黙示録講解

(第384回)


説教日:2019年6月23日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(137)


 先主日と先々主日には宣教報告会をしましたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は黙示録からのお話に戻ります。
 今は、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧す。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束のみことばとの関連で、19章15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

というみことばについてお話ししています。
 これまでお話ししてきたことの経緯は省略して、前回お話ししたヨハネの福音書5章2節ー18節に記されていることを補足しつつ振り返り、さらにもう一つのことをお話ししたいと思います。
 5章2節ー18節には、

エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。【本節欠如】そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

と記されています。
 エルサレムにある「ベテスダと呼ばれる池」には5つの回廊がありました。そこには「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たち」が臥せっていました。その中に、「三十八年も病気にかかっている人」がいました。
 この人が「三十八年も病気にかかって」いたということから、その病気が何であれ、治療のために財産を使ってしまうとか、仕事ができないために貧困に陥ってしまうとか、ほかの人のお世話を受けて生きなければならないとか、その人がとても深刻な状態になっていたと考えられます。
 イエス・キリストはこの人に、

 起きて床を取り上げ、歩きなさい。

と言われました。その結果、

 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。

と記されています。これによって、イエス・キリストがそのみことばをもって、「三十八年も病気にかかっている人」を完全に癒されたことが示されています。
 しかし、ユダヤ人の指導者たちは、「癒やされた人」に、安息日に「床を取り上げること」は安息日にかかわる「」の戒めに背くことであると言いました。
 ユダヤ教のラビたちの律法にかかわる教えを集大成した『ミシュナー』の安息日に関する規定の中に、安息日にしてはならないことの一つとして、何かを、それがある所から別の所へ持っていくことがありました。それで、「癒やされた人」が「床を取り上げて歩き出した」ことはその規定に反するとされたのです。
 この時、「癒やされた人」は、自分を癒してくれた人がイエス・キリストであることを知りませんでしたが、後に、それがイエス・キリストであることを知って、そのことを「ユダヤ人たち」に伝えました。15節ー16節には、

その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

と記されています。
 ここでは、癒された人が、

 自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。

と記されています。それで、ユダヤ人たちは、イエス・キリストが安息日に治療をしたことを問題としていると考えられます。
 ラビたちの規定では、安息日においても、いのちにかかわる事態での治療は認められていましたが、そうでない場合には、認められていませんでした。
 そのことは、ルカの福音書13章11節ー15節に記されている、イエス・キリストが安息日に、ある会堂で「十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人」を癒されたことにおいて、より明確に現れています。14節には、

すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」

と記されています。
 この「会堂司」は同じ地域にある会堂を管理している人として、この女の人のことをよく知っていたと考えられます。この「会堂司」が言いたいことには、二つのことが含まれています。一つは、この女の人の病気はいのちにかかわるものではないから、安息日にこの女の人に医療行為を行うことは神である「」の戒めに反するということです。とはいえ、これは前回お話ししたとおり、安息日に関する「」の戒めについてのラビたちの解釈に基づく規定に反するということです。もう一つは、この女の人は「十八年も」の間ずっとこの状態だったのだから、1日あるいは数日くらい遅れてもいいではないかということです。
 これら二つのことは、そのままヨハネの福音書5章1節ー18節に記されている「三十八年も病気にかかっている人」にも当てはまります。
 ユダヤ人の指導者たちは、イエス・キリストが安息日に医療行為をして、「」の戒めを破っているとして迫害しました。しかし、先ほどお話ししたように、イエス・キリストはラビたちの規定に反することをしておられたのであり、「」の戒めに背いていたわけではありません。むしろイエス・キリストは、一貫して「」の戒めに示されている安息日の本来の意味、本来の精神に沿って御業をなさっておられることを示しておられます。
 そのことは、17節に記されている、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

というイエス・キリストの教えに示されています。


 このことを理解するためには、安息日に関する「」の戒めを理解する必要があります。
 安息日に関する「」の戒めは、十戒の第4戒に示されています。十戒の第4戒は出エジプト記20章8節ー11節と申命記5章12節ー15節に記されています。
 出エジプト記20章8節ー11節には、

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それはが六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

と記されています。
 ここでは、私たち「」の契約の民が安息日を覚えて聖なるものとすることの理由として、神である「」が創造の御業において、第7日目に休まれ、その日を祝福し、聖なるものとされたことが記されています。創世記2章1節ー3節には、

