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説教日:2019年5月12日 |
順序が逆になりますが、列王記第二・5章7節には、 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の衣を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」 と記されています。 これは、アラムの王ベン・ハダドが送った手紙を読んだイスラエルの王ヨラムのことばです。イスラエルの王は、 私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。 と言いました。彼は、神さまだけが「殺したり、生かしたりすること」ができる方であるということを踏まえていて、自分は神ではないので、そのようなことができるわけがないと言っているのです。 今日はこの時の出来事についてお話しします。 アラムの王の家臣で、「軍の長」であったナアマンはツァラアトに冒されていました。アラムに略奪されてアラムに連れて来られ、ナアマンの妻に仕えていたイスラエル人の若い娘が、ナアマンの妻に、 もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。 と言いました。それを聞いたナアマンはアラムの王にそのことを伝えました。それで、アラムの王はイスラエルの王に、家臣であるナアマンのツァラアトを治してくれるようにという手紙を記し、それをもたせて、ナアマンを送り出しました。そのイスラエル人の若い娘が伝えた「サマリアにいる預言者」(単数)は預言者エリシャのことです。イスラエルの王は、ナアマンが携えてきたアラムの王の手紙を読んで、アラムの王が言いがかりをつけて、自分たちを攻撃する口実を設けようとしていると思いました。ここでヨラムが「自分の衣を引き裂い」たと言われています。「自分の衣を引き裂」くことは、災いや不幸な出来事への嘆きや衝撃などを表すことです。 しかし、8節には、 神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」 と記されています。エリシャは王のもとに使いを送って、ナアマンを自分のところに来させるように言いました。 それで、ナアマンは「馬と戦車」で(9節)、「しもべたち」[注1]を従えて、また、贈り物を携えて(参照・22節ー23節)[注2]、エリシャの家にやって来ました。 アラムの王のお墨付きをもらってイスラエルの王のもとにやって来たナアマンは、いわば、国賓としての待遇を受けたはずです。そして、ナアマンはエリシャの家に行った時も、「アラムの王の軍の長」としての威厳をもって「馬と戦車で」行き、また、礼を尽くそうとして、贈り物を携えて行きました。 [注1]「しもべ」と訳されたことば(エベド)は「しもべ」を表しますが、6節で「家臣」と訳されていることばでもあります。「アラムの王の軍の長」であるナアマンがアラムの王の手紙を携えて他の国まできて、そこの王に接見したことや、エリシャの家に行く時にも「馬と戦車」で行ったということから、この「しもべたち」はナアマンの側近の家来たちであったと考えられます。 [注2]5節に記されている「銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着」が預言者に対する贈り物なのか、イスラエルの王に対する贈り物なのか、あるいは、その両者なのかはっきりしません。ただ、通常、他国の王を訪問する時にそれなりの贈り物をすることは当然のことです。ここでは、これらの物のことが、わざわざ、しかも具体的に記されていることは、これが、預言者に対する贈り物で、アラムに限らず、呪術者として名を成している者たちがかなりの金品を受け取っていたことを踏まえている可能性があります。 しかし、10節に記されているように、その時、エリシャは、直接、ナアマンを出迎えることなく、使者を遣わして、 ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。 と言いました。もちろんこれは「主」のみことばを受けて語ったものです。このことについては、後ほど取り上げます。 続く11節には、これを聞いたナアマンは、「激怒して」、 何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。 と言って帰ろうとしたことが記されています。 預言者自身がうやうやしく出迎えてくれて、自分の神である「主」に祈り、患部に手を触れて癒してくれると思っていたのに、使者をとおして、しかも、ヨルダン川で身を洗うようにと言っただけであったことに憤ったのです。ナアマンは自分が侮辱されたと思ったと考えられますが、期待してはるばるやって来たのに裏切られたという思いの強さもあったことでしょう。 しかし、13節には、 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」 と進言しました。 これはナアマンの「しもべたち」の一人が思いついて言ったことではなく、彼らが心を合わせて言ったことです。しかも、ここには「彼のしもべたちが近づいて」というように、彼らがナアマンのもとに近寄って行ったことが記されています。 また、「しもべたち」はナアマンのことを「わが父」と呼んでいますが、これは一般的なことではありません。通常であれば、「わが主」(アドニー)と呼んだことでしょう。この「わが父」という呼び方は、ナアマンに対する敬意とともに、ナアマンとのつながりの深さをも示していると考えられるもので、ナアマンの人となりを示唆している可能性があります。 これらのことには、「しもべたち」のナアマンに本当に治ってもらいたいという思いが込められていることを感じ取ることができます。そして、このように見ると、捕らわれのアラムの地でナアマンの妻に仕えていたイスラエル人の若い娘が、 もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。 と言ったのも、ナアマンに対する思いが込められていたのではないかと思いたくなります。このことに関連することは後ほどお話しします。 「しもべたち」が言った、 難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。 