黙示録講解

(第380回)


説教日:2019年5月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(133)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがティアティラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束のみことばとの関連で、19章15節で栄光のキリストのことを、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記しているみことばについてのお話を続けます。
 ここでは、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と言われています。
 ここで、栄光のキリストの口から出ていたと言われている「鋭い剣」の「」ということば(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣を表しています。この「」は、ローマ帝国において皇帝とその下にある総督たちがもっていた生殺与奪の権を象徴するものでした。このことが背景となって、黙示録では栄光のキリストが、この長い両刃の「」をもっておられる方として示されています。これによって、栄光のキリストこそが、究極的な生殺与奪の権をもっている方であるということが示されています。
 先主日には、このこととの関連で、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と言われているときの、「諸国の民を打つために」ということの旧約聖書の背景についてお話ししました。今日は、やはり、このこととの関連で、その前までお話ししてきた、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてのお話に戻ります。ヨハネの福音書5章19節ー29節には、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

と記されています。
 これまでは19節ー20節前半に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

という教えに関連することをお話ししました。
 それをまとめておきますと、ここで、

 子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

と言われていることは、御子イエス・キリストが行われることはすべて父なる神さまのみこころから出ているということを意味しています。
 これに続いて、

 すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

と言われていることは、父なる神さまがなさることで御子イエス・キリストにできないことはないということを意味しています。これは、御子イエス・キリストが父なる神さまと等しい方、すなわち、まことの神であられことを意味しています。
 そして、20節前半に記されている、

 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

という教えは、父なる神さまが御子イエス・キリストにご自身がなさることをすべてお示しになるのは、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛しておられるからであるということを示しています。このことは、御子イエス・キリストがなされることはすべて、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛から出ているということを意味しています。また、このことは、御子イエス・キリストはすべてのことを、父なる神さまの愛に包まれてなしておられるということを意味しています。
 このように、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおしてなされるあらゆることにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの間には愛による一致があります。
 父なる神さまが御子イエス・キリストをとおしてなされる御業は、大きく分けると、創造の御業と摂理の御業、そして、贖いの御業になります。
 神さまは創造の御業において、この世界のすべてのもの、物理的な大宇宙とその中のすべてのものや御使いたちなどの見えないもののすべてを無から造り出されました。
 また、神さまは、ご自身が造り出されたすべてのものを、それぞれの特質、特性を生かしながら、真実に支え、導いてくださっています。物理的なものの場合にはその物質的な性質を生かす形で支え導いてくださり、神のかたちとして造られている人や御使いたちも含めて、いのちあるものの場合には、それぞれのいのちの特質が発揮されるように支え導いてくださっています。それが摂理の御業です。サタンや悪霊たちさえも、神さまの摂理の御業によって支えていただいているので存在できています。彼らは、そのことを知りながら、たとえて言えば、自分たちを支えてくださっている「」の御手に噛みついているのです。
 ヨハネの福音書1章1節ー3節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されているように、創造の御業は、「」すなわち父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにおられる「ことば」すなわち御子によって遂行されました。それで、御子は父なる神さまの愛のうちにあって創造の御業を遂行されました。また、それで、創造の御業は父なる神さまが御子によってご自身の愛をお造りになるものに注がれた御業です。
 また、ヘブル人への手紙1章章2節後半ー3節前半に、

神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されているように、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」である御子が「その力あるみことばによって万物を保っておられ」るという摂理の御業を遂行しておられます。これは、「御子によって世界を造られ」た父なる神さまが、同じように、御子によって摂理の御業を遂行しておられるということです。それで、摂理の御業も父なる神さまが御子によってご自身の愛を現しておられる御業です。そのことは、マタイの福音書6章26節ー30節に記されている、

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。・・・(中略)・・・野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。

というイエス・キリストの教えにも映し出されています。
 このように、父なる神さまの愛は御子をとおして遂行された創造の御業と、御子をとおして遂行されている摂理の御業において豊かに表現されています。しかし、その父なる神さまの愛は、御子イエス・キリストをとおして遂行された贖いの御業において、さらに豊かに、また、この上なく豊かに表現されています。ヨハネの福音書3章16節ー17節には、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

と記されています。
 また、ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

と記されていますし、4章9節ー10節には、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されています。
 この愛については、さらに、ローマ人への手紙5章8節に、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と記されています。
 ここで、

 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた

と言われていることは、今から2千年前に起こったことです。しかし、

 神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます

と言われていることは、現在時制で表されていて、それが常に変わらないことであることを示しています。しかも、ここでは「明らかにしておられます」ということばがいちばん前に置かれていて強調されています。また、この「明らかにする」と訳されたことば(シュニステーミ)は、「実証する」とか「推薦する」(「この愛を受けとめてください」というように)ということも意味しています。ですから、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことにおいて表されている父なる神さまの愛は、2千年後の今も、変わることなく、私たちそれぞれに注がれているのです。


