黙示録講解

(第377回)


説教日:2019年4月7日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(130)


 黙示録2章27節前半には、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という「勝利を得る者」への約束が記されています。今は、このみことばとの関連で、19章15節で栄光のキリストのことを、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記しているみことばについてお話ししています。
 ここでは、まず、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と言われています。ここで、栄光のキリストの口から出ていたと言われている「鋭い剣」の「」ということば(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣を表しています。
 この「」(ロムファイア)は、ローマ帝国において皇帝とその下にある総督たちがもっていた生殺与奪の権を象徴するものでした。このことが背景となって、黙示録では栄光のキリストが長い両刃の「」(ロムファイア)をもっておられる方として示されています。これによって、栄光のキリストこそが、究極的な生殺与奪の権をもっている方であるということが示されています。
 このこととの関連で、これまで、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているイエス・キリストの教えについてお話ししてきました。今日もそのお話を続けます。
 その教えは、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

というものです。
 まず、これまでお話ししたことをまとめておきます。
 19節には、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

と記されています。
 ここで、

 子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

と言われていることは、御子イエス・キリストが行われることはすべて父なる神さまのみこころから出ているということ、イエス・キリストはすべての点で父なる神さまのみこころに従っているということを意味しています。
 これに続いてイエス・キリストは、

 すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

と言われました。これによって、父なる神さまがなさることで御子イエス・キリストにできないことはないということが示されています。それで、これは、御子イエス・キリストが父なる神さまと等しい方、まことの神であることを意味しています。
 その意味で、御子イエス・キリストがなしておられることはすべて、父なる神さまと父なる神さまのみこころがどのようなものであるかを表しています。それで、御子イエス・キリストご自身と御子イエス・キリストがなしておられることはすべて、父なる神さまがどのような方であるかを表わしているのです。
 このことは、すでに、1章18節に記されている、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

というみことばにおいて示されていました。また、14章9節に記されている、イエス・キリストがピリポに語られた、

わたしを見た人は、父を見たのです。

というみことばにおいて、より明確に示されるようになります。
 5章では、さらに、これに続いて20節前半では、

 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と言われています。
 ここでは、父なる神さまが御子イエス・キリストにご自身がなさることをすべてお示しになるのは、父なる神さまが御子イエス・キリストを愛しておられるからであるということが示されています。父なる神さまが御子イエス・キリストをとおしてなさるあらゆることにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの間には愛による一致があります。
 このことは、御子イエス・キリストがなされることはすべて、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛から出ているということを意味しています。このことは、また、御子イエス・キリストはすべてのことを、父なる神さまの愛に包まれてなしておられるということを意味しています。


 このことはヨハネの福音書にしばしば示されていますが、ヨハネの福音書以外でそのことを示すものの一つとして、マタイの福音書3章13節ー17節に記されている、イエス・キリストがヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネのもとに来て、ヨハネから洗礼をお受けになった時のことを見てみましょう。
 16節ー17節には、

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。

と記されています。
 イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったことには難しい問題がかかわっています。
 というのは、バプテスマのヨハネが授けていたのは、3節に記されている、

 悔い改めなさい。天の御国が近づいたから

というヨハネのことばが示しているように、悔い改めの洗礼でした。それで、5節ー6節に、

そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

と記されているように、人々は「自分の罪を告白し」てヨハネから洗礼を受けていました。
 しかし、イエス・キリストは最初に造られたときのアダムと同じ、本来の神のかたちとしての人の性質を取って来てくださいました。罪の性質がなかったばかりか、お生まれになってから、変わることなく、父なる神さまとの愛の交わりにあって、父なる神さまのみこころのうちを歩まれました。それで、イエス・キリストは「自分の罪を告白し」て、ヨハネから罪の悔い改めにかかわる洗礼を受ける必要はありませんでした。実際に、14節には、ヨハネがイエス・キリストに、

私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。

と言ったことが記されています。バプテスマのヨハネは、自分の方こそイエス・キリストから罪の悔い改めにかかわる洗礼を受ける必要があることを告白しています。
 この問題にはいくつかのことがかかわっていますが、要点だけをお話しします。
 一つのことは、バプテスマのヨハネがどのような役割を負っていたかということです。3節には、ヨハネについて、

この人は、預言者イザヤによって
 「荒野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を用意せよ。
 主の通られる道をまっすぐにせよ』」
と言われた人である。

と記されています。
 先ほど触れたように、2節には、ヨハネが、

 悔い改めなさい。天の御国が近づいたから

と言っていたことが記されています。

 天の御国が近づいた

ということは、旧約聖書に預言されていたメシアが王として治める神の国が来ているということを意味しています。それは、約束されていたメシア、すなわち、御子イエス・キリストが来ていることによっています。その意味において、バプテスマのヨハネは旧約聖書において預言され約束されていたことが成就する時代が到来していることを告げる役割を負っていたのです。
 マタイが3節で引用している、

