黙示録講解

(第383回)


説教日:2019年6月2日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(136)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧す。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束のみことばとの関連で取り上げている、19章15節で栄光のキリストのことを、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記しているみことばについてのお話を続けます。
 ここでは黙示文学的な表象によって、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と言われています。この「」(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣で、ローマ帝国において皇帝とその下にある総督たちがもっていた生殺与奪の権を象徴するものでした。このことが背景となって、黙示録では栄光のキリストこそが、究極的な生殺与奪の権をもっている方であるということが示されています。そして、この「」が栄光のキリストの口から出ていたということは、栄光のキリストのみことばがそのような権威をもっているということを表しています。
 今は、このこととの関連で、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてお話ししています。そこには、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

と記されています。
 これまで2回にわたって、21節に記されている、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

というイエス・キリストの教えは、神さまだけが「死人をよみがえらせ、いのちを与えられる」という旧約聖書の教えを踏まえて語られているということをお話ししました。
 今日は、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

というイエス・キリストの教えに戻りたいと思います。
 この教えには理由や説明を表す接続詞(ガル)があって、その前の19節ー20節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

という教え、特に、20節後半の、

また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

という教えを説明しています。これによって、父なる神さまが「これよりも大きなわざ」を御子イエス・キリストにお示しになると言われているときの「これよりも大きなわざ」が、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

ということであるということが示されているのです。
 ここで問題となるのは「これよりも大きなわざ」と言われているときの「これ」が何を指しているかということですが、それは、この5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えが語られるようになったきっかけとなっている1節ー18節に記されている御業のことです。その御業自体は2節ー9節前半に、

エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。【本節欠如】そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。

と記されています。
 「ベテスダと呼ばれる池」にある五つの回廊に「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たち」が臥せっていました。その中に、「三十八年も病気にかかっている人」がいました。この人の病気が何であったかははっきりしません。一般には、7節に記されている、

主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。

というこの人のことばと、イエス・キリストが言われた、

 起きて床を取り上げ、歩きなさい。

ということばから、足が麻痺していたのではないかと考えられています。その可能性はありますが、断定することはできません。というのは、7節で、

 病人は答えた。

と言われているときの「病人」(単数[「虚弱である」「病気である」を意味する動詞アスセネオーの分詞形])は、3節に記されている「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たち」のうちの「病人」(複数)と同じことばですし、5節で「三十八年も病気にかかっている人」と言われているときの「病気」ということばはその名詞形です。それで、この人は、病気で弱っていて臥せっていた可能性もあります。
 この人が「三十八年も病気にかかって」いたということは、その病気が何であれ、その人に深刻な状態をもたらしていたと考えられます。イエス・キリストはこの人に、

 起きて床を取り上げ、歩きなさい。

と言われました。その結果、

 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。

と記されています。イエス・キリストはそのみことばをもって、「三十八年も病気にかかっている人」を完全に癒されたのです。
 ところが、このことが問題とされることになりました。9節後半ー10節には、

ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。

と記されています。
 ここに出てくる「ユダヤ人たち」は一般的な意味でのユダヤ人のことではありません。というのは、「その癒やされた人」もユダヤ人だからです。この「ユダヤ人たち」はユダヤ人たちのうちの指導的な立場にある人々のことです。ユダヤ教のラビたちの律法にかかわる教えを集大成した『ミシュナー』の安息日に関する規定には、安息日にしてはならないことが39項目挙げられていて、その中に、何かを、それがある所から別の所へ持っていくことがありました。それで、「癒やされた人」が「床を取り上げて歩き出した」ことはその規定に反するとされたのです。
 13節に記されているように、この時、「癒やされた人」は、自分を癒してくれた人がイエス・キリストであることを知りませんでした。続く14節ー15節に記されているように、この人は、後に、それがイエス・キリストであることを知って、そのことを「ユダヤ人たち」に伝えました。15節ー16節には、

その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

と記されています。
 ここでは、癒された人が、

 自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。

と記されています。それで、ユダヤ人たちは、イエス・キリストが安息日に治療をしたことを問題としていると考えられます。当時の規定では、安息日においても、いのちにかかわる事態での治療は認められていましたが、そうでない場合には、認められませんでした。
 これと同様のことは、マルコの福音書3章1節ー6節に、

イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。

と記されています。これはイエス・キリストがガリラヤ地方においてメシアとしてのお働きを始められて、それほど時が経っていない頃のことと考えられます。それでも、

人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。

と記されていることは、イエス・キリストが安息日に人を癒されることがすでに噂のように広まっていて、イエス・キリストと対立している人々は、それを確かめるように見ていたことを示唆しています。
 ヨハネの福音書5章16節において、