 またまた脇道にそれてしまいますが、今日は、このこととの関連で、一つのことをお話ししたいと思います。
 マタイの福音書6章9節ー13節には、

 天にいます私たちの父よ。
 御名が聖なるものとされますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行われるように、
 地でも行われますように。
 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
 私たちの負い目をお赦しください。
 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
 私たちを試みにあわせないで、
 悪からお救いください。

という、一般に「主の祈り」と呼ばれる、イエス・キリストが教えられた祈りが記されています。
 これまでお話ししてきたこととのかかわりでお話ししたいのは、冒頭の、

 天にいます私たちの父よ。

という呼びかけのことばについてです。
 この呼びかけのことばは、ギリシア語の原文では、「父よ」、「私たちの」、「天にいます」となっていて、「父よ」が最初に置かれて強調されていて、その後に、これを説明する「私たちの」と「天にいます」ということばが続いています。ここでイエス・キリストは、神さまに向かって「父よ」と呼びかけるようにと教えてくださっています。
 これには、「」が「天にいます」ということの意味は何かということや、「」が「私たちの父」であられることはどういうことかというような問題がありますが、もう一つ、このように、私たちが神さまに向かって「父よ」と呼びかけるときの「」が、その存在と属性のすべてにおいて無限、永遠、不変の三位一体の神さま[注]を指しているのか、それとも、三位一体の第一位格である父なる神さまを指しているのかという問題があります。今日は、このことについてお話しします。

[注]ここで、三位一体の神さまについてだけ「その存在と属性のすべてにおいて無限、永遠、不変の三位一体の神さま」という言い方をしましたが、これは、そのお働きから見た三位一体(経綸的三位一体あるいは経綸論的三位一体)ではなく、存在から見た三位一体(存在的三位一体あるいは存在論的三位一体、本質的三位一体あるいは本質論的三位一体)を念頭に置いているからです。言うまでもなく、三位一体の第一位格である父なる神さまも、第二位格である御子も、第三位格である御霊も、それぞれまことの神であられ、その存在と属性のすべてにおいて無限、永遠、不変です。

 これは、微妙なことですが、結論的なことを言うと、この場合は、「」は三位一体の第一位格である父なる神さまを指していると考えられます。これが微妙なことであるのは、三位一体の第一位格である父なる神さまは、そのお働きにおいて、その存在と属性のすべてにおいて無限、永遠、不変の三位一体の神さまを代表する役割を負っておられるからです。その意味では、私たちにとって、父なる神さまを知ることは三位一体の神さまを知ることでもあります。
 けれども、テモテへの手紙第一・6章15節ー16節には、父なる神さまのことが、

キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。

と記されています。御使いであっても人であっても、造られたものは無限、永遠、不変の栄光の主である神さま[三位一体の神さまを代表しておられる父なる神さま]を、直接的に見ることも知ることもできません。それで、ヨハネの福音書1章18節に、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されているように、「父のふところにおられるひとり子の神」と証しされている御子が、人間になぞらえた言い方しかできませんが、限りなく身を低くされ、その無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、造られたものにかかわってくださる役割を負われたのです。
 それで、創造の御業は御子によって遂行されましたし、御子が造られたすべてのものを、その力あるみことばによって保ってくださる摂理の御業を遂行してくださっています。
 また、神のかたちとして造られている人が神である「」に罪を犯して、御前に堕落してしまった後に遂行された、特別な摂理の御業としての贖いの御業も、御子イエス・キリストが父なる神さまのみこころにしたがって遂行されました。御子イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、その栄光を隠し、無限に身を低くされて、人としての性質を取って来てくださり、私たちご自身の民の「かしら」として私たちと一つとなられました。そして、メシアとして働かれた地上の生涯の最後に、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべてお受けになりました。これによって、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、私たちを死と滅びへの道から救い出してくださいました。
 さらに、その地上の生涯をとおして十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって、父なる神さまの御前に義を確立してくださり、私たちご自身の民をその義にあずからせてくださり、私たちが父なる神さまの御前に義と認められるようにしてくださったばかりでなく、私たちに神の子どもとしての身分を与えてくださいました。
 そればかりでなく、御子イエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして、栄光を受け、死者の中からよみがえられました。それも私たちご自身の民の「かしら」として、私たちとの一体にあってなしてくださったことです。それによって、私たちをご自身の死者の中からのよみがえりにあずからせてくださり、私たちが復活のいのち、すなわち、父なる神さまとの愛の交わりを本質とする永遠のいのちに生きるようにしてくださったのです。
 無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、造られたものにかかわってくださる役割を負われた御子のお働きには、もう一つのことがあります。それは、造られたものが直接的に見ることができない父なる神さまを、私たち人間や御使いたちに分かるように啓示してくださるお働きです。その意味で、御子は「啓示者」、父なる神さまと父なる神さまのみこころを啓示してくださる方です。御子イエス・キリストの教えばかりでなく、そのお働き(創造の御業と摂理の御業、そして贖いの御業)も、父なる神さまを啓示するものです。また、それ以上に、御子イエス・キリストご自身が、父なる神さまの啓示なのです。それで、御子イエス・キリストを知ることは父なる神さまを知ることです。
 ヨハネの福音書14章7節には、

