないかぎり、安息日に医療行為をしてはならないとされていました。それで、16節に、

そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

と記されているように、「ユダヤ人たち」(この場合は、ユダヤ人の指導者たち)がイエス・キリストを迫害しました。
 このことを受けて、続く17節ー18節には、

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

と記されています。
 ここでは、ユダヤ人の指導者たちが「ますますイエスを殺そうとするようになった」と言われていて、迫害がより激しくなったことを示しています。その理由として、

イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

と記されています。
 ここには二つの理由が記されています。
 一つは、「イエスが安息日を破っていた」ということです。
 もう一つは、イエス・キリストが「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」ということです。
 聖書に啓示されている神さまのみことばは、そのどちらも死に値する罪であることを示しています。それで、その当時のユダヤ人の指導者たちにとっては、イエス・キリストは死に値する罪を犯していることになります。
 ただし、すでにお話ししたとおり、「安息日を破っていた」ということは、実際には、イエス・キリストが安息日に関する「」の戒めについてのラビたちの解釈に基づく規定に反していたということです。すでにお話ししたように、イエス・キリストは一貫して、安息日に関する「」の戒めの本来の意味と精神に沿って、安息日においてこそ人々の病を癒しておられました。しかし、ラビたちの教えを受け入れていたユダヤ人の指導者たちからすれば、イエス・キリストは安息日に関する「」の戒めに背いているということになります。
 また、イエス・キリストが「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」ということも、ユダヤ人の指導者たちが理解していることと、新約聖書の啓示の光のもとでイエス・キリストがどなたであるかを理解している私たちが理解していることには違いがあります。


 今日は、これら二つの理由のうち、より根本的なことである、イエス・キリストが「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」ということを理解するために、まず、そのことに「関連していること」をお話しします。
 神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる方であり、天地創造の御業によってこの世界のすべてのものを造り出され、すべてのものを真実に支えておられます。
 これに対して、神さまによって造られたものは、それが最も高く優れた御使いであっても、神のかたちとして造られている人であっても、また、観測できる範囲だけでも137億光年の彼方に広がっていると言われている大宇宙であっても、あらゆる点において、有限であり時間的であり、経過していくものです。
 御使いたちは不変であると考えられるかも知れません。しかし、御使いたちにも変化はあります。たとえば、ペテロの手紙第一・1章10節ー12節には、

この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。

と記されています。
 ここには、神さまがその一方的な愛と恵みによって私たち「」の民に与えてくださり、私たちが信仰によって受け取っている救いのことが記されています。そして、この救いのことについては、

 御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。

と記されています。このことは、御使いたちは初めからすべてのことを知っているわけではなく、御使いたちにも知恵や知識における成長があるということを意味しています。これは、よい意味での変化です。
 さらに、悪い意味での変化もありえます。サタンも、もともとは優れた御使いとして造られたものです。聖書の中には、サタンの堕落について直接的に示す記事はありません。しかし、サタンの堕落を間接的に映し出す形では示されています。それによると、サタンは自らの「栄光」に欺かれて、神のようになろうとして、神さまの聖さを冒す罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまったと考えられます。このことも、いかに優れた御使いであっても、変化することがありえるということを示しています。
 御使いのことはこれくらいにして、私たち人間の限界のことを取り上げますと、人は神のかたちとして造られていますが、あらゆる点において有限であり、その能力には限界があります。それは、神さまがお造りになったこの世界そのものが時間的に経過していく世界であり、空間的に広がっている世界であり、御使いたちや私たち人間も含めて、その中にあるすべてのものが時間的に経過していくものであり、空間的にある一定の位置を占めているものであることによっています。
 それで、私たちは「無限」や「永遠」ということばを使い、「無限」や「永遠」のことを考えますが、私たちが考える「無限」や「永遠」は、いつまでも続くとか、どこまでも広がっているというように、量的に考えられる「無限」や「永遠」です。
 しかし、この世界とその中のすべてのものをお造りになった神さまは、ご自身がお造りになった空間的で時間的な広がりを持つ世界を越えた方であり、神さまには限界がありません。神さまに当てはまる無限や永遠や不変は、空間的、時間的に限りなく続いているという意味での量的な無限や永遠や不変ではありません。神さまに当てはまる無限や永遠や不変がどのようなものであるかは、存在そのものが時間と空間の枠の中にあり、あらゆる点において、特に、考える力と理解する力において限界がある私たち人間には理解することはおろか、想像することさえできません。
 このような、私たち人間の限界をわきまえた上で言うのですが、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまと、神さまによって造られたものの間には「絶対的な区別」があります。そして、神さまは、ご自身が無限、永遠、不変の栄光に満ちた方であり、お造りになったものと「絶対的に」区別される方であるということが、神さまの聖さの本質です。それで、一介の被造物でしかないものが、自分を、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまと等しいと主張することは、神さまの聖さを冒すことです。
 私たちには、神さまの聖さを汚れとの対比で考える傾向があります。そのことは間違っていないのですが、そのように汚れとの対比で考えられる聖さは、神さまの聖さの本質ではありません。
 創世記1章31節に、