 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。

と言われていることについては見方が別れています。
 ここで「迫害し始めた」と訳されたことばは「迫害する」の未完了時制です。新改訳2017年版は未完了時制が「・・・し始めた」という意味合いを伝えることがあるので、それを採用しています。ヨハネの福音書においては、イエス・キリストがユダヤ人たちから迫害されたことは、ここで初めて出てきます。
 もう一つの見方は、この未完了時制は継続([習慣的に]繰り返しなされること)を表していると理解しています。このように理解する人々は、ヨハネは、この福音書では取り上げていないけれども、これ以前に(あるいはヨハネがこれを記している時点から見れば、そのメシアとしてのお働きの全体をとおして)、イエス・キリストがユダヤ人たちから継続的に迫害を受けていたことを踏まえていると考えています。おそらく、この(もう一つの)見方の方を取ったほうがいいと思われます。このことは、16節後半で、

 イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

と言われているときの「このようなことをしておられた」も未完了時制で表されており、これは、継続を表していて、「このようなこと」(複数形)が繰り返しなされていたことを示していると考えられることによって支持されます。
 16節で、

そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

と言われていることを受けて、17節には、

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」

と記されています。
 ユダヤ人たちは、イエス・キリストが安息日に関する「」の戒めを破っているとして迫害しました。しかし、先ほどお話ししたように、イエス・キリストはユダヤ教の教師であるラビたちの規定に反することをしておられたのであり、「」の戒めに背いていたわけではありません。むしろ、イエス・キリストは、この場合に限らず、一貫して、「」の戒めに示されている安息日の本来の意味、本来の精神に沿って御業をなさっておられることを示しておられます。17節に記されている、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

というイエス・キリストの教えも、そのような意味をもっている教えです。
 このことを理解するためには、安息日に関する「」の戒めを理解する必要があります。
 安息日に関する「」の戒めは、十戒の第4戒に示されています。出エジプト記20章8節ー10節には、

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。

と記されています。そして、この戒めの意味を理解するための鍵となることですが、この戒めが与えられている理由が11節に、

それはが六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

と記されています。
 神さまはあらゆる点において、無限、永遠、不変のお方で、あらゆる点で無限の豊かさに満ちておられます。それで、神さまの知恵も力も無限です。その神さまは、この私たちの想像を絶する広大な宇宙をお造りになったからといって、お疲れになることはありません。ですから、神さまが天地創造の御業の第7日に休まれ、この日をご自身の安息の日として祝福し、聖なるものとされたのは、お疲れになったからではありません。また、ご自身のうちに何らかの必要があって、それを満たすためのことではありません。
 神さまが天地創造の御業の第7日に休まれ、この日をご自身の安息の日として祝福し、聖なるものとされたことの意味を理解するための鍵は、天地創造の御業がどのような御業であったかということを理解することにあります。
 これには、三つのことがかかわっています。
 一つは、ヨハネの福音書1章1節ー3節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されていることです。
 個々に記されていることについては、すでに繰り返しお話ししてきたことですので、今お話ししていることとかかわることの要点だけをお話しします。

 初めにことばがあった。

と言われているときの「ことば」は御子のことです。ここでは、神さまが、無から、およそこの世界に存在するすべてのものを造り出された天地創造の御業の「初めに」すでに、「ことば」は継続して「あった」(未完了時制)と言われています。時間はこの世界の時間です。それで、時間は天地創造の御業とともに始まっています。「ことば」はその天地創造の御業が遂行された時には、すでに継続して存在していました。「ことば」は永遠の存在です。
 それに続いて、

 ことばは神とともにあった。

と記されているときの「神とともに」ということば(プロス・トン・セオン)は、「ことば」(=御子)が「」(=父なる神さま)の方を向いているという意味合いを伝えており、「ことば」が「」との愛の交わりのうちにおられることを示しています。2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていることは、「ことば」が永遠に「」との愛の交わりのうちにおられることを示しています。これによって、御父と御子の間には永遠の愛の交わりがあることが示されています。ヨハネの手紙第一・4章16節に、