ということばは、新共同訳が示すように、 あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。 とも理解することができます。この13節だけを見ると、続く、 あの預言者は、「身を洗え、そうすれば清くなる」と言っただけではありませんか。 ということばとのつながりから、新共同訳が示している理解の方がすっきりします。ただ、その前に記されているナアマンの憤りに照らして見ると、新改訳2017年版の 難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は「身を洗ってきよくなりなさい」と言っただけではありませんか。 という訳が示している理解の方ではないかと思われます。 仰々しい儀式の中で、ナアマンのからだに手を置いて、熱狂的な祈りがなされていたら、ナアマンはそれを受け入れていたことでしょう。しかし、エリシャの言ったことは、ナアマンにとっては、本当に、拍子抜けのすることでした。ナアマンの期待していたこととはまったく違っていました。それで、ナアマンは憤りに駆られてしまいました。 確かに、「主」の備えてくださる救いの手段は、人には愚かなものとしか思えません。コリント人への手紙第一・1章23節に、 私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことです と記されているとおりです。 しかし、ナアマンの「しもべたち」はエリシャが決して無理なことをするように言ったのではないし、法外な要求をしたわけではないことに気づいていましたし、それは、従ってみる価値があることであると考えるようになりました。 では、どうしてナアマンの「しもべたち」はこのことに気づいて、皆で心を合わせて、ナアマンに、エリシャの言うことに従った方がよいと進言することができたのでしょうか。彼らはナアマンの忠実な「しもべたち」(家来たち)で、ナアマンが「馬と戦車」を仕立てて「しもべたち」を従え、贈り物を携えてエリシャの家に来たことの意味を理解していたはずです。そうであれば、エリシャが自らナアマンを出迎えることなく、使者を遣わして、 ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。 と言っただけであったことに、憤ったナアマンの思いも汲み取っていたはずです。自分たちの王の「軍の長」が受けた屈辱は、自分たちの屈辱でもあったはずです。 その「しもべたち」はエリシャが決して無理なことをするように言ったのではないし、法外な要求をしたわけではないことに気づいたのです。しかも、だれかが秘かに気付いていたというのではなく、すべての「しもべたち」とは言えないとしても、「しもべたち」がその点では一致していたのです。 もうこれは、「主」が、この「しもべたち」を導いてくださって、そのことに気づかせてくださったのだと言う他はありません。 実際、ここ列王記第二・5章に記されていることから分かることは、そして、当のナアマン自身が、後になって、気付くようになったであろうことは、ナアマンはその「しもべたち」に助けられているということです。 今お話ししたように、「主」はナアマンの「しもべたち」(家来たち)を用いて、ナアマンを導いてくださっています。 そればかりではありません。それに先立って、ナアマンは、捕らわれの身となってアラムに来て自分に仕えているイスラエル人の若い娘によって、エリシャのことを教えられました。それで、ナアマンはイスラエルに来て、エリシャと出会うようになりました。 このことも注目に値します。先ほど触れたように、このイスラエル人の若い娘はアラムがイスラエルを攻撃し、略奪してアラムに連れて行かれた娘です。彼女にとって、アラムは個人的な敵であるだけでなく、「主」の民イスラエルの民敵ですし、ナアマンはその「軍の長」です。それで、彼女が、アラムの「軍の長」であるナアマンがツァラアトに冒されているのは「主」のさばきによることであると考えたとしても、おかしなことではありません。しかし、このイスラエル人の若い娘はナアマンにエリシャのことを紹介しています。彼女は自分で復讐し、恨みを晴らそうとはしていません。「主」はそのようなイスラエル人の若い娘を用いて、ナアマンを導いてくださいました。 私たちはこのことにも、「主」のお働きがあることを見て取ることができます。「主」はナアマンの思いを越えた形で、ナアマンを導いてくださっていたのです。 ナアマンは「しもべたち」の進言を受け入れました。ナアマンはその進言に「しもべたち」の自分に対する思いが込められていることを汲み取ったと思われますが、その「しもべたち」の思いも、「主」が用いてくださったことであると考えられます。 14節には、 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。 と記されています。 イスラエルの王ヨラムは、 私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。 と言って、着ていた衣を引き裂いて、自分に迫って来ていると災いへの嘆きを表しました。ヨラムは「主」がイスラエルに預言者エリシャを遣わしてくださっていることに思いをはせることがありませんでした。ヨラムには、この時、イスラエルは危機的な状況にあると思われたにもかかわらず、エリシャのことを思い出すことがありませんでした。このことは、ヨラムが「主」を信じていなかったことの現れです。 ヨラムについては、3章1節ー3節に、 アハブの子ヨラムは、ユダの王ヨシャファテの第十八年に、サマリアでイスラエルの王となり、十二年間、王であった。彼は主の目に悪であることを行ったが、彼の父母ほどではなかった。彼は、父が作ったバアルの石の柱を取り除いた。しかし彼は、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪に執着し、それから離れることがなかった。 と記されています。 ヨラムは北王国イスラエル史上最悪の王と王妃と言われているアハブとイゼベルの子でした。ヨラムは「彼の父母ほどではなかった」けれども、「主の目に悪であることを行った」と言われています。