こうして天と地とその万象が完成した。神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。

と記されています。
 これに関しては、少し前にお話ししたことを、いくらか補足しますが、新改訳2017年版は、第三版が「休まれた」と訳していることば(シャーバト)を「やめられた」と訳しています。
 ケーラーとバウムガルトナーのレキシコン(K=B, p.1407b)は、このことば(シャーバト)は、一般的な用例に見られる「やめられた」の可能性とともに、直接的あるいは間接的に安息日に関連している場合には「休まれた」の可能性があることを示しています。創世記2章1節ー3節に記されていることは、これに当たります。また、3節において、「やめられた」(2017年版)ことが第7日を祝福して聖別されたことの理由となっているとすると、その意味が分かりにくくななります。さらに、出エジプト20章11節には、神さまが創造の御業の第7日に「休まれた」(ヌーァハ)ことを明示して、それが「」が安息日を祝福し、聖なるものとされたことの理由としています。それで、ここでは「休まれた」の方がよいのではないかと思われます。
 あらゆる点において、無限、永遠、不変のお方にして、無限の豊かさに満ちておられる神さまが、天地創造の第7日に休まれ、この日をご自身の安息の日として祝福し、聖なるものとされたのは、ご自身のうちに何らかの必要があって、それを満たすためのことではありません。
 これには、前回お話しした三つのことがかかわっています。
 第一に、説明を省略しますが、ヨハネの福音書1章1節ー3節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されているように、「ことば」すなわち御子は、永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにあって、まったく充足しておられます。天地創造の御業はこの御子によって遂行されました。それで、天地創造の御業は、永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちに充足しておられる御子が、その愛をご自身がお造りになるものに注いでくださった御業です。
 天地創造の御業が御子によって遂行されたことには理由があります。それは、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられるからです。最も聖い御使いであれ、罪がない状態の最初の人であれ、神さまによって造られたものが、無限、永遠、不変の栄光の神さまと直接的に触れ合うことはできません。聖書においては神さまの栄光が光や火に譬えられています。それに沿って言えば、無限、永遠、不変の栄光の神さまと被造物が直接的に触れ合うことは、太陽と紙切れが直接的に触れ合うようなことです。そのようなことはできませんし、実際に、ありえません。
 それで、無限、永遠、不変の栄光の神さまは、人になぞらえる言い方をしますと、その無限の栄光を隠し、無限に身を低くされて、ご自身がお造りになったものにかかわってくださるのです。三位一体論的に言いますと、第一位格であられる父なる神さまが、無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表する「役割」を負っておられます。それで、神さまの無限の栄光は父なる神さまによって常に現されています。そして、第二位格であられる御子が、無限に身を低くされてこの世界にかかわってくださる「役割」を負ってくださっています。それで、創造の御業も贖いの御業も御子が遂行されたのです。贖いの御業については後ほどお話しします。
 神さまの無限の栄光が常に現されているのに、どうして、この造られた世界が存在しているのかということが問題となります。それは、コロサイ人への手紙1章16節ー17節に、

なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

と記されているように、この世界が御子によって、また、御子にあって造られ、御子にあって保たれていることによって解決しています。私はこれを、耐火金庫のうちに保管されている大切な書類やお札が火事の中でも燃えないことにたとえて理解しています。
 また、テモテへの手紙第一・6章15節ー16節には、父なる神さまのことが「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方」と言われています。どのような被造物も、無限、永遠、不変の栄光の神さまを直接的に見ることも知ることもできません。その神さまがどなたであるかを、あらゆる点において限界がある人や御使いたちに合わせて、人や御使いたちに分かるように啓示してくださっているのは御子です。ヨハネの福音書1章18節に、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されているとおりです。それで、御使いも人も、無限に身を低くされてこの世界にかかわってくださる「役割」を負ってくださっている御子を知ることによって、神さまがどのような方であるかを知ることができるのです。ヨハネの福音書14章6節ー7節には、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。

という御子イエス・キリストの教えが記されており、9節には、

 わたしを見た人は、父を見たのです。

という教えが記されています。
 第二に、創世記1章27節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

と記されているように、人は愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られています。神さまは天地創造の御業においてご自身の愛を造られた世界に向けて表現されましたが、その愛を受けとめて、愛をもって神さまに応答する存在が、神のかたちとして造られている人です。
 創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事において、人は植物や生き物たちとは違って「種類ごとに」造られたとは言われてはいなくて、「神のかたちとして」創造されたと言われています。それで、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛の交わりにあります。それは、造り主である神さまを礼拝することを中心とした愛の交わりです。
 第三に、神さまは天地創造の御業において、第7日に休まれ、この日をご自身の安息の日として祝福し、聖なるものとされましたが、この天地創造の第7日はいまだ閉じてはいません。第7日は、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりにあって生きてゆく歴史的、時間的な舞台であるのです。
 神さまは神のかたちとして造られている人がご自身を礼拝することを中心としたご自身との愛の交わりに生きることができるように、無限に身を低くして、この世界にご臨在してくださっています。それは、先ほどお話ししたように、三位一体の第二位格であられる御子による御臨在です。それで、この世界にご臨在してくださっている神である「」は御子のことです。
 愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人は、御子にあってご臨在してくださっている神である「」を神として礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きることができるのです。そして、その神さまとの愛の交わりに生きることこそが、神のかたちとして造られている人のいのちの本質です。
 そのための、歴史的、時間的な舞台が、天地創造の第7日です。神さまがこの第7日をご自身の安息の日として祝福し聖なるものとしてくださったのは、ひとえに、神のかたちとして造られている人をご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださるためのことでした。そのことを現実のこととしてくださるために、神さまは天地創造の第7日に、お造りになったすべてのものを、特に、私たち神のかたちとして造られている人を真実に支え、導いてくださっているのです。イエス・キリストが、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