 荒野で叫ぶ者の声がする。
 「主の道を用意せよ。
 主の通られる道をまっすぐにせよ」

というみことばは、イザヤ書40章3節に記されているみことばです。
 これは大切なことです。というのは、先ほど引用した16節ー17節に記されている、

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。

というみことばの背景の一つとなっているのは、イザヤ書42章1節に記されている、

 見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、
 わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。
 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
 彼は国々にさばきを行う。

というみことばだからです。そして、もう一つの背景は、詩篇2篇7節に記されている、

 私はの定めについて語ろう。
 主は私に言われた。
 「あなたはわたしの子。
 わたしが今日 あなたを生んだ。

というみことばです。
 マタイの福音書3章6節で、イエス・キリストがヨハネから洗礼を受けられた時のことが、

 すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。

と記されていることは、イザヤ書42章1節に、

 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、

と記されていることの成就です。続く7節に、

 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。

と記されているときの、

 これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。

という父なる神さまの御声は、詩篇2篇7節に記されている、

 あなたはわたしの子。
 わたしが今日 あなたを生んだ。

という主のみことばと、イザヤ書42章1節の、

 わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。

という「」のみことばの成就です。マタイの福音書では、

 これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。

と記されていますが、マルコの福音書1章11節とルカの福音書3章22節では、

 あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。

と記されています。もちろん、これはマタイの福音書3章16節に、

 すると見よ、天が開け

と記されているように、神さまの啓示ですので、御声を聞いているイエス・キリスト(「あなたはわたしの愛する子。」)とバプテスマのヨハネを初めとする人々(「これはわたしの愛する子」)とに合わせてのことであると考えられます。[注]


[注]マタイの福音書では、16章16節に記されていますが、弟子たちを代表してペテロがイエス・キリストが約束のメシアであるという告白しました。このことを受けて、21節ー22節に記されていますがイエス・キリストはエルサレムでご自身が受けようとしておられる苦難と死と死者の中からのよみがえりについて教え始められました。それに対して、ペテロがそのようなことがあるはずがないと言って、イエス・キリストをいさめました。このことを受けて、17章1節ー8節には、いわゆる変貌の山での出来事が記されています。5節には、その時、そこにご臨在された父なる神さまが、十字架への道を歩み始められた御子イエス・キリストについて、

 これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け。

と言われました。この、

 これはわたしの愛する子

の「これは・・・」という言い方は、マルコの福音書9章7節(「これはわたしの愛する子。」)とルカの福音書9章35節(「これはわたしの選んだ子。」)でも同じです。これは、父なる神さまがそこにいたペテロとヤコブとヨハネに対して語られたことによっています。これによって、父なる神さまは、弟子たちに、ご自身の苦難と死のことを語られたイエス・キリストこそは、父なる神さまが愛しておられる子であることをあかししてくださるとともに、イエス・キリストが語られること、すなわち、イエス・キリストの苦難と死についての教えを聞きなさいと命じておられます。


 このように、イエス・キリストがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことは、旧約聖書、特に、イザヤ書42章1節と詩篇2篇7節において預言されていたことを背景としていて、その預言がイエス・キリストにおいて成就していることを示すものです。
 ここで注目したいのは、イザヤ書42章1節に記されている、

 見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、
 わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。
 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
 彼は国々にさばきを行う。

というみことばです。これは、イザヤ書40章以下に出てくる4つの「『』のしもべの歌」の第一の歌の一部です。第二の歌は49章1節ー6節に記されており、第三の歌は50章4節ー9節に記されています。そして、第四の歌は52章13節ー53章12節に記されています。
 第一の歌は4節まで続いています。2節ー4節には、

 彼は叫ばず、言い争わず、
 通りでその声を聞かせない。
 傷んだ葦を折ることもなく、
 くすぶる灯芯を消すこともなく、
 真実をもってさばきを執り行う。
 衰えず、くじけることなく、
 ついには地にさばきを確立する。
 島々もそのおしえを待ち望む。

と記されています。

 彼は叫ばず、言い争わず、
 通りでその声を聞かせない。
 傷んだ葦を折ることもなく、
 くすぶる灯芯を消すこともなく、

と言われていることは、この「」のしもべが、

 彼は叫ばず、言い争わず、

と言われているように、相手を威圧して、屈服させようとすることなく、

 通りでその声を聞かせない。

と言われているように、自分を際立たせようとすることもなく、

 傷んだ葦を折ることもなく、
 くすぶる灯芯を消すこともなく、

と言われているように、「傷んだ葦」や「くすぶる灯芯」にたとえられている、痛めつけられ、人の目からは役に立たず、無用であると思われている人々に心を注がれ、この人々の側に立たれ、この人々と一つになられることを示しています。ですから、この「」のしもべは、この世の主権者とまったく異なっています。
 そして、「」のしもべは、そのような方として、

