黙示録講解

(第379回)


説教日:2019年4月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(132)


 先主日は2019年の復活節の礼拝となりましたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は、黙示録からのお話に戻ります。今は、2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束のみことばとの関連で、19章15節で、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記しているみことばについてのお話をしています。
 ここでは、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と言われています。
 これは、私たちにはなじみがないのですが、その当時の人々には知られている黙示文学に見られる表象(黙示文学的な表象)によって記されています。「この方」とは、終わりの日にいわゆる「最後の審判」を執行されるために再臨される栄光のキリストのことです。
 ここで、栄光のキリストの口から出ていたと言われている「鋭い剣」の「」ということば(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣を表しています。この「」(ロムファイア)は、ローマ帝国において皇帝とその下にある総督たちがもっていた生殺与奪の権を象徴するものでした。このことが背景となって、黙示録では栄光のキリストが長い両刃の「」(ロムファイア)をもっておられる方として示されています。これによって、栄光のキリストこそが、究極的な生殺与奪の権をもっている方であるということが示されています。
 イエス・キリストが究極的な生殺与奪の権をもっておられるということは、父なる神のみこころにしたがって、終わりの日に再臨されるイエス・キリストが、その時に、生きている人々も、すでに死んでしまった人々も含めて、すべての人を、神さまの義に基づいて、おさばきになる方であるということを意味しています。それで、黙示録19章15節では、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と言われています。
 ここで、「この方の口から」出ていたと言われている「鋭い剣」は、口から出ているということから分かりますが、この栄光のキリストのみことばを指しています。
 また、ここでは、「この方」の口から出ていた「」が「諸国の民を打つため」のものであると言われています。終わりの日に再臨される栄光のキリストは、その御口から出るみことばをもって「諸国の民」をおさばきになるということです。


 これには旧約聖書の二つのみことばが背景となっていますが、どちらも、イザヤ書に記されています。今日は、これまで取り上げていたヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているみことばについてのお話を、いったん休んで、この旧約聖書の背景についてお話しします。
 降誕節(クリスマス)においてしばしば読まれますが、約束されているメシアのことを預言として記している、イザヤ書11章1節ー5節には、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。
 その上にの霊がとどまる。
 それは知恵と悟りの霊、
 思慮と力の霊、
 主を恐れる、知識の霊である。
 この方はを恐れることを喜びとし、
 その目の見るところによってさばかず、
 その耳の聞くところによって判決を下さず、
 正義をもって弱い者をさばき、
 公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。
 口のむちで地を打ち、
 唇の息で悪しき者を殺す。
 正義がその腰の帯となり、
 真実がその胴の帯となる。

と記されています。
 1節では、このメシアのことが、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。

と紹介されています。「エッサイ」はダビデの父です。イザヤは紀元前8世紀後半(から7世紀初め)に預言者としての活動をしましたが、ダビデは、数え方によって1年ずれますが、紀元前1011(10)年ー971(70)年に王として治めましたから、イザヤにとっては過去の人です。それで、この預言のみことばは、メシアが「」がダビデに与えてくださった契約において約束されている永遠の王座に着座される方であることを示しています。
 そして、2節では、この方は「知恵と悟りの霊」「思慮と力の霊」「を恐れる、知識の霊」である「」の御霊に満たされた方でああることが示されています。ちなみに、「メシア」ということばは「油を注がれた者」を意味しています。古い契約の下では王や祭司など特定の職務に任職される際に「油」を注がれたことを受けています。その「油」は「地上的なひな型」として、「」の御霊を指し示しています。メシアはその本体である「」の御霊によって「油を注がれた者」です。
 それで、この方は、その「」の御霊に導かれてさばきを執行されます。それで、3節では、

 この方はを恐れることを喜びとし、
 その目の見るところによってさばかず、
 その耳の聞くところによって判決を下さず、

と言われています。この方のさばきは、「」のみこころに基づくものであり、人の目に写る表面的な装いや、巧みな話術などのうわべのことによって惑わされることはなく、真実を過つことなく見分けて判決を下されます。
 そのようにして、4節前半で、