 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。

と記されているとおり、神さまが創造の御業において造り出された時のこの世界には、罪がもたらした汚れはありませんでした。それで、その時には、神さまの聖さが汚れと対比されることはありませんでした。その時も、また永遠に、神さまは無限の栄光に満ちた方として聖い方であり、ご自身がお造りになったものと「絶対的に」区別される方であるのです。

 これには、さらにいくつかのことがかかわっていますが、その一つのことをお話しします。
 預言者イザヤが幻によって啓示された「」の栄光の御臨在のことを記している、イザヤ書6章1節ー4節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満ちる。」
その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。
 ここで、イザヤは「高く上げられた御座に着いておられる主を見た」と言っていますが、これは無限、永遠、不変の栄光の主である神さまを直接的に見たという意味ではありません。ここで「高く上げられた御座に着いておられる主」と言われている方は、ご自身の無限の栄光を隠し、無限に身を低くされて、この世界にご臨在してくださっている「」のことです。三位一体論的には、無限の栄光を隠し、無限に身を低くされて、この世界にかかわる役割を負っておられる御子のことです。
 御子は無限の栄光を隠し、無限に身を低くされて、この世界にかかわる役割を負っておられる方として、天地創造の御業を遂行された方ですし、今も、お造りになったすべてのものを真実に支え、導いておられる摂理の御業を遂行しておられます。さらには、今から2千年前に、人としての性質を取って来てくださり、十字架にかかって私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わってすべて受けてくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださるとともに、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしたことへの報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。このようにして、今から2千年前に私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださった御子イエス・キリストは、終わりの日に至るまで、父なる神さまの右の座に着座して、ご自身の民をご自身が成し遂げられた贖いの御業にあずからせてくださって、父なる神さまとの愛の交わりに生きるものとしてくださっています。
 イザヤが見た「高く上げられた御座に着いておられる主」は、今から2千年前に、人としての性質を取って来てくださる前の御子イエス・キリストのことです。イザヤ書の大きな流れの中では、52章13節ー53章12節に記されている「主のしもべの第4の歌」において証しされている方で、ご自身の民のために苦しみを受け、罪の贖いを成し遂げてから、栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されるようになる御子イエス・キリストを預言的に指し示しています。
 このように、イザヤ書6章1節ー4節では、ご自身の無限の栄光を隠し、無限に身を低くされて、この世界にご臨在してくださっている「」の御臨在のことが記されているのですが、その御臨在の御前に仕えている最も聖い御使いとして分類される「セラフィム」たちも、「六つの翼」の「二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて」、互いに、

 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満ちる。

と「呼び交わして」、そこにご臨在される「」を讃え続けています。最も聖い御使いとして分類される「セラフィム」たちには罪がなく、汚れもありません。彼らは最も聖い御使いですが、ご自身の無限の栄光を隠し、無限に身を低くされて、そこにご臨在してくださっている「」の御前では、「」の聖さをわきまえ、顔と両足を覆って、ひたすら「」を聖なる方として讃えるほかはないのです。
 改めて確認したいことは、最も聖い御使いとして分類される「セラフィム」たちが、このように、「」の聖さをわきまえ、顔と両足を覆って、ひたすら「」を聖なる方として讃えることができるのは、それが、ご自身の無限の栄光を隠し、無限に身を低くされて、そこにご臨在してくださっている「」の御前においてのことだからです。この「セラフィム」たちでも、無限、永遠、不変の栄光の神さまの御前に、直接的に、立つことはできません。それは、先主日にお話ししたたとえで言えば、紙切れが太陽に、直接、触れるというようなことで、ありえないのですが、このことさえも、もののたとえでしかありません。
 このような意味での神さまの聖さの本質は、造り主であられる神さまが、最も聖い御使いたちも含めて、ご自身のお造りになったすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということにあります。

