黙示録講解

(第378回)


説教日:2019年4月14日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(131)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束のみことばとの関連で、19章15節で栄光のキリストのことを、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記しているみことばについてのお話を続けます。
 ここでは、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と言われています。
 ここで、栄光のキリストの口から出ていたと言われている「鋭い剣」の「」ということば(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣を表しています。この「」(ロムファイア)は、ローマ帝国において皇帝とその下にある総督たちがもっていた生殺与奪の権を象徴するものでした。このことが背景となって、黙示録では栄光のキリストが長い両刃の「」(ロムファイア)をもっておられる方として示されています。これによって、栄光のキリストこそが、究極的な生殺与奪の権をもっている方であるということが示されているのです。
 今は、このこととの関連で、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてお話ししています。
 その教えは、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

というものです。
 これまでお話ししたことをまとめておきますと、19節には、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

と記されています。
 ここで、

 子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

と言われていることは、御子イエス・キリストが行われることはすべて父なる神さまのみこころから出ているということ、イエス・キリストはすべての点で父なる神さまのみこころに従っているということを意味しています。
 これに続いてイエス・キリストは、

 すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

と言われました。父なる神さまがなさることは「何でも」(直訳)、御子イエス・キリストも「同様に行う」ということは、父なる神さまがなさることで御子イエス・キリストにできないことはないということ、また、それゆえに、御子イエス・キリストが父なる神さまと等しい方、まことの神であることを意味しています。
 さらに、これに続いて20節前半では、

 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と言われています。
 ここでは、父なる神さまが御子イエス・キリストにご自身がなさることをすべてお示しになるのは、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛しておられるからであるということが示されています。父なる神さまが御子イエス・キリストをとおしてなさるあらゆることにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの間には愛による一致があるのです。
 このことは、御子イエス・キリストがなされることはすべて、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛から出ているということを意味しています。また、このことは、御子イエス・キリストはすべてのことを、父なる神さまの愛に包まれてなしておられるということを意味しています。


 御子イエス・キリストがなされることはすべて、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛から出ており、御子イエス・キリストはすべてのことを、父なる神さまの愛に包まれてなしておられるということは、このヨハネの福音書5章19節ー29節の流れの中では、24節ー25節に、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

と記されているように、この時、御子イエス・キリストが成し遂げようとしておられる贖いの御業とのかかわりで語られています。
 それとともに、ヨハネの福音書のより広い文脈を視野に入れると、このことは、1章1節ー2節に記されている、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

というみことばに記されていることに行き着きます。
 このみことばについては、繰り返しお話ししてきましたが、改めて、ここで言われていることの要点を、多少の補足を加えつつ、確認しておきましょう。
 1節で、

 初めにことばがあった。

と言われているときの「初めに」と、2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われているときの「初めに」は、創世記1章1節で、

 はじめに神が天と地を創造された。

と言われているときの「初めに」ということばと対応しています。この、

 はじめに神が天と地を創造された。

ということばは、かつては見方が別れていましたが、今は、広く認められていることで、独立した文で、創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事全体に対する「見出し」に当たります。ですから、このことばは、天地創造の御業の全体をまとめることばであって、神さまが、創造の御業の第一段階として、天と地の「最初の形を造り出された」という意味ではありません。
 この場合の「天と地」はメリスムスという表現方法で、「この世界のすべてのもの」を表わしています。ギリシア語で言えば「宇宙」(コスモス)に当たります。「この世界のすべてのもの」といっても、見えるものだけを指しているわけではありません。人が目で見ることができるものも、御使いたちのように、見ることができないものも含んでいます。しかも、存在しているものそれぞれが固有の性質をもっており、互いに深くかかわって存在しています。その関係性は、人格的な関係性だけでなく、物質的なもの同士の間の関係性もあります。それを、人間はさまざまな法則として理解し、受けとめています。それで、

 はじめに神が天と地を創造された。

というみことばは、この宇宙の中の一つ一つのものも、それぞれの関係性も、全体的なまとまりに見られる秩序と調和も、すべて、神さまの創造の御業によって存在するようになったし、存在しているということを示しています。

 はじめに神が天と地を創造された。

と言われているときの「はじめ」は、このような意味での天地創造の御業によって始まった「はじめ」であって、「絶対創造の『はじめ』」と呼ばれたりします。それで、この「はじめ」は、この世界の時間の初めでもあります。時間はこの世界の時間であって、この世界がなければ時間もありません。それで、時間は天地創造の御業とともに始まっています。
 ヨハネの福音書1章1節では、その絶対創造の「はじめ」、すべてのものの「はじめ」を踏まえて、