 正義をもって弱い者をさばき、
 公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。

と言われているように、虐げられて弱く貧しい状態に追いやられた人々を顧み、この人々のために「正義」と「公正」をもってさばきを執行されます。
 もちろん、富める者たちや力ある者たちにおもねることはありませんし、弱く貧しい人々をえこひいきするということでもありません(参照・出エジプト記23章2節ー3節)。ただ、その当時の社会においては、力ある者たちや富める者たちが不正をはたらいて、虐げられた人々が弱く貧しい状態に追いやられるという現実があったのです。
 これが「」の民であることを自任していた南王国ユダの現実であったことについては、イザヤ書1章16節ー17節、23節、10章2節、エレミヤ書2章34節、5章26節ー28節、22章3節、エゼキエル書22章6節ー7節、12節ー13節、29節、アモス書2章6節ー7節、5章11節ー12節、8章4節ー6節、ゼカリヤ書7章9節ー12節、マラキ書3章5節などに記されている預言者たちの糾弾を見てください(参照・詩篇37篇14節ー15節、82篇1節ー4節)。
 また、「」が弱く、貧しい人々を心にかけてくださっていることについては、出エジプト記23章9節ー11節、レビ記19章9節ー10節、23章22節、申命記10章17節ー19節、24章17節ー24節などに記されている「」の律法に記されている規定を見てください(参照・詩篇9篇12節、18節、12篇5節、68篇5節、113篇7節ー8節、146篇9節)。
 イザヤ書11章3節で、

 この方はを恐れることを喜びとし、

と証しされているこの方は、これらの律法の規定に示されている「」のみこころに基づいて判決を下されるのです。
 4節後半では、

 正義をもって弱い者をさばき、
 公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。

と言われているメシアのさばきの執行のことが、

 口のむちで地を打ち、
 唇の息で悪しき者を殺す。

と言われています。
 この「口のむち」と「唇の息」については見方が別れています。ひとつの見方は、両者は同じものを指していて、主権的なさばきの宣告を意味しているというものです。もう一つの見方では、「口のむち」は主権的なさばきの宣告を意味しており、「唇の息」の「」が「御霊」をも表すことば(ルーァハ)であることから、「唇の息」はそのさばきの宣告を実行に移す御霊を表しているというものです。ここでは、

 口のむちで地を打ち、
 唇の息で悪しき者を殺す。

という二つのことばは同じことを言い換えているのではないかと思われます。その場合には、この方が、主権的なさばきを宣告されることが示されているということになります。そして、この方がダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座される永遠の王であられるので、この方のさばきの宣告のみことばは、その執行をもたらすものでもあると考えられます。これは、ことがらは違いますが、詩篇33篇6節に、

 のことばによって天は造られた。
 天の万象もすべて御口の息吹によって。

と記されているみことばに相当する点があります。この詩篇33篇6節に出てくる「のことば」と「御口の息吹(ルーァハ)」は同じものを表していて、「のことば」はその現実を造り出す力あるみことばであるということが示されています。これは、創世記1章3節に、

 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

と記されているように、神さまのみことばにはその現実を造り出す力があるということです。これと同じように、メシアであるこの方のみことばも、その現実を生み出す力をもっていて、この方のさばきの宣告のみことばは、その執行をももたらすのです。
 5節には、

 正義がその腰の帯となり、
 真実がその胴の帯となる。

と記されています。
 一般的なことですが、王は王冠をかぶり王服をまといます。祭司は祭司の装束をまとい、裁判官は法服をまといます。職人はそれぞれの務めにふさわしい作業着をまといます。聖書においても、ある人が着ているもののことが取り上げられているときには、その人の本質的な特質やその人の地位、その人が負っている使命や実現しようとしている目的などを表します。
 ここでは、

 正義がその腰の帯となり、

と言われています。この「正義」と訳されていることば(ツェデク)が示すのは、メシアであるこの方の本質的な特質である「義」であると考えられます。この方はダビデ契約に約束されている永遠の王座に着座されていっさいのものを治める方として、神である「」の聖なる属性である「義」を体現される方であり、「」のみこころの根底にある「義」を実現されます。それは社会的には「正義」として現れてきますが、それに限定されるわけではありません。
 その「義」を実現するために、「」のみこころに背いている人々の罪へのさばきが執行されることがありますが、それとともに、人々の罪を贖うことによって「義」が実現することもあります。イザヤ書では、この方のことを「『』のしもべ」として来られる方として預言している53章4節ー6節に、