 神は愛です。

と記されているように、神さまの本質的な特質は愛です。その神さまの愛は無限、永遠、不変です。もし神が一位一体であったとしたら、その神は永遠に独りぼっちであり、愛する相手がいません。もし、そのために、この世界を造ったというのであれば、その神は愛を現すために被造物が必要であったということ、神にも足りないものがあるということになります。そればかりでなく、被造物は有限であり、神さまの無限の愛は無限の栄光に満ちています。そのような、神さまの無限の栄光に満ちた愛がそのまま被造物に対して現されたとしたら、どのような被造物もその無限の栄光によって焼き尽くされてしまいます。ですから、神が一位一体であったとしたら、その神には無限、永遠、不変の愛の性質はあるけれども、それは表現されることはないということになります。しかし、神さまは三位一体の神です。御父と御子と御霊の間には、あるいは、アウグスティヌス的に言うと、御父と御子の間には御霊による無限の愛の通わしがあり、神さまは愛において永遠に充足しておられます。
 ヨハネの福音書1章3節には、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されています。天地創造の御業は、永遠に父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちに充足しておられる「ことば」すなわち御子によって遂行されたというのです。ですから、天地創造の御業は永遠に独りぼっちで愛する相手がいない神が自らの愛の欲求を満たすためになされた御業ではありません。むしろ、永遠に父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちに充足しておられる御子が、その愛を造られるものに注いでくださった御業です。
 このことが、神さまが天地創造の御業の第7日に休まれ、この日をご自身の安息の日として祝福し、聖なるものとされたことの意味を理解するための鍵の一つです。
 もう一つのことは、創世記1章27節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

と記されているように、人は愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られているということです。神さまは天地創造の御業においてご自身の愛を造られた世界に向けて表現されましたが、その愛を受けとめて、愛をもって神さまに応答する存在が、神のかたちとして造られている人です。1章24節ー25節には、

神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。

と記されています。同じく「いのちあるもの」でも、生き物たちは、それぞれの「種類ごとに」造られています。それで、それぞれが「種類ごとに」群れていれば、それで完結しています。
 しかし、天地創造の御業の記事においては、人は「種類ごとに」造られたとは言われていなくて、「神のかたちとして」創造されたと言われています。愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人のいのちのの本質は、神さまとの愛の交わりにあります。それは、神さまを礼拝することを中心とした愛の交わりです。先ほど引用した27節には、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

と記されています。確かに、人は「男と女に」創造されています。それでお互いの間での愛の交わりに生きるものです。けれども、それも、まず、それぞれが愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られており、神さまを礼拝することを中心とした神さまとの愛の交わりに生きているものとして出会い、お互いの間での愛の交わりに生きるようになるのです。それぞれが神さまを礼拝するものとして、神さまとの愛の交わりに生きているということが、お互いの愛の交わりを支えているのです。
 神さまが天地創造の御業の第7日に休まれ、この日をご自身の安息の日として祝福し、聖なるものとされたことの意味を理解するための三つ目の鍵は、天地創造の御業の第7日がいまだ閉じていないということです。第7日は、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりにあって生きてゆく歴史的、時間的な舞台であるということです。
 神さまは神のかたちとして造られている人がご自身を礼拝することを中心としたご自身との愛の交わりに生きることができるように、無限に身を低くして、この世界にご臨在してくださっています。この世界、特に、この「地」は神さまの御臨在に伴う豊かさに満ちあふれています。この世界が明るく暖かな世界であり、そこに多種多様な植物が芽生え育ち、豊かな実を結ぶこと、また、それによって、さらに多種多様な生き物たちが生息して、いのちの営みをしていることなどは、すべて、神さまの御臨在に伴う豊かさの現れです。神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、これらのものに接しながら、造り主である神の愛といつくしみに満ちた御手を身近に覚えることができるようになっています。それによって、神のかたちとして造られている人は見えない神さまが自分たちの間にご臨在してくださっていることを汲み取ることができるようにしていただいています。それによって、神のかたちとして造られている人は、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することができますし、神さまとの愛の交わりを豊かなものとしていくことができます。そのための、歴史的、時間的な舞台が、天地創造の御業の第7日です。神さまがこの第7日をご自身の安息の日として祝福し聖なるものとしてくださったのは、ひとえに、神のかたちとして造られている人がご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛の交わりに生きることができるようなるためのことでした。そして、そのために、神さまはこの天地創造の御業の第7日に、お造りになったすべてのものを、特に、私たち神のかたちとして造られている人を真実に支え、導いてくださっているのです。イエス・キリストが、

 わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。

と教えておられるときの「今に至るまで」とは、天地創造の御業以来「今に至るまで」続いている天地創造の御業の第7日のことです。
 そうであれば、この天地創造の御業の第7日において、神さまの祝福によるいのちの豊かさが現れるようになることこそは、安息日にふさわしいことであることが分かります。罪の結果もたらされた死につながっていく「病気に」「三十八年も」かかっていた人が癒されて、いのちの君であるイエス・キリストを知るようになることは、そして、父なる神さまとの愛の交わりに生きるようになることは、安息日においてこそなされるべきことだったのです。
 ただ、この時「三十八年も病気にかかっている人」の病気が治ったことは、一時的なこと、地上の生涯におけることであって、それだけでは真の回復、永遠の回復ではありません。真の回復は、イエス・キリストが「これよりも大きなわざ」と言われること、すなわち、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

と言われたことにあります。


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