ここで「イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪」と言われているときの「ヤロブアム」は、北王国イスラエルの最初の王です。彼は金の子牛を二つ造ってベテルとダンに置いて、イスラエルの民がエルサレムに行かないで、ベテルとダンで偶像(金の子牛)を礼拝するようにさせました。それが「ヤロブアムの罪」の中心にあり、それがずっと続いていていたのです。 一方、エリシャのことばに従ってヨルダン川で7回身を浸してツァラアトをきよめられたナアマンのことが、5章15節に、 ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」 と記されています。 この記述は、ナアマンがもはや「馬と戦車」や「しもべたち」を見せつけ、自分を誇示することがなかったことを示しています。それどころか、ナアマンはエリシャに向かって自分のことを「あなたのしもべ」と呼んでいます。それはエリシャの主である「主」ヤハウェの「しもべ」であることを意味しています。 そして、 私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。 と言って、神である「主」に対する信仰を告白しました。 これは、イスラエルの王ヨラムの不信仰と対比されます。本来、「主」と「主」の贖いを証しするために召され、そのために、「主」が預言者エリシャを遣わしてくださったイスラエルの王ヨラムは「主」を信じることがありませんでした。しかし、異邦人であり、イスラエルに敵対していたアラムの王の「軍の長」であるナアマンは、「主」を信じるようになりました。 それは、ひとえに、「主」が、捕らわれの身となってナアマンの家で仕えていたイスラエル人の若い娘の証しと、ナアマンの「しもべたち」の思いのこもった進言を用いてくださって、ナアマンを導いてくださったことによっています。 今や、自らをエリシャの「しもべ」と呼んだナアマンは、「主」の「しもべ」の立場に立つものとなっています。それは、ナアマンに預言者エリシャを紹介したイスラエル人の若い娘と同じ「主」の「しもべ」となっていることを意味しています。ナアマンが国に帰って、イスラエル人の若い娘に、自分に注がれた「主」の恵みを証しして、「主」にあって、どれほど深く豊かな交わりをもつようになったことかと思わされます。 ここで注目したいのは、5章15節ー16節に、 ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。」ナアマンは、受け取らせようとしてしきりに勧めたが、神の人は断った。 と記されていることです。 ナアマンは自分が受けた恵みに感謝してのことですが、自分をエリシャの「しもべ」と呼んで、「贈り物を受け取ってくださ」るようにと願いました。この「贈り物」はもともと、アラムから持ってきたものです。ナアマンは「主」を信じるようになったとはいえ、まだ、信仰の上では、生まれたばかりの幼児です。彼の中には、それまで自分がなじんできた社会と文化が生み出したさまざまな発想があったはずです。ナアマンは、エリシャが使者をとおして、 ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります と告げた時に、 私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。 と言って憤りました。エリシャはそのようなナアマンのうちにあるものを見抜いていて、あえて、ナアマンの期待しているようなことをしなかったのだと考えられます。それによって、「主」の預言者は異教の呪術者のような「パフォーマンス」を行って、自らを売り込むようなこと、人を自分に引きつけるようなことはしないこと、またそれで、金品も受け取らないことを示したということです。 エリシャは、 あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。 というナアマンの申し出に、 私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。 と答えています。この、 主は生きておられます。 ということばは、誓いをする時に使うことばであることが知られています。「必ず、そのようにする」というような意味合いが込められているのです。その根底には、生きておられる「主」は、ご自身の契約、ご自身が誓われたこと、約束してくださったことを必ず守ってくださるという理解があります。 この時、エリシャが、 私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。 と言ったことばでは、 私が仕えている主は生きておられます。 ということばは、単なる、誓いの時の決まり文句として言われたものではありません。これは、エリシャが「主」のことを「私が仕えている主」と呼んでいることから分かりますが、エリシャは自分のことを「主」のしもべであり、今ここで起こっていることのすべてにおいて、自分にではなく、「主」に栄光が帰せられなければならないことを伝えていると考えられます。そして、そのことをさらに徹底して示すために、ナアマンからの感謝の「贈り物」を受け取らなかったのだと考えられます。 それで、エリシャはできる限り自分を隠しています。当初、ナアマンが「馬と戦車」をしつらえ、「しもべたち」を従わせてやって来た時に、自分が出迎えもしなかったことには、いくつかの意味があると考えられますが、自分をできる限り隠していたためのことでもあったと考えられます。ナアマンをきよめたのは自分ではなく「主」であられるということを明確に示すためです。また、そのために、「パフォーマンス」も、いかにもそれらしい儀式もなく、ただ「主」のみことばを伝えただけでした。 イスラエルの王ヨラムは、 私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。 と言いました。自分は神ではないのでツァラアトをきよめることはできないと言いたかったのです。それでは、エリシャはナアマンのツァラアトをきよめたのでしょうか。エリシャは、それは「主」がなさったことで、自分はそのために用いられた「しもべ」でしかないと、これらすべてのことをとおして証ししています。 |
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