 初めにことばがあった。

と言われているのです。
 また、1節ー2節で、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と言われているときの、「あった」「おられた」と訳されていることば(エーン)も大切な意味をもっています。このことばは英語の「be動詞」に当たる「エイミ動詞」の未完了時制で、過去のある時において継続して「あった」ことを示しています。この場合の「過去のある時」は「初めに」です。それで、

 初めにことばがあった。

と言われていることは、「ことば」が、絶対創造の「はじめ」に継続して「あった」ことを示しています。「ことば」は、「はじめ」に神さまが遂行された天地創造の御業によって造り出されたのではなく、天地創造の御業がなされたときには、すでに存在し続けておられました。それで、「ことば」は時間を越えた永遠の存在です。また、それは、「ことば」が造られた世界を超えた無限の存在であることを示唆しています。
 実際、1節では、

 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と言われていて、「ことば」が神であられることが明示されています。また、3節でも、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と言われていて、およそ存在する「すべてのもの」は「ことば」によって造られていることが示されています。「ことば」は天地創造の御業を遂行された方なのです。
 1章1節では、

 初めにことばがあった。

と言われた後に、

 ことばは神とともにあった。

と言われています。このみことばと、2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われているみことばは「ことば」すなわち御子が、「」すなわち父なる神さまと[三位一体論的には「位格的に」]区別される方であることを示しています。
 この、

 ことばは神とともにあった。

というみことばと、

 この方は、初めに神とともにおられた。

ということばにおいて用いられている「神とともに」ということば(プロス・トン・セオン)の「・・・とともに」ということば(前置詞プロス)は、「・・・に向かって」「・・・の方に」という意味合いをもっています。それで、1節で、

 ことばは神とともにあった。

と言われていることは、「ことば」が「」の方を向いていていることを示しています。これによって、「ことば」が「」との愛の交わりのうちにおられることが示されています。しかも、このことは2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と繰り返されて強調されています。とはいえ、これは単なる繰り返しではなく、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われているように「初めに」が加えられて、「ことば」が「」との愛の交わりのうちにおられることが永遠のことであることが示されています。
 これに対して、「神とともにあった」(プロス・トン・セオン)ということばだけでは、御父と御子の間に愛の交わりがあるとまでは言えないと主張されることがあります。しかし、仮にそうであるとしても、1節ー18節はヨハネの福音書のプロローグ(序論)に当たりますが、その結びに当たる18節には、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。
 ここでは御子のことが「父のふところにおられるひとり子の神」と言われています。「父のふところにおられる」ということと「ひとり子」ということは、ともに、御子が御父の愛する方であることを示しています。これによって、御子イエス・キリスト父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることが、よりはっきりと示されています。
 このように、1節ー2節に記されている、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

というみことばは、「ことば」が永遠に「」との愛の交わりのうちにおられることを示しています。このことは、神さまの本質的な特質が愛であるだけでなく、実際に、御父と御子の間には無限、永遠、不変の愛の交わりがあり、神さまは愛においてまったく充足しておられるということを意味しています。

 このことを受けて、3節には、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されています。天地創造の御業は永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにおられる御子によって遂行されたのです。それは、1位一体の神が永遠の次元では愛する相手がいないので、本質的な特質である愛の欲求を満たすために、いわば「手慰み」のように、この世界を造ったというのではありません。天地創造の御業は無限、永遠、不変の愛において充足しておられる三位一体の神さまが、御子によって、その愛をご自身の外に向けて注がれ、現された御業でした。
 ですから、5章20節前半に、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と記されている御子イエス・キリストの教えに示されている、御子イエス・キリストがなされることはすべて、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛から出ており、御子イエス・キリストはすべてのことを、父なる神さまの愛に包まれてなしておられるということは、御子が遂行された天地創造の御業にもそのまま当てはまります。
 当然のことですが、そのことは、ヘブル人への手紙1章3節に、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されている、御子が遂行しておられる摂理の御業にも当てはまります。
 このように、天地創造の御業は無限、永遠、不変の愛において充足しておられる三位一体の神さまが、御子によって、その愛をご自身の外に向けて注がれ、現された御業でした。同じように、摂理の御業も無限、永遠、不変の愛において充足しておられる三位一体の神さまが、御子によって、その愛をご自身の外に向けて注がれ、現しておられる御業です。
 そして、その神さまの愛を受け止め、愛をもって神さまに応答するように造られたのが、神のかたちとして造られている人です。
 このことは、ヨハネの福音書1章で、続く4節において、

 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

と言われていることにも示されています。
 ここで、

 この方にはいのちがあった。

と言われていることは、「この方」すなわち「ことば」がまことの神であられ、永遠にご自身で存在され、いっさいのものをお造りになった方であることを踏まえています。けれども、ここで、