 私たちはここで「絶対的に」区別されると言ってはいますが、それがどのようなことであるかは、先ほどお話ししたような、被造物(神さまによって造られたもの)としての限界がある私たちには、理解することはおろか、想像することさえできません。
 私たちは「あるもの」と「他のもの」を区別する時には、観察や観測に基づいて計算したり、知識を結集し、考えや想像を駆使したりして、それぞれを何らかの形で比較しています。それは、「より大きい」「より価値がある」「より善い」とか、逆に、「より小さい」「より価値がない」「より悪い」としたり、「同じである」としたりするように、比較した上での相対的な区別をすることです。神さまによって造られたもの同士の区別は、それが御使いたちの間の区別であっても、御使いたちと私たち人間との区別であっても、すべて相対的な区別です。観測できる範囲だけでも137億光年の彼方に広がっていると言われている宇宙と、分かっている限りでの物質の最小単位と言われているクオークやレプトンの間の区別も比較した上での相対的な区別です。
 被造物としての限界の中にある私たちには、このような相対的な区別しかできません。そのために、私たちとしては、神さまと自分たちの区別をする時にも、私たちの限られた理解力や想像力の枠の中で、神さまを考え自分たちを考えるほかはありません。私たちの限られた理解力や想像力の枠の中で、私たちの理解力や想像力を無限に越えた神さまを考えるほかはないのです。それで、神さまと自分たちの区別は、どうしても、比較した上での相対的な区別になってしまいます。
 このような私たちにできることは、また、私たちがしなければならないことは、私たちにはこのような限界があるということをしっかりとわきまえることです。
 神さまのみことばは、この世界は神さまが、御子にあってご臨在される世界としてお造りになり、その御臨在に伴う豊かさに満ちた世界であることを示しています。そして、神さまは人をご自身のかたちとしてお造りになり、このご自身がご臨在されるこの世界に住まわせてくださり、人がご自身の御臨在の御許に近づき、ご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださったことを示しています。
 実際に、神のかたちとして造られている人は、造り主である神さまを知っているものとして造られていて、初めから、御子にあってご臨在してくださっている神さまとの愛の交わりに生きていました。このことは、すべての人が造り主である神さまを知っている神のかたちとして造られているということ意味しています。さらに、このことは、創造の御業において神のかたちとして造られた時の人は、自らの限界をわきまえ知り、神さまの聖さをわきまえ知っていたことを意味しています。
 このような神さまの聖さをしっかりとわきまえないと、私たちは神さまの聖さを冒す罪を犯してしまいます。
 それは、かつての私たちの現実でした。その私たちの現実はローマ人への手紙1章19節ー23節に示されています。そのうちの19節ー20節には、

神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。

と記されています。
 この世界は神さまがお造りになった世界であり、造り主である神さまの「目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性」を映し出すものに満ちあふれています。神のかたちとして造られている人は、神さまの「目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性」の現れに接して、いっさいの栄光を造り主である神さまに帰して、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きるものです。これが神のかたちとして造られている人の本来のあり方です。そして、このようにいっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することが、神さまの聖さをわきまえることの中心にあります。
 ところが、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人の状態が、21節ー23節に、

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。

と記されています。

 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました

と言われていることこそが、神さまの聖さを冒す罪の典型的な現れです。

 このことを踏まえて、先主日にお話ししたことを振り返っておきましょう。
 テモテへの手紙第一・6章15節ー16節には、父なる神さまのことが「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方」と言われていました。人間に限らず、どのような被造物も、無限、永遠、不変の栄光の神さまを直接的に見ることも知ることもできません。
 しかし、神さまは私たちご自身の民がご自身との愛の交わりに生きるようにと、創造の御業において、人をご自身のかたちとしてお造りになりました。当然、その神さまは私たちと私たちの限界をご存知です。それで、神さまは、ご自身がどなたであるかを人に分かるように啓示してくださいました。そのようにして、神さまがどなたであるかを、あらゆる点において限界がある私たちに合わせて、私たちに分かるように啓示してくださっているのは御子です。ヨハネの福音書1章18節に、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されているとおりです。
 先ほど引用したローマ人への手紙1章19節ー20節に、

神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる・・・。

と記されていることも、神さまが御子によって、あらゆる点で限界がある人に合わせて、人に分かるようにご自身を示してくださっていることによっています。
 ローマ人への手紙1章19節ー23節に記されていることの主旨は、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人の現実を明らかにして、糾弾し、人を悔い改めに導くことです。
 そのことを踏まえた上で、お話しするのですが、ここに記されている、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人の現実の根底には、神さまが御子によって、あらゆる点で限界がある人に合わせて、人に分かるようにご自身を啓示してくださっていることがあります。神さまがその無限、永遠、不変の栄光をお隠しになり、無限に身を低くされてこの世界にかかわってくださる役割を負っておられる御子にあって、ご自身がどなたであるかを啓示してくださっておられるので、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、神さまと自分たちの「絶対的な」区別をわきまえないことが自然なことであるかのように感じてしまっているのです。「朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えて」しまっているのに、そのことに何のとがめも感じないのは、いわば、御子にあって、神さまが無限に身を低くしてご自身を啓示してくださっていることに「つけ込んでいる」からです。
 そうであっても、ローマ人への手紙3章25節に、

 神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。

と記されているように、神さまは忍耐深くそのような罪を見逃してこられました。それは、この節の前の部分で、神さまが御子イエス・キリストを

 信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。

と言われているように、私たちが神さまの聖さを冒していた罪を悔い改め、「血による宥めのささげ物」となってくださった御子イエス・キリストを信じて、神さまの御前に義と認めていただき、神さまとの愛の交わりに生きる永遠のいのちをもつようにしてくださるためでした。御子イエス・キリストはその十字架において、神さまの聖さを冒していた私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わってすべて受けてくださることによって、私たちのための「血による宥めのささげ物」となってくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。


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