 真実をもってさばきを執り行う。
 衰えず、くじけることなく、
 ついには地にさばきを確立する。

と記されています。この方は、無限のへりくだりと限りないあわれみをもって、痛めつけられ、弱っている人々と一つになられることにおいて、決してくじけることなく、真実に忠実に義を明らかにされ確立されます。[注]


[注]3節と4節に出てくる「さばき」ということば(ミシュパート)は、メシアとしての「」のしもべの支配にかかわっています。そして、4節では「おしえ」(トーラー「律法」)と関連づけられています。それで、ここでは、イザヤ書30章18節に記されている、

 主が義[ミシュパート]の神であるからだ。

というみことばに示されている、神さまの聖なる属性である「」に根ざしているもので、この方が治めることにおいて、あらゆる面において義が立てられることを表していると考えられます。その意味において、「さばき」(2017年版)はその一部であり、「公義」(第3版)の方がよいと思われます[第3版では「公義をもたらす」(3節)、「公義を打ち立てる」(4節)]。K=Bは「sense of jusutice」(4節)としています。また、TWOT(p.949a-b)も見てください。


 最後に、

 島々もそのおしえを待ち望む。

と記されているときの「島々」は遠くて忘れ去られてしまいそうな所に住んでいる人々のことを指し示しています。この「」のしもべはそのような人々にも心を注いでおられるのです。言うまでもなく、これは、創世記12章3節に、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

と記されている、「」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束がこの「」のしもべにおいて実現することを示しています。
 このことは、「『』のしもべの第四の歌」を記している、53章3節ー5節に、

 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で、病を知っていた。
 人が顔を背けるほど蔑まれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。
 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みを担った。
 それなのに、私たちは思った。
 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
 私たちの咎のために砕かれたのだ。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

と記されていることにおいて、より鮮明に示されることになります。
 これらのことに照らしてみると、イエス・キリストがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことの意味が見えてきます。イエス・キリストは自らの罪を認めてバプテスマのヨハネのもとに来た人々と同じ所に立たれ、この人々一つとなられることにおいて、神さまの御霊によって油を注がれた「」のしもべとしてのお働きを始められたということです。そして、父なる神さまは、そのようにしてメシアとしてのお働きを始められた御子イエス・キリストに対して、

 あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。

と語りかけられ、そこに居合わせたバプテスマのヨハネをはじめとする人々には、

 これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。

と証しされたのです。
 先ほどお話ししたように、この父なる神さまのみことばの背景に、詩篇2章7節に記されている、

 私はの定めについて語ろう。
 主は私に言われた。
 「あなたはわたしの子。
 わたしが今日 あなたを生んだ。

というみことばがあります。
 ここで、「」が言われた、

 あなたはわたしの子。
 わたしが今日 あなたを生んだ。

というみことばは、「」がダビデに与えてくださった契約のことを記しているサムエル記第二・7章12節ー14節前半に、

あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。

と記されている約束で、

 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。

と言われていることを受けています。それで、詩篇2篇7節に記されているみことばは、まことのダビデの子であるメシアがダビデの永遠の王座に着座されることを預言的に示しています。そして、イエス・キリストがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時に、父なる神さまが証しされた、

 これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。

というみことばは、その預言のみことばがイエス・キリストにおいて成就するようになったことを示しています。
 そのことを踏まえた上で、さらに注目したいことがあります。

 これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。

あるいは、

 あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。

という父なる神さまのみことばは、詩篇2篇7節に記されている、

 あなたはわたしの子。

というみことば以上のことを示しています。この父なる神さまのみことばは、イエス・キリストがダビデ契約に約束されていたメシアであられることをあかししつつ、さらに、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる御子であられることをも指し示していると考えられます。
 マタイの福音書においては、御子イエス・キリストがメシアとしてのお働きを始められた時のことを記している3章16節ー17節に、

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

と記されているように、御子イエス・キリストと御霊と父なる神さまが一つとなっておられることが示されています。
 そして、御子イエス・キリストは、その地上でのお働きの最後に、十字架にかかって私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださった後に、私たちご自身の民を永遠のいのちに生きるものとしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。そのことを受けて、マタイの福音書28章18節ー20節には、

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

と記されています。
 ここで、

 父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、

と言われているときの「父、子、聖霊の名」は単数形です。ここでも、御父、御子、御霊が一つとなっておられることが踏まえられています。
 言うまでもなく、これは、何よりも愛における一体性です。「父、子、聖霊の名において」(直訳「名の中に」)洗礼を受けるということは、御霊によって、父なる神さまと御子との愛の交わりに入れていただくことを意味しています。ヨハネの手紙第一・1章3節には、

 私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

と記されています。


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