 この方にはいのちがあった。

と言われていることの核心にあるのは、「この方」が永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにおられるということにあります。そのことこそが、ヨハネの手紙第一・4章8節と16節で、

 神は愛です。

と証しされている「この方」の「いのち」の本質です。
 このことを踏まえると、4節で、

 この方にはいのちがあった。

と言われていることに続いて、

 このいのちは人の光であった。

と言われていることの意味が理解できます。
 この場合の「人の光」とは人のいのちの本質を明らかにし、悟らせてくださる「」です。また、それによって、人がそのいのちのうちに歩むようにしてくださる「」です。同じヨハネの福音書8章12節には、

わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。

というイエス・キリストの教えが記されています。「この方」の「いのち」の本質は、永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにおられることにあります。同じように、神のかたちとして造られている人のいのちの本質は、神である「」との愛の交わりのうちにあることにあります。この「人の光」はそのことを明らかにし、悟らせてくださる光です。そして、「この方」は天地創造の御業において、神さまの愛をご自身の外に向けて注がれ、現されるとともに、人を神のかたちとしてお造りになったことによって、人がその愛を受けとめ、愛をもって応答するようにしてくださいました。愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人が、この「いのち」に生きるようにしてくださったのです。

 そればかりではありません。1章14節には、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。
 今お話ししていることとかかわることだけを取り上げますが、まず、心に銘記しておかなければならないのは、この「ことば」は、永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにおられる御子です。永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにおられる「ことば」が「人となって、私たちの間に住まわれた」のです。ですから、このことも、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛から出ており、御子イエス・キリストはこのことも、父なる神さまの愛に包まれてなしておられます。
 この14節で、「人となって、私たちの間に住まわれた」と言われている「ことば」は、3節ー4節に記されているように、天地創造の御業において、神さまの愛をご自身の外に向けて注がれ、現されるとともに、人を神のかたちとしてお造りになったことによって、人がその愛を受けとめ、愛をもって応答するようにしてくださった方です。
 実際、エデンに園を設けて、そこにご臨在してくださり、神のかたちとして造られている人がご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださった神である「」は、三位一体論的には、御子です。
 実際には、そのような神である「」との愛の交わりに生きる豊かないのちを与えられた人は、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、人は神である「」との愛の交わりを絶たれてしまい、罪と死の力に捕らえられてしまいました。
 これに対して、永遠の「ことば」なる御子イエス・キリストが、今から2千年前に、まことの人としての性質を取って来てくださいました。

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われているときの「住まわれた」と訳されていることば(スケーノオー)は、「幕屋(スケーネー)を張る」「幕屋に住まう」ということを表します。これは、出エジプト記25章8節ー9節に記されている、「」がシナイ山でモーセに語られた、

彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。

という戒めのみことばに示されている約束が、御子イエス・キリストにおいて成就していることを示しています。
 古い契約の「地上的なひな型」として造られた幕屋は、いわば、視聴覚教材のような意味をもっていました。幕屋の中心にある至聖所には「」の栄光の御臨在を表示するシェキナの雲が宿っていました。けれども、その幕屋は、そこに「」の栄光の御臨在があることを表示しつつ、その聖さを守っているケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。これによって、罪ある者がそのままで「」の栄光の御臨在の御前に近づくなら、「」の聖さを冒す者として、直ちに、滅ぼされてしまうことが示されていました。
 それとともに、その幕屋の入口の前には祭壇が設けられていて、祭司たちはそこで動物のいけにえを屠って、聖所に入って「」に仕えました。そして、年に一度、大祭司が大贖罪の日に雄牛と雄山羊の血をもって罪をきよめた上で、「」の御臨在のある至聖所に入りました。しかし、それによって、ケルビムを織り出した垂れ幕による仕切りが取り除かれたわけではありません。それで、このことが毎年繰り返されていました。それは、真に罪の贖いが成し遂げられていなかったからです。この仕切りは、御子イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださった時に取り除かれました。マルコの福音書15章37節ー38節に、

しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

と記されているとおりです。
 御子イエス・キリストはご自身の十字架の死によって、自らの罪によって神さまに背を向けて、それと知らずに、罪の結果である死と滅びへの道を歩んでいた私たちを、神さまとの愛の交わりのうちに生きる者として、回復してくださいました。
 このことの奥には、ヨハネの福音書1章1節で、

 ことばは神とともにあった。

と証しされており、2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と証しされているように、「ことば」が永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにおられるということがあります。そして、その「ことば」が、贖いの御業において父なる神さまの愛をこの上なく豊かに私たちご自身の民に注いでくださり、現してくださっているのです。
 2019年の受難週の主日において、このように現されている神さまの愛を心に刻みたいと思います。


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