 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みを担った。
 それなのに、私たちは思った。
 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
 私たちの咎のために砕かれたのだ。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
 しかし、は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

と記されており、8節には、

 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。
 彼の時代の者で、だれが思ったことか。
 彼が私の民の背きのゆえに打たれ、
 生ける者の地から絶たれたのだと。

と記されています。
 ここでは「『』のしもべ」が、どう見ても「神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと」思われる状態になられることが示されていますし、

 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。

と言われています。しかし、それは私たちご自身の民の「背き」と「」に対するさばきをこの方が負われたためのことだというのです。
 このことは、約束のメシアとして来られた神の御子イエス・キリストにおいて成就し、私たちの間で実現しています。イエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって、すべて受けてくださいました。これによって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。これを父なる神さまの側から言うと、父なる神さまは私たちご自身の民の罪に対する聖なる御怒りをすべて御子イエス・キリストに注がれ、私たちの罪を完全に清算されることによって、私たちの罪を贖ってくださったのです。
 このことによって、神さまが義であられ、ご自身に背いた人々の罪をすべて清算される方であることが示されています。ローマ人への手紙3章25節には、イエス・キリストについて、

神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。

と記されています。「血による宥めのささげ物」とは、「」の民の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、「」の民に代わって受けて、いのちの血を流すいけにえのことです。私たちの主であられるイエス・キリストは、しもべである私たちのために「血による宥めのささげ物」となってくださいました。
 イザヤ書11章5節では、この方のことが、

 真実がその胴の帯となる。

と言われています。「真実」ということば(エムーナー)は、基本的に、確固としていて揺るがないこと、また、それゆえに、信頼できることを表しています。それは、神である「」ご自身だけでなく、「」のみことばや約束の揺るぐことのない確かさをも意味しています。「」はご自身の聖なる属性である「義」を実現されます。そのために、人の罪に対するさばきを執行されることを宣言されただけでなく、ご自身の民の罪を贖ってくださることを契約をもって約束してくださっています。それは、決して揺るぐことがない確かな「」の約束であり、「」は必ずそれを実現してくださいます。「」の契約の約束は、すべて、御子イエス・キリストによって、私たちご自身の民のために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった、イエス・キリストによって成就しますし、成就しています。

 イザヤ書11章1節ー5節の後にも、ダビデ契約に約束されている永遠の王座に着座されるメシアによってもたらされる祝福のことが記されています。1節ー5節に続いて、6節ー9節には、

 狼は子羊とともに宿り、
 豹は子やぎとともに伏し、
 子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、
 小さな子どもがこれを追って行く。
 雌牛と熊は草をはみ、
 その子たちはともに伏し、
 獅子も牛のように藁を食う。
 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
 乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。
 わたしの聖なる山のどこにおいても、
 これらは害を加えず、滅ぼさない。
 主を知ることが、
 海をおおう水のように地に満ちるからである。

と記されています。
 ここでは、「弱肉強食」ということの典型となっている生き物たちの世界の回復を示す預言のみことばが記されています。これは、三つの面から示されています。
 一つは、6節で、

 狼は子羊とともに宿り、
 豹は子やぎとともに伏し、
 子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、
 小さな子どもがこれを追って行く。

と言われていることです。ここでは、「」、「」「若獅子」というどう猛な野生の動物たちと、「子羊」、「子やぎ」、「子牛」、「肥えた家畜」という弱い家畜の子どもたちが平和のうちに共存するということです。さらに、

 小さな子どもがこれを追って行く。

と言われていることによって、人のうちでも最も小さくて無力な者がこれらを治めることが示唆されています。
 二つ目のことは、7節で、

 雌牛と熊は草をはみ、
 その子たちはともに伏し、
 獅子も牛のように藁を食う。

と言われていることです。ここでは、「」や「獅子」などのどう猛な野生の動物たちの性質が変えられることが示されています。
 これら二つのことは、創世記1章27節ー30節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。

と記されていることを背景としています。
 三つ目のことは、8節で、

 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
 乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。

と言われていることです。ここでは、創世記3章に記されている、暗闇の主権者であるサタンが「蛇」を用いて人が罪を犯すように働いたことと、神である「」がその「蛇」を用いて、3章15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されているサタンへのさばきを宣告されたこと、そして、これが「最初の福音」としての意味をもっていたことが背景となっていると考えられます。
 これに先立って、3節ー5節には、