と教えておられるときの「今に至るまで」とは、天地創造の御業以来「今に至るまで」続いている天地創造の第7日のことです。
 そうであれば、この天地創造の御業の第7日において、神さまの祝福によるいのちの豊かさが現れるようになることこそは、安息日にふさわしいことであることが分かります。罪の結果もたらされた死につながっていく「病気に」「三十八年も」かかって、厳しい状況にあっていた人が癒されて、いのちの君であるイエス・キリストを知るようになることは、そして、父なる神さまとの愛の交わりに生きるようになることは、安息日においてこそなされるべきことだったのです。

 このことには、もう一つのことがかかわっています。十戒の第4戒を記している申命記5章12節ー15節には、

安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、が命じたとおりに。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。

と記されています。
 ここでは、安息日を守って、聖なるものとすることの理由として、神である「」がエジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民を、エジプトの地から導き出してくださったことが示されています。これは、やがて、神さまが約束の贖い主によって成し遂げてくださるご自身の民のための贖いの御業を指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっていました。
 先ほどお話ししたように、神さまが創造の御業において第7日を祝福して、聖なるものとされたのは、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人が、ご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださるためのことでした。それが天地創造の第7日という、創造の御業以来、今日まで続いている歴史におけることであるのは、神のかたちとして造られている人の成長と成熟とともに、また、歴史的にまた社会的に多様性を増していくことによって、その愛の交わりがより深く豊かで、多方面に現れていくものとなっていくべきものであることを意味しています。
 大切なことは、この天地創造の第7日は、何よりも、造り主である神ご自身の安息の日であるということです。それは、神さまがその一方的な愛と恵みによって、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになって、その愛を人に注いでくださったことによっています。私たち人間の間でもそうですが、愛は愛する相手を決して手段化することはありません。愛する相手の存在そのものを喜びます。神さまはご自身のかたちとしてお造りになった人を愛してくださり、人に愛を注いでくださることにおいて、そして、その愛の交わりがより豊かになることにおいて安息されるのです。
 しかし、実際には、そのように豊かないのちの祝福のうちに生きるものとして造られ、神である「」との愛の交わりのうちに生きていた人が、「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。神である「」の愛を受けとめて、「」を神として礼拝することもなく、愛を本質的な特質とする神のかたちとしてのいのちの本質を失い、罪と罪がもたらした死と滅びの力に捕らえられてしまうようになりました。このようなことが、天地創造の第7日に起こったのです。創造の御業において人をご自身との愛の交わりに生きるようにと、ご自身のかたちとしてお造りになり、そのために天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖なるものとしてくださった神さまの安息をどれほどかき乱すことであったことでしょうか。
 あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまの愛は無限ですが、神さまの義と聖さも無限です。そして、一介の被造物でしかない人が神さまの愛を踏みにじってしまった罪も、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対する罪として、無限に重い罪です。無限に聖く、義であられる神さまは、その罪をご自身の義に基づいておさばきになります。
 ですから、一介の被造物でしかない人が無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対して犯した罪を贖うためには、無限の贖いの代価が必要です。
 このような事情の中にあって、神さまは、無限、永遠、不変の栄光の主であられるご自身の御子を、贖い主として約束してくださり、実際に、今から2千年前に遣わしてくださいました。御子イエス・キリストは、そのメシアとしての生涯の終わりに、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださいました。それによって、無限の栄光の主であられる方が、そのいのちの値をもって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを神である「」との愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださったのです。
 ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節には、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されています。
 このことにおいて、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖なるものとされたことの意味が回復され、私たち「」の民の間の現実となっています。
 イエス・キリストが、罪の結果である死につながる病を癒されたことは、やがてイエス・キリストのその十字架の死において成し遂げられる真の癒しである罪の完全な贖いによって、ご自身の民が神である「」との愛の交わりに生きるようになることへとつながっています。その意味で、それは安息日においてこそなされるべき御業だったのです。


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