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。

というイエス・キリストの教えが記されていますし、9節には、

 わたしを見た人は、父を見たのです。

と記されています。また、6節に、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

と記されているように、御子イエス・キリストを知ることなくしては、父なる神さまを知ることはできませんし、父なる神さまとの愛の交わりを本質とする永遠のいのちに生きることはできません。
 とても大切なことは、この場合、御子イエス・キリストを知ることも、父なる神さまを知ることも、愛にある交わりにおいて知ることであって、単なる知識として知ることではありません。ヤコブの手紙2章19節には、

あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。

と記されています。神さまについての知識としてなら、サタンを初めとする悪霊たちの方があるかによく知っています。また、それは、いわゆる「頭だけの知識」ではなく、

 悪霊どもも信じて、身震いしています。

と言われているように、リアリティ(現実性)を伴う知識です。リアリティ(現実性)を伴う知識というのは、たとえて言えば、しばしば地震を経験している私たちが、単に、地震が地面が揺れることだということだけでなく、その怖さをも知っているというようなことです。しかし、悪霊たちは御子イエス・キリストや父なる神さまに憎しみを抱いて敵対しており、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きてはいません。
 誰であっても、御子イエス・キリストをとおして表された神さまの愛に現実的に触れていなければ、そして、自分も神さまの愛に答えて、神さまを愛しているのでなければ、神さまを知ることはできませんし、「神さまを知っている」と言うことはできません。なぜなら、神さまは愛だからです。ヨハネの手紙第一・4章7節ー8節に、

 愛する者たち。
 私たちは互いに愛し合いましょう。
 愛は神から出ているのです。
 愛がある者はみな神から生まれ、
 神を知っています。
 愛のない者は神を知りません。
 神は愛だからです。

と記されているとおりです。
 ここでは、これに続いて、先ほど引用した9節ー10節に、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されています。
 この7節ー8節に記されていることと、続く9節ー10節に記されていることのつながりが示していることがあります。それは、神さまの愛に現実的に触れるということは、ご自身の「ひとり子を世に遣わし」てくださって、「その方によって」「私たちにいのちを得させてくださ」った父なる神さまの愛を知ることです。実際に、私たちが父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストによって永遠のいのちに生きるようになることなしに、父なる神さまの愛を現実的に触れることも知ることもできません。
 また、神さまの愛に現実的に触れるということは、「私たちを愛し」て「私たちの罪のために」「宥めのささげ物としての御子を遣わされ」た父なる神さまを知ることです。そして、実際に、私たちが「私たちの罪のために」「宥めのささげ物」となられた御子イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった救い主として信じることによって、御子イエス・キリストの十字架の死にあずかって、罪をまったく贖っていただき、御子イエス・キリストの復活にあずかって、父なる神さまとの愛の交わりを本質とする、永遠のいのちに生きるようにならなければ、父なる神さまの愛を現実的に知ったことにはなりません。
 私たちは「私たちの罪のために」「宥めのささげ物」となられた御子イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった救い主として信じることによって、御子イエス・キリストの十字架の死にあずかって、罪をまったく贖っていただきました。そして、御子イエス・キリストの復活にあずかって、父なる神さまとの愛の交わりを本質とする、永遠のいのちに生きるようになっています。その端的な現れが、父なる神さまに向かって、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることです。
 この場合の「」が父なる神さま(三位一体の第一位格)であるということは、神さまに対して罪を犯して、創造の御業と摂理の御業をとおして示されている神さまの愛を退けてしまっていた「私たちを」なおも「愛し」て「私たちの罪のために」「宥めのささげ物としての御子を遣わされ」た父なる神さまであるということです。
 イエス・キリストは、

今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。

と教えてくださいました。確かに、父なる神さまは、ご自身に背いていた「私たちを愛し」て「私たちの罪のために」「宥めのささげ物としての御子を遣わされ」「その方によって」「私たちにいのちを得させてくださ」いました。御子イエス・キリストは私たちに、この父なる神さまに向かって、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけるようにと言われるのです。
 このことは、ローマ人への手紙8章32節に記されている、

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

というみことばを思い起こさせてくれます。
 「主の祈り」はマタイの福音書6章9節ー13節に記されていますが、それに先立って7節ー8節において、イエス・キリストは、

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

と教えておられます。父なる神さまは、私たちが求める前から、私たちに「必要なものを知っておられ」ます。そして、その私たちにとって最も必要だった罪の贖いのために「ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された」のです。私たちはその父なる神さまの愛によっていのちを与えられ、実際に、父なる神さまとの愛の交わりに生きています。そうであれば、父なる神さまは私たちに必要であるとされれば、「御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださ」るはずです。
 私たちはこのような父なる神さまの愛に触れているものとして、父なる神さまを信頼して、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけるのです。


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