 この方はを恐れることを喜びとし、
 その目の見るところによってさばかず、
 その耳の聞くところによって判決を下さず、
 正義をもって弱い者をさばき、
 公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。
 口のむちで地を打ち、
 唇の息で悪しき者を殺す。
 正義がその腰の帯となり、
 真実がその胴の帯となる。

と記されていて、メシアとして来られる方が、ダビデ契約に約束されている永遠の王座に着座されて、その力あるみことばをもってさばきを執行されることが預言的に示されていました。この方は、「最初の福音」において示されていた「女の子孫」のかしらとして来られるメシアです。この方によってサタンへの最終的なさばきが執行された後には、もはや「蛇」がサタンを表示する必要はなくなり、生き物としての本来のあり方に回復されます。このことによって、悪が完全に取り除かれてしまうことが示されています。
 これら三つのことは、ともに、人と生き物たちが最初に造られたときの状態に回復されることを示唆しています。これによって、人の罪によってこの被造物世界にもたらされた虚無と対立による破壊が修復され、和解と平和がもたらされるという、メシアのお働きが示されています。
 しかも、これら三つのことにおいては、特に、人や家畜の小さな子どもたちが意図的に取り上げられています。人や本来人とともにある家畜たちが、自分たちに与えられている能力を発揮して、何らかのことを実現するわけではありません。神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人も、人との一体において虚無に服してしまった生き物たちも、ここで預言的に示されている回復にはまったく無力であり、ただ、神である「」が約束してくださっているメシアのお働きにあずかって、回復していただくだけです。

 黙示録19章15節に、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と記されていることのもう一つの旧約聖書の背景は、イザヤ書49章2節に、

 主は私の口を鋭い剣のようにし、
 御手の陰に私をかくまい、
 私を研ぎ澄まされた矢とし、
 主の矢筒の中に私を隠された。

と記されていることです。
 これは、1節ー6節に記されている「『』のしもべの第二の歌」の一部です。
 ここには「鋭い剣」と「研ぎ澄まされた矢」が出てきます。これは戦いのための武器です。これが、「鋭い」剣、「研ぎ澄まされた」矢と言われているのは、それが威力を発揮する武器であることを示しています。しかし、まず、

 主は私の口を鋭い剣のようにし、

と言われているように、これは血肉の武器ではなく、「」のしもべとして召されたメシアの力あるみことばのことで、霊的な戦いにおける武器です。当然、「研ぎ澄まされた矢」も血肉の武器ではなく、霊的な戦いにおける武器であり、これも、メシアの力あるみことばを指しています。メシアの力あるみことばが「研ぎ澄まされた矢」にたとえられていることには理由があります。矢は遠くまで届く武器です。このことは、この「『』のしもべの第二の歌」が1節に

 島々よ、私に聞け。
 遠い国々の民よ、耳を傾けよ。

と記されているように、遠くにあって忘れ去られてしまいそうな島々と、遥か「遠い国々の民」に向かって呼びかけられていることと関連しています。メシアの力強いみことばが「研ぎ澄まされた矢」にたとえられていることは、その方のみことばがそのような島々や遥か「遠い国々の民」のような、人々の関心が向けられないような所まで届けられるということを示しています。
 これによって、この「『』のしもべの第二の歌」に記されていることが、全世界の「国々の民」にかかわっていることが示されています。そのことは、この「『』のしもべの第二の歌」の最後の6節に、

 主は言われる。
 「あなたがわたしのしもべであるのは、
 ヤコブの諸部族を立たせ、
 イスラエルのうちの残されている者たちを
 帰らせるという、小さなことのためだけではない。
 わたしはあなたを国々の光とし、
 地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

と記されていることにも表されています。
 このことは、この「」のしもべであるメシアが、創世記12章3節に記されている、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

という、「」がアブラハムに約束された祝福を実現される方であることを意味しています。
 黙示録19章15節で、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と言われていることの背景となっている、これら二つの旧約聖書のみことばは、約束のメシアとして来てくださる方が、力あるみことばをもって霊的な戦いを戦い、最終的なさばきを執行されることが、「地のすべての部族」の救いばかりでなく、全被造物の回復につながっていることを示しています。


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